ウィーンの森とバーベンベルク家~オーストリア・ハンガリー⑤ | 福岡日記+(プラス)

福岡日記+(プラス)

転勤族から見た福岡や九州の風景、趣味の音楽の話などを綴ります。

ハイリゲンクロイツ修道院の天井画

 

 

 

2020ウィーン旅行の2日目。アウガルテンから国立歌劇場前に戻ってきました。

 

午後は、「マイバス」というツアー(日本語)を利用してウィーンの森に行きます。

 

主な訪問地は、シューベルトゆかりのヘルドリッヒスミューレ、オーストリアの旧主・バーバンベルク家ゆかりのハイリゲンクロイツ修道院、エリザベートの息子・ルドルフ皇太子が自殺したマイヤーリンク、です。

 

このうちマイヤーリンクは次回に書くことになると思います。

 

 

 

 

出発地の国立歌劇場。

 

前回はバックステージツアーに参加してこの建物の素晴らしさを堪能しましたが、今回、近くで見るのはこの時だけ。

 

しげしげと眺めました。

 

 

 

 

劇場横の待ち合わせ場所でガイドさんと会い、出発!

 

ラッキーなことに、他にお客さんがいない貸切タクシー状態。

 

運転手さんは現地の人、ガイドさんは日本人の主婦の方でした。日本語で案内してもらえるのはありがたいですね。

 

 

 

 

最初の訪問地は「リヒテンシュタイン城」。

 

あのオーストリア・スイス国境にあるリヒテンシュタイン公国の発祥の地で、今もリヒテンシュタイン家が所有しているそうです。車窓から見ただけで写真を撮る間もなくサヨナラ!でした。

 

リヒテンシュタイン公国はハプスブルク帝国の重鎮だったリヒテンシュタイン家が治める国です。

 

リヒテンシュタイン家はオーストリア国籍を持ち、1938年のナチスによるオーストリア併合まではウィーンに住んでいたそうです。国外にリヒテンシュタイン公国よりも広い領地を持ち、公国からは歳費を受け取らず、むしろ寄付しているそうです。

 

現代にかすかに残るハプスブルク帝国の香り…という感じですね。

 

車に乗ってしばらく、次からは本番です。

 

ヘルドリッヒスミューレ。ここは、ウィーン市街から南に20キロほどのところにあるヒンターブリュールという町の一角にあるレストランです。

 

 

 

 

19世紀の初め頃、ウィーンの森での散策が流行っていたことがあり、シューベルトも1820年代にこのあたりを頻繁に訪れ、このレストランに立ち寄り、森の中を散策したそうです。

 

シューベルトは貧しい職業作曲家でしたが、その才能を認めた友人たちが「シューベルティアーゼ」という音楽会を催すなどサポートしたそうです。おそらくここにも裕福な友人の馬車か何かで来て、芸術と自然について語り合ったのでしょう。

 

ここには当時から大きな菩提樹↓があり、シューベルトの歌曲の最高傑作とも言われる「冬の旅」の中の「菩提樹」はここで着想されたものだという話もあるそうです。

 

ただ、「冬の旅」の詞はドイツのヴィルヘルム・ミュラーが書いたもので、シューベルトとミュラーは会ったこともないとのこと。

 

ここの菩提樹を見上げながらミュラーの詞を口ずさんだら「菩提樹」のメロディーが天から降りてきた、という感じでしょうか…。

 

 

 

 

シューベルトはウィーン生まれのウィーン育ちですが、ゆかりの地を訪れたのはここが初めてです。

 

ブルックナーと同じく市民公園に銅像があるのは知っていたのですが、前回は時間がなくてパスしてしまいました。

 

シューベルトというと甘い旋律で「夢見る初期ロマン派」という少女趣味的なイメージだったのですが、結構貧しくて苦労した人だそうです。

 

小さい頃はウィーンの寄宿制神学校の奨学金を得て、宮廷合唱団(現在のウィーン少年合唱団)に加入し、その時の友人から多くの援助を得たようです。

 

歌曲や交響曲、室内楽曲など多くの楽曲を生み後世に名を残したシューベルトですが、モーツァルトより若い31歳でこの世を去りました。病死とのことですが、死因はよく分かっていないようです。

 

ウィーンの大作曲家シューベルトを思い出させてくれたヘルドリッヒスミューレでした。

 

 

 

 

ここから西に10キロちょっと。ウィーン市街地からは35キロほどのところにあるハイリゲンクロイツ修道院が次の目的地です。

 

この修道院は、ハプスブルク家以前にオーストリアを支配していたバーべベルク家によって1133年に設立されました。バーベンベルク家って何?みたいな話はまたあとで。

 

車を降りて、建物をくぐり前庭に入ると、メインの風景が広がります。正面に最古の部分のファサード、左に尖塔、右にペスト記念塔(三位一体柱)が見えます。

 

 

 

 

この修道院には日本語HPがあるのですが、それによれば、三位一体柱は18世紀にヴェネツィア出身のジョヴァンニ・ジュリアーニが製作したものとのこと。バロック様式だそうで、立派な装飾ですね。

 

 

 

 

こちらが前年に撮ったグラーベン通りのペスト記念塔↓。1693年に建てられたものです。こちらもバロック様式とのこと。確かに似ていますね。

 

 

 

 

広い前庭には巨大な樹木が。冬で葉がないので見通しは良いですね。

 

 

 

 

広い中庭を囲むピンクの回廊。この中に一部だけとても古そうな雰囲気を出しているのが…

 

 

 

 

ファサードです。1133年の設立の直後、1187年に作られたと言われています。

 

中に入っていきます。

 

 

 

 

ここで、修道院の説明の前に、修道院のあるウィーンの森について書いてみましょう。

 

修道院の中の回廊の様子を見ながら、どうぞ。

 

長く続く回廊

 

 

 

ウィーンの森は、ウィーンを北、西、南の3方から囲む東京23区の2倍ほどの森で、アルプス山脈の東端にあたります。

 

オーストリアは国土の62%がアルプス山脈にあるそうですが、その端は国の東寄りにある首都ウィーン周辺まで到達しているのです。

 

回廊の母子像

 

 

 

確かに、冬季五輪を開催したチロルのインスブルックとか、まさにアルプスですよね。

 

今回のウィーン旅行でも毎朝ホテルでORF(オーストリア放送協会)のニュース番組を見ていましたが、インスブルックなどオーストリア西部はすごい雪の日ばかりでした。

 

このことからみても、ハプスブルク帝国がウィーンを中心にハンガリーやチェコといった東側に広がっていった理由の一つが分かるような気がします。

 

回廊から小さな中庭を望む

 

 

 

アルプスの東端、ウィーンの森は3方からウィーンを囲んでいますが、一番見どころが多いのは南です。

 

今回の旅行を計画するとき、夫婦で是非行ってみたいと話したのがマイヤーリンク。自力では無理なのでツアーで、と申し込んだらセットで付いていたのがここ、ハイリゲンクロイツ修道院です。それまでその存在すら知りませんでした。

 

でも、連れていってもらって本当に良かったと今では思っています。

 

小さな中庭

 

 

 

さて、ではそろそろこの修道院の話に移りましょう。

 

ハイリゲンクロイツ修道院は、1133年に作られた現存するシトー派最古の修道院です。

 

976~1248年の間、オーストリアは、オーストリア辺境伯(東方辺境伯)やオーストリア公を歴代務めるバーベンベルク家に治められていました。

 

その一人、レオポルド3世が、フランスのシトー派修道院に属していた息子のためにこの修道院を設立したのです。

 

ハイリゲンクロイツの意味は「聖なる十字架」。ただ、この名前は最初からではなかったようです。

 

噴泉室

 

 

 

バーベンベルク家は、976年にレオポルド1世が神聖ローマ帝国の東方辺境伯に任じられた頃から歴史に登場します。

 

オーストリアの古称である「オスタリキ」という地名が公式文書に登場するのは996年。バーベンベルク家の登場はオーストリアの誕生とほぼ同時期だった訳です。

 

当初の東方辺境伯領は現在のウィーン周辺に限られ、ザルツブルクやリンツはバイエルン公領でした。バーベンベルク家はこれを拡大していきます。

 

6代目のレオポルド3世(治世1095~1136年)は、神聖ローマ皇帝の姉と結婚して帝国内での地位を高め、ハイリゲンクロイツ修道院のほかにも修道院を多く設立し、「国の父」と讃えられて死後聖人となりました。

 

8代目のハインリヒ2世(治世1141~1177年)は、1147年にウィーンのシュテファン寺院の建設をはじめ、1156年にはオーストリア辺境伯(伯爵)からオーストリア公(公爵)に昇格。これはオーストリアが神聖ローマ皇帝から国として認められたことを意味します。この頃、オーストリアの首都もウィーンに移り、今日に至る基礎が築かれていきます。

 

噴泉室のステンドグラス

 

 

 

こうしてオーストリアの基礎を築いたバーベンベルク家ですが、第12代フリードリヒ2世は諸国との戦争を好み、1246年に35歳で跡継ぎのないまま戦死して断絶してしまいます。

 

その後、フリードリヒ2世の姉と結婚したボヘミア王オタカル2世がオーストリア公を継ぎ、空位となっていた神聖ローマ皇帝をも狙いますが、選帝諸侯は野心家のオタカル2世よりも御しやすいスイスの弱小勢力ハプスブルク家のルドルフ1世を選定(1273年)。

 

ルドルフ1世はその政治的能力を駆使してオタカル2世を外交・軍事の両面から圧迫して攻め滅ぼし、教皇や諸侯との関係を深めてオーストリア公となります。攻め滅ぼしたオタカル2世の娘・息子と自分の息子・娘を婚姻させてボヘミアへの影響力を強めることも忘れていません。

 

こうした活躍が目立ち過ぎたのか、選帝侯はハプスブルク家による神聖ローマ皇帝の世襲を認めませんでした。しかし、本拠地をスイスからウィーンに移したハプスブルク家はオーストリア公として力をつけ、1438年以降は神聖ローマ皇帝を世襲独占することになります。

 

バーベンベルク家が築いたオーストリアの基礎をそのまま承継できたことがハプスブルク家の発展につながった訳ですね。

 

由緒ありげな文字が刻まれた石板

 

 

 

私は今回初めてバーベンベルク家のことを学びました。

 

このあとは、修道院内部の装飾に注目してみましょう。

 

院内には、三位一体柱と同様、18世紀のヴェネツィア出身のジョヴァンニ・ジュリアーニの製作物がいくつかあります。

 

回廊に飾られた「弟子の足を洗うキリスト」像もその一つです。

 

 

 

 

キリストが最後の晩餐の時に弟子の足を洗う話は、ヨハネによる福音書にだけ出てきて、他の福音書には見当たりません。そのせいか、バッハ「マタイ受難曲」にもミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」にも登場しません。

 

「弟子もお互いに足を洗い合え」という含意があり、ティントレットの絵などが有名ですね。

 

神奈川県の洗足学園(音楽大学)は、このキリスト教の故事をもとに命名されたものだそうです。

 

一方、私たち家族がかつて住んでいた大田区の洗足池は、日蓮上人が足を洗った故事から命名されたそうです。

 

聖人が足を洗うというのは、洋の東西を問わず意味を持っているのかもしれませんね。…ちょっと脱線しました。

 

院内には同じテーマの像がいくつかあります。師に足を洗われてびっくりしているのはペトロでしょうか。結構写実的ですね。

 

 

 

 

イエスの十字架像の下にも、弟子の足を洗うキリストが描かれていました。

 

 

 

 

ここからは、バーベンベルク家の当主の墓所です。

 

辺境伯レオポルド4世、オーストリア公レオポルド5世、同フリードリッヒ1世、同フリードリッヒ2世の4名がこの修道院に眠っています。

 

 

 

 

中を見てみましょう。

 

美しい墓所ですが、誰のものかはよく分かりませんでした。

 

 

 

 

次も立派な墓所です。

 

 

 

 

先ほどの墓所よりも地味というかシックにまとめられています。ウィーンのカプツィーナ教会にあるハプスブルク家の墓にちょっと似ています。

 

文字は書いてありますが、ここも誰の墓所かはよく分かりません。

 

 

 

 

そして最後に、一番立派なお墓です。

 

 

 

 

ここは墓所の中に入れます。

 

フリードリッヒ2世、バーベンベルク家最後の当主のお墓です。

 

 

 

 

フリードリッヒ2世は「好戦公」とも呼ばれ、対外戦争を繰り返し跡継ぎもないまま自分も戦死して自国を破滅させた、と言われています。

 

 

 

 

しかし、積極的に修道院を支援したことで、こんな立派な部屋に葬られています。

 

次から次へと戦争しながら修道院を積極的に支援した好戦公の心の中には一体何があったのでしょうか…?

 

天井画は夢見るような美しさです。

 

 

 

 

墓所を出て、やはり天井画が美しい作業室のようなところにきました。

 

ガイドさんは時おり胸で十字を切っています。カトリックに入信されて、この修道院への思い入れも強いのでしょう。とても熱心に案内してくれました、

 

 

 

 

この美しい修道院も、二度ほど存続の危機に見舞われたそうです。

 

一度目は1780~90年のヨーゼフ2世の治世。マリア・テレジアの息子(マリー・アントワネットの兄)であるヨーゼフ2世は、当時のフランス革命の雰囲気の中、啓蒙専制君主として人民を重んじ、教会や修道院の解散・財産没収などを行いました。

 

二度目は、1938~45年のナチス時代。財産の大部分を没収され、多くの修道士が拘留されました。

 

そうした試練を乗り越えて今日まで、オーストリアの歴史を語り続けてくれています。

 

柱、天井…全てが芸術的です。

 

 

 

 

そして最後に、修道院付属の教会堂に入ってきました。

 

神父様が説教される祭壇?を向かって右から見ています。

 

 

 

 

祭壇を囲む高い天井。奥には天まで届くステンドグラスが。

 

 

 

 

ステンドグラスの横には天にも届く美しい宗教画。

 

 

 

 

祭壇に向かって左側には重厚なパイプオルガン。

 

 

 

 

祭壇を正面から見るとこんな感じです。

 

 

 

祭壇から遠ざかりながら見てみましょう…。

 

 

 

 

左右には美しい彫刻が。

 

 

 

 

さらに遠ざかると…ここは会衆の集まる場所でしょう。

 

高い天井。

 

このまま祭壇から遠ざかると、前庭から最初に見たファサードに出ることになります。

 

 

 

 

そして、修道院見学は終わりました。

 

外に出て、最後はお土産とスイーツです。

 

ツアーの特典でスイーツが一人一つ付いてくるのと、ここはワインが有名と聞いてそれも買って帰りました。

 

 

 

 

これがその時買ったワインです。

 

この修道院は、シトー会の教えだけでなく、オーストリアで一時期絶えていたワイン造りとブドウ栽培をフランス(ブルゴーニュ)から再移入し、今日この周辺で盛んなオーストリアワインの基礎を作りました。

 

 

 

 

ハプスブルク家以前のオーストリアについて初めて学んだハイリゲンクロイツ修道院の見学でした。

 

アルプス山脈の東端に広がるウィーンの森。そこに位置する神聖ローマ帝国の「辺境」は、バーベンベルク家の発展により「オーストリア」となり、それを引き継いだハプスブルク家により帝国の中心となって帝都ウィーンが栄えることになります。

 

そして、神聖ローマ帝国崩壊後のハプスブルク帝国は、その地理的特性もあり、東に目を向けていくことになります。

 

大きな歴史の流れを感じますね。

 

 

 

 

 

ツアーはこのあと、本日最大のお目当て、マイヤーリンクへと進みます。それはまた次回に。

 

 

 

 

【今日のBGM】

・シューベルト 歌曲集「冬の旅」

 ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)

・今回、シューベルトの菩提樹にゆかりのあるヘルドリッヒスミューレを訪れ、ふと「シューベルトの歌曲って菩提樹とか魔王以外殆ど聴いたことないな」と気づきました。要するに中学生レベルということです。

・そこで、菩提樹を含む冬の旅を初めて買ってみました。定評のあるフィッシャー=ディースカウとムーアの1972年グラモフォン盤。

・聴いてみると…めちゃくちゃ暗い!一言で言うと、失恋した主人公が絶望の歌を歌う、という内容です。

・最後の曲は、誰にも相手にされない年老いた辻音楽師の弾く手回しオルガンの音色に少し親近感を覚えてこの老人についていこうかな、と考えて終わる…詞も音楽も極めて虚無的で、救いがありません。

・全24曲中5番目の菩提樹は、悲しみの中でかつての温かい思い出をほんの一瞬思い出しますが、有名な温かい旋律が後半は短調に転調し、悲しみに沈んでいきます。

・内輪の初演を聴いた友人たちが凍り付いたというのも分かる気がします。

・もともとミュラーの詞が暗いんですが、それに好んで曲をつけ、凍り付くような孤独と淡く消える幻想を音に表現して、この作品に永遠の命を与えたのはシューベルトでしょう。

・歌詞がある音楽は表現が脳に直接飛び込んでくるので、器楽曲中心に聴いている人間にはびっくりすることもありますが、これも音楽の楽しみ。ドイツリートという宝の山にじっくり登り始めたいと思います。