楽友協会とウィーンの音楽家達~オーストリア・ハンガリー⑪ | 福岡日記+(プラス)

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転勤族から見た福岡や九州の風景、趣味の音楽の話などを綴ります。

最初は雑談から。

 

最近、7年間使っていたパソコンを買い替え、スマホを機種交換し、業務用のスマホもパソコンも一新されました。

 

大変なのがそれぞれの「初期設定」とか「移行」で、最近は認証システムも複雑になっており、四苦八苦しながらなんとかやり遂げました。

 

時の流れについていくのがやっとの今日この頃です。

 

***

 

冷や汗の初期設定から、夢のウィーンに話を移しましょう。

 

2020年3月初、コロナ直前のウィーン旅行もそろそろ大詰めです。

 

(楽友協会大ホール)

 

 

 

モーツァルトの墓地からカールスプラッツに戻り、カールス教会近くのブラームス像を見たところで前回を終えました。

 

 

 

 

ここがカールス教会。きっと「カールスプラッツ」の名前のもとになったんでしょう。

 

18世紀に皇帝カール6世がペスト撲滅を祈願して建設したバロック建築の傑作です。

 

 

 

 

1902年にグスタフ・マーラーがアルマ・シンドラーとここで結婚式を挙げました。

 

マーラーは、結婚に備えてユダヤ教からカトリックに改宗しましたが、その後(交響曲第4番以降)もユダヤの血を感じさせる曲を書いていますね。

 

後年、マーラーは奔放なアルマとの関係に悩み、ホテル・ド・フランスの裏手に住む精神分析のフロイト博士の診断を受け、立ち直りました。

 

マーラーとフロイトはいずれも、ボヘミア(モラヴィア)で生まれウィーンで活躍したユダヤ人です。

 

マーラーは結局アルマと離婚。アルマがのちに生んだ子供マノンが若くして亡くなったのを悲しんだ新ウィーン楽派のベルクは、傑作「ヴァイオリン協奏曲~ある天使の思い出に」を生み出しました。

 

帝国末期のウィーンには様々な人が集まり、様々なドラマが生まれ、芸術作品に昇華されていったのですね。

 

 

 

 

カールス教会のすぐ近くに「カールスプラッツ旧駅舎」があります。

 

 

 

 

この建物は、1899年に開通したシュタットバーンと呼ばれる鉄道の駅舎で、1975年、地下鉄U4に変わった時に使われなくなりました。

 

左奥には楽友協会の建物も…。

 

 

 

 

同じ形の駅舎が向かい合って建っています。

 

 

 

 

この美しい駅舎は、世紀末ウィーンを代表する建築家、オットー・ワグナーとヨゼフ・マリア・オルブリッヒによるアール・ヌーヴォー様式の建物で、前に見た「分離派会館(セセッション)」などとともにウィーン分離派の建築の代表作の一つです。

 

なので、使われなくなった後も撤去を免れ、こうして残っている訳です。

 

 

 

 

この駅舎ができた1899年といえば、ブルックナーは亡くなっていました(1896年没)が、マーラーはウィーンで活躍しており(結婚は1902年)、夫婦でこの駅を利用したかもしれませんね。

 

駅舎の裏側です。

 

 

 

 

最初に見た旧駅舎の地下にはカフェがあります。

 

 

 

 

地下に降りると、ここは地下鉄カールスプラッツ駅の構内。駅にある店を見て回りました。

 

 

 

 

駅の床に、またも音楽家のプレートを見ました。初日の散策時にバルトーク、スメタナ、シュニトケのプレートを見つけましたが、ここにもありました。

 

寄り道になりますが、今回もそれぞれの音楽家に少しコメントをつけてみましょう。

 

【ヤナーチェク(1854‐1928)】

・ヤナーチェクは、チェコ東部のモラヴィア出身の作曲家で、同地の民謡収集なども行いました。同じチェコでもスメタナ、ドヴォルザークは西部ボヘミア出身です。

・「グラゴル・ミサ」を始めて聴きましたが、野趣あふれる村祭り風でもあり、オルガンが入る壮大な前衛曲でもあります。ヤナーチェク演奏の大家マッケラスとチェコフィルの演奏は共感と活力に満ちています。

 

【ヴォルフ(1860‐1903)】

・オーストリア出身の斬新な歌曲作曲家。世紀末ウィーンでは異端児であり、先に紹介した本「ルドルフーザ・ラスト・キスー」ではブルックナーなどと並ぶ革新派の一人として描かれていますが、貧困の中、精神に異常をきたし亡くなってしまいました。

・指揮者フルトヴェングラーが亡くなる直前に珍しくピアノ伴奏したシュヴァルツコプフ(ソプラノ)のザルツブルク音楽祭ライブをLP時代から聴いています。音程の飛躍の大きいスパイスのきいた音楽は反ブラームス派の面目躍如。確かに斬新です。

 

(後に出てくるシューベルト、ブルックナーのCDも映っています。)

 

***

 

さて、ついに楽友協会にやってきました。

 

言わずと知れた、ウィーンフィルの本拠地です。

 

前回(前年)来た時に果たせなかったガイドツアー!今回はインターネットで予約済!楽しみです。

 

 

 

 

建物の角に住所表示。

 

左側に「ムジークフェラインスプラッツ」、右側に「カールスプラッツ」と書いてあります。

 

 

 

 

入口を探していると、同じ建物にピアノのベーゼンドルファーのオフィス?ショールーム?がありました。

 

ベーゼンドルファーはスタンウェイと並ぶピアノの有名メーカーですが、経営破綻し2008年からヤマハの完全子会社になりました。

 

ヤマハであれば、アメリカ企業のように「株主価値の最大化」などと言わず、オーストリア企業の自主性を尊重した経営をしているんじゃないかなと思います。

 

ヤマハについてはもう一つ、ウィーンフィル楽員の要請に応じてウィンナモデルの管楽器を製作した話が心を打たれますが、それは最後に書きます。

 

 

 

 

建物に入る前に、また地面に音楽家のプレートを見つけました。さすが楽友協会、ここにはたくさん並んでいます。ここでも少々お付き合いください。

 

【シューベルト(1797‐1828)】

・今回の旅行で「菩提樹」にまつわるヘルドリッヒスミューレを訪ねましたが、ウィーンを代表する作曲家ですね。モーツァルトより短い31歳の人生でした。

・彼は楽友協会のメンバーで、交響曲「ザ・グレート」を楽友協会に献呈しますが演奏困難とみなされ、同曲はシューマンが発見するまで約10年間忘れ去られてしまいます。

・個人的には、未完成、ザ・グレートといった交響曲から聴き始め、弦楽四重奏曲「死と乙女」、歌曲「冬の旅」などを聴いてきましたが、最近聴いたリヒテルの「さすらい人幻想曲」などピアノ曲のチャーミングさにも注目し始めています。

 

【ブルックナー(1824‐1896)】

・敬愛するブルックナーはここにいらっしゃいました。

・彼は楽友協会音楽院(今のウィーン国立音大)の教授であり、大ホールでオルガン演奏もしました。

・最近、フルトヴェングラー、チェリビダッケ、ヨッフム、ムラヴィンスキーなど、これまであまり聴かなかった指揮者のブルックナーを聴いて新しい発見を楽しんでいます。朝比奈隆の演奏も聴き直しています。稿問題も進展しているようですし、ピアノ、オルガン、ジャズバンドで聴くブルックナーも面白いものがあります。やっぱりブルックナーはいいなあ…またこのブログで書きたいと思います。

 

【ブラームス(1833‐1897)】

・ブラームスは楽友協会音楽院の「芸術監督」でした。

・前回のブログで「世紀末ウィーンにおける保守派」と書きましたが、交響曲第4番は枯れ切ったブラームスならではの傑作だと思います。

・フルトヴェングラー/ベルリンフィルの濃厚なロマン、シューリヒト/バイエルン放送響、ウィーンフィルの秋風のような枯淡と可愛らしさ、ムラヴィンスキー/レニングラードフィルの鋭さと緊張感…名演もいろいろあります。

・室内楽の名曲については最後に書きましょう。
 

【ツェムリンスキー(1871‐1942)】

・ウィーン生まれでマーラーの弟子、シェーンベルクの先生。二人と同じユダヤ人です。マーラーと結婚する前のアルマ・シンドラーの音楽の先生(恋人?)だったそうです。

・マゼール/ベルリンフィルの「抒情交響曲」をLPで持っていましたが、CDを探すと生誕150周年の6枚組を見つけました。

・「抒情交響曲」はアジア、特にインドの響きがするマーラー「大地の歌」のような作品ですが、エッシェンバッハ/パリ管の演奏はマゼールより柔らかい印象です。他の曲は、アジアを意識していないだけにかえって聴きやすく、マーラーとシェーンベルクをつなぐ位置づけがよく分かりました。

 

【シェーンベルク(1874‐1951)】

・ウィーン生まれで新ウィーン学派の筆頭格であるシェーンベルク。ユダヤ人でナチスを逃れてアメリカに亡命します。

・彼の音楽は年を経るほど響きが無機質になりやや苦手ですが、初期の「グレの歌」は後期ロマン派の響きが残っており、安心します。ケーゲル/ドレスデンフィル+ライプツィッヒ放送響有志による巨大ながらどこか静謐な響き、そして時に爆発する狂気は、シェーンベルクがマーラーの一歩先を模索する姿を感じさせてくれます。

 

【フルトヴェングラー(1886-1954)】

・20世紀を代表する指揮者のフルトヴェングラーは、楽友協会のコンサートディレクターとして大きな役割を果たしましたが、本人は指揮者より作曲家として認められたかったそうです。マーラーみたいですね。

・以前に買った「交響曲第2番」のバレンボイム/シカゴ響盤を聴き直しました。1945年作曲なので瓦礫のベルリンか亡命先のスイスで書き上げたのでしょう。とにかく暗く分厚い響きで一貫しています。魅力的な旋律が少ないため没入するとかなり疲れますが、少しボリュームを小さめにして距離を置いて聴くと、美しく悲劇的な後期ロマン派の分厚い響きを受け止めることができました。

 

【ヒンデミット(1895‐1963)】

・ドイツの作曲家で楽友協会のメンバーでもありましたが、前衛的な作風がナチスから批判され、アメリカに亡命しました。

・交響曲「画家マチス」は、ナチスに批判されフルトヴェングラーが擁護した「ヒンデミット事件」で有名です。作曲者ヒンデミット指揮ベルリンフィルの戦後の録音を聴くと、ユダヤ系とは異なる硬質な響きが独特の雰囲気を持っており、極端に前衛的ではありません。ユダヤ人との交流とか、別の要素が弾圧の原因だったのでしょうね。

 

【アイネム(1918‐1996)】

・この人の名前は知りませんでしたが、20世紀オーストリアの作曲家です。楽友協会に貢献し、「ゴットフリート・フォン・アイネム・ザール」という室内楽用のホールがあります。

・CDを探したら、マタチッチ/ウィーン響の「ブルックナー・ダイアローグ」という曲が見つかりました。交響曲第9番フィナーレの素材を使った曲で、地元の先輩ブルックナーへの愛が感じられます。

 

 

 

 

さて、寄り道はこれくらいにして、楽友協会の話です。

 

ウィーン楽友協会は1812年にできました。

 

この建物は、リンク整備の際、「ウィーンにも大きなコンサートホールを」という協会の要望にフランツ・ヨーゼフ皇帝が応えて土地を提供、1870年にできたそうです。さすが皇帝ですね。

 

そう!この建物は1870年創建なので、2020年は150周年だったんです。

 

このため、2月末には記念の内部無料開放があったとかで、3月初のガイドツアー予約がぎりぎりまでできず、焦ったのを覚えています。

 

ウィーンの主要な建物はリンク整備とともにできたものが多く、日本でいうと明治初頭にあたるパターンが多いですね。

 

協会の歴史の中で、ブラームス(音楽院の芸術監督)とクララ・シューマン(小ホールのこけら落としコンサートで演奏)が重要な役割を果たしたようです。二人の銅像があったと記憶していますが、撮影禁止でした。

 

これまで、自らの芸術的財産を楽友協会に遺贈した重要な音楽家は二人。ブラームスとアイネムです(二人とも建物の前にプレートがありましたね)。

 

その二人の名は、楽友協会のホールに残されています。

 

ここにあるホールは、大ホール(いわゆるムジークフェライン・ザール)、小ホール(ブラームス・ザール)、室内楽用ホール(ゴットフリート・フォン・アイネム・ザール)、地下の4ホールです。

 

1918年の帝国崩壊後も、楽友協会は活動を続けました。皇帝からの援助なしにやっていける体制を作っていたのであれば、すごいことですね。

 

1938年のナチスによるオーストリア併合により自主性を失い、終戦直前に手榴弾によるダメージも受けますが、戦後に自主性を取り戻し、1945年9月にクリップス指揮によるコンサートで再開します。

 

やはり紆余曲折があるのですね。

 

 

 

 

見学の始まりです。

 

最初の説明の後、中に入って地下の新しいホール等を案内され、大ホールにやってきました。

 

ここでもいろいろな説明を聞きましたが、ここまでずっと撮影禁止。最後に少しだけ、撮影していい時間が設けられました。

 

(ホール正面)

 

(ホール後方)

 

(ホール横)

 

(ホール天井)

 

 

 

あっという間に撮影時間は終わり、みんなはホールを後にします。私たちは後ろ髪引かれる思いで一番最後に外へ。

 

 

 

 

最後はおみやげです。売店でじっくり吟味して選んでいるうちに、またも最後になってしまいました。

 

荷物をまとめていると係の人もいなくなり、帰り道が分からず迷子に…。出口?と思ったら、建物の中央を貫く薄暗い大廊下のようなところに出ました。

 

そこになんと、音楽家たちの胸像が並んでいたのです。特段撮影禁止とも書いてなかったので、思わず写真を撮りました。

 

【ブルックナー】

 

【ブラームス】

 

【マーラー】

 

【ヴォルフ】

 

【リスト】

 

 

 

そこからは外に出られそうにないので、また建物の中に入り、やっとの思いで外に出ました。

 

最後はちょっとした冒険と発見でした。

 

外に出てると、日は傾きかけて、そろそろ夕方。

 

…深呼吸…。

 

これで今回旅行の観光メインプログラムはおしまいです。

 

国立歌劇場前からケルントナー通りをシュテファン寺院まで行き、ホーフブルクを横目に見ながらホテルに帰るまで、買い物とそぞろ歩きを楽しもうと思います。

 

 

 

 

今回のブログはここまでですが、ベーゼンドルファーとは別に、ウィーンの楽器と日本のつながりがもう一つあるようです。

 

ヤマハがベーゼンドルファーの親会社になるずっと以前から、ウィーンフィルをはじめとするウィーンの独特な楽器(ウィンナモデル)を作っているという本を見つけました。

 

この本によれば、1973年、来日したウィーンフィルのトランペット奏者がヤマハにウィンナモデルの楽器製造を持ちかけ、それ以降、ホルン、オーボエ、トロンボーン、ファゴットでも同じような依頼が寄せられたそうです。

 

当時、ウィンナモデルはヨーロッパでほとんど製造されなくなり、多くの奏者がボロボロの楽器を使っていたとのことです。

 

ヤマハは、金属の成分分析から始まって数多くの苦労の末、奏者たちのOKが得られる楽器の開発に成功。多くのヤマハ製管楽器がウィーンで使われるようになりました。

 

しかし、大量生産できないため、採算は厳しかったようです。

 

また、下の本の帯にも書いていますが、日本製の楽器ということで、伝統を重んじるウィーンの人々から忌避されたケースもあったようです。それは分かるような気がしますね。

 

現在は生産終了(ホルンだけ受注生産)となり、ドイツのヤマハアトリエでメンテナンスを行っているとのこと。…その後のウィンナモデルの楽器供給はどうなっているんでしょうね?

 

こうした経緯もあって、ヤマハのベーゼンドルファー救済(2008年)がうまく進んだのでしょうか?

 

国立歌劇場のスポンサーであるトヨタといい、ウィンナモデルやベーゼンドルファーを支えたヤマハといい、日本企業の当地芸術界への貢献は結構大きいのかなと思いました。

 

私たちがウィーンに来て、お店の人に「日本人か?」と笑って話しかけられるのは、こうした日本企業の足跡も影響しているのかもしれません。

 

 

 

 

楽友協会に集う多くの古今の素晴らしい音楽家たち。彼らが実際に生きてきた息遣いが感じられるようなウィーンの街。そしてそれを地味に支える日本企業。

 

皇帝がいた過去の思い出に浸りその文化を味わいつつ、皇帝がいなくなった今では、芸術を支えるお金の回し方を考えるのも重要なのだなと感じました。

 

 

 

【今日のBGM】

ブラームス クラリネット五重奏曲

 ウラッハ ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団

ブラームス クラリネット・ソナタ

 ウラッハ デームス

ブラームス ヴィオラ・ソナタ

 スーク パネンカ

・本文で、交響曲第4番は枯れていていい!と書きましたが、もう一つ枯れた名曲はクラリネット五重奏曲でしょう。

・保守派とか何とか言っても、ここまで凝縮された美しい音楽となれば、否定のしようもありません。ただ聴き惚れるのみです。曲が始まった途端、「あー…美しい夕日が沈んでいく…」という感じでしょうか。

・この曲は、ブラームスが創作意欲を失った晩年に出会ったクラリネット奏者ミュールフェルトに触発されて再び奮起し書いたもので、彼のためのクラリネット・ソナタも素敵です。しかも、これが作曲者によってヴィオラ・ソナタに編曲されているので、「一粒で二度おいしい」ですね。

・ウラッハの五重奏曲とソナタは戦後すぐにウィーンで録音された名盤で、しっとりと落ち着いた響き、そしてクラリネットの時に鋭く時に愁いを帯びた音色に魅せられます。

・チェコのスークがプラハで録音したヴィオラ・ソナタはデジタルのいい音です。弦ならではのアタックの鋭さと、クラリネットほど音域による音色の変化がないだけにより地味で打ち沈んだ印象があります。この渋さがヴィオラの魅力であり、ブラームスらしさでもありますね。