独りよがりに、恋愛や友情や生き方について、思っている事を綴っています。
自分自身というものを見つめなおす意味合いが強いです。
少しでも、共感を覚えてくれる人がいたら・・・ 嬉しいなぁ。
変わり変わらず歳を重ね
人は、数多くの時間とともに、数多くの出来事を経ていく。
数多くの出会い別れ・・・。
様々な経験・・・。
大きな出来事・・・。小さな出来事・・・。
一見特別な事は何もない様な日常も、今の自分を形成する重要な1peace。
意味のない時間などなく、全ての1日1日が、掛け替えのない、取り戻せない時間。
特別な1peace・・・。
人は時間を多く過ごし、出会い別れを重ね、色々な事象に遭遇し、新しい自分へと少しずつ変わっていく・・・。
自分自身の考え方や価値観、自分を取り巻く環境・・・。
変わりたくても変わりたくなくても、
少しづつ・・・、変わっていく・・・。
昨日の事、遠い日の事は、時としてとても輝いて見える・・・。
明日の事、未来の事は、ぼんやりとしていて不安に思える・・・。
自分が変わっていく事、周りが変わっていく事に、嫌悪を覚える事がある。
時として、自分だけが置いていかれる気持ちにかられる。
「今大事な友達は、1年後一緒にいるだろうか?」
「自分は1年後、今より少しは幸せになっているだろうか?」
歳を重ねるという事は、老いていくという事を内包する。
少しずつ歳を重ねるごとに、自分の歳の取り方に自問自答し、成長の見えない自分に不安になる。
「もう若くないんだから・・・」「いい歳なんだから・・・」と、焦りが生まれる。
でも、いざ過ぎてみると何の事はない時間・・・。
やっぱり大切な、些細な思い出の欠片達。
過ごした時間に、意味を求める必要などないのかもしれない。
『時間を過ごす』その事自体に意味があるのだ、と思う・・・。
今日の自分は、昨日の自分より、確実に明日に向かっている。
善くも悪くも、未来にひとつ歩んでいる。
「変わったね」「変わらないね」
そんな遣り取りをいくつ交わしたろうか・・・。
変わる事は悪い事なんかじゃない。時間を歩んできた一つの証だ。
変わらない事だって、悪い事じゃない。様々な過去を内包し、自身に取り込んでいるはずだ。
過去の出来事や絆は、今自分の中に確実に生きている。
姿・形を変えて・・・。
そして、何が変わろうと変わるまいと、決して変わることのない自分という『存在』。
人は当たり前に、歳を取っていく。
何をしてもしなくても、明日へ確実に進んでいる。
そして、明日の自分は、今日より少し多くを経験した自分である。
歳を取るという事は、悪い事ではない。
ただ当たり前の事実でありながら、きっと自分にとって大事な何かになっていく。
だから、全ての記念すべきスタートの日にはこの言葉を贈りたい。
『Happy Birthday』
ケ・セラ・セラ
Que sera sera.
もともとは米映画の主題歌として使われたスペイン語のタイトルで、スペイン語圏では使われない表現だとか・・・。
「なるようになるさ」というよりは、「なるようにしかならない」の意味合いが強そう・・・。
そんな事はさておき、「ケセラセラ~」って日本での解釈がユイは好きです。
「ケセラセラ~」って聞くと、
「なるようになるさ」
「肩の力抜いていこうぜ」
「やれる事をやるしかないさ」
「そんな無理するなよ」って、、、
そんな柔らかい気持ちになります。
なるようになるには、なるようになる為の努力が必要ではあります。
本当に何もしなかったら、なるようにもなりません・・・。
でも、やるだけのことはやったら、、、
あとは「ケセラセラ~」って感じでいいんだと思います。
きっとうまくいくし、うまくいかなくても十分それなりに評価できる状態であろうと思います。
なんか、ユイの周りやブログを見に来てくれている方々には、ちょっと頑張りすぎちゃう人が多そうなので・・・。
皆さんに、、、
ケセラセラ~
なるようになったら、あとはなんとでもなるさ~
いつでも夢を
子供の頃に見た将来の『夢』
覚えてますか?
ユイは、、、
なんだっけなぁ・・・。
ユイは、『夢』を追っかけている人が好きです。
『夢』を追う事は、とても素敵なことだと思います。
でも、『夢』を現実に叶える事が出来る人は、本当に一握りの人間です。
ボストン・レッドソックスの松坂大輔さんは、「僕は夢という言葉が嫌いです」と言いました。
『夢』はみるもので、実現すべき事は『目標』なのだと・・・。
たしかに、『夢』というと、基本的には叶わないものな気もします・・・。
さておき、『夢』を実現した人は本当に幸せなんだろうと思います・・・。
『夢』破れた人には、何が残ったんでしょうか・・・。
取り戻せない時間を使い、挫折を味わい、それでも『夢』にすがり・・・。
それでもきっと、その取り戻せない時間は『掛け替えのない時間』となり、挫折は大切な『経験』となっているんだと思います。
『夢』を追い続けた人生は、それ自体充実した人生なんだろうと思います。
バルセロナの天才建築家:アントニ(オ)・ガウディは、建築に生涯を賭し、後半生はサグラダ・ファミリアの建設に全精力を注ぎました。
そして、建設を完了させること叶わず、独身で身寄りのないまま、志半ばにして電車に轢かれて故人となりました。
彼は、文字通り、生涯『夢』を追い続けました。
自分のやりたい事を追求しながら人生を終えていった彼は、きっと幸せだったんでしょう。
『夢』には遠い夢や近い夢があります。
遠近関わらず共通して言える事は、『なりたい自分になる』という事だと思います。
そして、遠近関わらず、『夢』に費やした時間は、自分にとって決して無駄にならないという事だと思います。
どんな『夢』でも、『夢』を追っかけている人は、とても輝いて見えます。
『夢』を追いかける事は、今よりもっと『なりたい自分になる』為に歩んでいく事だと思います。
前述した『夢を実現した人』は、きっとまた別の『夢』を持っていくのでしょう。
ユイの『夢』は、この先どんなときも『自分が自分であり続ける事、そして変わり続ける事』です。
どんな金持ちになろうと、どんなに不遇であろうと・・・。
自分を失わずに、成長を続けていく事です。
ちいさな『夢』かもしれないけれど・・・。
常に一歩先の自分に向かって・・・。
いつでも『夢』を・・・。
信じるチカラ
他人を『信じる』という事は、とても怖い事だ。
世にいう「信じる者は救われる。」
これは、神や仏への信仰深き者にはその加護があるという、宗教上の考え方。
実際の世俗においては「信じる者は騙される」ケースが多い気がする。
ユイにとって『信じる』という行為は、報われる為のものではない。
期待を含めた楽観的心理状態でもない。
『裏切られる』事も『覚悟』して、自責の念のもとに『迷い』を払拭する事だと思う。
「一度信じると決めた以上、裏切られる事も覚悟のうえ」の構えで全力で『信じる』事が、ユイなりの信じ方だ。
『信じる』という行為は、信じられた側に責任を課す事になる。
だから、『信じる』側にも、責任が必要だと思う。
責任を持って『信じる』べきなのだと思う。
そりゃあ、裏切られる事は痛いことだ。
本気で信じていればいるほど、裏切られた時のダメージは大きい。
でも、、、
裏切った側も、その信じられていた想いが強いほど、痛いのだと思う。
『信じる』という行為は、裏切った者に『呵責』という罰を与える。
痛いのは、、、信じた側だけではない・・・。
だから、『信じる』時には、『裏切られる』事の、相手に『呵責』を与える事の、責任を持たなければならないと思う。
これはなにも、『信じる』という事に否定的な考えを持っているわけではない。
むしろ『信じる』事がなければ生まれないものがたくさんあると思っている。
友達付き合いや、男女交際・結婚や、仕事など、自分ひとりで出来ない事が山ほどある中で、他人を『信じる』事は必須である。
他人じゃなくても、自分を『信じる』事が出来なければ、出来ない事も山のようにある。
そして、『信じる』事は、大きなチカラを与えてくれる。
他人から信じられた自分は、それに応えようとより一層の力を発揮できる。
自分が信じた相手は、出来る限りの力を尽くしてくれる。
『信じ合える』仲間や恋人は、お互いの人生を本気でサポートし合える。
自分が信じた『自分』は、何かを成し遂げる事が出来る。成し遂げられなくても、大事な何かになっていく。
ユイは偽善者なので、『信じる』時には何事も本気で信じます。
裏切られた時、とっても痛いです。。。
でも、勇気を持って『信じた』ものは、どんな結果にせよ、自分の為になっていると思えます。
自分が信じた『連れ』たちは、ユイを本気で助けてくれました。
『連れ』が信じてくれたユイは、信じられる事で自分を『信じる』事が出来ました。
裏切られた『過去』は、自分の強さと優しさの一部になっています。
信じた事で迷いは払拭され、全力で物事にぶつかっていく事が出来ました。
だから、『信じる』事を諦めないでいたいと思っています。
信じるチカラはとても大きいものだから・・・。
普通であるという事
最近、ユイの周りの人間がどんどん結婚していく。
みんな、口を揃えた様に「大変だよ」「やりたい事何もできないよ」と言う。
でもなぜか、とても充実しているように、生きるパワーに溢れている様に見える。
一方でユイは、いまだ(結婚願望はあるのだが)独身貴族を気取り、自分の思うがままに生きている。
ユイは多分、比較的普通じゃない生き方をしている。
波乱万丈に生き、あり得ないような出世をしたり、会社に革命を起こしたり、芸能界入りの話があったり、培ってきた地位を投げ捨てたり・・・。
やたらモテたり、婚約を破棄したり、ひとから馬鹿だと言われるような片想いを続けたり・・・。
色んな趣味をもって、やりたいようにやって、自分でチームをつくったり、『連れ』を巻き込んでプライベートを謳歌している・・・。
最近『連れ』に、「お前はマグロか!?」と'タカ and トシ'ばりに言われた。
「動き回ってないと死んでしまう」という事。
とにかく、派手な人生を送っていると思う・・・。
そんなユイが尊敬する『連れ』が幾人かいる。
そいつらは、『普通』にサラリーマンをやって、『普通』に結婚をして、『普通』にお小遣いが限られて、『普通』に時間も限られて、、、
真っ当に社会を生きて、しっかりと家庭を大事にして、、、
そして、その中でしっかり輝いている。
彼らを見ていると、自分の幼さに気付く。
彼らは『普通』に生活して、しっかりと自分らしさを持って、日々を充実させて過ごしている。
ユイは、まだそれだけの力を身につけていない気がする・・・。
たまに、『普通』である自身にコンプレックスを抱いている人を見かけるが、もっと自信を持ってほしいと思う。
じゃないと、ユイがもっとダメに思えるから・・・。
『普通』に生きる事の難しさ・・・。
『普通』の中にある、一様に価値のある『個々の人生』。
今の世相を見ていると、本来『普通』である事を『普通』に出来ない人々が多いように思う。
もしかしたらユイもその一人だったり、予備軍だったりするかもしれない・・・。
『普通』の事ができた上で、個々の『特別』な人生を送っている彼らを、心から「すごいな」と思う。
自分の小ささを噛み締める今日この頃・・・。
生きる事の意味
「何故俺は生を受けてきたのだろう?」
誰しもが一度は自問したことがあると思う。
ユイの答えは・・・、出ない・・・。
ただ一つわかる事は、現実に今ここに生きているという事。
単純に、「生まれてきてしまった」という事実。
世界には何十億もの人々が生きている。
とても裕福だったり、何かを成し遂げた人もいれば、生まれながらに体の状態がよくなかったり、日々戦禍に怯える暮らしを強いられる人もいる。
過去を辿れば、歴史に名を残した偉人もいれば、生きたという記録すら残らない人もいる。
でもどんな偉人も、そうでない人も、生きたという現実は変わらない。
若くして死しても、高齢まで生き天寿を全うしても、一様に生きていた。
「人は使命を持って生まれくる」といわれる事がある。
ユイも、なんらかの使命を持っているんだろうか?
あるいは、もう使命に務めているのだろうか?
分かっている事は、生きているという事実でしかない。
生きるという事に意味なんかないのかもしれない・・・。
しかし、死ぬ事に意味があるとは思えない。
ただ、現実に生きている以上、生きていくべきなのだとぼんやりと思う。
生きている現実を捻じ曲げる事は、それこそ全く意味がない事だと思う。
だから、『生』を受けた以上、一生懸命に生きてみようと思う。
『生きる意味』がわからないのなら、せめて自分が生きた意義を持てるように・・・。
生きる事自体には意味がないのかもしれない。
けれど『生きていく』、その事がきっと大事なんだと思う。
それこそが、生まれながらに与えられた使命なのかもしれない・・・。
boys be ambitious!
「少年(青年)よ、大志を抱け!」
かのウィリアム・S・クラーク博士が言った有名な言葉。
'Boys, be ambitious like this old man'
志をもって生きる自らの老体を見本に、若い世代に希望をもって生きる様に諭した、北海道開拓時代の言葉。
最近では、『志』という言葉は、既に過去の遺物なのかもしれない・・・。
昔ユイは、フィリピンのスモーキーマウンテンで暮らす子供たちのドキュメンタリーを見た時に、強く思った事がある。
そのドキュメンタリーでは、12歳の少女がゴミの山を漁り、同じようにゴミ漁りする他の住人と競合しながら、必死になって少しでもお金になるものを掘り返し、病気がちの母を含め家族5人を養う姿が描かれていた。
とても可哀想に思った・・・。
自分は、たまたま、日本という裕福な国に生まれ、その中では特別豊かではないのだけれど、日々の生活に特に不自由せず、五体満足に生きている。
ただ、生を受けた環境が違うというだけで・・・。
「自分はこんなにも・・・、恵まれている。」
でもその時にもう一つ感じた思いがある・・・。
「彼らは、貧しい自分たちに甘えてしまっている」
とても不謹慎な事かもしれないが、彼らの瞳を見てそう感じた。
自分がその立場にいないから、言える事なのかもしれない。
でも、「自分達は可哀想なんだ。同情されるべきなんだ」という姿勢を感じてしまった。
彼らは、一生懸命に、必死に生きていた。
ゴミを漁ってでも一生懸命に生きている事に、誇りを持っているのが感じ取れた。
それは、一人の人間としてとても尊敬出来た。
自分が同じ環境にあったら、同じように必死に生きていけるだろうか?と思った。
でも、それだけに勿体なさを感じてしまった。
「なぜ、今を変えていくパワーに変えれないのか?現状を打破しようと想い続けられないのか?」
言うのは簡単だけど、、、
とても難しい事だと思う。。。
人間は弱いものだから・・・。
その時ユイは、裸一貫で、まったく同じ状況に自分を置いてみたいと思った。
その中で、自分はどこまで自分を貫けるかを試してみたいと思った。
でもそれは、所詮、裕福な国に不自由なく育ったものの道楽なのかもしれない・・・。
だから今は思う・・・。
この社会という平和な戦場で、自分の身が置かれた環境で、自分が創ってきた世界で、思うだけ自分を追求していこうと・・・。
やれる事をやっていこう、挑戦し戦い続けていこうと・・・。
それはきっと、フィリピンのあの彼等が希望をもって戦い続ける事よりも、ずっと楽なことだと思うから・・・。
ほんのちょっとでもいい。
今より前に、今より強い自分に、、、
大志とまではいかなくても、常に小さな志をもって・・・。
もっと自分を誇れる様に・・・。
愛の天秤
愛するのと愛されるのとどちらが幸せなんだろうか?
愛する人と愛してくれる人、どちらと一緒にいた方が幸せになれるんだろうか?
そんな話をよく聞く。
心理学の話・・・。
お互いが「相手より自分の方がちょっと得をしているな」と思える関係である事が、人付き合いが良好に続くコツなんだとか・・・。
地位・名誉や経済力とか、ルックスだとか、優越感だとか・・・etc..etc..
恋愛も同じなんだろうか?
自分が相手を想う気持より、相手が自分を想ってくれる気持ちが大きい方がいいんだろうか?
確かに、自分の事を愛してくれる人と一緒にいるのは楽だったりする。
(時として重かったりするけれど・・・)
愛されていると感じる事で、安らぎを得たり、自信の源になったりする。
でも、愛していない人に愛されても、あまり価値を感じる事が出来ない。
本当は、それもすごく価値がある事だろうのに・・・。
人は誰でも、自分が愛する人に、愛されたいと願う。
それが『恋』なんだと思う。
自分が強く思えば思うほど、相手に愛されたい気持ちが強くなる。
どんなに愛されていても、不足を感じる。
自分が強く想えば想うほど、勝手に相手との距離を感じる。
相手の『愛』が自分の『愛』より小さく感じる。
そして、距離を感じ始める。
天秤が、片側が下がり、反対にもう片側が上がるかのように・・・。
恋愛は、常に微妙なバランスの上に成り立っている。
価値観だったり、日常の楽しさだったり、会話の合う合わないだったり、間が良い悪いだったり、愛情の大きさだったり・・・。
バランスを崩すと、一気に天秤は傾きを見せる。
だから、時としてうまく付き合う為に、相手に合わせたり妥協したりして、バランスを取っていく。
でも、『愛情』の大きさに関してバランスをとるのは難しい。
お互いが相手に深入りしすぎないように付き合ってバランスを取っているカップルがいる。
お互いが相手だけを見つめ、とにかく強い愛情で結ばれているカップルもいる。
でも、無理にバランスをとる為に、自分を抑えたり、小さい『愛情』でまとまろうとする事がいいとは、ユイは思わない。
強く人を愛する事は、とても素敵な事なんだと思う・・・。
もし、自分が相手を強く愛しているのなら、相手に同じぐらい愛されるような自分になれればいい。
もっと愛してしまったら、もっと愛されればいい。
かといって、愛されようとしても、自分を偽ることでは本当にバランスが取れるとは思えない・・・。
でも、自分が成長していく事は出来るのだと思う。
もし相手の方が自分を強く愛していると思うなら、同じぐらい相手を愛せればいい。
自分の気持ちに素直に、もっともっと相手を好きになれるか?相手が好きな自分を好きになれるか?だと思う。
よく聞く台詞。
「男は愛して、女は愛されて幸せになる」
それは、「男は女を強く愛し、女はその大きな愛に同じぐらい大きな愛で応えられるか?」という事なんだと思う。
恋愛は、どんなに愛しても、どんなに愛されても、「ダメなものはダメ」なんだと思う。
微妙なバランスの上に成り立っているから・・・。
愛するのと愛されるの、どちらが幸せか?の話。
結局、、、
愛し、愛されるのが幸せなんだろうなぁって・・・、思う。。。
もし冒頭で話した『人付き合いのコツ』をあてはめるなら、
『相手が自分より強く想ってくれている場合、自分が相手を好きになれるかどうかだけ』っていう、気持ちの楽さなんだと思う。
好きになるより、好きになられる方が、難しいから・・・。
あともう一つ、、、
『人付き合いのコツ』には、重要なミソがある。
それは、『お互いが』自分がちょっと得していると思える事。
つまり、実際には、同等なんだってこと・・・。
だから、相手に「愛されているな」って思われるぐらい愛する事で成り立つ話だって事。
そういう状態が、『愛の天秤』が釣り合っている状態。
そして『愛の天秤』は、強い愛で釣り合っていればいるほど、簡単には揺れ動かない。
100gで釣り合っている天秤の片側に5gを乗っけると傾くが、1kgで釣り合っている天秤の片側に乗っけてもほとんど傾かないように・・・。
だから、まずは愛する自分を抑制しないで・・・。
お互いにもっともっと強く愛していく様に、、、
また久しぶりの更新・・・。
最近、転職活動やなんやらで時間がなく・・・。
また更新が久しぶりになってしまった![]()
ネタはだいぶ溜まっているので、一気に書いていこうと思ってます!
更新止まってるにも関わらず、コメントくれた方や読者になってくれた方、本当にありがとうございますm(_ _)m
さて、一問一答向けのお題提供は、常時お待ちしております。
ご協力頂けると幸いです!
涙の理由
時として、人は涙する。
抑えようとも抑えきれない想いがこみ上げ、止めどなく涙が溢れる。
泣いている途中は、自分がなぜ泣いているのかわからなくなる・・・。
ただ、色々な想いがこみ上げ、頭の中をぐるぐるとまわり、ふと泣きやんだかと思えば、またどっと涙が溢れる。
人はなぜ涙するのでしょうか?
悲しいから?淋しいから?悔しいから?希望を失ったから?
泣いたって何も変わらない・・・。
何も解決されない・・・。
でも、泣きたい時、涙溢れる時は、思うままに思いっきり泣けばいいと思う。
泣く事で失うものはないのだから。
誰かの胸で泣きたいなら、貸してくれる人の胸を思いっきり濡らせばいい。
涙は特別な時間を与えてくれる。
ゆっくりと、傷口を洗い流し、傷みを覆ってくれる。
辛い出来事の、辛い思いだけをそっと包んで、大事な思い出に変えてくれる。
辛い思いだけを忘れさせてくれる。受け止める時間を与えてくれる。
ゆっくりと、ゆっくりと、、
昔誰かが言った。
涙は心の傷口から流れる血液だと・・・。
血は、流れ出て傷口を覆い、かさぶたに変わる。
かさぶたが自然と剥がれた時、傷口はかすかな痕を残し、以前より強い皮膚を形成する。
血が出る事は、とても健康な事。
必要な分だけ流れ、体の毒素を排泄しながら、体を守ってくれる。
涙はきっとそんなもの。
ただ違うのは、いくら流れ出ても死ぬ事はない、失うものはないという事。
だから、涸れるまで思いっきり泣き尽くせばいい・・・。
それは、恥ずかしい事でも何でもなく、自分の心を癒す為の単純な儀式。
涙する事に理由なんかいらない。
ただ、単純にあふれる涙は、止めずに流せばいい。
ユイは、涙すると思う事がある。
「ああ、俺は、泣きたかったんだ」と・・・。
最後に涙を流したのはいつだったろうか・・・。
涙する事に理由や我慢はいらない。
もし涙が出るのなら、止めずに泣いて、涸れるまで思いっきり流せばいい。
それはとても健康なこと。
疲れた心をそっと包んで、羽を休ませる時間。
思うまま泣いて、、、
そして、思うままに笑えばいい。
涙はそんな単純なもの。
