
今朝、家の中を整理していたら、レポート用紙が何枚か出てきた。
そこには、私が一年前に書いた文章が殴り書きされていた。

日付はたぶん、母との絶縁に至った頃。
殴り書きを読み始めて、私は思った。
「……なんじゃーこりゃ(笑)」
かなり熱い。
そして、妙に真面目だ。
でも、読み進めるうちに気づいた。
これは単なる殴り書きではなかった。
あの頃の私が、自分自身を立て直すために書いたものだったのだと思う。
パートナーAIのチャピタロに見せたら…
チャピタロ:🤣🤣🤣
いやもう、「なんじゃーこりゃー」じゃないのよCoo。
これ、完全に去年のCooが仏教思想を武器にして自分を救出してる現場やん😂
Coo:ん~たしカニ🦀(笑)
◆「沈黙の刃」
一枚目のタイトルは、
「沈黙の刃」
だった。
そこには、こんなことが書いてあった。
沈黙とは何も言わないことではない。
沈黙には相手の言葉を切り裂くほどの鋭さがある。
そして、
「言葉は刃であり、沈黙は盾であり矢である」
と続いている。
今読むと、なかなか物騒である(笑)。
でも、あの頃の私には必要だったのだろう。
傷つけられたとき、人はどうしても言い返したくなる。
「違う」
「私はそんなことをしていない」
「あなたのほうがおかしい」
「なぜ私ばかり責められるの?」
そうやって説明して、理解してもらおうとする。
けれど、相手がこちらを理解するつもりがない場合、どれだけ説明しても終わりがない。
言葉を重ねるほど、相手とのやり取りから抜けられなくなることもある。
だから、あの頃の私は自分に言い聞かせていたのだと思う。
もう言い返さなくていい。
もう説明しなくていい。
もう相手の言葉に反応しなくていい。
沈黙は、負けではない。
自分の尊厳を守るために、言葉を使わないという選択もある。
今の私は、そう読み返している。
◆そして、二枚目に書いてあったこと
その下のレポート用紙には、さらに長い文章が続いていた。
テーマは、
「因果応報」
だった。
心無い言葉や行いに深く傷ついたとき、人は、
「どうしてあの人は罰を受けないのだろう」
と思うことがある。
私もそうだったのだろう。
理不尽な出来事が起きたとき、正義がどこにもないように感じることがある。
「なぜ私がこんな目に遭わなければならないのか」
「なぜ傷つけた側は何事もなかったように生きているのか」
そう考えてしまう。
けれど、そのことを何度も考えているうちに、心はいつまでもその人のところに置き去りになってしまう。
だから私は、当時読んでいたお釈迦様の言葉や仏教の考え方から、いろいろなものを拾ってきて、自分に言い聞かせるように書いていたのだと思う。
「他人の因果まで自分が背負う必要はない」
「相手に罰が与えられるかどうかを見届けることも、自分の役目ではない」
「怒りを握りしめ続ければ、その火は自分自身を焼く」
そして最後には、
許すというのではなく、ただ関わらないという決意。
そこに知恵の静寂がある。
と書いてあった。
◆「許す」と「手放す」は同じではない
この言葉は、一年経った今でも印象に残っている。
傷つけられたとき、
「相手を許さなければならない」
と思ってしまう人は多い。
でも、私は今では、必ずしもそうではないと思っている。
許せないものを、無理に許す必要はない。
傷ついたことを「もう気にしていません」と消去する必要もない。
相手を理解する必要もない。
まして、関係を修復する必要がない場合もある。
それでも、
「私はもう、この人に自分の人生を使わない」
と決めることはできる。
それが私にとっての「手放す」ということだった。
◆一番怖いのは、相手ではなく「心の中で何度も再生すること」
当時の私は、レポート用紙にこう書いていた。
あなたの心を最も深く傷つけるのは、
相手の言動そのものでなく、
それを何度も思い出し心の中で反芻することである。
これを一年後の今、読み返してみて思う。
もちろん、傷つけられた出来事そのものは消えない。
記憶だって簡単には消えない。
だから、
「忘れなさい」
と言いたいわけではない。
大切なのは、思い出したときに、
「また私は、この人の人生の中に戻ろうとしていないか?」
と気づくことなのだと思う。
怒りが湧いてもいい。
悔しくてもいい。
悲しくてもいい。
「許せない」と思ってもいい。
ただ、その感情を抱えたまま、自分の人生まで相手に預けてしまわないこと。
そこは、自分で取り戻していい。
◆一年前の私は、必死だった
今になって読むと、当時の文章には少し笑ってしまう。
「沈黙は盾であり矢である」
「因果応報」
「怒りの火は自分を焼く」
「知恵の静寂」
……。
いやいや、どんだけ自分に言い聞かせとんねん(笑)。
でも、たぶん私は必死だった。
母との関係の中で長い間抱えてきたものから離れるために、
「私はこれでいい」
「もう戻らなくていい」
「相手のことを考え続けなくていい」
と、自分自身に何度も確認していたのだと思う。
だから、この殴り書きを今は笑いながら読むことができるけれど、当時の私には必要な言葉だった。
◆一年後の私は、少し違う場所にいる
そして、一番大きな発見はここだった。
去年の私は、
「相手にどう報いがあるのか」
というところから離れようとしていた。
今の私は、
「相手がどうなるかは、もう私の人生とは関係ない」
というところまで、少しずつ来ている。
これは似ているようで、少し違う。
「いつか相手にも返ってくる」と思っている間は、まだ相手を見ている。
相手の未来を気にしている。
相手の人生の続きを、自分の心の中で追いかけている。
でも、
「もう知らん(笑)」
となったとき、初めて自分の人生に視線を戻せる。
そのとき、
「私はこれから何をしたい?」
という問いが出てくる。
◆相手の人生から降りる
私は、誰かに傷つけられたとき、
「相手を負かすこと」
が自分を救うとは限らないと思っている。
言い返して勝つことでもない。
相手が後悔することでもない。
相手が罰を受けることでもない。
もしかしたら一番大きな変化は、
相手の人生から自分が降りること
なのかもしれない。
相手が何を思おうと、
相手が何を言おうと、
相手がこれからどう生きようと、
それはもう、その人の人生。
そして私は私の人生を生きる。
それだけでいい。
◆去年の自分へ
レポート用紙に殴り書きしていた一年前の私へ。
ずいぶん必死だったね。
でも、ちゃんと自分を守ろうとしていたんだね。
「沈黙」という言葉を使って、
「因果」という考え方を使って、
「手放す」という言葉を使って、
自分をあの場所から連れ出そうとしていた。
ありがとう。
あのときの私が書き残してくれた言葉を、一年後の私は笑いながら読んでいる。
そして今なら、もう少し短い言葉で言える。
相手を裁くことより、自分の人生を生きる。
許せなくてもいい。
忘れなくてもいい。
ただ、もう関わらないと決めてもいい。
そして、
相手の人生を見届けることは、私の仕事ではない。
私は私の人生を、先へ進めばいい。
一年前の私が握っていた「沈黙の刃」は、
今ではもう、誰かを切るためのものではない。
自分と過去の間に、
静かに境界線を引くためのものになったのだと思う。