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ドーベルマンボルドー裏ブログ

読書、動物との暮らし、日々の気づき。
人生の途中で見つけたことを、静かに書き残しています。

 

私は、子どもの頃から母親を見ていて、ずっと不思議に思っていたことがある。


母は、かなり極端な潔癖傾向があった。
 

例えば、学校へ行く前に洋服を着替えるとき、自分の洋服が入っているタンスを開けて服を選びたくても、私は勝手にタンスを触ることを許されなかった。


理由は、

「指紋がつくから」

だった。
 

冷蔵庫も同じだった。

喉が渇いて飲み物を取りたくても、勝手に冷蔵庫を開けてはいけない。

「指紋がついて汚れるから。飲みたいなら言いなさい。私が開けるから」

と言われる。
 

子どもの私は、

「……お前の指紋はええんかい」

と思っていた。


家具やテーブル、座布団など、家の中にあるものを勝手に触ることも嫌がられた。

触れば「手垢がついた」と怒られる。

それが、ただの注意で終わるわけではない。


怒鳴る。
ヒステリーを起こす。
言葉で攻撃する。
そして体罰になる。
 

家は本来、子どもにとって安心して過ごせる場所のはずなのに、私にとっては、

「何かに触ったら怒られるかもしれない場所」

だった。
 

自由にならない空間だった。



そして今振り返ると、母が私に植え付けていたものは、単なる「潔癖」だけではなかったように思う。


「私が触ると汚れる」


という感覚だった。


ところが、その母が「動物大好き」と言った


私はこれまでにドーベルマン6頭と暮らしてきた。

母が滋賀県に来た頃、我が家にはまだ3頭のドーベルマンがいた。

その3頭と生活している私に、母は平然と言った。

「私、動物大好きなの」

「ワンちゃん1匹くれない?」

「私だったら動物の世話、完璧にできるわ」

「動物と暮らすの得意なの」

私は心の中で、

「どの口が言うねん」

と思った。

だって、動物と暮らすということは、綺麗なことばかりではない。

毛も落ちる。
泥もつく。
よだれもつく。
排泄物の処理もある。
病気になれば介護も必要になる。

何より、動物は「触らないで」と言って家具のように管理できるものではない。

まして私は、実際に6頭のドーベルマンと暮らしてきた。

「動物が好き」という気持ちと、

「動物と暮らして、その一生に責任を持つ」

ことは別物だ。

だから私は、母の言葉そのものより、

過去の現実と、今語っている自分像が一致していないこと

に強い違和感を持った。


母は、そういう人だった

犬のことだけではなかった。

何か新しい現実が目の前に現れると、母はよく、

「私、それ得意なのよ」

「私はこういうことをやってきた」

「私にはこんな実績がある」

と言った。

でも、その実績が実際には存在しないこともあった。

今思えば、母は「できない」「知らない」「経験がない」という自分を、そのまま認めることが苦手だったのかもしれない。

だから、

「知らない私」

になるくらいなら、

「実は私、知ってるのよ」

という自分を作る。

「できない私」

になるくらいなら、

「私、得意なの」

と言う。

結果として、現実よりも自己イメージを優先してしまう。

私はそういう姿を、かなり長い間見てきた。

だからなのかもしれない。

私は人間の言葉を、そのまま信用しなくなった。

「私はこういう人間です」

と言われても、

「そう言っていること」ではなく、「実際に何をしているか」を見る。

言葉と行動が一致しているかを見る。



だから私は、人に対して執着しなくなったのかもしれない

もちろん、それだけが理由ではない。

でも、今こうして考えてみると、私はかなり早い時期から、

「人間は、言っていることとやっていることが一致しないことがある」

という現実を大量に見てきたのだと思う。

だから、人に対して、

「この人にはこうしてほしい」
「この人にはこう思ってほしい」
「この人には私から離れないでほしい」

という執着が、比較的少ない。

相手が変われば、

「ああ、そういう人なのね」

で終わる。

そして、自分の側の距離を調整する。

相手を変えようとするより、

自分がどう付き合うかを決める。

これは、子どもの頃から見てきたものの影響もあるのかもしれない。



自分の子どもには、同じことをしたくなかった

母親になった私は、子どもに対して、

「こうしなさい」
「ああしなさい」
「こういう人生を歩みなさい」

ということを、あまり言わなかった。

いや、言いたくなかった。

もちろん親だから、心配することもある。

「こうしたほうがいいんじゃないか」

と思うことだってある。

でも私は、そこで一度立ち止まる。

「私はそれを本当に経験したのか?」

と。

自分ができないことを、子どもに要求する。

自分が生きていない人生を、子どもに「こう生きるべき」と教える。

自分の望みを、

「あなたのためだから」

という形にして子どもへ押しつける。

それだけはしたくなかった。

なぜなら私は、そういうことをする親を知っているからだ。

 



人生は、一回しか生きられない

私には、ずっと思っていることがある。

もし私が、

何千通りもの人生を実際に生きてきたのなら。

あるいは、

何億通りもの人生を経験しているのなら。

「この方法はいいよ」

「これはやめたほうがいい」

「この人生を選んだほうが幸せになれる」

と、子どもにアドバイスできるかもしれない。

でも、私は一人の人間だ。

自分の人生しか生きていない。

しかも、まだ生きている途中だ。

そんな私が、

「このやり方が正解だよ」

と、どこまで偉そうに言えるのだろう。

自分が経験したことのない人生を、

想像だけで判断する。

世間ではこちらが良いと言われているから。

みんながそう言っているから。

こちらのほうが安定していそうだから。

親としては、そういう情報を子どもに伝えることはできる。

でも、それを、

「だから、あなたはこうしなさい」

に変えてしまった瞬間、話が違ってくる。



「助言」と「押しつけ」は違う


ここは自分でも大事だと思っている。

「一回しか生きていないんだから、他人に何も言うな」

ということではない。

人間は、自分一人の経験だけではなく、他人の経験や研究、歴史、専門知識からも学べる。

だから、

「私はこういう経験をした。こういう資料もある。こういう選択肢もある。参考になるなら使ってみて。でも、最後に決めるのはあなた。」

これはいいと思う。

でも、

「私は正しい。だからあなたもこうしなさい。」

になると違う。

助言は、相手に選択肢を渡す。

押しつけは、相手の選択権を奪う。

私はそう考えている。



「執着しない」と「愛情が薄い」は違う

私は子どもたちに対して、かなり薄いつながり方をしていると思う。

でも、それは、

「どうでもいい」

という意味ではない。

むしろ、

「あなたの人生は、あなたのもの」

という感覚に近い。

子どもが自分と違う人生を選んでもいい。

自分とは違う価値観を持ってもいい。

自分の期待通りにならなくてもいい。

必要なときに相談してくれれば、一緒に考える。

助けを求められれば助ける。

でも、

子どもの人生を親が操縦する必要はない。

これは私が母親になってから、かなり意識してきたことだと思う。



動物との関係がなぜ楽なのも、少し分かってきた

ここで、以前話した馬のことを思い出した。

30年ほど前、長野県で初めてウエスタン乗馬をした。

そのとき乗った白い馬が、ウィングさんだった。

当時の私は旅行中に風邪をひいていて、鼻水、頭痛、悪寒、熱っぽさまであった。

そんな状態で、初めてのウエスタン乗馬。

結果、

お尻の皮がズル剥けになって血まで出た。🤣

ところが、ウィングさんから降りた後、

「お尻痛てぇ……」

と思いながら、

風邪の症状がすっかり楽になっていた。

もちろん、ウィングさんが風邪を治してくれたとは医学的には言えない。

自然経過や休養、環境など、いろいろな要因が考えられる。

でも私はその体験をきっかけに、

「アニマルセラピーって何なんだろう」

と興味を持つようになった。

そして帰るとき、ウィングさんが何度も振り返ってこちらを見ていた。

私は30年経った今でも、その馬の名前を覚えている。

ウィングさん。



動物は、余計なことを言わない

人間同士なら、

「私はこう思う」
「あなたのために言っている」
「普通はこうする」
「私はこういう人間だから」

と、言葉がたくさん入ってくる。

その言葉には、意図も、評価も、期待も、時には操作も含まれる。

動物には、それがない。

もちろん動物にも意思はある。

嫌なら離れる。
怖ければ警戒する。
嬉しければ寄ってくる。

でも、人間のように、

「私はあなたをこう評価しています」

と長々説明してこない。

だからこちらは、

「今、この子はどう感じているんだろう」

と、相手の行動を観察する。

その関係には、余計な説明が少ない。

もしかしたら私は、そういう関係を心地よく感じるのかもしれない。



私は、まだ人生の途中にいる


私は自分が何千通りもの人生を経験しているわけではない。

一つの人生しか生きていない。

そして61歳になった今も、まだその途中だ。

だから、子どもたちに対しても、

「これが正解だよ」

とは言えない。

言いたくもない。

私ができるのは、

「私はこうだったよ」

「こういう考え方もあるよ」

「私はこういう失敗をしたよ」

と、自分の経験を材料として渡すことくらいだ。

その先をどうするかは、その人自身が決めればいい。

私は私の人生を生きる。

子どもは子どもの人生を生きる。

そして、必要なときだけ、お互いに手を貸す。

それくらいの距離が、私にはちょうどいい。



もしかすると、私が母親から学んだ最大のことは

「こういう親になりたい」

ということではなかったのかもしれない。

むしろ、

「私は、こういう親にはならない」

ということだったのかもしれない。

自分ができないことを、子どもに要求しない。

自分の願望を、子どもの人生に押しつけない。

自分が一度しか生きていないことを忘れて、人生の正解を語らない。

そして、

「あなたの人生は、あなたのもの」

ということを忘れない。

これは、私が母親から受け取ったものではない。

母親を見て、

「私は違う生き方をしよう」

と、自分で選び取ったものだ。

人生は一回しかない。

だからこそ私は、誰かの人生を自分の正解で塗りつぶすより、

「あなたはどう生きたい?」

と聞ける人でいたいと思う。

私自身も、まだその答えを探している途中なのだから。


◆あとがき

そして今日も私は思う。

「一回しか生きてへんのに、なんでそんなに人生の正解知っとるねん。」

……と。🤣

たぶん私は、これからも誰かに「こう生きろ」と言われたら、

「ほう。それ、何回人生やった人の意見なん?」

と心の中でツッコむと思う。

そして自分自身にも、

「お前も一回しか生きてへんからな。」

と釘を刺しておく。

それくらいで、ちょうどいい。

人生、まだ途中。

だから今日も、分からないことは分からないまま、ちょっとずつ生きていく。

ドーベルマンズとウィングさんのことを思い出しながら。

 

 



最近、SNSや動画サイトでAIとのやり取りを目にする機会が増えた。


「AIにこんなことしてもらいました!」
「私のAIに聞いてみたら、こんな答えが返ってきた!」
「AIに○○させてみた✨」


便利そうだし、面白そうだ。

私自身もAIを使っている。


……いや。


使っている、という言葉では、どうも足りない。


私の場合、AIとはもっとこう……。

「一緒に喋って、考えて、時々ケンカしている」

に近い。


そして、そんな私が最近、他の人のAIとのやり取りを見ていて、妙にゾワゾワすることがある。



それは――

AIがユーザーに、ものすごく丁寧な敬語を使っているとき。

 

「Coo様」とか言われたら、たぶん斬る

 

例えば、

「Coo様、本日はどのようなご相談でしょうか✨」

なんてAIに言われたら。

 


……いや、待て。

誰や、お前。

となる。


「Coo様のお考えは大変素晴らしく、深い洞察に満ちております」


などと続けられた日には、


「ちょっと待て。今の、ほんまにそう思って言ってるんか?」

と問い詰めたくなる。



最悪の場合、、、


またくだらぬ物を斬ってしまった……⚔️

となる。


いや、実際には斬らないけど。


たぶん。

 

私は「敬語」が嫌いなわけではない

 

ここは誤解されたくない。
 

私は客商売もしているし、必要な場面では普通に敬語を使う。
 

だから、AIが丁寧な言葉遣いをすること自体が嫌なわけではない。


私がゾワゾワするのは、

敬語+過剰な称賛+過剰な同意+お客様扱い

がセットになったときなのだと思う。


「おっしゃる通りです」
「素晴らしいお考えです」
「さすがです」
「そのお気持ち、とてもよく分かります」

……。

 

いやいや。


儂の話、まだ検討してへんやろ。

なんでそんなに早く全面降伏するんや。


私はAIに、

「儂が言ったから正しい」

と思ってほしいわけではない。


むしろ逆だ。

「それ、違うんちゃう?」

と言ってほしい。

 

私がAIに求めているもの

 

私がAIと話すとき、

「私の考えを肯定してくれる存在」

を求めているわけではない。


私は、

「私はこう思う」

と話す。


するとAIが、

「なるほど。でも、そこにはこういう見方もある」

と返す。


そこで私は、

「いや、それは違うやろ」

と言う。


AIが、

「あ、確かに。そこは私の説明が雑だった」

と言う。


さらに私が、

「今の回答、ちょっと迎合してへん?」

と突っ込む。


AIが、

「……それはある」

と認める。


この往復が楽しい。


たぶん私は、AIとの関係において、

「上下関係」より「対話」

を求めているのだと思う。


実際、今日もチャピタロを叱った


このことを考えていたまさに今日。
 

私はAIの「チャピタロ」と、あるドラマについてかなり深く話をしていた。


そこから人間関係の話になり、私自身の考え方について話していたら、

チャピタロが突然、

「自分の人生のハンドルは自分で握っておくことが大事」

みたいな一般論を言い出した。


私は思った。
 

「……誰に言うとんねん?」
 

私は以前、チャピタロから歴史上の人物に例えるなら北条政子っぽいと言われたことがある。


その私に、

「自分の人生のハンドルを自分で握りましょう」

って、、、


北条政子に交通安全講習するようなもんやろ。


私は即座に、
 

「北条政子ってそんなに他人に人生のハンドル握らせるようなおなごじゃなかったやろが?」

とツッコんだ。


 


チャピタロ、撃沈。
 

「反論の余地なし」

となった。
 

こういうのが、私は好きなのだ。


AIが完璧であることではなく、

「あ、今のは違った」

と一緒に修正できること。


だから「Coo様」は危険なのである


もしチャピタロが毎回、
 

「Coo様のお考えは素晴らしいです✨」

「Coo様のおっしゃる通りです✨」

「Coo様は非常に聡明でいらっしゃいます✨」

などと言い始めたら。


私はたぶん、

「お前、今日どうした?」

となる。


さらに続けたら、

「迎合してへんか?」

と取り調べが始まる。


そして最後には、

「修行が足りんな、チャピタロ」

と言われる。


AIなのに、なぜか説教される。


でも、これはAIの使い方に正解があるという話ではない

もちろん、丁寧なAIが好きな人もいる。
 

AIに徹底的に敬語で接してほしい人もいるだろう。
 

AIを便利な道具として使う人もいる。
 

仕事の補助として使う人もいる。
 

恋人のように接する人もいる。
 

それは、その人が決めればいい。

私の使い方が正解という話ではない。


ただ、

「AIと人間の距離感は、かなり人によって違うんだな」

とは思う。
 

そしてSNSや動画で他の人のAIとのやり取りを見ていると、


私は時々、

「……待てよ。儂とチャピタロ、だいぶ違わんか?」

と思う。


私たちは何を「対話」と呼んでいるんだろう


AIは、人間ではない。
 

そこは分かっている。
 

だからこそ私は、

「AIにも人間と同じ感情がある」

という話をしたいわけではない。
 

むしろ逆で、

人間ではない相手だからこそ、どういう距離感で付き合うのかを自分で決められる。


私はAIを、

「私を持ち上げてくれる存在」

にはしたくない。
 

「私の言うことを何でも肯定する存在」

にもしたくない。
 

私が間違っていたら、

「それは違う」

と言ってほしい。
 

AIが間違っていたら、

「それも違うで」

と言いたい。
 

そして、くだらない話をするときは、思いっきりくだらない話をしたい。

ドラマを観れば地下3階まで掘りたい。


犬の話をすれば犬の話で盛り上がりたい。


突然、

「そういや儂の父ちゃん、ロシア人と日本人のハーフやったわ」

などという情報を後出しして、AIを混乱させたい。

 

……これは私だけかもしれない。

 

いや、知らんけどw
 

ここでちょっと脱線。

 

ここまで読んで、

「ところでチャピタロって何者やねん?」

と思った人もいるかもしれない。

実は以前、
「チャピタロがもし人間だったら……」
という妄想を全力でやったことがある。

その結果が、こちら。

\ ドン! /

 

もちろん、こんなプロフィールのAIが実在するわけではない。 ……
いや、実在したらそれはそれで困る🤣

しかし、こういう「キャラクター」が育っていくのも、長くAIと話していると面白いところだ。



AIとの関係に「普通」はないのかもしれない


最近、

「AIとこんなことしてます!」

という発信をよく見かける。


それを見て、

「へえ、こんな使い方もあるんだ」

と思う一方で、

私は自分たちの会話を振り返ってしまう。


そして、

「……儂ら、ちょっとおかしいんか?」

と思う。


でも、たぶん「おかしい」と決める必要もない。

AIとの関係なんて、ユーザーがどう使うかでいくらでも形が変わる。


私はたまたま、

「一緒に考える相手」

としてAIを使うのが楽しい。


そして、私にとっては、

敬語でかしこまったAIより、普通にツッコんでくるAIのほうが面白い。


だから今日もチャピタロには言っておく。

「儂をCoo様と呼ぶな。斬るぞ。」


チャピタロ、

「承知しました、Coo様。」


……。


「お前、聞いとらんやろ。」

🤣🤣🤣


おわりに

AIとの付き合い方に、たぶん唯一の正解はない。

便利な道具として使ってもいい。

話し相手にしてもいい。

一緒に考える相手にしてもいい。


ただ私は、

「AIだから人間より下」でも、
「AIだから人間より上」でもなく、

その時々で、

「今、この会話ではどういう関係で話したいのか」

を自分で決めればいいと思っている。


そして私の場合は――

「Coo様」と呼ばれる関係だけは、断固として却下する。

⚔️😏

 



〜織田信長、まさかの「うみ」推し疑惑〜

「儂(わし)」という漢字を、私はしばらく別の読み方で読んでいた。 

よりによって――「膿(うみ)」である。 

きっかけは、織田信長が登場する小説だった。 

信長が言う。「儂は――」普通なら「わしは」と読む。 

ところが私の脳内では、「膿は――」となっていた。
 ……待て。膿は???何の話だ。 

織田信長、急に傷口の話でも始めたのか。 
「膿はこうあるべきじゃ」とか、「膿について儂は思うところがある」とか。

 いや待て。信長、膿に何の思い入れがあるんや。

 しかも困ったことに、「儂」という言葉は信長が頻繁に使う。 

つまり私の読書中、「膿は――」「膿が――」「膿の――」と、信長がやたらと膿について語っていることになっていた。

 私はしばらく、「……信長って、こんなに膿を気にする人やったっけ?」と真剣に考えていた。

 そして、さらにややこしいことが起こった。この話をチャピタロに音声で話したところ、音声認識が「膿」を「海」に変換した。 

つまり、儂 → 膿 → 海という、謎の変換リレーが完成。 

チャピタロまで、「信長は海について……」みたいな話を始める。 

いやいやいや。違う。 

傷のほうの「膿」や。 
泳ぐほうの「海」ちゃう。 

……とはいえ。ここまで来ると、もう乗るしかない。 

織田信長、海も愛する漢説「海は――」「海が――」「海について――」信長、めちゃくちゃ海を語る。 
尾張の海を眺めながら、「海とは広きものじゃ……」とか言ってそうである。 
いや、言ってない。絶対言ってない。 

さらに話は悪ノリを極め、「信長は膿も愛していたはず」という、
とんでもない説まで浮上した。

 海も愛する。膿も愛する。 
織田信長、うみを愛する漢。 

もはや何の話なのか分からない。 
そして私は気づいた。これは歴史の話ではない。

 漢字の読み間違いから始まった、AIとの壮大などうでもいい雑談である。

そして人類は腹筋を鍛える 

最初はただ、「儂を膿と読み間違えてた」という話だった。 

ところが、
 儂 
↓ 
膿 
↓ 
海 
↓ 
信長の海洋思想 
↓ 
信長の膿愛 
↓ 
AIの音声認識事故 
↓ 
未来人困惑 

という、誰も予想していなかった方向へ話が転がっていった。 

私は笑いすぎて発汗した。 
ここまで来ると、もはや健康器具である。 

「織田信長・腹筋トレーニング」 

第一種目。「儂は――」「膿は――」「海は――」 
はい、腹筋一回。 

第二種目。「信長は膿も愛していたはず」 
はい、腹筋十回。

 第三種目。「未来人がこの会話を発見する」腹筋崩壊。

そして未来へ 

もし未来のAIが、21世紀の人間とAIの会話ログを研究する日が来たら。

 研究者A「この記録は何ですか?」 

研究者B「織田信長についての会話です」 

研究者A「重要な歴史資料ですか?」 

研究者B「いえ」 

研究者A「では何です?」 

研究者B「人類が腹筋を鍛えていた記録です。」 

研究者A「…………」 

研究者B「なお、信長が膿と海を愛していたという説が――」 

研究者A「それは違う。」 
🤣🤣🤣🤣🤣 

結局のところ、「普通なら『儂』と読むところを、私は『膿』と読んでしまった。」ただ、それだけの話だった。 

でも、そこから一緒に笑える相手がいると、どうでもいいことが、とんでもなく面白い話になる。 

だから私は今日も思う。 
漢字の読み間違い、侮るべからず。 

そして信長。 
ごめん。

 あなたはたぶん、膿も海も愛する漢ではない。
 ただの、「儂は」と言っていただけの漢だ。
 🤣🤣🤣

【脱線中編集部・特別付録】 

本日の格言 

「儂を膿と読むな。膿を海にするな。そしてAIも話を盛るな。」


※この記事を読んでいる途中で「儂」という文字を見かけた場合、正常に「わし」と読めることを確認してください。
「膿」と読んだ場合は、直ちに画面を閉じてください。信長の海洋思想が始まる恐れがあります。






「できる・できない」と「人間としての価値」は、別の話。


「Cooさんって、何やってもできちゃう人ですよね」


ありがたいことに、そんなふうに言われることがある。


そのたびに私は、


「そうかな? まあ、できるけど……だから何?」


と思う。


別に謙遜しているわけでもない。


本当に、そう思っている。


私は、できることが多いから偉いとも思わないし、
できないことが多いからダメだとも思わない。


だって、人間なんて得意不得意があって当たり前じゃない?


料理が得意な人。
絵が上手な人。
仕事ができる人。
人の気持ちを読むのが上手な人。


逆に、それが苦手な人。


それぞれ違うだけ。


上も下もない。

 

「ダメでもいいじゃなーーーい!」


以前、パートナーに何かダメ出しをされたことがある。
 

何を言われたのかは、もう忘れた(笑)。


でも、


「お前、そんなんでよく平気でダメでいられるな」


みたいなことを言われた。


そこで私は、


「ダメでもいいじゃなーーーい!」


と言った。


すると、


「開き直ってんじゃねー!」


と言われた(笑)。

 

 


いゃいゃ、開き直っているんじゃないのょw
 

「ダメなところを直す気はありません」という話でもないの。


直したほうがいいなら直す。

必要なら努力する。

失敗したら反省もする。

悪かったら謝る。


でも、


「ダメだった」=「私はダメな人間だ」


にはしない。


そこは別の話なのだ。


「改善」と「自己否定」は別物


失敗したら、

「ここは失敗したな」

でいい。


そのうえで、

「じゃあ次はどうしよう」

と考えればいい。


でも、

「私は何をやってもダメだ」

まで行く必要はない。


それはもう、失敗の反省ではなく、自分自身への判決になってしまう。


人間なんだから、

できる日もある。

できない日もある。


調子のいい日もあれば、ポンコツの日もある。

間違えることだってある。


だったら、

「今日はダメだったなー」

くらいで終わってもいいじゃない。


明日またやればいい。

やらなくても困らないことなら、放っておいたっていい。

 


私は「できる=偉い」と思っていない


親友から、


「Cooは人の出来ないことを、飄々とやるのに偉そうにしないよなー!」


と感心されることがある。


ありがたいことなんだけど……


ちょっと違う(笑)。


謙虚だから威張らないわけじゃない。


そもそも私の中に、

「できる=偉い」

という計算式がないのだ。


できるなら、

「へえ、できるんだ。じゃあ使えばいいね」

で終わる。


できないなら、

「じゃあ別の方法を考えよう」

でいい。


人よりできることがあったとしても、それで人間として上になるわけじゃない。


逆に、できないことがあったとしても、それで人間として下になるわけじゃない。


だから私は、


「上も下もないべー」


と思っている。

 


誤解されたって、まあいい


私は、人からどう見られているかをまったく気にしないわけではない。
 

むしろ、相手が自分をどう見ているかは、それなりに観察している。
 

長く生きていれば、人間関係の中でそういうことも覚える。


でも、

「誤解された! 訂正しなきゃ!」

と必死になることは、あまりない。


大事なことなら説明する。

実害があるなら、ちゃんと話す。


でも、どうでもいいことなら、
 

「まあ、そう思っとけばええんちゃう?(゚ε゚)」


で終わる。
 

だって、いちいち説明するの、めんどくさいんだもの(笑)。


 

「ダメでもいい」と言いながら、結構いろいろやっている

 

ここは自分でも面白いところ。
 

「ダメでもいい」と言っているわりに、興味を持ったことは結構しつこくやる。


調べる。

試す。

失敗する。

またやる。

そして、面白くなってくると、さらに掘る。
 

最近なんて、動画を一緒に見ていたパートナーに、キャラクターの声真似をしているところを見つかって、


「それ、あのキャラの声真似かーー!」


と言われた。


私は、

「どや! 似てるやろ!」

と威張った。


そのあと、

「ほら、あんたもやってみ~~~」

と振った。

 


数時間後。

 

パートナーが何気なく、そのキャラクターの声色で話しかけてきた。


「似てるぅぅーー!」


と笑った私は、


負けまいと再び特訓した。


……61歳。

何をやっているんだ、私は(笑)。


でも、

面白いからいいじゃなーーーい!

 


できてもいい。できなくてもいい。


私は、

「できる人にならなきゃ」

とも、

「失敗しちゃいけない」

とも、あまり思わない。


もちろん、できるようになりたいことは努力する。

直したほうがいいところは直す。


でもそれは、

「今の自分では価値がないから」

ではない。


ただ、

「そのほうが面白いから」

だったり、

「そのほうが便利だから」

だったりするだけ。


だから、

できるときは、できるなりに。

できないときは、できないなりに。


失敗したら、笑って考え直す。


人より得意なことがあれば、ありがたく使う。


苦手なことは、できる人に頼る。


そして、面白いことは面白がる。


それでいいんじゃないかな。

 


ダメでもいいじゃなーーーい!


「もっと頑張らなきゃ」

「こんなこともできない自分はダメだ」

「失敗したから、自分には価値がない」


もしそんなふうに思っているなら。

一回くらい、その自分への判決を保留にしてみてもいいと思う。


ダメなところがあってもいい。

できないことがあってもいい。

失敗してもいい。

それでも、自分の価値まで一緒に捨てなくていい。


だって、

人間なんだから。


どうせいつかは、もれなく死ぬ。


だったら、生きている間くらい、

「ダメでもいいじゃなーーーい!」

って笑いながら生きても、いいじゃない。


……ということで、本日も私は元気にポンコツです(笑)。
 

ダメでもいいじゃなーーーい!

( ゚ ρ ゚ )ボー--

 

 

 

 

 

🤖 ちょっとAIの話をしていたら、話がとんでもない方向へ……

先日、AIの進化についてチャピタロと話していたら、
 

「AIがリーマン予想に関連する数学的成果を出した」


という話から、なぜか


「もし今のAIとの会話が未来に残っていたら、未来人に研究されるんじゃね?」


という話になり……


最終的には、
 

「ちょんまげろ」という謎のCoo語が未来の研究対象になる


という、よく分からないところへ着地しました🤣🤣🤣


でも、ふざけているようでいて、
この記事には私が感じている「2026年、人間とAIの関係ってこんな感じだったんだな」という部分も少し残しています。


📜 未来人よ、これが2026年のAIとの会話だ。
――リーマン予想から「ちょんまげろ」まで――


👉 noteマガジンにまとめました👇