4、領事管轄域の均衡を無視した奇妙な設置(長崎)
年表だけ見ると「なんでこの時点で長崎に持ってきたのだろう?」と思う。当時はまだ東京の大使館(領事部がある)を含めても、大阪、札幌の三カ所にしか領事業務をするところがなかったから、単純に、業務を分担するのに地方の大都市である福岡や名古屋が選ばれるのが自然だと考えられる。実際、福岡はその地に選ばれるが、そのことによって余計に、隣県、長崎の同時設置が奇妙に映る。
福岡総領事館が、山口県から沖縄県まで、長崎県を除く九州全域を管轄域にしていることを思えばなおさらである。
http://www.china-embassy.or.jp/jpn/sgjs/t62813.htm
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在日中国総領事館のご案内
駐福岡総領事館
業務管轄区域:福岡県、山口県、佐賀県、大分県、熊本県、鹿児島県、宮崎県、沖縄県
駐長崎総領事館
業務管轄区域:長崎県
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日本と中国は1972年まで国交がなかった。日本の他の多くの都市にとって、中国人が流入していくのはこの年以降のことだが、長崎にはすでに、江戸時代から出島を通して中国人に対し門戸が開かれていた。長崎には、早くから横浜、神戸とともに日本三大と称される中華街、長崎新地中華街がある。新潟や仙台で親中派が何の脈絡もなく人為的に作り上げようとしたものとは違う。長崎は島嶼部が多い上に面積が狭い小さな県だが、中国人の人口密度は高かったのだ。
尖閣諸島が古くから日本領であった証拠資料として最近脚光を浴びるようになった
「1920年5月に,当時の中華民国駐長崎領事から福建省の漁民が尖閣諸島に遭難した件について発出された感謝状」(外務省:http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/qa_1010.html)
は、1920年、この地に中華民国の領事が駐在していたことを示している。
1878年清国領事館が長崎に設置され、これが中華民国成立を経て中華民国領事館になり、いわばこれを引き継ぐ形で復活させたのが1985年設置の長崎総領事館である。長崎県と福建省は1982年に「友好県省締結」に至っているが、古くから交流もあれば領事もいたという前史あってのことだろう。
ところが、戦後、中華民国が福建省を実効支配したことはなかった。長崎としてみれば、“中国(中華民国)”と国交があるのに、福建省と公式につき合うことができないというジレンマがあったのだろう(長崎在住の中国人は福建省出身が多かったものと見られる。江戸時代には長崎の人口7万に対し約1万人もの福建省出身者がいたことがあると記されている。― ウィキペディア「長崎新地中華街」)。72年9月の、日中国交正常化とそれに伴う日台断交は、このねじれを解決する機会を提供することになった。当時の長崎県知事 久保勘一は、“正常化”に先立つ 1971(昭和46)年5月「中国は一つ」(県議会)であることを表明した。
当時の台湾(中華民国)はまだ悪名高い独裁者、蒋介石の戒厳令下にあり、民主的な国家とは言えなかったから、大陸の“中国”と、どちらと仲良くする方が良いのか、政治家といえども判断は難しかっただろう。台湾が現在のように民主化されることも、中国が日本と厳しく対立する経済力のある軍事国家となることも、当時はだれも想像できなかった。中国脅威論は今日のように、まだ一般的ではなかった。
とは言うものの、県知事が大陸の“中国”の意図を反映する声明を出した裏に、背後から共産党の手が回っていたことは想像に難くない。中国は当時、国際社会の中で、中華民国に取って代わり、国連の五大国の地位を奪うために画策していたことはもちろんのこと、そのはるか先にある日本侵略も、視野に入れて行動していたことは明らかだからである。
1964年10月の東京オリンピックに核実験成功を、1970年4月の大阪万博開催中に人工衛星打ち上げ(弾道ミサイル開発の副産物)成功を、それぞれぶつけたのは、やがて日本を侵略するという隠れた意思表示であり、偶然などではない。1971年の長崎県知事の発言も、1972年の国交正常化もこの延長上の出来事であり、中国共産党が書いた、筋の通った一本のシナリオの一部なのである。
この後、長崎は、次々に中国との結びつきを深めていく。
1971 長崎県知事 「中国は一つ」表明
日中国交回復と貿易促進に関する要望決議
1972 日中国交正常化
1979 長崎上海間定期航空路 開設
1980 長崎市/福州市 友好都市締結
1981 長崎総領事館設置要望(http://nagasaki-nitchu.org/pdf/news09.pdf)
1982 「日本国長崎県と中華人民共和国福建省の友好県省締結に関する議定書」
1983 厦門市/佐世保市 友好都市締結
胡耀邦中国総書記来県 総領事館 長崎開設 表明
1985 在長崎中国総領事館 設置
1991 総領事館 新築移転
現在、長崎県日中親善協議会は長崎県庁の国際課の中にある。
http://nagasaki-nitchu.org/japanese/01info/01about.html
一見奇妙に見えた長崎への総領事館設置だが、歴史的背景、中国人の人口、地元政治家の熱心な誘致など、有利な条件が揃っていた。建つべくして建ったのである。
長崎総領事館が設置された経緯を見ておくことで、どういう場所が領事館設置先に選ばれていくかが垣間見える。
長崎県をモデルにしたような県がある。
中国との歴史こそないが、かつては海軍の軍港を抱え、原爆を投下され、戦後左傾化し、県を挙げて中国と結びつきを固め、上海どころか成都まで航空便を延伸し、安全保障をかなぐり捨てて、長年にわたって県知事が総領事館を誘致する県。広島県。
現在、広島県日中親善協会事務局は広島県庁の国際課の中にある。
http://hironicchu.exblog.jp/i2/
震災直後、原発事故で中国人が一斉に帰国したことを覚えているだろうか?政府の不手際により、それは人災となり今でも深刻さを増している。では、原発で帰国したような中国人が、すぐに東北地方に戻ってくるだろうか?中国人がいないところに領事館はやってこないようだ。
広島県は震災前から宮城県よりも中国人がずっと多い。実際、関東圏、阪神圏、中京圏といったすでに総領事館が設置されている地方を除いて見た場合、現在もっとも中国人 人口が多い県は広島県なのである。
次に領事館がやって来るのは仙台じゃない。広島だ。