いつの間にか3月になり、コロナ流行前夜のウィーン旅行から丸2年がたってしまいました。早いですね。
2年経ってもコロナが相変わらずなのは気になりますが、最近、今このブログに書いているハンガリーと国境を接するウクライナで衝撃的なことが起きました。
もちろん事情は報道でしか知りませんが、独立国家への武力侵攻がこの21世紀に行われているのはまさに衝撃的です。
2年前、レイルジェットでオーストリアからハンガリーに入った時にはパスポートもチェックされず、「国家という存在は相対化されつつあるのかな」と感じましたが、今回の侵攻では、国家権力が人々の前に立ちはだかる昔ながらの構図をまざまざと見せつけられました。
国を守るために軍隊に入った兵士たちが他国に侵攻し民間人を殺傷する…それを命じている国家というものは人間にとって一体何なのか?…戦争のたびごとに繰り返されるこの厳しい問いかけは、今でも普遍的に生きているのです。
自分にも何かできることはないのか…取り敢えずユニセフのウクライナ緊急募金はしましたが…。
一刻も早く戦闘が停止され、人々が恐怖や人道危機から解放されることを心から願います。
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3月といえば、3月10日は東京大空襲の日。77年前に私の叔母、叔父が亡くなった日です。
さらに、3月11日は東日本大震災の日。11年前、大自然の驚異に日本中が畏怖し、原子力…さらには人間と科学のあり方が厳しく問われました。復興はまだ途上です。
平和と安寧の大切さを思い知らされる3月です。
ついでに言うと、3月は私の誕生月でもあります。なんと、60歳になってしまいました…。中高年層のど真ん中、老人の入り口、といった感じでしょうか…?なにはともあれ、健康第一でブログを書き続けていきます。
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ブダ城からみたドナウ川とセーチェーニ鎖橋
さて、話を2年前のブダペストに戻しましょう。
ウィーン旅行の3日目。前回は、レイルジェットでウィーン中央駅からブダペスト東駅まで来て、セーチェーニ鎖橋を渡り始めたところまででした。
左手前方の高台にブダ城、王宮のドームが見えます。
あまり青くはなかったですが、ドナウの流れも初めて間近に見ました。
鎖橋の両側に歩道がついており、右側を歩いていきます。
王宮の全貌が見えてきました。
右を向けばドナウの流れ。
徳島市を二つに分断する吉野川みたいに広い川ですね。
昔はこの川に橋はなく、王宮側のブダと市街地側のペストは別の街だったそうです。
それを、1849年にセーチェーニ伯爵が主導してこの橋を建設。それで初めて「ブダ」と「ペスト」が結びつき、現在の「ブダペスト」につながっていきます。
右に見えるドーム状の建物は国会議事堂です。
この橋を作ったセーチェーニ伯爵は、橋以外でもハンガリー史に名を残しています。
川を渡る前に見たハンガリー科学アカデミー(前回ブログ)はセーチェーニ伯爵が主導して設立したもので、建物は世界遺産です。
また、鎖橋が完成した前年の1848年は、フランツ・ヨーゼフ1世がオーストリア皇帝とハンガリー国王に就任した年であり、ハンガリー革命が起きた年でもあります。セーチェーニ伯爵は漸進改革派の指導者で、一時革命政府に入閣しますが、反ハプスブルク・独立推進の急進派・コシュートに主導権を奪われ、政治の表舞台から姿を消します。
コシュートは1849年にハンガリーのハプスブルク帝国からの独立を宣言。就任したてのフランツ・ヨーゼフはロシアに援軍を求め、独立運動を鎮圧してコシュートは亡命。それでもハンガリー独立の機運はやまず、1867年の「オーストリア=ハンガリー帝国」の誕生につながっていきます。
この橋を「セーチェーニ鎖橋」と名付けたのは、急進派のコシュートだったそうです。路線は違っても同じ愛国者。リスペクトがあったのでしょうね。
橋を渡り終えました。こちら側にも立派なライオンが。
ハンガリー革命中に建設中だった鎖橋は、革命鎮圧に来たオーストリア軍の攻撃を受けましたが、危うく破壊を免れたそうです。
そんな鎖橋も、第二次大戦では破壊されました。
ハプスブルク帝国崩壊後のハンガリー王国(国王不在)は第二次大戦にドイツ側で参戦。劣勢の中、摂政ホルティは密かに何度か連合国側と休戦交渉を行いますが、ナチスドイツによるクーデターで失脚。その後、ドイツ軍はソ連軍に敗れ、1945年1月に橋を破壊して退却しました。
橋が再建されたのは、開通からちょうど100年の1949年10月。他の橋が現代的な工法で再建される中、鎖橋だけは殆ど元のまま再建され、「ヨーロッパでも特に美しい橋」と評されています。
1987年には世界文化遺産に登録され、2002年には今の「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシュ通り」に拡大しました。
単に美しい橋というだけでなく、ハンガリーの独立を巡る動き、戦争と平和に絡む様々な記憶が染みついた橋なのですね。
橋のたもとから見上げる王宮です。
ブダ城の城壁。
ブダ城は13世紀に簡素な砦として築かれ、14世紀に王宮が作られました。しかし16世紀のオスマントルコの侵入以降はトルコ軍の火薬庫として使われ、17世紀のトルコ撤退後に再建されて18世紀にはマリア・テレジアにより大改修が行われました。王宮はその後もハンガリー革命等で破壊され、今の形になったのは1904年だそうです。
ブダ城の中にある王宮に行くためには、ここからケーブルカーに乗ります。
ケーブルカーでブダ城の丘の上まで上がり、振り返ってそのケーブルカーとドナウ川、セーチェーニ鎖橋を望みます。
川と橋を拡大すると、橋の向こうにはフォーシーズンズ・ホテル、そして聖イシュトヴァーン大聖堂が一直線に並んでいます。
角度を変えると、左端に国会議事堂が見えます。
ケーブルカー駅の左奥に王宮があります。時間がないので内部見学はパス。外から見るだけで失礼しました。
ケーブルカー駅のすぐ前には大統領官邸があります。昔は宮殿だったそうです。さすがに警備も完璧。
ケーブルカー駅から右(北)の方にあるマーチャーシュ教会に向かって歩きます。
大統領官邸と同じ区画の建物だったと思うのですが、入口の右側にベートーヴェンのレリーフがありました。
1800年5月にコンサートをしたと書いてあるような気がするのですが、ハンガリー語なのでよく分かりません。
しばらく歩くと、マーチャーシュ教会。歴代ハンガリー国王が戴冠式を行った教会です。
13世紀に創建され、15世紀に増築。その時の国王・マーチャーシュ1世の名に因むそうです。
ブダ城は1536年にオスマントルコに占領され、ハンガリー帝国の首都はそれから約250年間、ブラチスラヴァ(今のスロヴァキアの首都)に移りました。
(余談ですが、スラブ民族主体のスロヴァキアは長く「北ハンガリー」と呼ばれ、1000年にわたりハンガリー王国の支配下にありました。むしろ「ハンガリー王国北部のスラブ民族が多く住む地域がスロヴァキアとして(チェコと合併しつつ)独立した」といった方がいいのかもしれません。ヨーロッパにおける国と民族のありようは様々で重層的です。)
トルコ占領時、この教会はイスラム教のモスクになったそうです。
オスマントルコが去り、1784年に首都はブダに戻りましたが、この教会が本格的に再建されたのは19世紀後半、フランツ・ヨーゼフの治世になってからです。
1848年ハンガリー革命鎮圧の後。18歳の若き皇帝フランツ・ヨーゼフによる独立派への粛清は苛烈でハンガリー人の反発を招き、皇帝は1953年にハンガリー人に襲撃され重傷を負います(皇帝が命をとりとめたことを祝って創建されたのが、ウィーンのホテル・ドゥ・フランスの近くにあるヴォティーフ教会です)。
ハンガリー独立派との妥協を図ったのが1867年の「オーストリア=ハンガリー帝国」であり、フランツ・ヨーゼフとエリザベートは同年ここマーチャーシュ教会で戴冠式を行いました。1848年の国王就任から20年近くかかった訳ですね。
その時のエリザベートの姿を模した像が教会内にあるそうです。時間がなくて、というか当時は像の存在を知らなくて、見に行きませんでした。
教会のすぐ近くには、観光地として有名な「漁夫の砦」があり、その中心には建国の英雄・イシュトヴァーン1世の騎馬像があります。
イシュトヴァーン1世は、1000年にハンガリー王国の初代国王となり、カトリック教会の聖人にもなった人です。彼の右手のミイラが聖遺物として聖イシュトヴァーン大聖堂に保管されています。
騎馬像の背後、漁夫の砦からマーチャーシュ教会を望む。
漁夫の砦にはいくつかの尖塔があり、丘とふもとを結ぶ階段もおしゃれです。
尖塔とドナウ川の眺めです。
ドナウ川の対岸、ペスト地区にある国会議事堂のドームが見えます。
今回は行けませんでしたが、国会議事堂はブダペスト屈指の観光地で、歴代のハンガリー国王が戴冠式でかぶった「聖イシュトヴァーンの王冠」が安置されています。
この国会議事堂が建てられたのは1904年。1867年のオーストリア=ハンガリー帝国の成立でハンガリーの自治が認められ、1873年にブダとペストが合併しブダペストが成立してハンガリーの首都となったのを受けて建てられたものです。
この二重帝国では、君主、外交、軍事、財政はオーストリア・ハンガリー共通とし、その他はハンガリーに自治を認める形となりました。
オーストリアとハンガリーの首相、統一外相、統一国防相、統一財務相は「共通閣僚評議会」を構成し、統一外相がその議長として二重帝国の首相となったそうです。かなりややこしいですね。
ハンガリーのマジャル人に自治を認めれば、チェコのボヘミア人はじめ多くの民族も自治を求めます。マジャル人も限定的な自治には満足しませんでした。ハプスブルク帝国は収拾のつかない状況に追い込まれていきます。
しかし、各民族が独立して小国分立することは、安全保障や経済などの面において難しい問題を投げかけます。
ハプスブルク帝国と現在のEUが抱える問題には共通するところがあります。難しい問題を乗り越える挑戦が時代や体制を越えて繰り返され、進化しているとも言えると思います。
マーチャーシュ教会の横の広場には、三位一体柱があります。ウィーン市街地やウィーンの森のハイリゲンクロイツ修道院にもあったペスト記念柱です。
ブダ城、マーチャーシュ教会や三位一体広場、漁夫の砦、対岸の国会議事堂…全て世界遺産の構成資産です。
ブダ城散策を終え、ケーブルカーを降りて、鎖橋に戻ってきました。重厚な橋ですね。
帰りは、橋の右側(南側)の歩道を歩いていきます。
鎖橋の南側には、白い柱のエルジェーベト(=エリザベート)橋が見えます。その向こうに小さく見えるのが自由橋。作られた時はエルジェーベト橋とセットでフィレンツ・ヨージェフ(=フランツ・ヨーゼフのハンガリー語読み)橋と呼ばれていましたが、ともに第二次大戦で破壊され、再建された時に後者だけ自由橋と名前が変わってしまいました。
エルジェーベト橋は世界遺産の構成資産ですが、自由橋は違うようです。
エルジェーベト橋のブダ側のたもとにはエリザベートの像があり、見に行きたかったのですが、ここも時間がなくて断念。
振り返ると、王宮です。
振り返ると、この王宮の歴史は決して華やかなものばかりではありませんでした。トルコ支配で廃墟となり、隣国に支配され、その隣国によって復興し、一言では言い尽くせぬ紆余曲折がこの王宮にもハンガリーにもマジャル人にも降りかかってきたのですね。
橋を渡り終え、ペスト地区に戻ってきました。
鎖橋の正面にあるのがフォーシーズンズ・ホテルです。もとは1906年に建てられたグレシャム宮殿…英国のグレシャム生命保険が建てたアール・ヌーボーの建物で、英国貴族の保養所でしたが、2001年にフォーシーズンズ・ホテルに買収されました。
この一等地ですから、もとはハンガリー貴族の屋敷かなと思っていましたが、最初から外資というのは意外でした。
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今回は、ブダ城を中心にハンガリーの歴史に思いを馳せました。
そこには、戦乱の歴史、支配された歴史が多いことに気づかされます。昨今のウクライナ情勢等を見ると、それは遠い昔の本の中の世界ではなく、いつ現実になるかもしれない話だということを思い知らされます。
歴史を学ぶことの意味を感じますね。
なお、セーチェーニ鎖橋は改修のため2021年3月から2023年秋まで通行止めになっているようです。そもそも今行くのは難しいかもしれませんが、行く方はご注意ください。
次回は、ペスト地区の市街地を巡りウィーンに帰ります。両国国境の話もしたいと思います。
【今日のBGM】
・チャルダッシュ ハンガリアン・ジプシー・ミュージック
フィレンツ・シャーンタと彼のジプシー・バンド
・ハンガリーと言えば、ジプシー音楽を思い出します。このCDは、覚えていませんがずいぶん前に買ったものです。
・バイオリンを主体とした緩急のメリハリのきいた音楽。ゆっくりの部分は心にしみ込む甘く切ないメロディ。速い部分は究極の速弾きと各人が勝手に弾いているようなぶっ飛びアンサンブル。大衆音楽ですが、ブラームス編曲「ハンガリー舞曲」のようにクラシックの領域でも認められています。楽しめるCDです。
・音楽を楽しむのはいいとして、「ハンガリーのジプシー音楽」については、少し整理して語る必要があるように思います。
・まず、「ジプシー」という言葉ですが、差別的な意味合いを含むということで今は「ロマ」という言い方になっているようです。ロマのルーツは北インドとも言われています。
・もう一つは、ハンガリーとのかかわりです。ハンガリーはマジャル人が80%以上でロマは3%程度しかおらず、ロマはヨーロッパに広く居住しています。ロマの音楽を基調にした「ツィゴイネルワイゼン」(和訳「ジプシーの旋律」)の作曲家サラサーテはスペイン人、このCDのタイトルでもある「チャルダッシュ」の作曲家モンティはイタリア人です。ロマの音楽をハンガリーとだけ結びつけるのはちょっと違うような気もします。
・ただ、「チャルダッシュ」という音楽は、ハンガリーの酒場の音楽(踊り)が起源で、19世紀にヨーロッパ中で流行したそうです。このCDにも多くの「ハンガリーの歌」が収録されています。19世紀末に作曲された「ツィゴイネルワイゼン」はハンガリーの民謡や大衆音楽をもとにしているそうです。ロマの音楽がロマ以外の民衆に深く浸透したのがハンガリーだった、ということなのかもしれませんね。マジャル人もロマも、「東」にルーツを持つ人々であることが響き合うのでしょうか。
・この魅力的な音楽を少し調べてみるだけで、「国」と「民族(文化)」が必ずしも一致しないことが分かります。いろいろな場面で、その一致と不一致をしっかり認識することが、多様性を認めることにもつながっていくのかなと感じます。