ブダペスト街歩きとオーストリア国境~オーストリア・ハンガリー⑨ | 福岡日記+(プラス)

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転勤族から見た福岡や九州の風景、趣味の音楽の話などを綴ります。

4月は仕事が忙しくて、ブログを一本も書けませんでした。5月に入ってちょっと一息ついています。

 

今回は、一昨年3月のウィーン旅行の3日目、ブダペスト日帰り遠征の3回目です。

 

聖イシュトヴァーン大聖堂

 

 

曇り空の寒い3月のブダペスト。

 

ブダペスト東駅からエルジェーベト公園を経てドナウ川にかかるセーチェーニ鎖橋を渡りブダ城の王宮へ。マーチャーシュ教会や漁夫の砦を見て、再びセーチェーニ鎖橋を渡りペスト地区に戻ってきたところです。

 

寒い日でずっと外にいたため、体を温めたくなりました。お腹も空いてきたし。

 

という訳で、前から狙いを定めていた「カフェ・ジェルボー」に入りました。

 

エルジェーベト公園の西南西といった位置関係でしょうか。

 

この店は、表参道に東京店があって妻と行ったことがあるのですが、さすが本店は立派な建物です。

 

 

 

 

こんな寒いときに食べたいのは、ハンガリー名物のパプリカたっぷりスープ「グヤーシュ」ですね。

 

思い出話になりますが、結婚したての頃、大田区洗足池の社宅に住んでいて、自由が丘のハンガリー料理店「キッチンカントリー」が好きで夫婦でよく行きました。そこで覚えたのが「グヤーシュ」。当時は「グラッシュ」って言っていたかな?

 

お店は今もあるようですので、一度行ってみてください。練馬に引っ越してからは行く機会もなくなりましたが、久しぶりに行ってみたくなりました。

 

 

 

 

グヤーシュで体を温めたあとは、ハンガリー発祥のタルト「ドボシュトルタ」です。ドボシュさんの作ったタルトですね。

 

幾重にも重なるスポンジケーキの上部をカラメルがしっかり固めています。カラメルが固すぎて、上からフォークを突き刺そうとしても、スポンジ全体が潰れてしまいます。…これ、どうやって食べるんだろう…?最後はカラメルだけ外して食べましたが、お行儀悪かったでしょうか…?

 

タルト相手に楽しく悪戦苦闘した後、ゆっくりしゃべって店を出ました。駅前と違ってシックな街並みです。お天気も少し良くなってきました。

 

 

 

 

次は、妻の強い希望で陶磁器工房「ヘレンド」のショップに。ジェルボーのすぐ近く、エルジェーベト公園の隣の一角にあります。

 

 

 

 

ヘレンドは、1826年設立のブダペスト郊外にある磁器工房です。先日行ったウィーンの皇室御用達磁器工房(今のアウガルテン)が1864年に一時閉鎖された際、宮廷自家使いの「ウィーンの薔薇」等の絵柄を承継しました。

 

ハプスブルク帝国崩壊後は、「ウィーンの薔薇」が一般向けの絵柄として売られています。

 

現在の「ウィーンの薔薇」は、2012年にエリザベート生誕175周年を記念してできた「ピンクの薔薇」だそうです。

 

今回買った小皿を含め、妻が少しずつ集めたヘレンドの磁器です。

 

 

 

 

こちらがアウガルテンの「ウィーンの薔薇」です。1924年に再興され、今ではオーストリアとハンガリーに2種類の「ウィーンの薔薇」があることになります。

 

 

 

 

磁器談義も大変興味深いのですが、私としては他に見たいところがたくさんあります。そこで、妻をヘレンドショップに残し、一人で街を見て回ることにしました。

 

最初に行ったのが、聖イシュトヴァーン大聖堂。ヘレンドショップから徒歩5分です。

 

遠くからは何度も見ましたが、近くで見ると圧巻です。

 

 

 

 

この大聖堂は、名前にもなっている初代ハンガリー国王イシュトヴァーン1世の右手のミイラがあることで有名です。

 

そのミイラは、トランシルヴァニア(ルーマニア)で発見されたものを1771年にマリア・テレジアがブダに戻したそうです。

 

完成は1905年と案外新しく、そのせいか、ブダペストを代表する建物にも拘わらず、世界遺産の構成資産にはなっていないようです(1904年完成の国会議事堂は構成資産ですが…)。

 

 

 

 

時間がないので中には入らず、大聖堂の横を通ってアンドラーシ通りに向かいます。

 

 

 

 

アンドラーシ通りはブダペストのメインストリートで、この下を通るヨーロッパ大陸初の地下鉄とともに世界遺産の構成資産となっています。

 

1896年のハンガリー建国千年祭に向けて地下鉄とともに作られたものです。ハプスブルク帝国末期のブダペストが建国千年をどのように祝ったのか、非常に興味深いですね。

 

 

 

 

アンドラーシ通りを少し歩くとハンガリー国立歌劇場に着きます。ここは20代の若きマーラーがシェフとして赴任したオペラハウスで、今回是非来たかったところです。

 

ところが、また工事中!

 

3月のオフシーズンだからか、長期改修中なのかは分かりませんでしたが…。

 

ブダペスト王立歌劇場として開館したのが1858年。マーラーは1888~91年に芸術監督となり、黄金時代を築きました。1889年には交響曲第1番の原型である交響詩をブダペストで初演しましたが、その楽譜は失われています。どんな音楽だったのでしょう…??

 

まあ、「来た、見た、それだけ」ですが、マーラー出世の地を一目見ただけで満足しました。

 

 

 

 

アンドラーシ通りをさらに進むと、リスト音楽院、コダーイ記念館等を経て英雄広場に至ります。

 

英雄広場は、建国千年祭の会場となった大公園の入口にあり、14人のハンガリーの英雄の像があります。

 

英雄広場ができた1900年はハプスブルク帝国の時代で、イシュトヴァーン1世やマーチャーシュ1世など地元の王のほか、マリア・テレジアやフランツ・ヨーゼフ1世など5人のハプスブルク朝の王の像もありました。

 

しかし、第二次大戦で像が破壊されると、ハプスブルク朝の5人の像は再建されず、1848年のハンガリー革命で一時は独立を宣言しながらフランツ・ヨーゼフに抑え込まれたコシュートなど反ハプスブルク独立派の5人の像に差し替えられました。

 

ハンガリーの歴史を象徴する英雄広場には行ってみたかったのですが、時間がなくてとても無理。国立歌劇場の前でUターンし、速足でエルジェーベト広場まで帰ってきました。

 

 

 

 

エルジェーベト公園の横に、「エルジェーベト通り」も見つけました。

 

 

 

 

英雄広場から像が消え、「フィレンツ・ヨージェフ橋」の名前も消えたフランツ・ヨーゼフ1世。

 

ブダペストの街の中央にある公園と通り、ドナウ川に架かる橋に名前を残し、橋のたもととマーチャーシュ教会に像が残るエリザベート。

 

この違いは、単に「エリザベートが愛したハンガリー」といった感情的なものだけでなく、夫婦の政治的な立場や行動がかなりはっきりと違っていたことを示唆しているようにも思います。

 

もしそうだとすると、その夫婦、皇帝と后妃の狭間に立たされた皇太子ルドルフの苦悩は大きなものだったのかもしれません。

 

「多民族国家の模範的な姿」とも言われるハプスブルク帝国ですが、あまりに大きくなり複雑化した帝国の権力を一族が担う、という仕組み自体が時代とともに限界に来ていたのかな、と感じました。

 

 

 

 

ヘレンドショップに戻って妻と合流。この間、1時間くらいでしょうか。妻もゆっくり見ることができて満足したようです。

 

ヘレンドの小皿を買って、地下鉄駅に向かいます。そしてプダペスト東駅へ。ブダペストの街ともお別れです。

 

あまりに急いで回ったのとカフェでゆっくりしたので、お土産店などに寄る余裕もなく、レイルジェットに飛び乗りました。

 

 

 

 

帰りはちょうど夕食時間だったので、食堂車から自席にグヤーシュなどを持ってきてもらって食べました。

 

その時、今でも後悔しているのは、ボーイさんに十分なチップを渡してあげられなかったことです。

 

ハンガリーの通貨フォリントを使い慣れていなかったこともありますが、そもそもチップが苦手で、とっさに気が回らなかったんですね。

 

なんとなく日本人の評判を下げたような気がして、いまだに気になります。

 

 

 

 

レイルジェットは国境を越えてオーストリアに入ります。

 

ここで、オーストリア・ハンガリー国境の変遷の話をしましょう。

 

オーストリアのハンガリー国境沿いにブルゲンラントという細長い州があります。

 

今回のウィーン旅行の最後、ウィーン国際空港で、ブルゲンラント州産の「オーストリアワイン・エステルハージ」を買いました。

 

本当はブダペストで買えなかったハンガリーワインが買いたかったのですが、空港になかったので、ハンガリー国境に近い地域のオーストリアワインにしました。

 

「エステルハージ」は「a」の上にヒゲがついていて、これハンガリー語ですよね。

 

 

 

 

一方、18世紀の作曲家ハイドンが30年間仕えたのは「ハンガリー貴族・エステルハージ家」です。「エステルハージ」はオーストリア?ハンガリー?

 

実は、オーストリアのブルゲンラント州は、第一次大戦が終わりハプスブルク帝国が負けて崩壊した際、ハンガリーからオーストリアに編入されたのです。

 

ブルゲンラントはもともと多民族が暮らしていた地域だったそうですが、敗戦国オーストリアが領土を増やしたのは、ハンガリーに一時共産主義政権が樹立された影響もあったようです。

 

しかし、共産主義政権が崩壊した後のハンガリー側の不満は大きく、大規模な紛争が勃発。結局、ブルゲンラント州の州都となるはずだったエーデンブルク地区(現在のショプロン)がハンガリー領に戻ることになりました。

 

地図を見ると、ショプロンは三方をオーストリアに囲まれていますが、こうした背景があるのですね。

 

因みに、エーデンブルク(ショプロン)に代わるブルゲンラント州の州都は、「ハンガリー貴族・エステルハージ家」の本拠地でハイドンも過ごしたアイゼンシュタットになりました。

 

こうしたオーストリア各地方の歴史がいろいろ書かれているのが、「物語 オーストリアの歴史」(中公文庫)です。かなりの情報量なので読破するのは骨が折れますが、オーストリア愛好者が辞書代わりに使うには大変便利です。

 

この本を読むと、ブルゲンラントだけでなく、様々な「国境」を巡る問題や紛争があることが分かります。

 

 

 

 

かつて国境を巡る攻防が繰り広げられたショプロンが後の世界史に果たした役割については、もう少しあとで書きましょう。

 

そうこうしているうちに、列車はウィーン中央駅に着きました。

 

 

 

 

今回はお世話になりましたね、レイルジェット!

 

 

 

 

乗ってきた列車はザルツブルク行きです。1年前に行ったモーツァルトの街が思い出されます。

 

 

 

 

ここで、ウィーン中央駅と地下鉄に乗って帰ったホテル・ド・フランスの夜景を見ながら、オーストリア・ハンガリー国境を巡るもう一つの物語を紐解きましょう。

 

東西ドイツ統合やソ連崩壊のきっかけとなった、1989年の「汎ヨーロッパ・ピクニック」の話です。

 

 

 

 

第二次大戦後、ヨーロッパは東西に分断され、1949年のハンガリーに始まる東西国境の鉄条網敷設、1961年のベルリンの壁建設により、ソ連を中心とする東側の「鉄のカーテン」が完成しました。

 

オーストリアは永世中立国ですが一応「西側」、ハンガリーは「東側」となり、かつてのハプスブルク帝国は国境線と鉄条網により分断されました。

 

ハンガリーでは、1956年に市民の蜂起がソ連軍により鎮圧される「ハンガリー動乱」が起きましたが、その後のカーダール政権による共産主義運営は「グヤーシュ共産主義」とも呼ばれる比較的穏健なものでした。

 

1985年、ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任して「ペレストロイカ」を推進。ハンガリーではこれを受けて改革派の勢力が強まり、1988年に改革派のネーメト政権が誕生します。1989年初には、ハンガリー動乱の際にソ連に処刑されたナジ首相の名誉回復が行われるなど、自由化の波が強まります。

 

 

 

 

そんな時代にあっても変わらなかったのが東ドイツです。1971年以来権力の座にあったホーネッカーは、ペレストロイカを記事にするソ連の雑誌を発禁処分にするなど、強硬な姿勢を崩しませんでした。秘密警察シュタージや密告政治なども有名で、東ドイツ市民の脱出願望は強まっていました。

 

そうした中、改革派のハンガリー政府は1989年5月、オーストリア国境の鉄条網を撤去しました。

 

これを知った多くの東ドイツ市民が、チェコスロヴァキア経由でハンガリーのオーストリア国境まで押しかけます。その数は10万人とも言われています。

 

こうした中で起きたのが、「汎ヨーロッパ・ピクニック」です。

 

 

 

 

ハプスブルク家最後の皇帝・カール1世の子供で最後の皇太子だったオットーを中心に、「鉄条網の消えたハンガリー・オーストリア国境で両国民が集まってバーベキューをしよう」というピクニック計画が持ち上がり、8月19日に三方をオーストリアに囲まれたハンガリーのショプロンで行われました。

 

ハンガリーのネーメト首相も関与したこのピクニックでは、ハンガリー・オーストリア両国の外交官が挨拶を交わし、皆が飲み食いする中で、国境の検問所の扉が開き、東ドイツ市民の多くが国境を抜け、オーストリア経由で西ドイツに向かいました。ハンガリーの国境警備隊は見て見ぬふりだったそうです。

 

この1日の出来事が蟻の一穴となって、事態は急展開します。

 

 

 

 

この出来事を知った東ドイツ市民は脱出願望をますます強め、ネーメト首相は9月11日にオーストリア国境を全面的に開放。多くの東ドイツ市民がオーストリア経由で西ドイツに向かいました。

 

東ドイツでは体制変革へのエネルギーが高まり、ライプツィヒでデモが激化。ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者クルト・マズアが武力鎮圧しないよう声明を出したことを今でも覚えています。

 

結局、10月18日に東ドイツのホーネッカー政権は崩壊。11月9日には混乱の中でベルリンの壁が崩壊します。

 

そこから、市民の急速な流出、東ドイツの膨大な対外債務の判明等により東ドイツマルクは大暴落。東ドイツは国として成り立たなくなり、1990年10月に東西ドイツの再統一が実現します。

 

まさに、蟻の一穴が堤防を決壊させた訳ですが、ものすごいスピードでしたね。

 

 

 

 

この間ハンガリーは、汎ヨーロッパ・ピクニック直後の1989年10月、憲法改正により国名が「ハンガリー人民共和国」から「ハンガリー共和国」になりました。1999年にはNATOに、2004年にはEUに加盟しています。

 

本家本元のソ連ですが、共産主義の矛盾と民族主義の伸長の中、1988年10月からバルト3国が相次いで主権宣言を行い、1990年6月にはソ連共産党内の抗争に敗れた改革派エリツィン率いるロシア連邦も主権宣言を行いました。

 

1991年8月には軍と保守派のクーデターが起き、市民の反対で失敗はしましたがソ連やゴルバチョフの求心力は失われ、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3国はソ連脱退で合意。12月にはソ連が消滅します。

 

クーデターの際、戦車の上からメガホンで徹底抗戦を呼びかけていたエリツィンの姿は未だに覚えています。

 

 

 

 

ドイツ再統一、ソ連崩壊、東西冷戦終焉のきっかけとなったのがオーストリア・ハンガリー国境のショプロンで行われた小さなイベントで、そこにハプスブルク家の末裔も絡んでいたというのは、何か妙に納得できるものがあります。

 

と言っている間に、ホテルのロビーまで帰ってきました。

 

 

 

 

人影もなく、もう1日は終わりですね。今夜はブダペスト行きの疲れを癒して、明日はウィーン市内観光最終日です!

 

 

 

 

ブダペストに足を延ばしてみて、オーストリアとは違った雰囲気、二重帝国のあり方と矛盾、東西冷戦終焉期における各国の役割等についていろいろなことを感じました。

 

百聞は一見に如かず。勉強になりますね。

 

***

 

さて、旅行では買えなかったハンガリー・ワイン。東京に帰って、とある「ウィーンフェア」で見つけました。ウィーンとハンガリー、やはり近いんですね。

 

 

 

 

ブダペストから東北東に100キロくらい離れたエゲル(有名な赤ワインの産地だそうです)のJUHASZというワインです。

 

スロヴァキアの国境近く。ウクライナ国境からも遠くない場所ですから、今は緊張感も高まっているでしょうね。このワインを飲んだ時には全く予想できないことでした。

 

 

【今日のBGM】

コダーイ 無伴奏チェロソナタ シュタルケル

・ハンガリーのブログ最終回にふさわしい音楽と言えば、やはりリストかなと思うのですが、ピアノに疎い私は残念ながらリストの曲をあまり知りません。フルトヴェングラーの「交響詩・前奏曲」やカラヤンの「ハンガリー狂詩曲」などは聴きましたが、あまり好きにはなれませんでした。

・そこで登場するのがコダーイです。以前、出張でニューヨークに行った時、メータ指揮ニューヨーク・フィルでコダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」という管弦楽曲を聴きましたが、これはあまりピンときませんでした。

・今回、無伴奏チェロソナタをはじめて聴きましたが、これはなかなかいいです。

・バッハの無伴奏とは全く違った土の匂いというか、春になって土の中で虫がうごめき始めるような生命のエネルギーというか、図太い原始のパワーを感じます。アジア的な雰囲気も感じますね。

・シュタルケルも地元の曲だけに熱の入った名演で、1948年のSPと50年のLPの2バージョンが同じCDに入っています。アメリカ録音のLPはチェロという楽器の弦が震える様、胴体が共振する様がそのまま感じられるような響きで魅了されましたが、原初的なパワーはフランス録音のSPも素晴らしく、ともに楽しめました。

・やっぱりオーストリアとハンガリーは違うのかな、ということがよく分かります。