2024,5,11. 9:12 Matissになるまで2 | 宇宙人との対話

宇宙人との対話

宇宙人との対話 by Matiss

*かなり個人的な回想録なので

興味のある方のみお読みくださいね

 

 

今日は少し遡ります

 

幼少期の体験から

 

0歳、1歳の時の記憶

私自身は全く覚えていないのですが

 

母は小児喘息で呼吸困難に陥っている

赤ちゃん=私を抱いて

たびたび救急車で私を

病院へ連れて行ってくれました

 

その後のさまざまな理解により

これは

とても心地よい銀河から

地球というサバイバル世界へ

突然生まれ落ちたことにより

汚れた大気や低い周波数に耐えきれなくて

自分から「こんなところでは生きられない」という

恐怖心から呼吸困難になっていたのではないか?

と思っています

 

幸い、ステロイドを吸入されることは

ほとんど無かったようで

虚弱児ながらもなんとか生きてきました

 

両親は東京のバイパス横のマンションから

私の喘息のために

埼玉の田舎へ引っ越してくれました

 

この場所は

周囲に田畑が広がる住宅街で

奥にはちょっとした雑木林がありました

 

この裏山で遊ぶことが

何より好きで

山の中に「おとぎの国」と名前をつけて

子供たちだけで

Spaceを作り始めました

スコップで斜面の土を削って階段を作ったり

どこかに捨てられていた椅子やテーブルなどを

運んできては設置し

ちょっとしたおやつを持ち込んで

みんなでteatimeをしたり

 

時には、お母さんたちを招待して

イベントもしていました

毎日日が暮れるまで女の子友達と

外で遊ぶようになりました

 

この頃の楽しいSpace作りの延長で

その後も美容室を自分でデザインして

3回も作ることになりました

 

7歳頃でしょうか?

近所の年下の女の子たちを連れて

山へ行っていた私たちは

少し奥の方に見つけた

そこだけなぜか木が一本も生えていない

ぽかんと開けた場所へ行きました

 

太陽の光が燦々と降り注いで

とても気持ち良い空間があり

そこで遊んでいました

(今、思うとUFO発着所だったのかもしれません

そこだけ磁場が全く違っていました)

 

周囲にあった一本の木が

横たわるように生えていて

その幹に小さな体を横たえてみましたら

なんとも心地よく

皆が騒いでいる横で

私は一人

樹液の流れを感じ

木の意識と完全に一体化し

細胞レベルでも木と一体化したような

変性意識状態に入り

恍惚としていたのを覚えています

 

「我」が無くなった状態で

木と一体になる至高体験でした

 

覚えている神秘体験としては

これが始まりでした

 

いつからか

私が還る場所は他にある

という感覚が芽生えたのは

こういう神秘体験に出会っていったからだと思います

 

小学生の私は

三姉妹であまり子供好きではなかった母に

愛されたくて(笑)

母が喜んでくれるように振る舞いました

二年生の頃にはだいぶ身体も丈夫になってきて

かけっこ、ドッジボール、縄跳び

ほとんどの運動はクラスの女子で一番できるくらいに

なっていました

 

団子三姉妹の真ん中でしたので

母の気持ちはいつも

手のかかる妹に行っているような気がして

寂しかったのです

 

10歳の夏

晴天の霹靂が起こりました

 

父が急に転勤になり

初めての関西

奈良県へ引っ越さなければなりませんでした

 

山ともさようなら

毎日一緒に遊んでいた近所のお友達ともさようなら

一瞬でこんなできごとが起こってしまいました

 

子供にとっては

世界が終わってしまうくらいの衝撃でした

 

奈良の小学校へ転校すると、、

みんなませていて

クラスの中では女子と男子が

パックリ分かれていて

恋愛が始まってる〜

これ、本当に衝撃でした

 

そして、まだTVに出ている大阪人も少なかったことから

関西弁をほとんど知らなかった私

埼玉の田舎で育っていたのに

言葉が共通語のイントネーションである

というだけで

「都会もんのくせに」と言われることになりました

 

いじめられそうになったら

自分が強いことを見せようとするのですね(笑)

その頃、運動だけはできたので

そのおかげで、いじめられずに済みました

ただ、できるだけ関西弁を真似して話すようになり

できるだけ周囲に合わせるように生きていました

高校一年末まで それは続きました

 

するとまた晴天の霹靂です

父の東京転勤

私たちはまた埼玉へ引っ越すことになりました

 

ベビーブーム世代で

どこの学校も生徒が溢れかえっており

転校が想像以上に難しく

結局 辞める生徒が多い

偏差値でいうと一番下と二番目の学校しか

編入試験をしてくれる学校がありませんでした

(父の転勤が決まった時にはすでに私立高校の編入試験は終わっていました)

 

選択肢がなく

私はその区域で偏差値下から二番目の高校へ

通うことになりました

 

そこでは様々なことを学びました

完全に学級崩壊しておりまして

バイクで校庭を走っている生徒がいる

どうやらクラスの半分くらいの生徒は

親が片親である

家へ帰ってもご飯がない子すらいました

 

この2年間は観察の日々

そしてこの世の不条理をとことん

目の前に見て体験する期間でした

これにより

私自身は何をしたいのか?

どうしてこんな不幸が生まれているのか?

 

ここでも私は

今度は勉強ができる子として

いじめられそうになり

そのカモフラージュで

いっさい授業を受ける気なし

みんなを真似て

授業中もおしゃべりをし続ける生徒になりました

身を守るために役を演じていました

 

大学受験をするも

予備校の勉強だけでは到底無理で

英語が特にできなかったせいもあり

全ての受験に失敗

浪人生になりました

 

代々木に通いつつ

高校時代の友人に誘われて

新宿のライブハウスへ初めて行った時

 

自分の魂から望む生き方をしている彼らの姿に感銘を受け

音=周波数としてはエレキベースの重低音によって

私は瞬間的に

「自分は今まで親の世界のレールに沿って生きていただけだった

本当の意味では生きていなかった」

ということに気づいてしまい

 

満員のライブハウス

新宿Loft の最前列で

ヘナヘナとそこへ座り込んでしまいました

 

皆さん

経験ある方いらっしゃいますか?

 

自分の世界のマトリックスが

瞬間的に破壊されると

文字通り

立っていられなくなるのですよ

身体は正直です

 

そこからが大変です

なんとか家へ帰るも

 

翌日から何もやる気がおきない

何もできない

全てがウソだと気づいてしまったから

 

みんな大人は自分の魂の欲求に気づいていない

ただ 与えられたことだけをやっているにすぎない

 

そして私はどうする??

 

その後の闇は長かったですね

 

ここから一気に芸術の世界へ

私の魂はのめり込むようになります

 

私が心の奥底から

喜べるものを探し始めるのですが

 

それは

好きな音楽と舞台にしかなかったのです

舞台といっても

モーリス・ベジャールという

モダンバレエの祖を築いた

フランス人の創作した舞台芸術だけが

ぴったりくるものでした

 

それからは

代々木の図書室へ勉強道具を置きっぱなしにしては

今は無き「キノ青山」という小さく素敵な映画館や

渋谷の文化村で初開催だった

「Dance on film 」というニジンスキーのモノクロ映像

イサドラ・ダンカンのモノクロ映像などを

観に

通い詰める毎日でした

(お父さん、お母さんごめんなさい)

 

実際の日常は

私の中では架空のものとなっていき

魂の高揚を感じる

舞台作品や好きな音世界の中にいる時こそが

私の生きる場所

となっていきました

 

こんな浪人時代を一年過ごした後

なんとか都内の大学にギリギリ受かり

大学生活が始まりました

しかし

がっかりしたことに

バブル崩壊直前の大学では

まるで制服のようにみんな

ラルフローレンの白いポロシャツ

リーバイスのブルージーンズ

を男子も女子も着ていて

(私は鉄錆色のシビラのジャケットが大好きで

着ていました)

六本木ではお立ち台が流行っていました

 

終わっていましたね〜(涙)

 

唯一、授業で面白かったのが

ジャコメッティーを専門に研究している先生による

美術史の授業でした

 

そんな中で

私は日々 

生きる希望を失い

感覚だけがどんどん鋭敏になっていき

山手線に乗っても

宙吊り広告の写真や言葉から

とても低俗な周波数を浴びせられていると

感じるようになっていて

とにかく地獄に連れてこられた「ワタシ」

のような心境になっていきました

 

どこを見回しても

大人になる

ということは

自分の魂にウソをついて

与えられたことをやらなければならない

というように見えたので

 

何回自分に聴いても

「自分の魂の声にウソをつくことだけはできない」

ということがわかっていましたので

自死を考えるようになっていました

 

だんだん脈も途切れ途切れになっていき

なかなか危ない状態だったと思います

 

唯一の問題は

どうやって死ぬか?よりも

それを決行したことにより

両親を悲しませる

ということでした

 

それでなかなかできずにおりましたが

山手線のホームで電車を待っていると

そこへ飛び込む自分が見えるのです

「◯◯線、◯◯行きの電車が到着します」の

アナウンスが聞こえてきたら

自分が飛び込んでしまわないように

すかさず、どこか捕まるところを探して

なんとか手で握り続け

自分が飛び込んでしまわないようにするのに

必死でした

 

相当な状態です。。。

 

そんな半分死人のような日々の中で

これも宇宙のお導きとしか言いようがないのですけど

池袋のスタジオ200で行われる

大野一雄の「魂の風景」という映画上映会&

大野一雄自身によるお話会

という会へふらりと行ったのです

 

始まる前の会場へ入るなり

「enya」が流れていて

あ〜 私の場所があったとすでに涙ぐみ

大野一雄が舞台へ出てきた時には

号泣していました

 

精神的にギリギリだった私には

普通に背広を着て立っている

その可愛らしいおじいさんが

宇宙のエネルギーにきれいに繋がって

トーラス状に循環し

立派な大人として立っているように

見えたのです

 

「あ〜 やっと

まともな大人=人間に出会えた

いたんだ!」

という感激の涙でした

 

この時に起こったことを

言語で説明するのはなかなか難しいです

 

それから間の休憩時間に

スイス人のダンサーに

大野一雄の研究所が横浜にあって

誰でも参加できますよ

と教えていただき

 

どうせ死ぬのなら

このおじいさんから習えることがあれば

習ってみたい

そうしたら私は親を悲しませることを

しなくても良くなるかもしれない

 

という感じでした

 

そして

大野一雄舞踏研究所の門をたたいたのは

それからわずか3日後

私は19歳でした

 

 

 

今回はここまでにいたします

 

回想録とは不思議なものですね

普段は忘れていますが

宇宙に導かれ完璧だった人生の流れが

今はわかっているので

細かく書くことになりました

 

つづく・・・