両親と歩く南房総~鴨川から小湊へ | 福岡日記+(プラス)

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転勤族から見た福岡や九州の風景、趣味の音楽の話などを綴ります。

昨年の11月、房総半島を旅行してきました。

 

今回の目的は、90歳前後の私の両親と久々に旅行すること。


両親は、永年住んだ(私も生まれ育った)下町江東区の自宅を数年前に売り払い、船橋の高齢者住宅に入りました。

 

相当な決断だったと思います。

 

高齢の両親との旅行…車で行くのが定石でしょうが、私は車の運転があまり好きではなく、運転すると自分が全く楽しめないので、電車で行くことにしました。

 

船橋を起点に安全なプランを考えると…行き先はやっぱり房総半島。鴨川と小湊に1泊ずつすることにしました。

 

鴨川から見た朝日

 

 

房総への旅。当初は10月の体育の日の3連休にJRと宿を予約したのですが、不測の事態が起きました。

 

9月9日に過去最大級の「令和元年房総半島台風」(気象庁が台風に名前を付けたのは42年ぶりだったそうです)が上陸。市原市のゴルフ練習場のネットが倒れたあの台風です。

 

この台風は房総半島中の電柱をなぎ倒して広範囲に停電が発生。復旧したのは9月の終わりでした。このため、急遽日程を11月の文化の日の3連休に変えました。

 

すると、10月12日にはこれも史上最大級の「令和元年東日本台風」(これも気象庁が命名)が関東を縦断。北陸新幹線の車両基地が水に浸かったあれです。

 

さらに10月25日には台風21号の影響で豪雨が房総半島を襲い、台風の被災地を痛めつけました、とんでもない災害のオンパレードです。

 

どうしようか迷いましたが、直前の10月末に宿に電話したところ、付近は特に問題ないとのこと。予定どおり出かけることにしました。

 

小湊の海

 

 

11月初、天気に恵まれて出発です。

 

練馬区平和台の自宅から船橋で両親をピックアップし、外房線の蘇我駅に向かいます。今や房総半島の特急の殆どが京葉線経由となり、千葉の先の蘇我まで行かないと乗れなくなりました。

 

外房線の安房鴨川行き特急わかしお9号…乗って一息つきます。外房線は案外海岸線近くを通っておらず、海が見えた時間はあまり長くありませんでした。

 

でも、たまに見える海はやっぱりいいなあ。

 

 

 

 

蘇我から1時間20分ほどで終点安房鴨川。そこからタクシーで鴨川グランドホテルへ。のんびり旅行で夕方は特に予定もなく、部屋でゆっくりします。

 

 

 

 

部屋からは海岸のいい眺めが楽しめます。これは明日行く小湊方面です。

 

 

 

 

正面は太平洋。南東ですからハワイの方向でしょうか。

 

 

 

 

こちらは太海方面。その向こうは館山です。

 

 

 

 

旅行といえば温泉ですが、高齢者が浴場で足を滑らすのはちょっと心配ですね。今回は奮発して温泉のついた部屋を予約しました!

 

檜の風情ある風呂でした。

 

 

 

 

風呂に入り、今時珍しい部屋食で夕飯をのんびり楽しみ、両親とゆっくり話しながら秋の夜長を過ごし、床につきました。

 

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父の話をします。

 

私の父は1931年(昭和6年)に生まれ、私も育った江東区(当時は深川区)で育ちました。

 

国民学校初等科(私の通った江東区立川南小学校の前身)を卒業した後、茨城県の古賀航空機乗員養成所に入り、終戦を迎えました。この養成所は旧逓信省(旧郵政省)が設置した民間パイロット養成所ですが、軍隊式の教育で教官は軍人。そのまま軍に行く人も多く、戦争が続いていたらどうなっていたか…。

 

深川区に住んでいた父の姉と弟は1945年3月10日の東京大空襲で亡くなり、父と妹(私の叔母)とその両親が残されました。

 

戦後は千葉の浦安から新制高校、大学に通って中学の理科教師になり、さらに夜間の大学にも通いました。地元江東区に戻り、最後は校長先生になって退職。その後は独自の教育研究所などをやっていましたが引退し、89歳の今日に至っています。

 

あまり昔の話はしませんが、若い頃、天秤桶を担いでアサリを売り歩いた苦労話を聞いたことがあります。「貧乏から得るものはある」という言葉を覚えています。

 

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夜が明けました。

 

太平洋の朝焼けです。

 

 

 

 

きれいですね。

 

 

 

 

ゴールドの世界からシルバーの世界へ。

 

 

 

 

朝日に照らされたさわやかな海岸です。

 

 

 

 

朝食をいただき、チェックアウト。この日にまず向かったのは、鴨川シーワールドです。

 

行き先に鴨川を選んだのは、ホテルから歩いて行けるところに鴨川シーワールドがあったからです。散歩気分で歩いて行けるのがいいかなと。

 

雨が降りだしたので、室内のペンギンさんの部屋に来ました。

 

 

 

 

アザラシはまん丸くなっています。

 

 

 

 

元気な水鳥。

 

 

 

 

雨は上がってホテルまでぶらぶら戻り、預けていた荷物を受け取って小湊に向かいました。

 

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小湊は、日蓮上人の生誕地で、誕生を祝う誕生寺や鯛の群生地・鯛の浦に行く予定です。

 

小湊を選んだのは、ホテルから歩いて行ける距離に観光地がコンパクトにまとまっているため。車がないのでぶらぶら散歩です。

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小湊で最初に行ったのは鯛の浦。ここは子供の頃に来たことがあります。うろ覚えですが、当時集めていた観光地のペナント(3角形の旗)を部屋に貼っていた記憶があります。ペナントには、踊る鯛と「妙の浦」の文字が書いてあった気がします。観光地名は「鯛の浦」、地名は「妙の浦」なんだそうです。

 

 

 

 

鯛は普通、深海に住んでいますが、ここでは浅いところに群生しています。なぜ?その理由は解明されていないそうです。

 

国の特別天然記念物です。

 

 

 

 

この浅瀬に鯛が群生する不思議は古来から名物として知られており、江戸時代以前も手漕ぎ和船で見物していたようです。「元祖日本の観光地」ですね。

 

今は和船でなくこの観光遊覧船です。

 

 

 

 

遊覧船に乗り組み、見どころを案内してもらいます。太平洋から内浦湾への入口にある大弁天島・小弁天島は海の目印であり、漁民が海上安全を祈る場所です。

 

 

 

 

少し戻っていよいよ鯛の生息地に。

 

船頭さんが船べりを叩き餌をまくと、多くの鯛(殆どがマダイ)が寄ってきます。こうした現象は他では見られないそうです。

 

 

 

 

ここは日蓮上人の生誕地。1222年、日蓮上人が生まれた時にここで鯛が飛び跳ねたという伝説があり、上人40歳の時に海に向かってお題目を唱えると海にお題目の字が現れ鯛の群れがそれを食べたという伝説もあります。

 

以来、漁民は鯛を信仰、禁漁区として保護したそうです。

 

 

 

 

1498年の明応大地震、1703年の元禄大地震で海底の地形は大きく変わりましたが、それでも鯛は群生を続けたそうです。江戸時代には日蓮宗徒の「鯛の浦詣で」も盛んになり、明治になって観光地化のため土地買収の動きが出た際には漁民たちが反対し、天然記念物となったそうです。地元の信仰が強いのですね。

 

 

 

 

船を降りて鯛の浦会館を見てみると、「鯛みこし」が飾られていました。

 

 

 

 

小湊という地名は日蓮上人誕生の頃からあり、その後この地域は誕生寺の寺領となったそうです。明治になって土地が国に召し上げられ、小湊村→湊村→小湊町→天津小湊町→鴨川市、と変遷しました。

 

 

 

 

鯛の浦を後にして、日蓮上人の誕生地に建てられた誕生寺に向かいます。

 

誕生寺は、日蓮上人の弟子によって1276年に創建されました。

 

これが入口にあたる総門。

 

 

 

 

日蓮上人の誕生地に建てられた誕生寺ですが、明応・元禄の大地震で水没し、現在地に再建されました。

 

仁王門です。

 

 

 

 

祖師堂に至る松の枝に生命の神秘的な力を感じます。

 

 

 

 

祖師堂。この先の道を渡った向こう側に本堂があるとは気が付かずに、帰ってきてしまいました。

 

 

 

 

帰りがけに仁王門で仁王様の像を見てきました。右側の阿(あ)の像。

 

 

 

 

こちらは左側の吽(ん)の像です。

 

 

 

 

誕生寺を出て、小湊港の方に歩いていきます。先ほど船から見た大弁天島、小弁天島のあたりまで遊歩道があるとのこと。

 

遊歩道はありましたが、なんと立入禁止です。度重なる台風や豪雨で山崩れが起きそうなのだそうです。

 

確かに、左側は切り立った崖。行けるような気もしますが、両親もいるし、安全第一ですね。

 

この旅の中で、唯一台風や豪雨の爪痕を感じた瞬間でした。

 

 

 

 

海岸は岩が敷き詰められ、宮崎の「鬼の洗濯板」のようです。

 

 

 

 

今日の観光はこれくらいにして、誕生寺の近くにあるホテルに向かいます。「満ちてくる心の宿 吉夢」です。

 

ここも風呂付きの部屋を予約しました。海の見える露天風呂です。

 

でも、あまりにあけっぴろげで、昼間入るには気がひけるし、夜も電気をつけたら外から丸見えだし…。

 

 

 

 

でも、結局みんな部屋風呂に入りました。何種類ものジャグジーが楽しめました。

 

この日は食堂で夕飯。両親とのんびり話し、床につきました。

 

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母の話をします。

 

私の母は1933年(昭和8年)生まれ。戦前の国家公務員だった父親(私の祖父)の転勤により、京都で生まれ、大分、富山、三重、長崎と移り、父親の出身の茨城県出島村(今のかすみがうら市)で終戦を迎えました。

 

終戦後は土浦の高等女学校から水戸の新制高校・大学を経て中学の理科教師になりました。一念発起して東京に出て、江東区の中学で父と知り合って結婚しました。

 

私が生まれる前に退職し、妹の子育てが一段落したところで非常勤講師として復帰、それから22年勤めました。音楽好きで私の入った日比谷高校のママさんコーラスのリーダーも務め、なぜかウィーンでコンサートまで開きました。私の音楽好きのルーツかと思います。

 

両親が江東区で一時マンション経営をしていた時は税金計算など母親が担当していましたが、87歳の今は船橋でゆっくりしています(でも本人は忙しいと言っています)。

 

土浦の女学校や寄宿舎で毎日毎晩空襲に襲われ防空壕に逃げた話、玉音放送を聞いてみんなで泣いた話、戦後の女学校で銃を抱えた米軍のMP(憲兵)が教室の後ろから授業を監視していた話などを聞きました。戦後75年の戦没者追悼式のTV中継を見て涙が出たといいます。

 

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朝です。

 

小湊港の朝の風景。まだちょっと暗いです。

 

 

 

 

防波堤には早起きの釣り人たちが。何が釣れるんでしょうか。

 

 

 

 

温泉で楽しみなのが朝風呂。屋上の露天風呂に行くと、昨日行った誕生寺が下に見えました。

 

総門、仁王門、祖師堂…鳥の眼で見るとこうなるんですね。

 

 

 

 

部屋に帰ると、日が昇り、小湊港の海が輝いて見えました。美しいですね。

 

 

 

 

部屋で少しゆっくりして、お土産を眺めてから帰路につきます。最寄りは安房小湊駅。

 

 

 

 

特急わかしお12号が入ってきました。

 

 

 

 

2泊しましたが、あまり欲張らなかったので、私ものんびり日頃の疲れを癒しました。

 

どこだか忘れましたが、帰りに車窓から見えた港の風景です。

 

 

 

 

海浜幕張で降り、二人はタクシーで船橋へ。私は京葉線新木場経由で帰ってきました。

 

房総半島は、生まれ育った江東区から近く、父の妹の家族が千葉市に住んでいることもあって、子供の頃は海水浴など時々遊びに行きました。今回、本当に久々に訪れましたが、台風や豪雨の間を縫ってよく行けたと思います。

 

日蓮上人の生誕地近くにある鯛の浦を見ると、宗教と自然の密接なかかわりと不思議さを感じますね。

 

両親との旅行は、福岡時代に遊びに来てもらって以来、4年ぶりくらいでしょうか。今回も無事帰ってこれてほっとしました。

 

高齢の両親との旅行はだんだん難しくなり、最近はコロナが追い打ちをかけますが、また何か企画したいなと思っています。

 

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今年、父は卒寿(数えで90歳)、母は米寿(数えで88歳)を迎えます。妻と一緒に選んだ湯呑茶碗と茶碗を贈りました。

 

今はコロナで会いにいくのもままならず、だいたい週1回の電話で声を聞く程度ですが、いつまでも元気でいてほしいと思います。

 

 

 

【今日のBGM】 

・風の馬 ~武満徹 合唱作品集

 岩城宏之 東京混声合唱団

・前回は武満徹のギター曲をとり上げましたが、今回は合唱曲です。

・合唱は人声だけに響きが直接胸を打ち、時に宇宙的です。言葉の意味と音楽の響きの関係といった器楽曲とは違った聴き方も必要になります。このCDの曲は全てアカペラなので、そうした点が一層際立ちます。

・武満の音楽の時としてクールな響きは、合唱に乗ると妙に生々しく聞こえることがあり、ドキッとします。遊牧民の儀式にヒントを得たという「風の歌」は歌詞も幻想的で、宙に漂うようです。

・もう一つの「混声合唱のためのうた」は東京混声合唱団のためのアンコール・ピース集とのことで、曲想は様々です。

・武満自身が作詞した曲もいくつかあり、「小さな空」には幼い頃の思い出が、「翼(WINGS)」には平和への希求が、「〇と△の歌」は軽い言葉の中にロシアへの思いが感じられます。

・1960年の反安保集会のために作られた「死んだ男の残したものは」とか、ギター曲に「インターナショナル」の編曲があるなど、反戦平和や社会主義が武満の一つのモチーフだったのかもしれません。

・父母がくぐりぬけてきた戦中戦後の体験、武満が心に持ち続けた反戦平和…今は色褪せてしまったかもしれないこれらを自分もいかに共有するか(全部共有しなくてもいいと思いますが)、毎年8月には考えたいと思います。…戦後75年の8月ももう終わりますね。