理解と許し メンタルケア | ドーベルマンボルドー裏ブログ

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読書、動物との暮らし、日々の気づき。
人生の途中で見つけたことを、静かに書き残しています。



前回の記事では、

「感情は大事だけど、それだけでは前に進めない」

ということを書いた。


感情は大切だ。

怒りも、悲しみも、悔しさも、自分の心が発している大切なサインだから。

でも私は、もう一つ大切にしている考え方がある。

それは、

「理解することと、許すことは違う」

ということだ。




世の中には、

「相手を理解したなら、許してあげなさい」

という言葉がある。

けれど私は、その考え方にずっと違和感を覚えてきた。

理解と許しは、似ているようでまったく別のものだからだ。



私は、人を理解しようとする。

なぜその人はそんな言葉を口にしたのか。

なぜそんな行動を繰り返すのか。

どんな環境で育ち、

何を経験し、

どんな傷を抱えてきたのか。

背景を知ろうとすると、それまで見えていなかったものが見えてくる。

「この人は悪意だけで動いているわけではないのかもしれない。」

そう思えることも少なくない。

理解することで、人を白か黒かだけで判断しなくなる。

それは私にとって、とても大切なことだ。




でも、理解できたからといって、

傷ついた事実まで消えるわけではない。

心ない言葉を浴びせられたこと。

何度も境界線を踏み越えられたこと。

信頼を裏切られたこと。

それらは、「事情があった」の一言で無かったことにはならない。


理解はできる。

でも、もう近づかない。


理解はできる。

でも、距離を置く。


理解はできる。

でも、関係を終える。


それは冷たいことではない。

自分を守るという、とても大切な選択だと思っている。




私は、人を責め続けたいわけではない。

憎しみを抱え続けたいわけでもない。

だからこそ理解しようとする。

理解することで、

「ああ、この人はこの人なりの苦しさを抱えて生きてきたんだな」

と思えるようになる。

すると、不思議なくらい怒りは静かになっていく。

でも、それと同時に、

「だからといって、私が我慢し続ける必要はない」

ということも、はっきり見えてくる。




以前の私は、

理解できたら許さなければいけないのではないか。

そんなふうに思っていた時期もあった。


でも今は違う。

理解は、相手のためではない。

自分の心を整理するためにある。



そして許すかどうかは、

自分の人生を守るために、自分で決めていい。


そう思っている。




私はこれまで、

人との関わりの中で何度も学んできた。

優しさだけでは、自分を守れないことがある。


相手を理解することと、

自分を犠牲にすることは違う。


境界線を引くことは、

相手を拒絶することではなく、

自分を大切にすることなのだと。




理解することは、

相手の人生を知ろうとする姿勢。

許すことは、

自分の心が決める選択。

この二つは、同じではない。



だから私は今日も、

できる限り人を理解しようと思う。


でも、

許すかどうかは、

私自身の心に問いながら決めていきたい。

それでいいのだと思っている。