以下に示すのは、NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」のナレーションである。司馬遼太郎の同名の小説中の言葉を集め、NHKがドラマ用に要約したものである。
ご存知の通り、ちょうど今から150年前の明治初年から日露戦争の勝利までの日本人の有り様を三人の人物を通して描いた物語である。青山繁晴は、幕末の志士たちにも触れているので、時代が少し後ろにずれているものの、まさにこの時代に触れ、その対比によって”今の日本が取り戻すべきもの” を語っている。
もっとも司馬遼太郎は、昭和はダメな時代だったと考えたから、日本のために私を顧みず戦争を戦った父祖たちを現代日本人の範とする青山とは、この点は歴史観が異なる。ナレーション全体は少し長いので、ぼくの方で青山繁晴の主張と比較したい部分を抜粋した。
青山は、街宣中に、度々「たった150年前に日本には国家の青春があった。」と繰り返している。
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まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。
小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。
産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年のあいだ読書階級であった旧士族しかなかった。
明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものをもった。誰もが「国民」になった。
不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。
この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。
社会のどういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、軍人にも、教師にも、成り得た。
この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。
今から思えば、実に滑稽なことに、米と絹の他に主要産業のないこの国家の連中が、ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。陸軍も同様である。 財政の成り立つはずがない。
が、ともかくも近代国家を作り上げようというのは、元々維新成立の大目的であったし、維新後の新国民たちの少年のような希望であった。
この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振舞ったかという物語である。
・・・彼らは、明治という時代人の体質で、前をのみ見つめながら歩く。登って行く坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂を登っていくであろう。
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”少年” がわき目も振らず、目標に向かってまっすぐ走っていくように、明治の人々が共通の目的である近代国家を目指し、自らを顧みず、現状と理想との大きな隔たりさえ意識しないで走り続けた様が目に見えるような名文となっている。日露戦争前の日本は、富国強兵と臥薪嘗胆の精神で、迫り来る帝国主義的侵略に対し国民を挙げて果敢に立ち向かった。そして、これを見事に退けることに成功したのである。
翻って、もし、幕末・維新を少年、青春に例えるなら、さしずめ現在の日本は、老年の国と言わざるを得ないのではないだろうか。
ただ年寄りが増えたということだけではない。自分の命、自分の健康、年金、財産、既得権益・・・守るものがいっぱいで、自分ばかりが気になり前も周りも見えない。 坂を登るどころか、先がない悲愴感に苦しむ老人、そのものだ。
せっかくだから、少々遠回りになるが、この機会に明治維新からちょうど百年後、今から約50年前、正確には46年前の今日、三島由紀夫が日本について述べた言葉を紹介しておきたい。
【私の中の25年】果たし得ていない約束 恐るべき戦後民主主義というエッセイの最終部分、このブログでは以前にも紹介しているが、非常に大切なので、繰り返しここで、『坂の上の雲』との違いを意識しながら、この100年(1868年から1970年)の間に何が変わったのかを読者と一緒に考えながら、またこの危機感を共有しながら改めて読んでみたい。言わずもがな、この危機感は青山のそれと共通するものである。
三島が市ヶ谷の自衛隊で憲法改正を訴えながら自決したのは、この4ヶ月余り後のことである。
1970年(昭和45年)7月7日付産経新聞夕刊掲載
「【私の中の25年】三島由紀夫 果たし得ていない約束 恐るべき戦後民主主義」から
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私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。
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今日はここまで。 続く。