6月はまた忙しくなり、ブログが書けませんでした。
今回はウィーン旅行記を1回中断して、ウクライナとロシアについて音楽の観点から少し書こうと思います。
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毎日のニュースを見ていると、ウクライナの街がどんどん瓦礫になっていきます。双方が巨額の戦費を投じて行うこの破壊行為。失われていく人々の命と生活。「国とは、国家権力とは何なのか」を改めて考えさせられます。
こうしたウクライナ情勢に対して、私自身がやったことは、取り敢えずユネスコのウクライナ募金だけ。それ以上に何かできることがあるのでしょうか…。
そんな時ふと思ったのは、もともと自分はウクライナとロシアをあまり区別できていなかったんじゃないか?ということです。
例えば、作曲家のプロコフィエフ、ピアノのホロヴィッツやリヒテル、ヴァイオリンのオイストラフがウクライナ出身だということを、私は最近まで知りませんでした。ロシア人だとばかり思っていました。
そんなこともあり、何かの力になる訳ではありませんが、ウクライナを描いた音楽、ウクライナの作曲家や演奏家について書いてみたいと思います。
音楽を通して、ウクライナとロシアの複雑な関係が見えてくるところもあります。
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1.ウクライナを描いた音楽
(1)チャイコフスキー 交響曲第2番「小ロシア」
チャイコフスキーが若き時代に書いた交響曲「小ロシア」。その名前は知っていましたが、聴いたことはなく、「小ロシア」がウクライナのことだということも知りませんでした。
「小ロシア」というと「小さなロシア」といった響きですが、本来は「ロシア、ウクライナ、ベラルーシの元祖であるルーシの本土」という意味の言葉で、ロシアのアイデンティティの基礎であるキエフ大公国があった地域を示す地名だったそうです。
しかし、19世紀末頃からは「ロシア帝国の辺境地」(まさに「小さなロシア」)というニュアンスも持つようになり、それに反発する形で「ウクライナ」という言葉が登場したようです。
ロシアとウクライナの微妙な関係がなんとなく分かりますね。
チャイコフスキーのこの作品が作曲されたのは1872年。ウクライナの民謡が使われたさわやかな楽曲で、ウクライナののどかな田園地帯を想像させます。
[CD]ロストロポーヴィチ指揮 ロンドン・フィル
・今回、「小ロシア」を聴いてみたくなり、カタログの中から選んだのがロストロポーヴィチのチャイコフスキー交響曲全集です。
・主要管弦楽曲を含めた全集6CDが千円ちょっとで買えるぶっ飛びの安さも魅力でしたが、私にとっては、高校オケで演奏した交響曲第5番の練習のために買って聴き込んだロストロ盤をまた聴きたいという思いもありました。
・ロストロさんはもちろんロシア人ですが、ロシア系の力強い演奏ではなく、形の整ったバランスの良い演奏です。第2番小ロシアのさわやかさ、第5番の壮麗さ等々十分楽しめました。
(2)ムソルグスキー「展覧会の絵」から「キエフの大門」
ムソルグスキーがピアノ曲「展覧会の絵」を書いたのは、チャイコフスキー「小ロシア」の2年後、1874年です。
ウクライナを題材にした楽曲としては、この「キエフの大門」が一番有名ではないでしょうか。
ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3国(ルーシ)の発祥となったキエフ大公国の首都キーウの「黄金の大門」。1037年に建設されましたが、1240年にモンゴル帝国の侵入でキエフ大公国が崩壊する際に破壊されました。
その後、ウクライナの地はポーランド王国に支配されますが、15世紀にはその内部にウクライナ・コサックが勃興し、17世紀には独立を果たします。しかし結局、ロシア帝国とポーランド・リトアニア連合に東西分割統治されることとなりました。
1772年、第1回ポーランド分割によりウクライナ西部はオーストリア帝国領になります。
1783年にはロシアがクリミア汗国を滅ぼしクリミア半島を併合しました。
ムソルグスキーが展覧会で「キエフの大門」の絵を観てこの曲を書いたのは、その翌年の1874年です。
第一次大戦中のロシア革命(1917年)により帝政ロシアは崩壊。その後の混乱を経て成立したソ連の一部として「ウクライナ社会主義共和国」が成立しますが、現在のウクライナ西部はポーランド等の領土となりました。
第二次大戦では、独ソ戦の熾烈な戦いの後、戦勝国ソ連が領土を西方に拡大し、ポーランド領だったウクライナ西部がソ連(ウクライナ)領となりました。
1954年には、ウクライナ人のフルシチョフ政権の下で、クリミア半島がソ連の中のロシア連邦からウクライナ共和国に移管されました。
(2014年のロシアのクリミア侵攻は、これを取り戻そうという狙いですね。)
モンゴルによって破壊されたキエフの大門が再建されたのは、ソ連末期の1982年になってからです。
1991年、ウクライナはロシア、ベラルーシとともに独立を果たし、ソ連は崩壊します。
以上に見たとおり、ムソルグスキーの時代、黄金の門の姿は絵の中にしかありませんでした。「ロシア国民楽派」のムソルグスキーがその絵に触発され、古に思いを馳せて書いたこの壮麗な終曲…。ロシア人にとっても「キエフの大門」は心の故郷なのだと思います。
しかし、再建された黄金の門をウクライナとロシアの人々が心を一つに讃える日はいつか再び来るのでしょうか?
[CD]フェドセーエフ指揮 モスクワ放送交響楽団
・「展覧会の絵」はラヴェル編曲のオーケストラ版で有名になりました。
・このフェドセーエフ盤CDは、30年ほど前に買ったものです。「色彩の魔術師」と言われたラヴェルの編曲にロシアらしい荒々しさを加えた演奏で、変幻自在の面白さです。
[CD]ホロヴィッツ(ピアノ)
・ホロヴィッツはウクライナ出身の剛腕ピアニストです。ラヴェル編曲のオーケストラ版に続き、ラヴェル版をホロヴィッツが編曲したピアノソロ版が一世を風靡しました。
・このCDは1951年のカーネギーホール・ライヴで、「キエフの大門」の壮麗さ雄大さは腕2本で大伽藍を構築するような迫力があり、目と耳をみはるばかりです。
[CD]リヒテル(ピアノ)
・リヒテルもウクライナ出身のピアニストです。若くして西側に亡命したホロヴィッツと異なり、ソ連にいて西側に知られなかったリヒテルが西側を驚かせたのは1958年のブルガリア・ソフィアでのリサイタル。
・このソフィアでの「展覧会の絵」は、ホロヴィッツ版と異なりムソルグスキーの書いた原典版です。装飾を施した大伽藍のようなホロヴィッツの大門とは異なり、低音を強調した原始的な迫力があり、リヒテルの荒々しい演奏と相まって、北の大地ルーシの原野に生きる生命力を示しているように感じます。
(3)ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」
チャイコフスキー「小ロシア」、ムソルグスキー「展覧会の絵」が作曲されたのは19世紀末、帝政ロシア末期です。この頃のウクライナの農村の様子を描いたのがこのミュージカルです。
原作は、ウクライナ出身のユダヤ人作家、ショーレム・アレイヒムがイディッシュ語で書いた小説「牛乳屋テヴィエ」(1894年)。イディッシュ語とは、東欧ユダヤ人の言葉です。
主人公テヴィエはロシア帝国に住む敬虔なユダヤ教徒ですが、娘たちは革命家やロシア正教徒と結ばれて出ていってしまい、ユダヤ人コミュニティは崩壊していきます。
ロシア帝国は国内の不満をユダヤ人に向かわせるべく、ユダヤ人排斥運動「ポグロム」を展開。ついにテヴィエの住む村人全体が追放となり、ニューヨークに向かいます。
1964年にアメリカでミュージカル化され、1971年のミュージカル映画では、ウクライナ出身のアイザック・スターンがヴァイオリンを担当しました。
この有名なミュージカルの舞台がウクライナとは知りませんでしたが、東欧のユダヤ人の悲劇がなぜ日本でこんなに受けるのか?考えてみると不思議ですね。
でも、哀愁漂うユダヤのメロディと艶やかなヴァイオリンの音色を聴くと、日本人の心の琴線に触れるものを感じます。
(4)ショスタコーヴィチ 交響曲第13番「バビ・ヤール」
時代は現代に移ります。
第二次大戦の独ソ戦における激戦地となったウクライナ。ソ連の圧政に耐えかねてドイツ側で戦ったウクライナ人も多く、事態は複雑です。
1941年9月から43年11月までのナチス占領期に、キーウ近郊のバビ・ヤールという渓谷でユダヤ人を中心とする大量虐殺が行われました。
犠牲者の総数は10万人とも言われ、史上最大規模のホロコーストです。
戦後、ロシア人詩人のエフトゥシェンコが書いた「バビ・ヤール」という詩に曲をつけて交響曲にしたのがショスタコーヴィチです。
彼は、1925~71年に15の交響曲を作曲しました。常に政治からの圧力を受け時には妥協していた彼ですが、これは反政府的なメッセージが非常に強い曲だと思います。
ナチスによる虐殺だけではなく、ロシアにおける反ユダヤ主義を批判し、「どんな支配者もユーモアは支配できない」と権力を批判します。
また、この曲のために書き下ろされた「恐怖」という楽章の詞では「密告される恐怖」「外国人と話す恐怖」「妻と話す恐怖」などが語られます。
作曲・初演されたのは1962年。スターリン死後の「雪解けの時代」で、当時の権力者はウクライナ出身のフルシチョフでした。
それでもさすがにこの歌詞は過激と受け取られ、政権により一部書き換えを命じられました。
陰鬱な曲ではありますが、他のショスタコーヴィチの曲にありがちな「本音の見えない空虚さ」がここにはなく、マーラー風の第4番とともに受け止めやすい曲だと私は思います。
[CD]ハイティンク指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団
・西側初のショスタコーヴィチ交響曲全集。その最後、1984年に録音されたのがこの13番です。陰鬱なこの曲を重心の低い音でまさにありのままに表現している感じです。
・ハイティンクは特徴のない指揮者だと思っていましたが、正攻法で曲の魅力を素直に引き出すことに成功していると思います。
[CD]バルシャイ指揮 ケルン放送交響楽団
・全集が格安で手に入ったので昔買いました。2000年録音でハイティンクに比べるとやや重心が軽く透明感があり、重苦しさだけでなく軽妙さやそこに隠されたショスターコーヴィチの毒なども多様に表現している感じがしました。
(5)ビートルズ「Back in the U.S.S.R.」
本ブログを書き始めた時は、ここにビートルズのことを書くとは思っていませんでしたが、最近、以下のような報道を見ました。
「ポール・マッカートニーがライヴでBack in the U.S.S.R.を封印~ウクライナ情勢を受け」
ビートルズのホワイト・アルバム冒頭に収録されたこの曲は、ポールのライヴでも人気曲の一つとのことですが、ウクライナ情勢を受け、ライヴで演奏することをやめたそうです。
マイアミから帰国したソ連人の目線で書かれた曲ですが、サビの部分の歌詞にウクライナが出てきます。
「ウクライナの女の子は僕をノックアウト。西側の女の子なんか目じゃない。」
「モスクワの女の子と会うと『わが心のジョージア(グルジア)』を大声で歌わずにはいられない。」
1968年、ショスタコーヴィチの「バビ・ヤール」の6年後、ブレジネフ時代の冷戦真っ只中に発表された曲です。
ビーチボーイズのサーフィンサウンドをパクり、チェック・ベリーの「Back in the USA」をパロディ化し、社会主義体制を軽く皮肉っていますが、ノリがよくカラッと明るい曲で、私もカラオケで歌ったことがあります。
でもやはり今は、この歌詞では盛り上がれないということなんでしょうね。
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2.ウクライナの作曲家
(1)プロコフィエフ
ロシアの作曲家はあまたいますが、プロコフィエフはその代表の一人でしょう。しかし彼は実はウクライナ出身でした。ロシアとウクライナは私の中で区別されていませんでした。
彼は1891年、現在激戦が繰り広げられている今のドネツク州で生まれました。その頃のウクライナは帝政ロシアの領土。彼は13歳で当時の首都のサンクトペテルブルク音楽院に入りました。
1917年のロシア革命後は祖国を離れてアメリカ、ドイツ、フランス等で作曲、演奏を続けますが、1936年にスターリンの粛清真っ只中のソ連に帰国します。
その後はショスタコーヴィチとともにソヴィエト政権からの圧迫に苦しみながらも数々の名作を残し、スターリンと同じ日、1953年3月5日にモスクワで亡くなりました。
[CD]バレエ音楽「ロメオとジュリエット」第2組曲抜粋(ムラヴィンスキー指揮 レニングラード・フィル)
・ソ連への帰国直前の1935年にモスクワのキーロフ劇場から委嘱されて書いた有名なバレエ音楽。
・50年間にわたりレニングラード・フィルを率いた私の敬愛するムラヴィンスキーの鋭い棒は、有名な第1曲の冒頭から悲劇的な結末をストレートに予告しているようです。
[DVD]映画音楽「アレクサンドル・ネフスキー」「イワン雷帝」
・いずれも、ソ連帰国後にエイゼンシュタイン監督と組んだソ連の国策歴史映画です。
・「アレクサンドル・ネフスキー」(1938年)は中世ロシアの英雄がドイツ騎士団を打ち破る話で、将来のナチスとの戦いを意識して描かれ、音楽も戦意高揚に一役買っています。
・「ロシアには犬一匹入れさせない」というアレクサンドルの言葉を聞いて、マリウポリの製鉄所包囲の際にプーチン大統領が言ったという「製鉄所には犬一匹入れるな」を思い出しました。
・一方の「イワン雷帝」は、独ソ戦での戦意高揚を目的に作られたロシア初代皇帝の物語で、1944年の第1部はスターリン賞を受賞しましたが、第2部は上映禁止。制作途上だった第3部はフィルム破棄処分となりました。
・美化しても、暴君となっていく姿は隠せないということでしょう。貴族との権力闘争を描く第2部は映像(一部カラー)も音楽も大変陰鬱です。
・独裁者スターリンがお手本にしたというイワン雷帝。どうしてもプーチン大統領の姿と重なります。
・この尋常でない暴君の姿を観ると、ウクライナ侵攻はいつまでも終わらないのではないか、という暗澹たる思いを禁じえません。
・歴史の中に現代が投影されているような二つの映画と映画音楽です。
[CD]交響曲第5番(ヤンソンス指揮 レニングラード・フィル)
・「イワン雷帝」第1部の初演が好評を博した直後(1945年)に初演されたプロコフィエフの交響曲の代表作です。
・1941年のドイツのソ連侵攻で祖国愛に目覚めた彼が祖国に貢献すべく作曲した豪壮な曲で、ショスタコーヴィチの「レニングラード交響曲」と似た位置付けでしょうか。響きとしては、ショスタコーヴィチの第5交響曲のような外面的な印象もあります。
・本CDが録音された1987年はレニングラード・フィルに50年間君臨したムラヴィンスキーが亡くなる直前。
・1991年にはソ連崩壊とウクライナ独立があり、このオケはサンクトペテルブルク・フィルに改名しました。まさに時代が動いた時期ですね。
[CD]交響曲第6番(ムラヴィンスキー指揮 レニングラード・フィル)
・1947年に作曲され、プロコフィエフの交響曲で唯一ムラヴィンスキーが初演しました。
・外面的な第5番とは対照的に、戦争の悲惨さを反映したような陰鬱で難解な内容で、ソヴィエト政府から批判され、初演後長い間演奏されませんでした。
・思えば、彼の祖国ウクライナは独ソ戦の激戦地となり、ドイツ側で戦った住民も多数いるなど、戦後はかなり混乱しました。陰鬱な曲ですが、真実があり、聴きごたえがあります。
・ムラヴィンスキーはプロコフィエフの交響曲の中でなぜかこの曲だけを何回も演奏しており、私も1958年モスクワ(モノ)、1967年プラハライヴ(ステレオ)の2種類のCDを持っています。どちらも妥協のない、ずっしり重くかつ鋭い演奏です。
(2)グリエール
天才少年プロコフィエフに音楽の最初の手ほどきをしたのがグリエールだそうです。
彼は1875年、ロシア帝国のキーウに生まれました。父はドイツ人、母はポーランド人ですので、民族的にはウクライナ人でもロシア人でもありません。東西の接点・ウクライナには多様な人がいるのでしょうね。
モスクワ音楽院で長く教え、ソ連作曲家同盟の組織委員会議長を長く務めました。ソ連作曲家同盟とは、ショスタコーヴィチやプロコフィエフを「形式主義」として批判した団体です。
キーウ高等音楽院の正式名は(多分現在も)「グリエール記念キーウ高等音楽院」です。
グリエールは決して有名な人ではありませんが、なぜか以前に交響曲のCDを買っていて、名前が記憶にありました。
[CD] 交響曲第3番「イリヤ・ムロメッツ」(ヨハノス指揮 チェコスロヴァキア放送交響楽団<ブラチスラヴァ>)
・ロシア革命直前の1911年に書かれた民族主義的な音楽で、10世紀のキエフ大公に仕えた勇士の物語です。演奏時間80分とブルックナーの第8交響曲並みの長大な曲です。
・叙事詩を題材とした映画音楽のような響きで、ストーリーに沿った起伏があり楽しく聴かせます。こういう分かりやすさは規制当局好みなのでしょうか?
・ウィーンのすぐ近く、今でいうスロヴァキアのオーケストラは豊かな響きを出しており、こうした珍しいオケが聴けるのはNAXOSレーベルならではの楽しみです。
(3)リャトシンスキー
リャトシンスキーはプロコフィエフと同様グリエールの弟子で、1895年生まれ、プロコフィエフより4歳年下です。
ウクライナ(当時は帝政ロシア)北部のジトーミルに生まれ、キーウ音楽院でグリエールの指導を受けました。卒業後は母校で教えながら作曲活動を続け、キーウで亡くなっています。
コスモポリタンだったプロコフィエフと異なり、ウクライナ音楽界の代表といった感じだったのでしょう。
スターリン時代の弾圧を受けながらもソ連国家賞を3度受賞しており、苦労しながら体制と折り合いをつけてきたのだと思います。
この人の名前は、今回ウクライナの作曲家を調べた際に初めて知りました。
[CD]交響曲全集(クチャル指揮 ウクライナ国立交響楽団)
・1993~94年に録音された旧譜ですが、本年6月にNAXOSからボックス入りで全集化され、充実した日本語解説も付きました。ウクライナ侵攻で「ウクライナの作曲家」に対する注目度が上がってるのでしょう。
・交響曲は5曲ありますが、一番面白いのは1936年の前衛的な第2番で、スターリン時代のため30年間初演できませんでした。その埋め合わせをするように書いた勇壮な第3番(1951年)も批判され、フィナーレをさらに勇壮なものに改訂したそうです。
・彼より11歳年下のショスタコーヴィチも、マーラーの影響を受けた野心的な交響曲第4番(1936年)は政府からの圧力で初演が25年間できませんでした。ショスタコは翌1937年、英雄的でやや外面的な第5番を発表して劇的な名誉回復を果たします。
・弾圧する側の論理は、「音楽(芸術)は大衆のためにある」ということなのでしょうが、創作の自由のないところに活気ある音楽(芸術)がないのもまた事実だと思います。
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3.ウクライナの演奏家
(1)ホロヴィッツ
ウクライナ出身の演奏家の筆頭はホロヴィッツでしょうか。
彼は1903年にキーウ近郊(当時はロシア帝国)で生まれたユダヤ系のピアニストで、キーウ音楽院を卒業しプロになります。
ロシア革命後のソ連での活動に限界を感じて、同じウクライナ出身のユダヤ人であるヴァイオリニストのミルシテインとともに1925年に西ヨーロッパに亡命。1928年に米国デビューして大成功を収め、1933年に大指揮者トスカニーニの娘ワンダと結婚しました。
彼はユダヤ系であったこともあり、ナチスの支配するヨーロッパから1940年に米国に移住し、大ピアニストとしての名声を確立しました。
ウクライナ独立の直前、1989年にニューヨークで亡くなりました。
政治のうねりの中、ピアノの腕ひとつで生きる道を切り拓いてきたのですね。
[CD]チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番(トスカニーニ指揮 NBC交響楽団)
・1941年、米国移住の翌年に録音された義父トスカニーニとの共演。
・トスカニーニの厳格かつ切れ味鋭い指揮とホロヴィッツの超絶技巧の轟音が鎬を削る容赦ない演奏。音楽の一つの究極の姿を見せているように思います。ただ、聴いていて疲れるかな?
・前にコメントした「展覧会の絵」もそうですが、「心に染みる感動」というよりは、「その凄さに感心、感嘆」という音楽ではないかと思います。
[DVD]ホロヴィッツ・イン・モスクワ
・20歳過ぎで祖国を離れたホロヴィッツですが、約60年を経た1986年にモスクワで「里帰りコンサート」を開きました。
・80歳を過ぎた演奏で多少のミスタッチはありますが、古典からロシアものまで多様な名曲を鮮やかに音にしていきます。
・DVDなので、聴衆の熱狂や涙を流しながら聴き入る姿を見ることができます。
・この聴衆たちはホロヴィッツを「祖国ソ連出身の音楽家」として歓迎したのでしょう。ホロヴィッツ本人にとって祖国はソ連なのか?ロシア帝国なのか?ルーシなのか?ウクライナなのか?
・好々爺然としたドキュメンタリーフィルムの姿からは、その心中は知るべくもありません。
(2)リヒテル
しばしば「ホロヴィッツと並ぶ20世紀のピアノの巨人」と称されるリヒテルも、ウクライナ出身です。
ロシア革命の直前、1915年にリャトシンスキーと同じ北部ジトーミルで生まれました。
父はドイツ人、母はロシア人で、彼が小さいときに家族はオデーサに転居。独学でピアノをはじめ、15歳でオデーサ歌劇場の練習ピアニストになりました。
1937年にはモスクワ音楽院に入学しますが、対独関係が悪化する中で同年ドイツ人の父は逮捕され41年に処刑。母は再婚して大戦末期にドイツに亡命します。
ソ連に残った彼は在留ドイツ人として扱われますが、1945年に全ソヴィエト音楽コンクール・ピアノ部門で1位になり、指導教官のネイガウスに同郷の巨匠プロコフィエフを紹介してもらうなど、ピアニストとしての地位を確立していきます。
彼の出自のせいか、西側での演奏は当局から長く認められず、西側では「幻のピアニスト」と呼ばれていましたが、前述の1958年ソフィアでの「展覧会の絵」のあたりからその姿が西側にも次第に明らかになってきました。
ヤマハのピアノを愛用し、何度も来日するなど日本との縁も深い人でした。
家族を残し亡命したホロヴィッツもそうですが、若くして家族と離れてソ連の中で這い上がったドイツ人リヒテルも、文字どおり「ピアノの腕ひとつで生き残った人」と言えると思います。
1997年にモスクワで亡くなりましたが、彼の眼にウクライナの独立(1991年)はどう映ったのでしょうか?
リヒテルのCDはそこそこ持っていましたが、彼の出身や経歴は今回初めて知りました。
[CD]ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番(ヴィスロツキ指揮ワルシャワ国立フィル
・まだ「幻のピアニスト」だった頃、1959年にドイツ・グラモフォンがワルシャワに乗り込んで録音したものです。
・この演奏は、1962年のカラヤン指揮のチャイコフスキー協奏曲とのカップリングで長く市場に出回り、名盤とされています。私もずいぶん前に買いました。
・チャイコフスキーでのカラヤンとのバトルは、ホロヴィッツ/トスカニーニ盤のどこか似た者同士の究極の凄演とは違う他流試合のぶつかり合いの面白さのようなものがあると思います。
・でも、私のお勧めはラフマニノフ。このロマンチックな曲を華やかに時には寂しげに、しかも格調高く弾ききっています。ポーランドのオケのやや哀愁を帯びた響きも好ましく、厳寒のロシアの熱き愛の詩…を感じさせるに十分です。
[CD]バッハ「平均律クラヴィーア曲集」
・1970~73年にザルツブルクの宮殿で録音されたもの。
・私にとっては、高校でオケに入り、ベートーヴェンでクラシック音楽に目覚めてから少しずつ聴く範囲が広がり、バッハにたどり着いたときに聴いた思い出深い演奏です。
・最初の分散和音の柔らかい響きは夢の中に入っていくようですが、夢見心地でいると、第2番ハ短調で鋭く叩き起こされます。リヒテルに案内されるCD4枚の長い旅は夢とうつつを行き来する至福のひと時です。
・その後、グルダの演奏等も聴きましたが、何の恣意も感じさせない、ただバッハの音楽が鳴っているだけというこのリヒテルの演奏が、何十年も前に買ったこのCDが、未だに一番です。
・ラフマニノフもバッハも聴かせるこの人は、「音楽をして語らしめる」術を心得ているのかなと思います。
(3)オイストラフ
1908年オデーサ生まれのユダヤ系ヴァイオリニスト。オデーサ音楽院に学んでプロデビュー。1937年には現在のエリザベート王妃国際音楽コンクールで優勝。その後はモスクワ音楽院で教えながらソロ活動を続けました。
クレーメルは彼の弟子になります。
第二次大戦の前後に多くの芸術家がソ連を去る中、オイストラフは同国のヴァイオリニストの柱でした。本人も「国家のおかげでバイオリニストになれた」と語ったそうです。
ソヴィエト体制の中で順風満帆で過ごしてきたイメージがありますが、実は人知れぬ苦労があったのかなかったのか…本当のことは分からないですね。
[CD]プロコフィエフ ヴァイオリン・ソナタ第1番
・プロコフィエフの2曲のヴァイオリン・ソナタは1944~46年に完成し、いずれも同郷のオイストラフに献呈されたものです。
・この録音は、1955年、初の訪米の際の、米国への挨拶代わりの1枚です。
・オイストラフの豊かな美音は、やや硬質のプロコフィエフの音楽に彩を添えています。
[CD]ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番(ムラヴィンスキー指揮 レニングラード・フィル)
・1948年に作曲されたショスタコの傑作のひとつですが、弾圧を受けやすい前衛的な内容で、時代の雰囲気を察して発表は1955年まで延期されました。
・この曲もオイストラフに捧げられており、彼が当時のソ連のヴァイオリニストの中心であったことが分かります。初演は1955年にこのコンビで行われました。
・私が持っているCDは、初演の2年後、1957年にプラハで行われたコンサートのライヴです。
・ショスタコのいつになく遠慮のない前衛的な響き、それを鋭くえぐるムラヴィンスキー、それを変幻自在の音で彩るオイストラフ。名曲名演だと思います。
(4)スターン
1920年にウクライナ西部のクレメネツィ(当時はポーランド領)に生まれたユダヤ系ヴァイオリニスト。
ウクライナ西部というのは、現在、ウクライナからポーランドに脱出する拠点となっているリヴィウを中心とする地域です。
ウクライナ西部は、大雑把に言って以下のような変遷をたどります。
・10世紀頃、キエフ大公国の領土。
・同国崩壊後の混乱期を経て、14世紀にはポーランド王国領。
・1772年の第1回ポーランド分割によりオーストリア帝国領。
・1918年の第一次大戦終了とロシア革命後の混乱の後、ポーランド共和国領。
・第二次大戦後、ポーランドの国境(対ドイツ、対ソ連)が西に移動(ドイツの領土縮小、ソ連の領土拡大)し、ソ連(現ウクライナ)領に。
・1991年、ソ連崩壊、ウクライナ独立。
こうしてみると、ウクライナ西部がロシア・ソ連領だった時代はあまり長くないのかもしれません。
スターンが生まれた1920年は第一次大戦とロシア革命の直後の混乱期です。ユダヤ人であることが関係していたかは分かりませんが、両親も身の安全を考えたのでしょう、一家は彼が1歳の時に米国に移住します。
スターンは米国でヴァイオリンの大家となり、パールマン、ズーカーマン、マ(チェロ)など多くの新進演奏家をサポートしました。
[CD]モーツァルト ヴァイオリン協奏曲第1~5番(セル/シュナイダー指揮 コロンビア交響楽団ほか)
・1961・63・76年に録音されたこの全集は、スターンの人柄を映してか、優しく芯の通った音色がとても心地よく響きます。
[CD]サウンドトラック「屋根の上のヴァイオリン弾き」
・1.でも紹介したとおり、1971年のこの映画のヴァイオリンはスターンが弾いています。
・東欧で生まれ、ロシア革命の混乱の中でアメリカに渡ったスターンからすると、ロシア帝国のポグロムを受けてアメリカに渡ったテヴィエの物語は、同じユダヤ人として決して他人事ではなかったでしょう。
・ユダヤの哀愁に満ちたメロディがスターンのヴァイオリンで艶やかに奏でられるのは聴きものです。
(5)クチャル指揮ウクライナ国立交響楽団
クチャル指揮ウクライナ国立交響楽団は、上記のリャトシンスキー交響曲全集も演奏していましたが、私が最初に知ったのはカリンニコフの交響曲でした。
いずれもNAXOSレーベルで、このレーベル得意のローカルオケの良さがよく出ています。
クチャルはウクライナ系アメリカ人。バーンスタインと同じですね。
このコンビは東欧ものを中心に多くの録音をNAXOSに残しています。録音場所はキーウのウクライナ放送ホール。このCDもリャトシンスキーも録音は1994年頃です。30年近く前ですが、キーウで鳴り響いた「音」を聴けるのは貴重な気がします。
リャトシンスキーの演奏もそうですが、ロシア系オケの重戦車型爆演とは対照的な繊細な響きに好感が持てます。
軍事侵攻の中、このオケの皆さんは無事なのでしょうか?気になるところです。
[CD]カリンニコフ 交響曲第1・2番
・このCDは昔から持っていますが、なぜ買ったのか思い出せません。多分珍しい曲が聴きたかったのだと思います。
・改めて聴いてみて、交響曲第1番は素晴らしい!秋風が通り過ぎて思わず泣きたくなるようなロマンの香りがします。ラフマニノフよりは少し歳若い感じ。ウクライナのオケのさりげなく控え目なサウンドはこのはかなげな曲にふさわしく、思わず聴き惚れてしまいます。
・ちなみに、作曲家のカリンニコフは、1866年生まれのロシアの作曲家。学費を払えずモスクワ音楽院を中退。チャイコフスキーに認められるも過労がたたり転地療養。最後はクリミアのヤルタ(当時はロシア帝国領)で34歳の若さで亡くなりました。
・この作曲家の悲運な物語も、この曲が涙なしには聴けない一因かもしれません。
・ロシア人の作品をウクライナ人が演奏する…これまで普通だったことが今はなかなか難しいと思います。平和の大事さを改めて感じます。
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ウクライナを描いた曲とその演奏を少したどるだけで、同じ「ルーシ」を起源とするロシアとの親近性と相違点、ロシアと西欧諸国に挟まれた立ち位置、ユダヤ人の存在感、ナチスとの戦い、社会主義時代の恐怖などなど…現在を理解するのに必要ないろいろなことが分かってきます。
ウクライナとロシアは同じルーツを持っているとも言えますが、その後の歩みはそれぞれにかなりの紆余曲折を経ており、両国国民の間には共通する喜びや苦悩もあれば、相反する利害もあるのでしょう。簡単に論じることはできません。
ただ、いずれにしても、問題解決の方法が戦争や軍事侵攻といった「力による解決」であってはならない、ということだけは頭に刻みつけておきたいと思います。
【今日のBGM】
ユダヤの冬の旅
グランヴィル(バス・バリトン)、ナップ(ピアノ)
・今回はウクライナとロシアの音楽に注目しましたが、両国と並ぶルーシ3国の一角、ベラルーシはどうかなと思って調べてみました。
・しかし、ベラルーシ出身の音楽家のCDはあまり見当たりません。唯一、「ユダヤ冬の旅」というNAXOSのシリーズものにRoskinとBugatchという二人の作曲家の名を見つけ出すことができました。
・この、イディッシュで綴る「ユダヤ冬の旅」は、ホロコーストの悲劇をシューベルトの「冬の旅」になぞらえて歌集にしたCDで、素朴で哀愁が漂うユダヤのメロディは、シューベルトの絶望よりさらにずっしり重いように感じます。
・全23曲ですが、伝承曲4、シューベルト(菩提樹)1のほか、ポーランドとベラルーシの作曲家の曲が5曲ずつ収められています(そのほか、ウクライナ、ルーマニア、ロシア、アメリカが1曲ずつ、他は不明)。
・ウクライナ出身の音楽家にユダヤ人が多いことに加え、屋根の上のバイオリン弾きやバビ・ヤールなどの作品を見ても、東欧のこの地域におけるユダヤ人の存在は非常に大きいことが分かります。ウクライナのゼレンスキー大統領もユダヤ人と聞きます。
・このユダヤの音楽を聴きながらウクライナ情勢を思い浮かべると、ホロコーストを含む大量殺戮ジェノサイトがどうしたらなくなるかは決して昔の話ではなく、まさに今、突き付けられている課題なのだと感じました。