「命のヴィザ」杉原千畝の故郷・岐阜を訪ねる | 福岡日記+(プラス)

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転勤族から見た福岡や九州の風景、趣味の音楽の話などを綴ります。

このところ2回、昨年秋の旅行の話を書きました。

 

そろそろ、今年3月に行った2回目のウィーン旅行について書きたいと思っています。

 

ただ、その前に、ずっと前に行った旅行で、いまだに書きそびれているものがあったことを思い出しました。

 

今回はそれを書きます。

 

3年前…私が前の会社を退職して今の会社に再就職した年、2017年の11月下旬。勤労感謝の日の連休だったと思いますが、「命のヴィザ」の杉原千畝の故郷・岐阜を訪ねました。

 

人道の丘公園の杉原千畝像

 

 

杉原千畝(ちうね、愛称センポ)は、第二次大戦中にリトアニアの在カウナス領事代理を務め、外務省の指示を無視して多くのユダヤ人に日本の通過ヴィザを発給し、命を救った人です。

 

2008年でしょうか、吉川晃司主演のミュージカル「SEMPO」を夫婦で観て以来、その勇気ある行動に心惹かれていました。

 

岐阜県の八百津町に顕彰施設があると知り、訪ねたのが2017年11月です。

 

ただ、この時訪れた岐阜県八百津町は、杉原の生誕地と言われていましたが、実はそうではなかったようです。

 

そのあたりも含めて書いていきましょう。文中敬称略です。

 

 

 

 

 

 

2017年11月のお休みの日、名古屋に1泊して、名鉄名古屋線、犬山線、広見線を経由し新可児駅まで行きます。新可児駅で広見線の各駅停車に乗り換え。一駅乗ると、明智駅に着きます。

 

この明智駅、今はやりの「麒麟が来る」の明智光秀に由来する明智の里か?(岐阜ですし)と思いきや、違いました。明智の里は「明知鉄道の明智駅」(ここから南東に約40キロ)の近くで、ここではないそうです。

 

 

 

 

ここから杉原千畝記念館までは10キロ以上あります。バスもあまりなく、タクシーに乗りました。

 

駅にはなんと、杉原千畝仕様のタクシーがとまっていました。地元の力の入れようが分かります。

 

 

 

 

私はそのとき全然知らなかったのですが、杉原千畝の功績を示す資料が国連の「世界記憶遺産」に登録申請され、登録確実と言われながら10月末に「不登録」が決定したばかりだったそうです。

 

不登録となった理由は公表されていませんが、申請主体の岐阜県八百津町が杉原の生誕地であることに疑義が出され、申請書の修正や資料の取り下げなどが行われた経緯があるようです。

 

この時はまだ、杉原の出生地に争いがあったと記憶していますが、その後決着がつき、出生地は現在の岐阜県美濃市だそうです。八百津町は本籍地とか母親の実家で里帰り出産したとか聞いたような気もしますが、確たることはよく分かりません。

 

そんな八百津町に「人道の丘公園」が作られたのが1992年。公園内に「杉原千畝記念館」が建てられたのが2000年です。

 

 

 

 

杉原は1900年に生まれ、早稲田大学高等師範部在学中に外務省の留学試験を受けました。合格して早稲田大学を中退、中華民国のハルビン学院に留学してロシア語を学びます。

 

公園内の杉原の像です。

 

 

 

 

ハルビン学院で学んだ後、1924年に外務省に現地採用され、在ハルビン日本総領事館に勤務。1932年に満州国ができると、その外交部に出向し、ソ連からの北満州鉄道譲り受け交渉で譲渡価格を大幅に引き下げる活躍をします。

 

私生活では、ハルビン時代に白系ロシア人(旧皇帝側、反革命)女性と結婚し、離婚しました。

 

人道の丘公園内には、ハルビン学院の建学者・後藤新平の「自治三訣」(「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」)が掲げられていました。

 

 

 

 

満州からいったん帰国した杉原は、日本人女性と再婚。1937年、在モスクワ日本大使館勤務の発令を受けますが、ソ連は杉原を「ペルソナ・ノン・グラータ」(好ましからざる人物)として赴任を拒否。このため赴任地はフィンランドのヘルシンキに変更され、1939年には新設されたリトアニアの在カウナス日本領事館の初代領事代理となりました。

 

ソ連が赴任拒否したのは、ハルビン時代に白系ロシア人(旧皇帝側、反革命)と付き合いがあったからと言われています。

 

さて、いよいよ杉原千畝記念館です。

 

 

 

 

日本人が殆どいないカウナスに杉原が赴任した目的は、ドイツのソ連侵攻の時期を探ることでした。

 

杉原のカウナス赴任直後の1939年9月1日、ナチスドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじまりました。満州の精鋭部隊を南太平洋に転進させたい日本にとって、ドイツが独ソ戦でソ連を引きつけてくれるかどうかが大きな関心事だったわけです。

 

諜報部員としての杉原の活動については、2015年の映画「杉原千畝」(唐沢寿明主演)によく描かれていました。私は福岡で観ました。

 

 

 

 

しかし、歴史は杉原に、それとは全く別の大きな役割を与えました。

 

ナチスのポーランド併合で行き場を失ったユダヤ人がリトアニアに逃れ、シベリア・日本経由で脱出するためヴィザを求めて領事館に列を作ったのです。

 

杉原は、通過ヴィザの要件(受け入れ国の許可と十分な所持金)を限りなく柔軟に解釈して大量のヴィザをパスポートがない人にも発給。本国からの再三の注意も無視したそうです。

 

発給したヴィザ(家族で1枚)の数は2千枚以上。助けた命は6千人。現在その子孫は4万人に上るということです。

 

記念館には、こうした経緯が分かりやすく説明され、カウナスの領事館を再現した部屋もありました。

 

 

 

 

1940年7~8月に大量のヴィザを発給した杉原ですが、リトアニアはソ連に併合されて領事館は閉鎖。カウナスを去る列車の中でもヴィザを書いて難民に渡したそうです。

 

カウナスを離れた後、杉原はプラハを経てドイツのソ連国境にあるケーニヒスベルク(現在はロシアのカリーニングラード)に異動。独ソ戦の開始時期(1941年6月)を正確に予測し報告しますが、外務省は無視。それどころか、ナチスドイツから「日本のスパイ」として睨まれ、即時退去を求められます。

 

独ソ戦の勃発によりリトアニアは1941~44年までナチスドイツの支配となり、逃げられなかった多くのユダヤ人が虐殺されました。

 

杉原は、ドイツから移ったルーマニアのブカレストで終戦を迎え、帰国後に外務省を退職。その後は商社のモスクワ駐在員など多くの仕事をしたあと、1986年に86歳で亡くなりました。

 

 

 

 

「命のヴィザ」の発給に対して、1985年にイスラエルから「諸国民の中の正義の人」を受章。1996年にはポーランドから「ポーランド復興勲章」を受章しました。しかし日本では長く「訓令に逆らった官僚」と扱われたようです。

 

日本の外務省が外交史料館に杉原の顕彰プレートを設置し、河野洋平外務大臣が家族に対する謝罪と業績に対する顕彰の演説を行ったのは、杉原生誕100年の2000年でした。八百津町の記念館設立と同じ時期ですね。

 

「上司から非人道的な命令を受けたらどうする?」

 

「拒否する」と答えるのは簡単ですが、実行するのは難しいし、拒否する勇気を持った人を讃えるのも勇気がいります。そういうことを考えさせられる場所ですね、ここは。

 

人道の丘公園のモニュメントです。

 

 

 

 

ユダヤ人難民は、1940年7月から敦賀港に到着。10月からは杉原ヴィザでの日本入国が始まり、41年1~3月に人数が急増したそうです。難民は41年9月までに全員が出国したそうです。

 

こうしたユダヤ人6千人が次の行き先に到着するまでには多くの人々の努力が積み重なっています。杉原の「命のヴィザ」の前後をつなぐ「命のリレー」が行われたことで初めて多くの命が救われたのです。

 

言われてみれば当たり前かもしれませんが、私は2015年頃、福岡にいたときの展示会でそうしたことを初めて知りました。

 

 

 

 

「命のリレー」について少しだけ紹介しましょう。

 

在カウナス・オランダ領事 ヤン・ズヴァルテンディク…ポーランドから逃れてきたユダヤ人難民に頼まれ、「南米キュラソー等オランダ領への入国にはヴィザは不要」との書面を手交。杉原とは面識も協力関係もなかったそうです。

 

在カウナス日本領事代理 杉原千畝…上記「入国ヴィザ不要」の書状を持ち込んできたユダヤ人難民に対して日本の通過ヴィザを発給(行先の入国許可は日本が通過ヴィザを発給する必要条件)。

 

【・ソ連政府…難民がシベリア鉄道で極東まで移動することを容認。リトアニア併合の円滑実施や鉄道・ホテルの収入増が主目的と推察されますが(シベリア鉄道の料金は結構高かったそうです)、このルートは、トルコがヴィザ発給を停止した後は難民の唯一の避難路でした。】

 

在ウラジオストク日本領事代理 根井三郎…杉原のハルビン学院時代の同級生。シベリア鉄道でウラジオストクに続々到着する難民の入国審査を厳格化せよという外務省の指示にも拘わらず、日本への乗船許可証を柔軟に発行しました。

 

ユダヤ学者・小辻節三…難民の多くは「キュラソーのヴィザなし入国許可」は持っていましたが、本当に行きたいのは北米やイスラエルでした。小辻は松岡洋右外相に知恵をもらって「通過ヴィザの期間延長」を実現し、難民を目的地に届ける手配をしました。

 

小辻節三については、その知られざる活動を調べ上げた本もあります(半沢直樹にも出ている俳優の山田純大著)。

 

 

 

 

このような「命のリレー」で、ユダヤ難民はポーランド→リトアニア→シベリア鉄道→ウラジオストク→日本(船の着く敦賀からユダヤ人協会のある神戸等へ)へとたどり着き、北南米、イスラエル等へ逃れていったのです。

 

難民のたどったルートが、地元のタクシーのボンネットに描かれていました。

 

 

 

 

このようにみると、多くの人が、必ずしも相談のうえではなく、それぞれの良心に従って行動したことの積み重なりで、(そして幸運も手伝って)多くの命が救われたことになります。

 

 

 

 

杉原は官僚機構の一員だったのに、なぜ本国の命令より人道的な判断を優先できたのでしょうか。

 

もちろん、個人としての資質が一番大きかったのだと思いますが、ハルビン、カウナス、ケーニヒスベルクと諜報活動を続け、時にはロシアから忌避され、時にはゲシュタポに追われ、自分の命は自分で守る日々を送るうち、組織の判断ではなく自分の判断に従う精神構造になっていたのではないでしょうか。

 

文字どおり命がけの仕事の中で、命の大事さが身に染みて分かっていたのかもしれません。

 

 

 

 

杉原の素晴らしい功績に思いを馳せるこの施設は、ここが杉原の生誕地か否かにかかわらず、顕彰や教育のために生かしてほしい…そう思いながら明智駅に帰ってきました。

 

 

 

 

杉原の功績を考える施設はほかにもあります。

 

・東京飯倉…外務省外交史料館、杉原千畝顕彰プレート<2000年>

 

・東京八重洲…杉原千畝SEMPO MUSEUM<2019年>

 

・美濃市…生誕地案内板(上有知の教泉寺)<2018年>

 

・名古屋市…杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアル(杉原の母校・瑞穂高校内)<2018年>

 

・東京早稲田…早稲田大学、杉原千畝顕彰記念碑(早稲田キャンパス14号館脇)<2001年>

 

・敦賀市…人道の港 敦賀ムゼウム<2008年>

 

1940年の命のヴィザからずいぶん時間がたちましたが、最近になって施設が増えてきています。八百津町の人道の丘公園(1992年)、杉原千畝記念館(2000年) はやはり古株ですね。

 

どこでもいいから行かれることをお勧めします。

 

実は私も、八百津町以外は一つも行っていません。

 

これらをゆっくり巡りながら、自分の日頃の行動を顧み、これからの行動について考えてみたいと思います。

 

 

 

【今日のBGM】

・ブルックナー交響曲第5番

 チェリビダッケ指揮 ミュンヘン・フィル(サントリーホールこけら落としライブ)

・チェリビダッケのブルックナーは聴く人によって好き嫌いが激しいですが、私はCDを何枚か買いながら実はあまりまともに聴いていませんでした。テンポがゆっくりの変わった演奏、というイメージがあったからでしょうか。

・ふとしたことから、この1986年のサントリーホールこけら落としライブが素晴らしいという噂を聞いて、最近買ってみました。

・1986年といえば、私が就職した直後。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(1979年の本)とか言われた頃で、バブル直前の日本経済黄金期といえる時期かもしれません。サントリーホールのこけら落とし公演にはウィーン・フィルをはじめ世界中の綺羅星のようなアーティストが来訪しました(私は全く蚊帳の外でしたが)。この演奏もそのひとつです。

・聴いて感じたのは、「静けさ」でしょうか。チェリビダッケは日本の禅に惹かれていたそうですが、ゆっくりテンポで一つ一つの響きを大切にし、クライマックスもわめかず「巨大な音の静けさ」のようなものを表現しているように思いました。

・若い頃なら不完全燃焼で欲求不満になったかもしれませんが、今聴けば十分「あり」。この指揮者の他の演奏も聴き込んでいきたいと思います。