シュテファン寺院とウィーンの歴史~オーストリア・ハンガリー⑫ | 福岡日記+(プラス)

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転勤族から見た福岡や九州の風景、趣味の音楽の話などを綴ります。

シュテファン寺院のハプスブルク家紋章「双頭の鷲」

 

 

 

2020年3月のウィーン旅行。

 

観光最終日。主要な観光予定は終わり、あとはぶらぶらと散歩と買い物です。

 

楽友協会の見学を終え、国立歌劇場の横のケルントナー通りをシュテファン寺院までぶらぶら。

 

 

 

 

歌劇場の後ろにあるホテル・ザッハー。歌劇場のドームの影が映っています。もう夕方ですね。

 

お土産のザッハトルテはもう買ったので、ここは横を通るだけです。

 

 

 

 

クリスタルガラスで有名なスワロフスキーのショップ。本店はチロルのヴァッテンスという町にあり、「クリスタル・ワールド」というテーマパークがあるそうです。

 

行ってみたいような、行ったらとんでもなく散財してしまいそうな…。

 

 

 

 

ケルントナー通りから少し横道に入り、今回の旅行で唯一のディナーを食べたカフェ・フラウエンフーバーの前に来ました。

 

14世紀には公衆浴場だった建物が老朽化し、18世紀には現在の建物で高級レストランになったそうです。そのサロンでモーツァルトやベートーヴェンが演奏したことは前にも書きました。

 

19世紀初めには1階がカフェになり、現存するウィーン最古のカフェとも言われています。

 

 

 

 

横道に入ったのは、このおもちゃ屋さんが目的です。楽しみながらお土産をながめて少し買いました。

 

 

 

 

ケルントナー通りに戻り、シュテファン寺院の手前の横道にあるのが、前回泊まった「ホテル・カイザリン・エリザベート」です。

 

ホテル・ド・フランスに比べるとこじんまりしていましたが、居心地の良いホテルでした。

 

1年前に初めて来て本当に右も左も分からなかったとき、このホテルの方に親切にしてもらったことを思い出しました。

 

 

 

 

いよいよシュテファン寺院に着きました。

 

ホーフブルクと並んでウィーン市街の象徴のような場所ですので、今回も一度は来ないといけませんね。

 

昨年は長年のすす落としの最中で黒い部分と白い部分が対照的でしたが、今回はだいぶ白くなったようです。

 

でもまだ作業中のようですね。

 

 

 

 

今回は、シュテファン寺院には入らず、周囲でお買い物&見物です。

 

妻の主目的はここ、お茶屋さんの「ハース&ハース」です。

 

この建物は「ドイツ騎士団」のもので、大変歴史のあるものだそうです。

 

 

 

 

ここで少し「ドイツ騎士団」の話を。

 

ドイツ騎士団は1190年にエルサレムで設立されましたが、プロイセンを統治するなど「国家」の側面も持ち、13世紀初にはウィーンに進出して東方植民にも注力しました。

 

ウクライナのブログで書きましたが、1242年にはロシアに攻め込み、「氷上の戦い」でアレクサンドル・ネフスキーに敗れています。

 

エイゼンシュタインの映画「アレクサンドル・ネフスキー」(1938年)は、ドイツ騎士団を来るべきナチス来襲になぞらえ、「今回も打ち破るぞ!」という士気高揚の国策映画でした。

 

ドイツ騎士団はナポレオン戦争で敗れて軍事組織が解散を命じられ、本部をウィーンに移して、今ではカトリックの修道会として慈善事業等を行っているそうです。

 

ドイツ騎士団は、軍事組織なのか、国家なのか、修道会なのか、慈善団体なのか…?歴史の変遷と人間集団の複雑さを感じさせられます。

 

建物の話が長くなりましたが、このお茶屋さん「ハース&ハース」は、1日目に行った「デンメア」とともに、フルーツティーを買って帰ろうと楽しみにしていたところです。

 

実はこのハース&ハース、大阪に代理店があって国内でも割に気軽に買えます。

 

お土産のお茶と大阪から送ってもらったお茶です。

 

 

 

 

その後、ウィーンの本店のホームページでも注文してみました。送料は高いのですが、商品単価は案外安いので、多く買えば割安になります(最近は円安ですが…)。種類もいろいろ。

 

英語のサイトで注文したらドイツ語でメールが返ってきて妻とともに大騒ぎしましたが、商品は無事送られてきました。

 

 

 

 

妻はハース&ハースでじっくりお茶を見たいようなので、私はその間を利用して一人でシュテファン寺院の周りを散策します。

 

今回是非来たかったのが、シュテファン寺院のクルツィフィクス礼拝堂。1791年12月6日にモーツァルトの葬儀が行われた場所です。前回、帰った後でそれを知り、「見ておくんだった…」と歯ぎしりしたものです。

 

鉄格子のある小さな礼拝堂です。

 

 

 

 

鉄格子の中を見ると、十字架像が。

 

 

 

 

イエスの足元には、「W.A.MOZART」の文字が見えます。葬儀のことが書かれているのでしょうね。

 

1年前に積み残した宿題を果たしたような気がしました。

 

 

 

 

 

宿題を果たして、シュテファン寺院のまわりをぶらぶら。

 

ここで、この美しいハプスブルク帝国の都ウィーンがどのように形作られてきたのかを、少し見てみましょう。

 

9月のブログでバーベンベルク家のことを書きましたが、それ以前の歴史に遡ります。

 

以前、オーストリア・ハンガリー国境について勉強した「物語 オーストリアの歴史」という本にウィーンの成り立ちが書かれています。

 

 

 

 

ウィーンの起源は、2世紀頃の古代ローマ帝国の砦・ヴィンドボナに遡ります。

 

もともとあったケルト人の集落をローマ人が宿営地とし、古代ローマ帝国の北端を守るドナウ河畔の拠点としたものです。

 

169年、第16代ローマ皇帝マルクス・アントニウス・アントニヌスはゲルマン民族等との戦いを指揮するため前線のこの砦に入り、属州平定に奔走した後、180年にここで亡くなりました。

 

マルクス・アントニウス・アントニヌス皇帝の名は、大学受験の世界史で出てきた記憶があります。

 

ローマ5賢帝の最後の一人で、哲学書「自省録」を著すなど軍事より学問を好んだ人ですが、自ら出陣し、辺境の宿営地ヴィンドボナで亡くなったというのですから、皇帝も大変ですね。

 

その後、ウィーンは、「古代ローマ帝国の北端でゲルマン民族と戦う前線」ではなく「フランク王国・神聖ローマ帝国の東端でゲルマン民族を守る前線」として歴史に登場します。

 

フランク王国の「オストマルク東方辺境伯領」であるヴィルヘルム家、神聖ローマ帝国の「オーストリア辺境伯」であるバーベンベルク家は、東方のハンガリー大公等と戦います。

 

バーベンベルク家がオーストリア統治にあたり拠り所にしたのがカトリック信仰です。フリードリヒ4世は1147年、ウィーンにシュテファン寺院を献堂しました。

 

その後、1155年にはオーストリアの首都がクロスターノイブルクからウィーンに。

 

オーストリアの統治者がバーベンベルク家からハプスブルク家に移っても、カトリック信仰を柱にした統治は続きます。シュテファン寺院は「建設公」ルドルフ4世によって増築され、14~15世紀にほぼ今の姿になりました。

 

 

 

 

カトリック信仰においてもウィーンは「辺境」でした。

 

もともとはザルツブルク大司教の布教活動により8世紀頃、聖ルプレヒト教会がウィーンに設置されました。その後、バイエルンのパッサウ司教区の管下に変わり、パッサウの守護聖人の名を冠したシュテファン寺院が建てられます。

 

バーベンベルク家、ハプスブルク家の念願がかない、「ウィーン司教区」が置かれるようになったのは1469年です。

 

その後、ウィーンがザルツブルクと同じ「大司教区」となったのは、18世紀後半になってからです。

 

 

 

 

ローマ帝国の砦に端を発するウィーンは、常に辺境として戦いの渦中にあり、ハプスブルク家の支配が確立した後も、オスマン・トルコによる2度のウィーン包囲(1529・1683年)など、常に外敵にさらされる場所でした。

 

それだけに支配者は人心安定のためカトリック信仰を重視してウィーン市内に多くの教会を建て修道会を誘致しましたが、バチカンはこの不安定な場所に司教区を置くことに慎重だったのかもしれません。

 

↓このロマネスク様式のファサードはバーベンベルク時代の創建当初のもので、シンプルですね。第二次大戦のときには壁に塗り込んでいたため戦火を免れたそうです。

 

 

 

 

こちらはハプスブルク時代に増築されたゴシック様式の建物。繊細な装飾の塔と屋根にはハプスブルク家の「双頭の鷲」です。

 

 

 

 

 

シュテファン寺院をぐるっと眺めて、ハース&ハースでお土産を買った妻と合流しました。

 

先日訪れた磁器のアウガルテンのショップ。ちょっと立ち寄って、シュテファン広場を後にしました。

 

 

 

 

シュテファン寺院から王宮ホーフブルク方面に向かうグラーベン通り。

 

この「グラーベン」というのは「堀」を意味し、古代ローマのヴィンドボナ時代の砦を囲む堀がこの辺りにあったことを示しているそうです。

 

 

 

 

おなじみのペスト記念柱。

 

ウィーンは、古代ヴィンドボナ以来、常に最前線の「砦」の役割を果たしていました。このため、周囲に城壁を設けた城塞都市となり、閉鎖空間で衛生状態が悪く、ペストが何度も発生しました。

 

この記念柱は、第2回ウィーン包囲(1683年)の直前、1679年に発生したペストの終息を祝って1693年に建てられたそうです。外のトルコ、中のペスト、まさに内患外憂を乗り越えた象徴といえるのかもしれませんね。

 

 

 

 

グラーベン通りの突き当りから左を眺めると、コール・マルクトの向こうに王宮ホーフブルクが見えます。

 

この眺め!これで見納め…また来たいな!

 

因みに、古代ローマのヴィンドボナ砦というのは、この写真からいうと真後ろの方向、聖ペーター教会の少し先にあり、今でも「マルク・アウレル(=マルクス・アウレリウス)通り」という名が残っています。

 

 

 

 

ここで最後の目的地、スーパーの「ユリウス・マインル」に入ります。前回も来たのですが、「シュパー」よりは高級で、お土産探しにちょうどいいお店です。

 

 

 

 

もともとは食料品店でしたが、コーヒー販売で成長し、今はカフェやレストランも併設しています。

 

 

 

 

お店の中で、日本人女性「MICHIKO」さんの写真を見ました。

 

戦前の女優・声楽家の田中路子さん(1890‐1988)で、このスーパーの3代目ユリウス・マインル2世と結婚したそうです。

 

東京音楽学校(今の芸大)からウィーン国立音大に留学し、現地で結婚。声楽家として欧州で活躍したそうです。

 

カラヤンやベームとも親交があり、小澤征爾や若杉弘の面倒を見たというのですから、恐れ入りますね。

 

 

 

 

日本人でオーストリアに嫁いだ人といえば、クーデンホーフみつ子さん(1874‐1941)が有名です。

 

明治政府と国交を樹立したオーストリア=ハンガリー帝国の公使として来日したクーデンホーフ=カレルギー伯爵に見初められて結婚し、オーストリアに渡って、汎ヨーロッパ運動でEUの基礎を作ったリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの母親となった人です。

 

路子さんとみつ子さん、日本人女性史に残る二人だと思います。

 

それにしても、今でも店の天井にこんな特大写真を飾っているとは、MICHIKOさんの存在感は相当大きなものなのでしょうね。

 

 

 

 

このユリウス・マインル、高級店だけに自社ブランド商品を多く持っています。

 

フルーツティーとビスケット。

 

 

 

 

このお店はコーヒーも有名です。コーヒーもフルーツティーも日頃から飲んでいます。

 

 

 

 

これは「シシィ」の缶。缶には「ユリウス・マインルは1862年創業のコーヒー文化の大使です」といったことが書いてありました。

 

ウィーンのコーヒー文化は、ウィーン包囲後のオスマン・トルコの野営地に残されたコーヒーが出発点だったとか…。

 

実際、オーストリア初のコーヒー店営業認可は、第2回ウィーン包囲の2年後の1685年で、認可を受けたのは皇帝軍の伝令だったアルメニア人のデオダトいう人だそうです。

 

「辺境の戦闘地帯」は「文化(食文化)の十字路」でもあったわけですね。

 

 

 

 

脱線しますが、このユリウス・マインル製品を中心としたオーストリア産品のショップが東京・五反田にあります。

 

「TEEBLATT TOKYO」で、駅からすぐ近くです。

 

この前、仕事帰りに妻と待ち合わせて行ってきました。店でサンドイッチを食べ、フルーツティやオーストリアワイン、チロルのビールなどを買って帰りました。

 

ウィーンを感じることのできるとても素敵なお店です。ご興味のある方は是非どうぞ。

 

 

 

 

最後の買い物も終わり、ホテルに向かいます。夕食はホテルの近くで買おうかな。

 

ユリウス・マインルの横の小道を歩き出します。

 

 

 

 

最後の街歩きが終わりました。

 

日本に帰って2年半がたち、このブログを書くにあたってウィーンの起源を調べましたが、ヴィンドボナ以来の「辺境」であったからこそ広大な多民族国家の首都になり、様々な文化の十字路にもなったのだなと改めて分かりました。

 

よく考えると、辺境を守りペストの蔓延を招いたウィーンの城壁はこの街の象徴であり、それを壊して壮大な都市計画を実行したフランツ・ヨーゼフ皇帝のリンク建設は、ウィーンが「辺境」から「中心」に変わったことを表しているのかもしれません。

 

しかし、それはハプスブルク帝国崩壊の足音が聞こえ始めた時期でもありました。

 

それでも、ハプスブルク帝国の思い出やリンクを中心とした旧市街を今の私たちが楽しんでいるのですから、とてもありがたいことではありますね。

 

さて、次回は最終日の「帰国編」です。

 

ここでもう一つドラマがあり、ひょんなことからミュンヘン空港を経由して帰ることになりました。

 

次回が2回目のウィーン旅行記の最終回となります。

 

 

 

【今日のBGM】

ハイドン 交響曲第103&104番

 ドラティ指揮 フィルハーモニア・フンガリカ

 カラヤン指揮 ウィーン・フィル

・オーストリア・ハンガリー国境のブログで取り上げたかったハイドンをここで。

・ハイドンはオーストリアのハンガリー国境近くの街で生まれ、音楽の才能を買われてウィーンのシュテファン寺院の聖歌隊に入り、その後はハンガリー貴族エステルハージ家に永年仕え、最後はウィーンで亡くなりました。

・彼の曲では、旧オーストリア帝国国歌であり現ドイツ連邦共和国国歌でもある「主よ、皇帝フランツを守りたまえ」を以前に紹介しましたが、ここでは交響曲を。

・交響曲の父とも言われる彼の代表作で最後の二つの交響曲、「太鼓連打」と「ロンドン」です。初々しく折り目正しく形式のしっかりしたまさに交響曲の原点です。モーツァルトほど気分の揺れがなく、ベートーヴェンほど深刻過ぎないので、聴いていて疲れないのも魅力です。

・ハンガリー人のドラティが振り、1956年のハンガリー動乱で西側に亡命した音楽家を中心に結成されたフィルハーモニア・フンガリカが演奏したCD(1972年)は、明るく優しくのびのびした親しみやすいハイドンを聴かせてくれます。膨大な「ハイドン交響曲全集」のひとつです。

・一方、ザルツブルク出身のカラヤンがウィーン・フィルを振ったCD(1959~63年頃)は、若きカラヤンの颯爽として引き締まったリードとウィーン・フィルの艶やかな響きが魅力です。同時期の「ツァラトゥストラ」などとともに愛聴していますが、CD表紙の写真はちょっとカッコつけすぎ。

・オーストリアとハンガリー。時には砦を盾に戦い、国境を越えて交流し、ついには同じ国になり、激しい独立運動もあり…決して一筋縄ではない歴史を経て、平和への知恵と豊かな文化が育まれていったのだと思います。