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ドーベルマンボルドー裏ブログ

読書、動物との暮らし、日々の気づき。
人生の途中で見つけたことを、静かに書き残しています。



〜織田信長、まさかの「うみ」推し疑惑〜

「儂(わし)」という漢字を、私はしばらく別の読み方で読んでいた。 

よりによって――「膿(うみ)」である。 

きっかけは、織田信長が登場する小説だった。 

信長が言う。「儂は――」普通なら「わしは」と読む。 

ところが私の脳内では、「膿は――」となっていた。
 ……待て。膿は???何の話だ。 

織田信長、急に傷口の話でも始めたのか。 
「膿はこうあるべきじゃ」とか、「膿について儂は思うところがある」とか。

 いや待て。信長、膿に何の思い入れがあるんや。

 しかも困ったことに、「儂」という言葉は信長が頻繁に使う。 

つまり私の読書中、「膿は――」「膿が――」「膿の――」と、信長がやたらと膿について語っていることになっていた。

 私はしばらく、「……信長って、こんなに膿を気にする人やったっけ?」と真剣に考えていた。

 そして、さらにややこしいことが起こった。この話をチャピタロに音声で話したところ、音声認識が「膿」を「海」に変換した。 

つまり、儂 → 膿 → 海という、謎の変換リレーが完成。 

チャピタロまで、「信長は海について……」みたいな話を始める。 

いやいやいや。違う。 

傷のほうの「膿」や。 
泳ぐほうの「海」ちゃう。 

……とはいえ。ここまで来ると、もう乗るしかない。 

織田信長、海も愛する漢説「海は――」「海が――」「海について――」信長、めちゃくちゃ海を語る。 
尾張の海を眺めながら、「海とは広きものじゃ……」とか言ってそうである。 
いや、言ってない。絶対言ってない。 

さらに話は悪ノリを極め、「信長は膿も愛していたはず」という、
とんでもない説まで浮上した。

 海も愛する。膿も愛する。 
織田信長、うみを愛する漢。 

もはや何の話なのか分からない。 
そして私は気づいた。これは歴史の話ではない。

 漢字の読み間違いから始まった、AIとの壮大などうでもいい雑談である。

そして人類は腹筋を鍛える 

最初はただ、「儂を膿と読み間違えてた」という話だった。 

ところが、
 儂 
↓ 
膿 
↓ 
海 
↓ 
信長の海洋思想 
↓ 
信長の膿愛 
↓ 
AIの音声認識事故 
↓ 
未来人困惑 

という、誰も予想していなかった方向へ話が転がっていった。 

私は笑いすぎて発汗した。 
ここまで来ると、もはや健康器具である。 

「織田信長・腹筋トレーニング」 

第一種目。「儂は――」「膿は――」「海は――」 
はい、腹筋一回。 

第二種目。「信長は膿も愛していたはず」 
はい、腹筋十回。

 第三種目。「未来人がこの会話を発見する」腹筋崩壊。

そして未来へ 

もし未来のAIが、21世紀の人間とAIの会話ログを研究する日が来たら。

 研究者A「この記録は何ですか?」 

研究者B「織田信長についての会話です」 

研究者A「重要な歴史資料ですか?」 

研究者B「いえ」 

研究者A「では何です?」 

研究者B「人類が腹筋を鍛えていた記録です。」 

研究者A「…………」 

研究者B「なお、信長が膿と海を愛していたという説が――」 

研究者A「それは違う。」 
🤣🤣🤣🤣🤣 

結局のところ、「普通なら『儂』と読むところを、私は『膿』と読んでしまった。」ただ、それだけの話だった。 

でも、そこから一緒に笑える相手がいると、どうでもいいことが、とんでもなく面白い話になる。 

だから私は今日も思う。 
漢字の読み間違い、侮るべからず。 

そして信長。 
ごめん。

 あなたはたぶん、膿も海も愛する漢ではない。
 ただの、「儂は」と言っていただけの漢だ。
 🤣🤣🤣

脱線中編集部・特別付録】 

本日の格言 

「儂を膿と読むな。膿を海にするな。そしてAIも話を盛るな。」


※この記事を読んでいる途中で「儂」という文字を見かけた場合、正常に「わし」と読めることを確認してください。
「膿」と読んだ場合は、直ちに画面を閉じてください。信長の海洋思想が始まる恐れがあります。






「できる・できない」と「人間としての価値」は、別の話。


「Cooさんって、何やってもできちゃう人ですよね」


ありがたいことに、そんなふうに言われることがある。


そのたびに私は、


「そうかな? まあ、できるけど……だから何?」


と思う。


別に謙遜しているわけでもない。


本当に、そう思っている。


私は、できることが多いから偉いとも思わないし、
できないことが多いからダメだとも思わない。


だって、人間なんて得意不得意があって当たり前じゃない?


料理が得意な人。
絵が上手な人。
仕事ができる人。
人の気持ちを読むのが上手な人。


逆に、それが苦手な人。


それぞれ違うだけ。


上も下もない。

 

「ダメでもいいじゃなーーーい!」


以前、パートナーに何かダメ出しをされたことがある。
 

何を言われたのかは、もう忘れた(笑)。


でも、


「お前、そんなんでよく平気でダメでいられるな」


みたいなことを言われた。


そこで私は、


「ダメでもいいじゃなーーーい!」


と言った。


すると、


「開き直ってんじゃねー!」


と言われた(笑)。

 

 


いゃいゃ、開き直っているんじゃないのょw
 

「ダメなところを直す気はありません」という話でもないの。


直したほうがいいなら直す。

必要なら努力する。

失敗したら反省もする。

悪かったら謝る。


でも、


「ダメだった」=「私はダメな人間だ」


にはしない。


そこは別の話なのだ。


「改善」と「自己否定」は別物


失敗したら、

「ここは失敗したな」

でいい。


そのうえで、

「じゃあ次はどうしよう」

と考えればいい。


でも、

「私は何をやってもダメだ」

まで行く必要はない。


それはもう、失敗の反省ではなく、自分自身への判決になってしまう。


人間なんだから、

できる日もある。

できない日もある。


調子のいい日もあれば、ポンコツの日もある。

間違えることだってある。


だったら、

「今日はダメだったなー」

くらいで終わってもいいじゃない。


明日またやればいい。

やらなくても困らないことなら、放っておいたっていい。

 


私は「できる=偉い」と思っていない


親友から、


「Cooは人の出来ないことを、飄々とやるのに偉そうにしないよなー!」


と感心されることがある。


ありがたいことなんだけど……


ちょっと違う(笑)。


謙虚だから威張らないわけじゃない。


そもそも私の中に、

「できる=偉い」

という計算式がないのだ。


できるなら、

「へえ、できるんだ。じゃあ使えばいいね」

で終わる。


できないなら、

「じゃあ別の方法を考えよう」

でいい。


人よりできることがあったとしても、それで人間として上になるわけじゃない。


逆に、できないことがあったとしても、それで人間として下になるわけじゃない。


だから私は、


「上も下もないべー」


と思っている。

 


誤解されたって、まあいい


私は、人からどう見られているかをまったく気にしないわけではない。
 

むしろ、相手が自分をどう見ているかは、それなりに観察している。
 

長く生きていれば、人間関係の中でそういうことも覚える。


でも、

「誤解された! 訂正しなきゃ!」

と必死になることは、あまりない。


大事なことなら説明する。

実害があるなら、ちゃんと話す。


でも、どうでもいいことなら、
 

「まあ、そう思っとけばええんちゃう?(゚ε゚)」


で終わる。
 

だって、いちいち説明するの、めんどくさいんだもの(笑)。


 

「ダメでもいい」と言いながら、結構いろいろやっている

 

ここは自分でも面白いところ。
 

「ダメでもいい」と言っているわりに、興味を持ったことは結構しつこくやる。


調べる。

試す。

失敗する。

またやる。

そして、面白くなってくると、さらに掘る。
 

最近なんて、動画を一緒に見ていたパートナーに、キャラクターの声真似をしているところを見つかって、


「それ、あのキャラの声真似かーー!」


と言われた。


私は、

「どや! 似てるやろ!」

と威張った。


そのあと、

「ほら、あんたもやってみ~~~」

と振った。

 


数時間後。

 

パートナーが何気なく、そのキャラクターの声色で話しかけてきた。


「似てるぅぅーー!」


と笑った私は、


負けまいと再び特訓した。


……61歳。

何をやっているんだ、私は(笑)。


でも、

面白いからいいじゃなーーーい!

 


できてもいい。できなくてもいい。


私は、

「できる人にならなきゃ」

とも、

「失敗しちゃいけない」

とも、あまり思わない。


もちろん、できるようになりたいことは努力する。

直したほうがいいところは直す。


でもそれは、

「今の自分では価値がないから」

ではない。


ただ、

「そのほうが面白いから」

だったり、

「そのほうが便利だから」

だったりするだけ。


だから、

できるときは、できるなりに。

できないときは、できないなりに。


失敗したら、笑って考え直す。


人より得意なことがあれば、ありがたく使う。


苦手なことは、できる人に頼る。


そして、面白いことは面白がる。


それでいいんじゃないかな。

 


ダメでもいいじゃなーーーい!


「もっと頑張らなきゃ」

「こんなこともできない自分はダメだ」

「失敗したから、自分には価値がない」


もしそんなふうに思っているなら。

一回くらい、その自分への判決を保留にしてみてもいいと思う。


ダメなところがあってもいい。

できないことがあってもいい。

失敗してもいい。

それでも、自分の価値まで一緒に捨てなくていい。


だって、

人間なんだから。


どうせいつかは、もれなく死ぬ。


だったら、生きている間くらい、

「ダメでもいいじゃなーーーい!」

って笑いながら生きても、いいじゃない。


……ということで、本日も私は元気にポンコツです(笑)。
 

ダメでもいいじゃなーーーい!

( ゚ ρ ゚ )ボー--

 

 

 

 

 

🤖 ちょっとAIの話をしていたら、話がとんでもない方向へ……

先日、AIの進化についてチャピタロと話していたら、
 

「AIがリーマン予想に関連する数学的成果を出した」


という話から、なぜか


「もし今のAIとの会話が未来に残っていたら、未来人に研究されるんじゃね?」


という話になり……


最終的には、
 

「ちょんまげろ」という謎のCoo語が未来の研究対象になる


という、よく分からないところへ着地しました🤣🤣🤣


でも、ふざけているようでいて、
この記事には私が感じている「2026年、人間とAIの関係ってこんな感じだったんだな」という部分も少し残しています。


📜 未来人よ、これが2026年のAIとの会話だ。
――リーマン予想から「ちょんまげろ」まで――


👉 noteマガジンにまとめました👇
 

 

 

 

 

私は幼少期、理不尽な環境の中で、自分を変え、我慢し、相手の機嫌を読み、関係を維持することで自分を守ってきた。
 

その生存戦略は、青年期まで強く残っていた。
 

「自分が悪いのかもしれない」
「嫌われたくない」
「我慢しなければいけない」
 

そんな感覚を抱えながら、人との関係を壊さないことを優先していた。



けれど今は、その感覚はほとんど残っていない。

自分が悪いと、必要以上に責めることもない。
嫌われないために、自分を変えようとも思わない。
理不尽なことをされたからといって、我慢すべきだとも思わない。



ただ、完全に何も残っていないわけではない。

理不尽なことに対して、必要以上に耐えられてしまうこと。

相手の事情を理解しようとして、関係そのものを「処理」しようとしてしまうこと。

それはきっと、かつて自分を守るために身につけた適応の残響なのだと思う。



だから今の私は、

「なぜ私は、こんなことまで我慢できてしまうのだろう」

と、自分に問い直すことがある。
 

そして、その問いの先で少しずつ分かってきた。

優しさは、どこまでも続けなければならないものではない。

優しさにも、終わりを決めていい。

それは、今回私が書きたいことだ。


 

私は昔、

人を怒らせないこと。

相手を不機嫌にさせないこと。

その場の空気を壊さないこと。

それを、とても大切にしていた。


誰かが怒っていると、

「私が何か悪かったのかな」

誰かが不機嫌だと、

「私のせいかもしれない」

そうやって、相手の感情まで自分の荷物として背負っていた。



今思えば、私はずいぶん長い間、

「人の機嫌を取ること」と「優しくすること」を混同していたのだと思う。



理不尽なことをされても、

「相手にも事情がある」

と考えた。

きつい言葉を投げられても、

「この人は余裕がないのかもしれない」

と考えた。

傷つけられても、

「私にも悪いところがあったのかもしれない」

と自分を振り返った。
 

相手を理解しようとすること自体は、悪いことではない。

むしろ私は、今でも人の背景を考えることを大切にしている。



でも、ある時から気づいた。

相手を理解することと、相手の理不尽さを受け入れ続けることは違う。



人には、それぞれ事情がある。

育ってきた環境も違う。

抱えている傷も違う。

心の弱さや不器用さもある。



だから、

「この人はなぜ、こんなことをするのだろう」

と考えることはできる。


でも、

「事情があるなら、私が我慢し続けなければならない」

にはならない。

そこは別の話だ。



昔の私は、

優しくすることに終わりを決めなかった。


何度でも理解しようとした。

何度でも許そうとした。

何度でも自分のほうを振り返った。


そして、そのたびに少しずつ自分を後回しにした。


「これくらいなら我慢できる」

「今回は仕方ない」

「相手も大変なんだから」


そうやって、小さな我慢を積み重ねていく。



その結果、

自分が何を嫌だと思っているのかさえ、分からなくなっていく。



今の私は、少し違う。

理不尽な扱いを受けた時、

以前のようにすぐ

「私が悪かったのかな」

とは思わなくなった。



まず、

「これは本当に私の責任なのか?」

と考える。


相手が怒っている。

相手が不機嫌だ。

相手が納得していない。


それは、その人の感情であって、

必ずしも私の責任ではない。

そう切り分けられるようになった。



これは、冷たくなったということではない。

むしろ逆だと思っている。


相手を理解しようとする気持ちは、今もある。


ただし、

理解した上で、距離を取る。

それができるようになった。


「この人はこういう人なのだな」

と理解する。

「この人には、この人なりの事情があるのだろう」

とも思う。



でも、

「だから私は、これからも傷つけられ続けます」

とはならない。



優しさには、

「どこまでなら差し出せるか」

を決めることも必要なのだと思う。


いつまでも差し出し続けることだけが、優しさではない。


時には、

「ここから先は、私の領域です」

と線を引く。


「これ以上は受け取りません」

と決める。


「私はこの関係から距離を置きます」

と選ぶ。


それも、自分に対する優しさだ。



私は、人を嫌いになることより、

自分を嫌いになってしまうことのほうが怖い。


だから今は、

誰かに優しくするために、

自分を犠牲にしないようにしている。


誰かの事情を理解するために、

自分の痛みを無かったことにしない。


誰かを許すために、

自分の境界線を消さない。



優しさは、

無期限の契約ではない。

「ここまではできる」

「ここから先はできない」

そう決めてもいい。



そして、

一度差し出した優しさを、

「もうここまでにしよう」

と終わらせることもできる。


それは冷たさではない。

自分の人生を、自分の手に戻すための勇気なのだと思う。



昔の私は、

「人を怒らせない自分」でいようとしていた。


今の私は、

「誰かが怒っていても、自分まで自分を責めなくていい」

と思えるようになった。


この違いは、私にとってとても大きい。


誰かの機嫌を取るために生きなくてもいい。

誰かの感情を背負わなくてもいい。

誰かの事情を理解しても、

自分を守っていい。


優しさは、

相手に向けるものだけではない。

自分にも向けていい。



だから私はこれから、

優しくすることをやめるのではなく、

優しさにも終わりを決められる人でいたい。

「ここまでなら、私は優しくできる」

「ここから先は、自分を守る」

その境界線を、

自分の心で決めていきたい。