私たち、プロダクションの人間やフリーのライターは、「日本語」で商売をしています。だからこそ、「日本語」を間違えると、とんでもなく恥ずかしい思いをします。

知人のライターさんが「書き入れ時」「掻き入れ時」だと勘違いして、恥ずかしい思いをしたと話していました。

普通の人なら、「ありがちな間違い」で片付けられる話ですが、職業が職業だけに、誤植が即、信用問題に発展します。一つの原稿に同様のミスを連発していたり、会話で間違った日本語がたびたび出てくれば、信用性を疑われ、仕事を頼まれなくなる可能性だってあるでしょう。

私も、何度か恥ずかしい日本語の間違い、勘違いを披露してしまったことがあります。「身を粉にして」を「みをこなにして」と読んでしまったのは愛嬌として、「出汁巻き」を読めず、「でじるまきください!」と大声で言ってしまったことなんか、今思い返しても額に脂汗がにじんできます。

いずれも若い頃の話・・・とご容赦いただくとして、日本語には微妙な「揺らぎ」もあり、誤用か否かの判断が難しいものも少なくありません。

例えば「檄を飛ばす」なんかは、本来の意味は「自分の考えを広く知らせる」ですが、今では「刺激を与えて激励する」「ハッパをかける」みたいな使われ方が、一般化しています。

スポーツ新聞などを読んでも「星野監督が檄を飛ばしました」なんて文章が、たびたび見られます。

しおどき」も、本来は「適切なタイミング」で使う言葉ですが、多くの人が「いいかげん、そろそろしおどきだろう」といった感じで、マイナスイメージで使っています。

そんな揺らぎ気味で曖昧な日本語は、私たちの身の回りに溢れかえっています。「正しい」「間違い」を判断するのは難しく、会話で使って許されても、記事や原稿ではNGという言葉もあります。

ならばブログは?Twitterは?・・・と考え始めるとアタマがこんがらがりそうですが、大切なのは、新聞、雑誌、テレビ、ネットなど、より多くのメディアから日本語を受信し、世の中の最大公約数を押さえておくことなのでしょう。
今月1日に自宅を引っ越してから約半月が経ちました。新しい住まいは、台東区の御徒町。ディスカウントショップ「多慶屋」のすぐ裏手です。近くには「アメ横」もあって、上野やアキバにも歩いて行けて、とても賑やかなところで楽しくなりそうです。

それにしても、引越しは何かとお金がかかるものですね。敷金礼金、仲介手数料、引越し費用などはもちろん、必然的に家具なども買い換えることに。結構な出費で、我が家の「財務大臣」も、頭を悩ませています。

三つほど新たに購入した家具は、いずれも買った人が組み立てる方式。前回の引越し時は、IKEYAのソファ、テーブル、イス、TVボードの4点を必死になって組み立てましたが、今回も実に厳しい戦いでした。

中でも大変だったのが、洗面所の収納棚。高さ160センチ、幅50センチくらいもあるのに、パーツがビックリするほどバラバラ。これが本当に、収納棚になるのだろうかと、半信半疑で組み立てました。

$TEACHERS ”OFF”LINE-収納棚

ネジだけで組み立てられると思ったら、随所に木工用ボンドを使用。完成するまで、約3時間くらいかかりましたが、何とか完成しました。

この後、物置きも組立てましたが、なんとこちらは組立説明書が入っておらず。Webで調べたら、PDF版でアップされていました。紙の説明書は、「経費削減のためで同封していない」のだとか。ネットを使わない家庭はどうするんだっつーの!

その他にも、電気屋ガス、水道、役所、生命保険にクレジットカード・・・移転連絡をしなければならないところだらけ。本当に大変です。

あ、引越し通知のハガキがまだだった。こちらはもう暫らくお待ちください・・・
うちの事務所は、各々が壁に向かって座るようなデスク配置になっています。

そのため、全員が席に着いてパソコンに向かうと、お互いの顔は見えません。仕事に集中する上では良いのですが、一方で「自分のディスプレイを人に見られたくない!」という人には、少々苦痛かもしれません。でも、こうした配置にすることで、個々人がサボることなく、仕事に集中するという効果も期待できます。

「人に見られている」シチュエーションに、苦手意識を持つ人の気持ちは、よくわかります。私も、自分が原稿を書いている時に、後ろから誰かに覗き込まれるのは好みませんし、アーティストの妻も自分が絵を描いているところを人に見られるのは、絶対に嫌だと言っています。

「人に見られている!」という自意識が働くことで、通常の処理能力が働かなくなる人は少なくないでしょう。私も、文字を書いているときに見られるのが最も苦手で、「字形」や「書き順」を気にして、つい手が止まってしまいがちです。

そんなことを考えながら、ふと思ったのは、学校の先生のことです。学校の先生は、板書するとき、常に子どもたちの視線にさらされています。時に「先生、書き順が違う!」とか「行が曲がっている!」とか「字がヘタくそ!」とか、突っ込まれることもあるでしょう。そんな指摘をされたら、私なんぞ「板書恐怖症」に陥ってしまいそうです。

でも、そんなツッコミを気にしていたら、教師なんてできないのでしょうね。考えてみたら、教師は常に何十人もの児童生徒の視線にさらされ、そんな中で自らを表現する仕事。「自意識」をいかに処理し、時に崩壊させるかが、鍵となる仕事なのかもしれません。