マイヤーリンクと皇太子ルドルフ~オーストリア・ハンガリー⑥ | 福岡日記+(プラス)

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転勤族から見た福岡や九州の風景、趣味の音楽の話などを綴ります。

2020年3月のウィーン旅行2日目午後、ウィーンの森ツアーの後半です。

 

前回のハイリゲンクロイツ修道院では、10~13世紀のオーストリア黎明期、バーベンベルク家からハプスブルク家への移り変わりを見ました。

 

次のマイヤーリンクでは、19世紀末、ハプスブルク帝国崩壊の足音を聞くことになります。

 

マイヤーリンク礼拝堂

 

 

 

ハイリゲンクロイツ修道院から車で少し走ったところにマイヤーリンク礼拝堂があります。

 

フランツヨーゼフ1世と后妃エリザベートの息子、皇太子ルドルフがマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢と心中した場所です。

 

もともとはハイリゲンクロイツ修道院の持ち物でしたが、1886年にルドルフが気に入って入手。狩りの館として使っていました。1889年の心中事件後、フランツヨーゼフ1世の命により修道院(礼拝堂)になりました。

 

今は観光地になっており、展示館の入口にはルドルフの姿が見えます。

 

 

 

 

展示館の中にはルドルフの着ていた服などが展示されていました。

 

 

 

 

展示館から外に出ると、マイヤーリンク礼拝堂の全貌が…。3月のまだ寒い空気の中、静かなたたずまいでした。

 

 

 

 

ミュージカル「エリザベート」では、死の化身トートが幼いルドルフの友達となって死に誘う様子が描かれていました。

 

ミュージカル「ルドルフ」では、ルドルフの疎外感をマリーとの愛が埋めていく様子が描かれていました。

 

今回はそのゆかりの地を訪ねることができ、夫婦そろって楽しみにしていました。

 

まず、本館の前に突き出ている茶館に行ってみましょう。

 

 

 

 

正面から見た礼拝堂。

 

 

 

 

茶館に着きました。

 

 

 

 

外側にはマリーの肖像が。享年弱冠17歳でした。

 

ウィーンの社交界でルドルフと出会い、17歳で死を選んだ心境というのはどのようなものだったのか…。

 

 

 

 

中に入ると、ルドルフの胸像。ルドルフは享年30歳でした。

 

彼が亡くなったのは1889年。父である皇帝フランツヨーゼフ1世が亡くなる27年前、第1次大戦によりハプスブルク帝国が消滅する29年前のことでした。

 

 

 

 

マリーの肖像。そして遺髪でしょうか。

 

 

 

 

この茶館には、マリーの展示が多くみられます。

 

「不倫はいかん」「愛を貫いた」…受け止め方は人それぞれだと思いますが、私自身は、マリーに素直に感情移入することができず、とても複雑な心境でした。

 

 

 

 

茶館を出て、いよいよ本館に向かいます。

 

この建物、いつ見ても人の顔のように見えるんですよね。

 

 

 

 

中に入りましたが、正面の祭壇などの写真は撮りませんでした。

 

撮影禁止と書いてあったか忘れましたが、ガイドさんがやたら急いでいたのと、何か撮りにくい空気のようなものを感じた記憶があります。

 

館内には展示パネルが数多くありましたが、目を引いたのがこれ。マリーの棺です。↓

 

マリーの遺体は、当初心中であることを伏せるため、生きているように装って馬車に乗せられ、私たちがさっきまでいたハイリゲンクロイツ修道院に運ばれてそこで埋葬されました。

 

しかし、その後二度にわたり墓が暴かれ、今は新しい棺の中で眠っています。

 

 

 

 

皇太子ルドルフはなぜ心中に至ったのでしょうか。

 

ミュージカル「ルドルフ」では、自由主義者であるルドルフがハンガリー独立派と手を結び、それが首相ターフェや父皇帝フランツヨーゼフ1世の知るところとなって、追い詰められた末に心中に及ぶ様子が描かれています。

 

 

 

 

幼少期には、ハプスブルク家のしきたりどおり、母エリザベートではなく皇帝フランツヨーゼフ1世の母・ゾフィーが教育し、過酷なスパルタ教育だったそうです。

 

7歳以降はエリザベートが教育権を奪い、今までとは逆に自由主義教育を行いましたが、エリザベート自身はウィーンの宮廷に馴染めず年中旅行していて、息子ルドルフとの心の交流はあまりなかったとも言われています。

 

エリザベートはハンガリーが好きで、ハンガリーでの人気は絶大だったそうです。ルドルフと母親はハンガリー語で会話していたという話も聞いたことがあります。

 

ハンガリーの独立勢力と連携したというルドルフの行動には、母親を求める心があったのかもしれませんね。

 

 

 

 

ルドルフの父・皇帝フランツヨーゼフ1世は伝統を重んじ、実直な官僚タイプの皇帝でした。政策はドイツ帝国との連携で、フランス等との連携を望むルドルフとは相容れませんでした。

 

ルドルフは皇太子として軍の役職等に就きますが、意見は受け入れられず、自分の存在意義に悩んでいたそうです。

 

当時は、多民族国家であるオーストリア=ハンガリー帝国内部に民族主義が勃興し、皇帝は帝国をまとめるのに四苦八苦していました。息子である皇太子には、自分と一体となって帝国の運営に当たってほしかったのでしょう。

 

しかし、「自由主義」の洗礼を受けたルドルフにとってそれは自己否定にほかならず、矛盾と相克の中で行きつくところまで行きついた…ということなのかもしれません。

 

もちろん、本人の心の中は誰にも分かりませんが。

 

 

 

 

事件の直前、ルドルフとマリーはウィーンのどこかで落ち合い、馬車でこのマイヤーリンクまで来たそうです。

 

1889年1月30日朝。起きてこない主人を不審に思った使用人が寝室に入ると、二人が血を流してベッドに倒れていたそうです。

 

この事件は謎に満ちており、殺人説などもあるそうです。

 

礼拝堂からの帰り道。茶館の向こうに広がるウィーンの森。↓

 

 

 

 

今回のウィーン旅行の前に、ミュージカル「ルドルフ」の原作である小説「ルドルフ  ザ・ラスト・キス」を読みました。↓

 

面白かったのは、ルドルフの置かれた状況は彼一人のものではなかったということ。ここには、崩壊直前の保守的なハプスブルク帝国・ウィーンの中で抑え込まれ苦しめられた革新的な人々が多く描かれています。

 

音楽の世界での代表例は、保守派ブラームスと比較され批判され続けたブルックナーであり、ウィーンのオペラ界で批判されブダペストの歌劇場に活路を見出さざるを得なかったマーラーでした。

 

このあたりは、音楽ファンでありブルックナーやマーラーのファンとしては実に面白く読みました。

 

ハプスブルク帝国という古い器が最後の輝きをみせながら崩れかかっていた世紀末ウィーン。ルドルフは新しい時代を望みながら、あるいは望んだからこそ、時代の波に飲み込まれてしまったのかもしれませんね。

 

 

 

 

ルドルフの死後、自由主義や民族主義への弾圧は強まり、反ユダヤ主義は広がり、世の中はルドルフの理想と逆の方向にどんどん進んでいきます。

 

ルドルフの後の皇太子はフランツヨーゼフの弟。その次はその息子のフランツ・フェルディナントでした。彼がサラエボで暗殺され、第1次大戦がはじまり、大戦中の1916年にフランツヨーゼフは死去。その後をフランツ・フェルディナントの甥のカール1世が継ぎ、1918年の敗戦によってハプスブルク帝国は終焉を迎えます。

 

ルドルフが生きていたら第1次対戦は起きていたのか?帝国はどうなったのか?ルドルフは新しい世界に向けて動けたのか?…歴史の「if」は尽きません。

 

ただ、父の死まで27年間というのは、ルドルフにとってあまりに長かったかもしれませんね。

 

展示館に向かう道。ウィーンの森の風景。↓

 

 

 

 

ルドルフが亡くなった1889年は、奇しくも同じオーストリア国内でアドルフ・ヒトラーが生まれた年です。

 

坂道を大きく転がり始めたオーストリアは、ハプスブルク帝国崩壊、共和国の成立、ナチスによる併合を経て敗戦を迎え、戦後に永世中立国として再出発しました。平和までの長い道のりです。

 

入口の展示館に戻ってきました。

 

 

 

 

展示館で買ったチョコレート。↓

 

フランツヨーゼフ、エリザベート、ルドルフ、そしてマリー・ヴェッツェラ。

 

大きな歴史の流れに巻き込まれた皇太子と17歳の男爵令嬢を刻んだお土産のチョコレート…なかなか複雑ですね。

 

 

 

 

展示館から出ると、皇太子の死の翌日、1889年1月31日の新聞が大きく貼り出されていました。この一面黒枠記事を見た国民は本当にびっくりしたでしょうね。

 

 

 

 

ルドルフの最期に接し、前年の旅行の際にカプチナー教会の地下で見た彼のお棺を思い出しました。

 

彼は、マリーと一緒に埋葬してほしかったそうですが、その願いはかないませんでした。

 

 

 

 

カプチナー教会のハプスブルク家霊廟で、ルドルフは父母と一緒に眠っています。↓

 

父・フランツヨーゼフ1世はルドルフの死を知って泣き崩れながらも、皇帝としての役割を最期までしっかりと演じ続けました。

 

思想や政治的な立場を異にする息子に対し皇帝として厳しく接してきた父は、息子の死に何を思ったのでしょうか。

 

普段から留守がちの母・エリザベートは、ルドルフの最後の時、珍しくウィーンにいました。ルドルフはその時を狙っていたのかもしれませんね。

 

自分の教育や留守がちで子供と接する機会が少なかったことなど、どう振り返ったのでしょうか?

 

彼女はその後ずっと喪服を着続け、1998年に放浪旅中のジュネーブでアナーキストに暗殺されました。

 

3人が静かに並んでいる所を見ると、歴史と人間の限りないドラマが頭をよぎります。

 

 

 

 

ロイヤルファミリーと呼ばれる一人の人間が歴史の流れや公的な役割をどう受け止めどう行動するのか。周囲は何を期待しどう評価するのか。本人と周囲の意識に齟齬や亀裂が生じたらどうなるのか…様々な問題を考えさせられます。

 

***

 

マイヤーリンクで長居をしてガイドさんや運転手さんには悪かったですが、車でウィーン市街地、国立歌劇場前まで戻ってきました。

 

まだ日が高いので、歌劇場裏手のホテル・ザッハーへ。

 

 

 

 

ホテルは本当に立派ですが、私たちの目当てはザッハトルテ。

 

 

 

 

デメルと並ぶザッハトルテの本場。カフェの前には行列ができています。

 

 

 

 

お土産のザッハトルテを買って帰りました。

 

 

 

 

その時買ったザッハトルテ。

 

 

 

 

フタはこんな感じ。

 

 

 

 

フタの裏にもひと手間かけています。

 

 

 

 

ザッハトルテを買った後は、今回の旅行で唯一のレストランでの夕食です。

 

レストラン食は結構疲れるので、今回は旅行中1回だけにしようねと夫婦で話しました。

 

今回選んだのは、ケルントナー通りのすぐ近く、「カフェ・フラウエンフーバー」。ウィーンで最も古いカフェの一つと言われています。↓

 

店の中に入ると、渋い装飾の中で渋いウェイターがお世話してくれました。初日に行ったカフェ・ラントマンに感じが似ています。

 

近くのお客さんが食べていた料理が美味しそうだったので、「あれ、お願いします」と言って注文しました。仔牛のクリーム煮みたいなものだったと思います。

 

お客さんはそう多くなかったので、ウィーン料理をゆっくりと楽しむことができました。

 

 

 

 

この建物の由緒書きのようなものが外にありました。↓

 

ドイツ語は読めませんが、ネット情報も合わせて想像すると、この建物で1788年にマリアテレジアの宮廷料理長が高級レストランを開き、同じ年にはこの建物(の2階)でモーツァルトが、1797年にはベートーヴェンがコンサートを開いたということです。

 

でも、このプレートに何が書いてあるのか正確には分かりません。ドイツ語の分かる方、どなたか教えていただけると幸いです。

 

 

 

 

夕食を終え、歩いてホテルに帰りました。

 

シューベルトも心を癒したウィーンの森を訪ね、オーストリアの始まりとハプスブルク帝国の終焉に思いを馳せた午後のひと時でした。

 

 

 

【今日のBGM】

・ミュージカル「ルドルフ」 DVD&CD

 ウィーン ライムント劇場

・ミュージカル「ルドルフ」は日本で2008年と2012年の2回公演がありましたが、日本版DVDもCDもありません。

・もともとうちには妻が買ったウィーン録音CD(スタジオ盤とライブ盤)↓がありましたが、今回の旅行後、ネットでDVDを見つけて買いました。↑

・いずれも2009年のウィーン初演時の音源です。

・このミュージカルの生い立ちは不思議で、ウィーンで制作されながら、世界初演は2006年のブダペスト。2008年日本初演の後、2009年にようやくウィーン初演されました。

・ブダペストが先行し、ウィーンが遅れたというのは、ルドルフの最期を考えると何かいわくありげですね。

・2008年日本公演は宮本亜門演出、2012年日本公演は2009年ウィーン版と同じ演出だったため、両方を観にいった妻によると、演出が大幅に変わっていたそうです。

・2008年公演のパンフとチラシです。↓原作「ルドルフ ザ・ラスト・キス」の文庫本の帯にもこのチラシ写真が出ていましたね。

・言葉の分からないドイツ語DVDですが、画像で筋はだいたい分かりました。ワイルドホーンの曲はロマンチックで素晴らしい!

・心中の話だけに、愛の物語としては主人公たちに感情移入できない部分が残りますが、ルドルフが葛藤を深め追い詰められていく様は心に染みました。

・ルドルフの妻・シュテファニーはここでは敵役になる訳ですが、彼女がルドルフを激しく非難叱責するシーンは、曲や演技の素晴らしさ、迫力もあって、非常に見ごたえのある場面でした。

・「社会からの期待と個人の心情との矛盾・葛藤」の行きつく姿を描いた作品として心に刻みました。