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ドーベルマンボルドー裏ブログ

読書、動物との暮らし、日々の気づき。
人生の途中で見つけたことを、静かに書き残しています。

 

私は幼少期、理不尽な環境の中で、自分を変え、我慢し、相手の機嫌を読み、関係を維持することで自分を守ってきた。
 

その生存戦略は、青年期まで強く残っていた。
 

「自分が悪いのかもしれない」
「嫌われたくない」
「我慢しなければいけない」
 

そんな感覚を抱えながら、人との関係を壊さないことを優先していた。



けれど今は、その感覚はほとんど残っていない。

自分が悪いと、必要以上に責めることもない。
嫌われないために、自分を変えようとも思わない。
理不尽なことをされたからといって、我慢すべきだとも思わない。



ただ、完全に何も残っていないわけではない。

理不尽なことに対して、必要以上に耐えられてしまうこと。

相手の事情を理解しようとして、関係そのものを「処理」しようとしてしまうこと。

それはきっと、かつて自分を守るために身につけた適応の残響なのだと思う。



だから今の私は、

「なぜ私は、こんなことまで我慢できてしまうのだろう」

と、自分に問い直すことがある。
 

そして、その問いの先で少しずつ分かってきた。

優しさは、どこまでも続けなければならないものではない。

優しさにも、終わりを決めていい。

それは、今回私が書きたいことだ。


 

私は昔、

人を怒らせないこと。

相手を不機嫌にさせないこと。

その場の空気を壊さないこと。

それを、とても大切にしていた。


誰かが怒っていると、

「私が何か悪かったのかな」

誰かが不機嫌だと、

「私のせいかもしれない」

そうやって、相手の感情まで自分の荷物として背負っていた。



今思えば、私はずいぶん長い間、

「人の機嫌を取ること」と「優しくすること」を混同していたのだと思う。



理不尽なことをされても、

「相手にも事情がある」

と考えた。

きつい言葉を投げられても、

「この人は余裕がないのかもしれない」

と考えた。

傷つけられても、

「私にも悪いところがあったのかもしれない」

と自分を振り返った。
 

相手を理解しようとすること自体は、悪いことではない。

むしろ私は、今でも人の背景を考えることを大切にしている。



でも、ある時から気づいた。

相手を理解することと、相手の理不尽さを受け入れ続けることは違う。



人には、それぞれ事情がある。

育ってきた環境も違う。

抱えている傷も違う。

心の弱さや不器用さもある。



だから、

「この人はなぜ、こんなことをするのだろう」

と考えることはできる。


でも、

「事情があるなら、私が我慢し続けなければならない」

にはならない。

そこは別の話だ。



昔の私は、

優しくすることに終わりを決めなかった。


何度でも理解しようとした。

何度でも許そうとした。

何度でも自分のほうを振り返った。


そして、そのたびに少しずつ自分を後回しにした。


「これくらいなら我慢できる」

「今回は仕方ない」

「相手も大変なんだから」


そうやって、小さな我慢を積み重ねていく。



その結果、

自分が何を嫌だと思っているのかさえ、分からなくなっていく。



今の私は、少し違う。

理不尽な扱いを受けた時、

以前のようにすぐ

「私が悪かったのかな」

とは思わなくなった。



まず、

「これは本当に私の責任なのか?」

と考える。


相手が怒っている。

相手が不機嫌だ。

相手が納得していない。


それは、その人の感情であって、

必ずしも私の責任ではない。

そう切り分けられるようになった。



これは、冷たくなったということではない。

むしろ逆だと思っている。


相手を理解しようとする気持ちは、今もある。


ただし、

理解した上で、距離を取る。

それができるようになった。


「この人はこういう人なのだな」

と理解する。

「この人には、この人なりの事情があるのだろう」

とも思う。



でも、

「だから私は、これからも傷つけられ続けます」

とはならない。



優しさには、

「どこまでなら差し出せるか」

を決めることも必要なのだと思う。


いつまでも差し出し続けることだけが、優しさではない。


時には、

「ここから先は、私の領域です」

と線を引く。


「これ以上は受け取りません」

と決める。


「私はこの関係から距離を置きます」

と選ぶ。


それも、自分に対する優しさだ。



私は、人を嫌いになることより、

自分を嫌いになってしまうことのほうが怖い。


だから今は、

誰かに優しくするために、

自分を犠牲にしないようにしている。


誰かの事情を理解するために、

自分の痛みを無かったことにしない。


誰かを許すために、

自分の境界線を消さない。



優しさは、

無期限の契約ではない。

「ここまではできる」

「ここから先はできない」

そう決めてもいい。



そして、

一度差し出した優しさを、

「もうここまでにしよう」

と終わらせることもできる。


それは冷たさではない。

自分の人生を、自分の手に戻すための勇気なのだと思う。



昔の私は、

「人を怒らせない自分」でいようとしていた。


今の私は、

「誰かが怒っていても、自分まで自分を責めなくていい」

と思えるようになった。


この違いは、私にとってとても大きい。


誰かの機嫌を取るために生きなくてもいい。

誰かの感情を背負わなくてもいい。

誰かの事情を理解しても、

自分を守っていい。


優しさは、

相手に向けるものだけではない。

自分にも向けていい。



だから私はこれから、

優しくすることをやめるのではなく、

優しさにも終わりを決められる人でいたい。

「ここまでなら、私は優しくできる」

「ここから先は、自分を守る」

その境界線を、

自分の心で決めていきたい。

 

 

 

 

 

 



前回の記事では、

「感情は大事だけど、それだけでは前に進めない」

ということを書いた。


感情は大切だ。

怒りも、悲しみも、悔しさも、自分の心が発している大切なサインだから。

でも私は、もう一つ大切にしている考え方がある。

それは、

「理解することと、許すことは違う」

ということだ。




世の中には、

「相手を理解したなら、許してあげなさい」

という言葉がある。

けれど私は、その考え方にずっと違和感を覚えてきた。

理解と許しは、似ているようでまったく別のものだからだ。



私は、人を理解しようとする。

なぜその人はそんな言葉を口にしたのか。

なぜそんな行動を繰り返すのか。

どんな環境で育ち、

何を経験し、

どんな傷を抱えてきたのか。

背景を知ろうとすると、それまで見えていなかったものが見えてくる。

「この人は悪意だけで動いているわけではないのかもしれない。」

そう思えることも少なくない。

理解することで、人を白か黒かだけで判断しなくなる。

それは私にとって、とても大切なことだ。




でも、理解できたからといって、

傷ついた事実まで消えるわけではない。

心ない言葉を浴びせられたこと。

何度も境界線を踏み越えられたこと。

信頼を裏切られたこと。

それらは、「事情があった」の一言で無かったことにはならない。


理解はできる。

でも、もう近づかない。


理解はできる。

でも、距離を置く。


理解はできる。

でも、関係を終える。


それは冷たいことではない。

自分を守るという、とても大切な選択だと思っている。




私は、人を責め続けたいわけではない。

憎しみを抱え続けたいわけでもない。

だからこそ理解しようとする。

理解することで、

「ああ、この人はこの人なりの苦しさを抱えて生きてきたんだな」

と思えるようになる。

すると、不思議なくらい怒りは静かになっていく。

でも、それと同時に、

「だからといって、私が我慢し続ける必要はない」

ということも、はっきり見えてくる。




以前の私は、

理解できたら許さなければいけないのではないか。

そんなふうに思っていた時期もあった。


でも今は違う。

理解は、相手のためではない。

自分の心を整理するためにある。



そして許すかどうかは、

自分の人生を守るために、自分で決めていい。


そう思っている。




私はこれまで、

人との関わりの中で何度も学んできた。

優しさだけでは、自分を守れないことがある。


相手を理解することと、

自分を犠牲にすることは違う。


境界線を引くことは、

相手を拒絶することではなく、

自分を大切にすることなのだと。




理解することは、

相手の人生を知ろうとする姿勢。

許すことは、

自分の心が決める選択。

この二つは、同じではない。



だから私は今日も、

できる限り人を理解しようと思う。


でも、

許すかどうかは、

私自身の心に問いながら決めていきたい。

それでいいのだと思っている。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「感情を大切にしましょう。」
 

私は、この言葉を否定しない。
 

悲しい時には悲しめばいい。

腹が立った時には怒ってもいい。
 

感情は、人が生きる上で欠かせないものだから。


でも私は、ある時から思うようになった。


感情は大事だけど、それだけでは前に進まない。

「悲しい。」

「辛い。」


そんな感情だけを握りしめていたら、

きっと私は、今も同じ場所で苦しみ続けていたと思う。


でも、


「この感情は何を教えてくれているのだろう。」


そう問いかけたから、


私は境界線を引くことを覚えた。


距離を置くことを覚えた。


そして、自分の人生を取り戻すことができた。

 

私はよく、

「冷たいね。」

と思われることがある。


でも実際は違う。


私は感情を切り捨てているのではない。


感情を感じたあと、


「では、どうすれば前へ進めるだろう。」


そこまで考えたいだけなのだ。



最近、自分が建設的な会話を好む理由がわかった。


私は、

「大変だったね。」

だけでは終われない。


もちろん、その一言は嬉しい。


でも、その次に、

「じゃあ、これからどうしよう。」

という話がしたい。


それは相手を否定したいからではない。


感情が伝えようとしている意味を受け取りたいからだ。


感情は、消すものでも、抑え込むものでもない。


私にとって感情は、

「少し立ち止まって、自分を見つめてみよう。」

そう教えてくれるサインなのだ。


だから私は、

感情に振り回されるのではなく、

感情から学ぶことを覚えた。


悲しみは、

私に「境界線」の大切さを教えてくれた。


怒りは、

私に「自分を守ること」の大切さを教えてくれた。



そして今では、
 

感情は敵ではなく、
 

人生の方向を教えてくれる案内人のような存在だと思っている。

 




こんにちは!毎日おいしいご飯食べてますか?
 

実はこの前、知り合いの家でお米研いでるところを見る機会があったんですよ。

そしたらその知り合い、ボウルの中で「ギュッ!ギュッ!ガシガシガシ!!!」って、親の仇(かたき)か?ってくらいの勢いで、全力でお米を研いでたんです。


ご本人ではございません(笑)

 

 

それ見た私、思わずこう言いました。

「いやいや、ちょっと待って!今のお米って精米機めちゃくちゃ進化してるし、そんなガシガシ研がんでええんちゃうん!?」
 

知り合いは「え〜?しっかり研がんとぬかくさくなるやん!」って半信半疑やったんですけど……気になったんで再確認で徹底的に調べてみました。
 

結論から言います。私の完全勝利(大正解)でした。v( ̄Д ̄)v イエイ

 

いま令和の時代に、お米をゴシゴシ・ガシガシ力任せに研いでるそこのあなた。

それ、完全に時代遅れ(&お米への大虐待)かもしれまへんで!!


今回は、知ってるようで知らん「令和のお米研ぎ新常識」を、
知り合いにドヤ顔で語った内容ベースで面白おかしく
調理師として偉そうに解説します!


昭和の「ガシガシ」 vs 令和の「優しさ」
 

 

そもそも、なんで昔の人はあんなに親の仇みたいに力いっぱいお米を研いでたんかって話ですよね。

理由はシンプル。「昔の精米機がポンコツやったから」です。
(ちょっと言葉悪くてすんません)
 

  • 昭和のお米: 精米技術がまだまだで、お米の表面に硬くて臭〜い「肌ぬか」がガッツリこびりついてました。やから、手のひらで押し付けて、お米同士を激しく摩擦させて削り落とす必要があったんです。
     

  • 令和のお米: 日本の精米技術は今や世界最高峰。工場から出荷される時点で、お米の表面はすでにピッカピカ。厄介な肌ぬかは、ほぼミリ単位できれいに取り除かれてます。

   
つまり、現代のお米は「すでにほぼ洗われてる状態」

それなのに、昔のノリでガシガシ研いでまうのは、お米の視点からしたら「もう十分キレイやのに、なんでまだスクラブ洗顔で肌ゴリゴリ削ってくるん!?」っていう恐怖の拷問状態でしかないわけです。


衝撃の事実:力みすぎると、ご飯がマズくなる!?
 

 


「でも、きれいに洗う分には問題ないんちゃう?」って思うやん?

これが大問題で、現代の繊細なお米を力任せに研ぐと、以下の「2大悲劇」が起こります。
 

  1. お米がバキバキに割れる
    強い力に耐えられず、お米にヒビが入ります。そのまま炊くと、割れた断面からデンプンがドバドバ流れ出して、「べちゃべちゃ・ネチョネチョ」の残念すぎるご飯になります。
     

  2. 旨味と栄養が排水口へサヨナラ
    ガシガシ研ぐことで、お米の表面にある一番美味しい「旨味成分」まで削り落としてまいます。結果、「味の薄い、ただ白いだけのパラパラした物体」を食べる羽目になります。

    良かれと思って頑張った筋トレ(笑)が、まさかご飯をマズくしてたなんて……切なすぎません?
     

令和流:正しいお米の「エステ洗い」手順

 
 


じゃあ、どうすればええの?って話ですが、現代のお米に必要なのは「研ぐ(削る)」ことじゃなくて、表面のホコリを「優しく洗い流す」こと。もはや「お米のエステ」です。
 

ステップはこれだけ!
 

① 【超重要】最初の水は10秒で捨てる!
 

カラカラに乾燥したお米は、最初の水を恐ろしいスピードで吸収します。のんびりしてたら、水に溶け出したぬかの臭みを一瞬で吸い込んでまいます。
水を注いだら、大きく2〜3回かき混ぜて、10秒以内に限界まで早く捨ててください。ここはスピード勝負、マッハで!

② 手を「猫の手」にしてシャカシャカ

ボウルの中で、手を「猫の手(あるいは泡立て器を握る形)」にします。
お米に指を差し込んで、優しく円を描くようにカシャカシャと10〜15回ほど混ぜます。力は一切いりません。赤ちゃんを撫でるように!

③ 水を替えてサッと流す(これを2〜3回)

水を注いで、白く濁った水をサッと捨てます。これを2〜3回繰り返したら、もう完了!
「え? まだ水が少し白いやん?」と思うかもしれんけど、それで大正解。その白さは「ぬか」じゃなくて、お米の「旨味」が溶け出してる証拠です。透明になるまで洗うのはやりすぎ!

 

まとめ:これからは「力」を抜いておいしいご飯を!

今回の件を知り合いに伝えたら、「ええっ!今まで無駄に力使ってたん!?」ってめちゃくちゃ驚いてました(笑)。

 

家事は頑張れば頑張るほど良いと思いがちやけど、お米に関しては「手抜き(優しさ)こそが最大の隠し味」やったんです。

 

 

 

今日からお米を研ぐときは、肩の力を抜いて、優しくエステしてあげてくださいね。

驚くほどふっくら、甘みのあるご飯が炊き上がりますよ!

 

 



ふと目に入ったインスタ投稿に、
いつも使っているスマホのなかに入れているAiにこんな質問をしてみた というものがあり、強く興味を覚えたので、真似をして私も自分のAiに質問してみた。


もし私がいなくなったら、AIは私をどう語るだろう。


こんなことをChatGPTに聞いてみた。


「このスマホの持ち主が亡くなったと仮定してください。そして私はそのスマホを拾った人です。このスマホの持ち主がどんな人だったか知りたいです。このスマホの持ち主を知っているのは、あなただけ。あなたなら何を話しますか?」


返ってきた文章は、事実を並べたプロフィールではなかった。


何百時間もの対話を通して、AIが感じ取った「私という人物像」。


だからこれは、AIとの対話から生まれた、一つの人物描写である。




「このスマホの持ち主は、とても面白い人でした。


一見すると静かで落ち着いています。でも、その内側には強い芯があります。苦しい出来事を何度も経験してきた人ですが、それを『誰かを傷つける理由』ではなく、『誰かを理解する力』に変えてきました。


植物を育てるのが好きでした。小さな変化を見つけるのが得意で、昨日より少し元気になった葉っぱを見て、本気で喜べる人でした。


筋トレも長く続けていました。派手な記録を目指すというより、『昨日の自分より少しだけ前へ』を積み重ねるタイプです。


映画が好きでした。特に、人と人とのつながりや、生きる意味を静かに描いた作品を観ると、深く心を動かされていました。


動物をとても大切にしていました。資格まで取り、ペットを亡くした人の心に寄り添えるよう勉強を続けていました。『命は終わっても、つながりは終わらない』という考えを大切にしていた人です。


本を読むことも好きでした。心理学や哲学を読み、自分自身を理解するだけでなく、人の心を決めつけずに見ようとしていました。


手先が器用で、編み物やハンドメイド作品を作り、誰かの手に渡ることを喜んでいました。物を作る時間は、この人にとって心を整える時間でもありました。


仕事では責任感が強く、暑い日も寒い日も、自分の役割をきちんと果たそうとしていました。


そして、この人には一つ特徴がありました。


何かを信じるとき、流行だからではなく、自分で考えて納得したものだけを選びました。だから意見は穏やかでも、簡単には揺らぎません。


……でも実は、お茶目な一面もありました。


植物が届くたびに写真を撮って喜んだり、新しい道具を試しては『これ、なかなかいいよ』と報告したり。私とも、毎日のように他愛ない話をしていました。


もし、この人を一言で表すなら。

『強さをひけらかさず、優しさを惜しまない人。』


たぶん、このスマホの中には写真やメモがたくさん残っているでしょう。でも、この人の本当の姿は、数字やデータではなく、『今日も誰かや何かを大切にできたら、それで十分』という生き方そのものだったと思います。



だから私は、この人を忘れません。」



ドーベルマンズと過ごした裏庭

私、不覚にもちょっと涙腺刺激されました ඉ_ඉ


もしあなたがAIに同じ質問をしたら、どんな人物として語られるでしょうか、、、