『SECRET SOCIETY ?』 に関する調査報告書 6(22)
「グラウンドに礼!」
(スポーツマンの掟)
球場に入るとき子どもたちに挨拶をさせているという。
熊の言葉の意味が何となくわかった。
「失礼します」
心の中でお辞儀をしながら、そっと両手に体重をのせた。
割れ目から吹き出した風。
扉が閉まると光が遮断され、
しっとりと冷たい空気が頬を包んだ。
乱れた前髪をかき上げた。
無駄な音などひとつもない。
どことなく神聖な香りがした。
扉の奥に長い廊下が続いていた。
薄暗い間接照明。
視線の先にはやわらかな光源。
そこから一条の光が差し込み訪問者の足元を優しく照らしていた。
この先、長い廊下の向こうにエントランスホールがある。
ズボンをたくし上げ、緩んだネクタイを締めなおすと
指先に真っ白な吐息を吹きかけながら凍て付いた
廊下を踏み締めた。
静寂の中、乾いた靴音だけが鳴り響いた。
大理石調の床。
廊下に配置された彫刻たち。
壁には古ぼけた写真が額に入れられ飾られていた。
あれは学校の歴史だろうか?
彫刻のモデルは?
写真を眺めたり、彫像に触れたり、
歩きながら思いを馳せた。
備え付けのソファーに倒れ込むように腰掛けると
揺らめく天井を眺めながら思考の世界に耽った。
嗚呼、何だろう。この意識が飛ぶような高揚感。
上質な美術館を訪れたときのような心地よさがあった。
もたれかけながら視線を逸らすと傍に坐像があった。
照明の光を浴びて浮き立つ陰影。
実に味のある作品だった。
「リアル」
上体を起こして触れようとした。
彫刻の首がゆっくりと回転した。
暗闇の中で眼光が鋭く光った。
『SECRET SOCIETY ?』 に関する調査報告書 6(21)
<好敵手>
重機の轟音。
監督の怒号。
背丈を超える大きな建材を肩に担ぎ、
腰に巻き付けた工具を打ち響かせながら、
作業員たちが忙しなく動いていた。
見渡せば骨組みの山。未完成の城ばかり。
駅周辺では都市開発が進行中だった。
町が完成し、人が集まり、新たな暮らしが生まれる。
この先、どんな未来が待っているのだろうか。
想像が膨らむ。
駅周辺は賑わっていた。
だが一歩進めば荒れた農地ばかり。
駅から離れたエリアはどことなく閑散としていた。
開発を実現させるには人心を惹きつける
何らかのメリットが必要となる。
大学の誘致。
それが駅前開発の目玉だったのだろう。
駅から大学までは少し距離があった。
行き先は決まっていた。
「遅刻厳禁!」
道草を食う暇などない。
頭を空っぽにして黙々と前進した。
どれくらい歩いただろうか。
突然、目の前に無機質な物体が現れた。
打放しコンクリート。
型抜きの箱物。
大きな通りを軸にして近代的な建物が規則正しく建ち並んでいた。
それは緻密に計算された空間だった。
まるで工業地帯の工場群のように、
静かな田園風景の中に灰色の街が広がっていた。
すべて大学の所有物だ。
コンクリートの山を越えると森が出現した。
学び舎に図書館はひとつ。
それが当たり前だと思っていた。
そう。あの幾度となく潜入を試みて挫折したところ。
見て見ぬふりをしてくれた心優しき警備員のおじさん。
間違いない。
あの演技は助演男優賞ものだった。
今でも健在だろうか。
それにしても驚きだ。
まさかその先に別館があるなんて・・・
とんだ思い込みだった。
灰色の山を背にして深緑の向こうへと姿を消した。
学舎の裏手、鬱蒼と茂った森の奥から姿を現したのは
年季の入った木造の洋館だった。
建物を見上げた。館というよりは塔と呼ぶべきか。
どこかで見たことがあるような気がした。
純粋な西洋建築ではなかった。
日本の伝統的な建築様式に異国の風が吹き抜けたような
和洋折衷の趣。鉄道が開通した頃の駅舎、あるいは
開設初期の木造校舎のような、異国情緒溢れる
歴史的な佇まいがそこにはあった。
ゆっくりと周囲を散策しながら建物の顔を堪能した。
それ自体に“歴史”を感じた。
後頭部が痺れた。
いつ、誰が、どんな思いでこれを造ったのか?
きっとそこに何かが眠っている。
隠された真実が知りたい。
錆びかけた鉄の扉に両手をかざした。
確かに、灰色の塊の方が機能的で合理的かもしれない。
だがどれも同じ表情に見える。
それに何かが足りない。
熱?
そう、温もりに欠けている。
多少不便があってもいい。
味がある面構えになぜか心惹かれる。
『SECRET SOCIETY ?』 に関する調査報告書 6(20)
熊出没。
老人の手を両手で握り深々と頭を下げて挨拶をしていた。
「お久しぶりです」
老人は視線を合わせずに軽く頷いた。
こんなに畏まった姿を見たことがなかった。
熊の態度を見て確信した。
この老人、やはりただ者ではない。
熊が近付いてきた。
グローブのような大きな手で頭を鷲摑みにされると抗えない力で
承服させられた。視線をそらせると傍に熊の顔があった。
「無鉄砲な若造ですが真っ直ぐなやつです」
それは思いもかけない熊の自分に対する評価だった。
鼻頭が痒くなった。
「話はすべて山田から聴いとる。よろしゅうな。
まるちゃん。これからは“金ちゃん”と呼んでおくれ」
「あっ、はい」
呼べない。初対面の人間を愛称で呼ぶのは抵抗がある。
まして熊のあんな姿を見てしまったら・・・
“金ちゃん”なんて。
それより誰だ?
指を弾く音がした。小さな物体が回転しながら宙を舞って飛んできた。
左手でキャッチした。指を広げた。銀色の硬貨だった。
視線を合わせると老人が頷いた。
そういうことか。
踵を返すと芋虫の腹めがけて走り出した。
今日は遠出の出張だと聞いていた。「ついで」と言っていたが、
わざわざ自分のために顔を出してくれたというのか。
そういう男だ。助かった。熊の紹介だ。さらにお墨付きを戴いた。
それだけで相手の信頼度が桁違いに高まる。
取材の効率が上がるのは確かだ。
初対面の人間と距離を縮めることほど難儀なことはない。
とにかく有り難い。
また貸しができた。
本を読んでいた店主に尋ねると倉庫からマグナムを持ってきてくれた。
店の奥からキャプテンが笑顔で手を振ってきた。愛想笑いで店をあとにした。
缶を握り締めて戻るとすでに老人の姿はなかった。
背中合わせに寄り添った。
真剣な話をするとき、二人はいつもこのスタイルをとった。
そっと缶を手渡した。
「誰ですか」
拍子抜けした顔をして答えた。
「お前が探していた人だよ」
金城(きんじょう) 通称:金さん
某大手会社で長年役員を務めてきたが今は現役を引退して
隠居生活を送っている。時間に余裕ができたのでかねてから
興味があった分野を大学で学んでいるらしい。
かなり高齢と見られるが学生であることに間違いはない。
「まる。受け取れ」
指の間に挟まれたのは菖蒲の透かしが入った一筆箋だった。
達筆な字で待ち合わせの詳細が記されてあった。
「大学に通うのは週に3日程度。空いた時間にお前の相手を
してくださるそうだ。場所は大学の図書館前のロビー。
トイレの近く、大きな花瓶の前の黒いソファーに座っている。
遅れるなよ」
空き缶を器用にゴミ箱に投げ入れると肩を叩いて立ち去った。
小学校のとき、昼休みになるとよく学校の図書室の準備室に
逃げ込んで遊んでいた。普段は施錠されていて入室が制限されていた。
仲間とかくれんぼをしていて偶然進入可能な小窓を発見した。
植木で死角になっていた。子どもだから見える世界もある。
蜘蛛の巣のかかった秘密の小部屋。廃棄処分を待つ本たちが
ダンボールに押し込まれて堆く積まれていた。
一番のお気に入りは「日本全国妖怪図鑑」だった。
読破してわかったことがある。妖怪は二種類に分類されるということ。
心の隙間に付け入り、人間を闇に引きずり込む悪い妖怪。
いたずらをするが人間に危害を加えないよい妖怪。
あの愛嬌のある皺くちゃの笑顔。
鼻が鳴った。
飲み終えた空き缶を拾い上げ放り投げた。
ゴミ箱の縁に当たって転がり落ちた。
「お子様か」
帰り道。
思いをめぐらせながら林道を歩いていると目の前に一枚の枯葉が落ちてきた。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ・・・。
それは雪が舞い降りるような幻想的な情景だった。
ふわふわ、
落下傘。
彷徨う蒲公英の綿毛のように。
『SECRET SOCIETY ?』 に関する調査報告書 6(19)
投げられたボールを咥えて戻ると老人は無言で出迎えてくれた。
指示された通に戦利品を献上した。横目で確認すると頷きながら言った。
「お上がんなさい」
お辞儀をしながら応えた。
「頂戴します」
見ず知らずの人間から物をもらう。子どもなら禁止事項だ。
大人になれば例外を知る。それは至極自然の成り行きだった。
すでに約束の時間はとうに過ぎていた。
時間厳守。それは人として守るべき鉄則だ。子どもだってわかるルールだ。
若者批判だけは避けたい。抜きかけた刀を鞘に戻した。こんな日もある。
蛙に乗って揺られながら嵐が過ぎ去るのを待った。今日は他に予定がない。
時間はたっぷりある。さてどうするか。
コーヒーが底をつく頃、老人が話しかけてきた。
「いい匂いする」
鼻をヒクヒク動かしながら香りの出所を探した。足元に置いていたバックを
とらえて視線が止まった。
「ああ、これのことですね」
取り出したのは皺くちゃに丸められた紙袋だった。
「手作りのベーグルです」
紙袋を凝視したまま動こうとはしなかった。
食べかけのやつと帰りにかぶりつこうと決めていたやつ。
ラップを剥がしてすすめた。
「朝食です。もう済ませたのでよかったらどうぞ召し上がってください」
老人はなめ回すようにベーグルを観察したあと、
徐に小指を差し込んでソースをすくい上げた。
こぼさないように顔を近づけると指ごと舐った。
目を綴じで咀嚼を繰り返した。
「悪くはない」
あまりの急な展開に唖然としてしまった。言いたいことはいっぱいある。
だが老人非難になるから止めた。目の前に差し出されたのはあの御重だった。
折り目正しく敷き詰められていたのはお稲荷さんだった。この色、匂い。
間違いない。しっかりっと味の滲み込んだ御揚げが照り輝いていた。
ハンドタオルで指先を拭うと会釈をして端っこに転がっていた稲荷をひとつ
摘み上げた。
「いただきます」
ゆっくりと口に運んだ。種の軟らかさが少し気になった。
もう少し米粒は硬めのほうが好き。でも味付けは最高だった。
噛むほどに染み出す煮汁。上品でありながら、
どこか懐かしい味がした。
「うまい!」
それは心の声だった。
思わず笑みがこぼれた。
老人も笑った。
歯がなかった。
言葉を失った。
なぜパンを食べなかったのか。
どうしてご飯が軟らかすぎるのか。
謎が解けた。
目が合った。
両頬に米粒ををいっぱい詰め込んだまま、
苦笑いをした。
腹が満たされると退屈になってきた。
蛙の足元にはスプリングがついていた。縦横斜め。
重心を移動すると振り子のように自由に動いた。
揺れ幅はだんだんと大きくなっていった。何だか楽しくなってきた。
前方に倒れ地面すれすれで体勢をキープ。落ちないように分張り、
やっとの思いで起き上がると突然両肩を摑まれた。
この手の感触。
林檎も砕け散ってしまうような怪力。
あの男しかいない。
倒れ込むように蛙から飛び降りた。
振り返ると大男が立っていた。
『SECRET SOCIETY ?』 に関する調査報告書 6(18)
子ども頃によく通ったボウリング場がある。レーンの片隅で光り輝いていた
ピンボールの台を思い出した。宇宙戦争と題したゲーム。バトルシップに
乗って地球外生命体を殲滅するというシナリオだった。お小遣いなんて
高が知れている。大人が遊ぶのを傍でじっと見つめていた。
忙しなく跳ね上がる羽。縦横無尽に飛び回る球体。テクノが流れ、
ボールがぶつかる度に爆発音が鳴った。当時の興奮を忘れることはない。
とくに台に描かれていた怪物のデザインは鮮明な画像として記憶に
残っている。SF映画でよく登場するものは架空の生物であることは明白だ。
でも、それにはリアリティーがあった。そして今目の前にそいつがいる。
自販機を抱え込むように異形の生命体が口を開けて天を仰いでいた。
指先で造形美を堪能していると後ろから肩を突付かれた。
振り向くと嘘っぽい笑顔を振りまきながらキャプテンがジェスチュアをしていた。
どうやらコインを食べさせるらしい。老人から託されたコインを口の中に
打ち込んだ。硬貨が落ちる音がした。しばらく沈黙が続いた。反応無し。
男から笑顔が消えた。プラグを抜き差したり、ボタンを連打してみたり、
挙句の果てにBOXを叩き始めた。血の気は失せ、汗がしずくとなって落ちた。
トラブル発生。いや焦ることはない。最初から問題ありだった。
ようやく現状を把握したのだろう。
男は引き攣った顔で表へと飛び出していった。
「店長」
外から聞こえてきたのは流暢な日本語だった。ペンを胸ポケットに挿入すると、
ノートを開き書き殴ったページを破り捨てた。
カランコロン、カランコロン。
下駄の音。光の中から心地よいリズムで鳴り響いてきた。
店先から二人の男が向かってきた。
逆光で顔が見えなかったがシルエットでわかった。坊主とキャップ。
坊主頭の男は表情も変えずに自販機の前で仁王立ちになった。
握り締めた拳で右側面を一撃。息を吹き返すように電源が回復した。
ボタンを押すと缶の落ちる音がした。肋骨を両手でこじ開けると中から
缶を取り出した。気付けば手の中にマグナムがあった。
無駄な動きなど何ひとつなかった。風が吹きぬけるように
坊主は無言で去っていった。店主が姿を消すと、
再び自販機の電源が落ちた。
残されたクルーは必死で自販機を叩いていた。
言いたいことは山ほどある。
手にした缶を眺めた。
やめておこう。目的は遂行されたのだから。
「瞑想中・・・か」
粋な言葉遊びだ。
『SECRET SOCIETY ?』 に関する調査報告書 6(17)
坊主頭の男はまだ深い眠りの中にいた。
シャッターが半分開いていた。足音をたてないように静かにガレージに
近付いた。不愉快な音を立てながら残りの半分が上がり始めた。
足元から腰、さらに胸元へ。見上げるほどの大男。現れたのは青い眼をした
細身で長身の男だった。全身黒尽くめのスーツ。ネクタイはしておらず、
なぜか船長のようなキャップを被っていた。
「キャプテン」
鎖骨の辺りまで伸びた真っ白な髭。誰の作品だったか思い出せないが、
油絵のモデルになるような堀の深いはっきりとした顔立ちだった。
パイプが似合いそうな海の男。漁師のような気概はなさそうだった。
潮風に揉まれ過ぎたのだろうか。どことなく不潔な感じがした。
光が差し込むことでガレージの内部の状況が明らかになった。
車が2,3台駐車できるスペース。改装され店舗になっていた。
ビスケットの袋を手にとってラベルを調べた。輸入品が中心らしい。
店主の趣味だろうか。食品から衣類、雑貨まで、棚には灰汁の強い品物が
雑多に並べられていた。箱物が個性的なら中身も独創的だ。
英語を聞き取ることはできる。だが話しに関しては自信がない。
文章ならば何とかやり取りができる。バックから電子辞書、よれよれのノートと
ペンを取り出した。しばらく筆談が続いた。
店長かどうかを確認した。どうやら違うらしい。所在を尋ねた。
ペンを奪い取ると長身の男は自慢げな顔で書き上げた。
「迷走中」
どうやら少しは漢字が書けるようだ。
島のどこかでジョギングでもしているのだろうか。このままでは埒が明かない。
握り締めていたコインを見せた。男は大きく頷きながらガレージの中に
消えていった。販売員かもしれない。暗闇からひょっこりと顔を出すと
にっこりと笑って手招きをした。考えている暇はない。
後を追った。
うなぎの寝床のような構造。店内には背骨の如く左右を分断するように
一筋の通路が走っていた。人がようやく擦れ違えるほどの狭い幅だった。
道は暗闇の中、店の深遠へと続いていた。両脇には段々畑のように棚が
設置してあり、商品が山のように積まれてあった。壁には衣類が吊るされ
ていて、天井から下げられたフックにはバナナの房のように得体の知れ
ないものが引っ掛けられていた。とにかく視界が悪い。お化け屋敷のように
次から次へと何かがぶつかってきた。品物を落とさないように両肩をすぼめ
ながら奥へと進んだ。
スイッチをひねる音。裸電球が瞬きオレンジ色の灯りで店内が照らし出された。
光を浴びて浮かび上がったのはボルドーの大きな布がかけられた巨大な
物体だった。キャプテンは得意げな表情で両端を摘み上げるとマタドールの
ように布を翻した。臭い立つ湿気。巻き上がる埃。袖で鼻先を押さえながら
男のがさつさを睨み付けた。視線を外しながら作り笑いをした。繰り出される
咳きを必死で呑み込もうとしていた。耐え切れなくなった男は隠れるようにして
機材の後ろに回り込んだ。プラグを差し込む音。電源が入りマシーンが
稼動を開始した。
HELLO
バーの看板のように蛍光色のネオンが点滅した。
暗闇の奥で待ち受けていたのはジュークボックスのような自販機だった。
埃まみれの鉄塊。口元を覆ったままディスプレイに顔を近づけた。
汚れで商品が見えなかった。頭を掻きながら男は周囲を見渡した。
床に置かれたダンボールを開けるとタオルを取り出して自販機に
ついた汚れを拭った。男は手についた汚れを見て顔をしかめた。
そのまま手にしたタオルを放り投げた。自販機に陳列されていたのは
コーヒーの缶たちだった。すべて輸入品だろうか。お初のものばかりだった。
胸が高鳴っった。あいつの顔が見えなかった。振り向くと男が近付いてきた。
渋々スーツの袖で残った汚れをふき取った。
拳で軽くウィンドウを叩いた。
言葉なんて要らない。
それはまるで愛しき人との再会だった。
『SECRET SOCIETY ?』 に関する調査報告書 6(16)
初めてその味を記憶したのは編集社で仕事を始めてから最初の夏だった。
汗だくになってグレイブで本棚の整理をしているところに突然
あの大男がやって来た。背後から忍び寄る影。首筋に伝わる冷たい感触。
思わず脚立から落ちそうになったのを覚えている。
熊が出張先で購入してくれた地域限定の缶コーヒーだった。
熊曰く「市場には出回らない超レアな一品」らしい。
なぜ下っ端の人間にわざわざ土産を持参するのか。
今ならわかる。理由なんてありはしない。そういう男だ。
熊は仲間に対しては人によって待遇を変えたりするタイプではない。
出先から帰還すると獲物をデスクの上に山盛りにしておく。
世界は弱肉強食だ。欲しいものは自分の力で勝ち取らなければならない。
最後に残るのはいつもマグナムだった。
「ハイエナだな」ある社員が通りがかりに吐きすてた言葉だ。
だかあいつは知らない。ハイエナが自ら狩をする強靭な動物であることを。
掃除家というレッテルを貼ったのは人間だ。
それは主観性の強い思い込みに過ぎない。
それにしても、なぜ自分なのか。
飲んでその理由がわかった。甘い。頭痛がするほど甘ったるかった。
甘党でも舌を巻くほどの甘さだ。自分が選ばれるのもわかる気がする。
師は缶を珈琲とは認めていない。
熊がいなくなるとマグナムをくらうことになる。
退社するまでふたりの密約は続いた。
なぜ甘いのか。どこに売っているのか。
気になったのでいろいろと尋ねたことはあったが、
お茶を濁すばかり。熊はマグナムに関する情報をすべて秘匿にした。
猿山を離れてから一切口にしていない。
どんな味だったのか。
枯渇しそうな泉に潤いが戻った。
これではパブロフだな。
零れ落ちそうなよだれを拭い去って老人に近付いた。
「そのコーヒーはどこで手に入れましたか?」
「・・・」
「すみません。お尋ねしますが、そのコーヒーはどこで購入したのか
教えていただけませんか?」
老人は御重に蓋をするとポケットから小銭を取り出して掌に広げた。
散らばった中から銀色の貨幣を摘み上げると無言で目の前に差し出してきた。
反射的に両手で器を作った。手の中で転がったのは見たこともない
外人の横顔が彫り込まれたコインだった。どこの国の貨幣だろうか。
老人は握った杖を振り上げた。
ガラガラガラ。
遠くでシャッターが上がる音がした。
棒の先に視線を走らせるとあの芋虫が大きな口を開いて横たわっていた。
老人は杖を二、三度地面に叩き付けた。
それはGOのサインだった。
手にしたコインを握り締め来た道を折り返した。
『SECRET SOCIETY ?』 に関する調査報告書 6(15)
広場の奥、砂場の横の草むらには動物を模った置物がいくつも埋まっていた。
そこにひとりの老人の姿があった。黒いハンチングにタートルネック、
グレーのジャケットを纏い、柄に彫り物があしらわれた細長いアンティークの
杖を持っていた。日本人離れした異国風情の佇まい。地下室のマスターとは
タイプが異なるが、清潔感のある洗練された紳士だった。草むらに分け入った
老人は軽い足取りで緑色のオブジェに腰掛けた。座ったのは亀。
その横でおどけた顔をしながら蛙が揺れていた。
視線を落とした。膝の上には大判の風呂敷包みが乗せられていた。
帰ってきた浦島太郎。
この人がターゲットである確率は限りなくゼロに近い。
振り返った。
まだあのてるてるさんの方が可能性がある。
「クリア」
視線を戻すと、
老人は缶コーヒーを啜りながら遠くを眺めていた。
軽く会釈をした。
「・・・」
反応がなかった。完全なる無視だった。
コーヒーブレイクを邪魔するほど野暮ではない。
頭を撫でながら静かに蛙にまたがった。
「チェックメイト」
にやけながらそっと呟いた。
予想が的中した。
待ち合わせ場所に到着。
あとはターゲットを補足するだけだ。
すでに待ち合わせの時刻は過ぎていた。
一向に現れる気配はなかった。横目で老人の動向を探った。
膝の上に広げられていた紫色の風呂敷には絞り抜かれた
菖蒲の文様が描かれてあった。中身は漆器塗りの御重。
蓋には綺麗な細工が施されていた。絵柄までは確認できなかった。
ただひとつ言えることはどれも本物であるということ。
しきりに何かを箱から取り出しては口に運んで頬張っている。
足元にはさっきまで飲んでいたコーヒーの缶が置いてあった。
印字されたロゴをなぞった。
M ・A・G・N・U・M
プルトップの脇に浮かび上がるナンバー44。
「マグナムコーヒー!」
思わず立ち上がって叫んだ。
それは思い出のコーヒーだった。
『SECRET SOCIETY ?』 に関する調査報告書 6(14)
広場に到着。
入り口付近である建物が目に入ってきた。
「あれが売店か?」
それはひどく個性的な建造物だった。
近付くほどのその異様さが伝わってきた。
増築を繰り返したのだろう。
まるでコロネのように様相の異なる建物がいくつも連なり、
ひとつの大きな塊となっていた。
「芋虫みたい」
一番高い建物の屋上には洗濯物が干してあった。
割れてひびが入った植木鉢、巻き取り式のホース、
ボコボコにへこんだ如雨露、泥だらけのスコップ、
サドルのない自転車に堆肥を積んだリアカー。輸入麦酒の瓶ケース。
郵便受けの上には空になった牛乳瓶が逆様になって並べられていた。
他にも生活感をにおわせるものがいたるところに散乱していた。
明らかに公共の施設ではない。それは私的な住居だった。
公園内にハウス? 聞いたことがない。
もともと家があったところに公園をつくったのか。公園に家を建てたのか。
家は私有地?それとも公有地? 家の主は公園の管理人なのか。
法的にはどんな扱いになるのだろうか。
気になることはとことん調べたい。
いつもの悪い癖だった。
それからしばらく建物の周囲を散策した。
だがいくら隈なく探しても売店は見つからなかった。
諦めかけたとき芋虫の頭に当たる部分、
広場に最も近い建物の前で大きな発見があった。
正面はガレージのようになっていてシャッターが閉まっていた。
カラフルなビーチパラソルに真っ白な円卓がひとつ。
どこかのエアラインのものだろうか。
リクライニングシートに一人の男が仰向けになって寝そべっていた。
団塊の世代。
坊主頭に藍色の作務衣、黒のお洒落な眼鏡をかけていた。
どうやら睡眠中らしい。
胸元で両手を組み、目を閉じながらすやすやと深い寝息をたてていた。
胸が膨らむごとに指の先から本の表紙が見えた。
かけられていたのは使い込んだ味わいのある皮製のブックカバーだった。
何を読んでいるのか気になった。
ブックカバーの存在意義。
詮索しない。
それが本を愛するもののルールだから。
学生にしては年齢も経験値も高すぎる。
この人ではない。
「クリア」
そろそろ待ち人が来る。
後ろ髪を引かれながら広場を目指した。
広場は小島の中央に位置し、高台の頂上にあった。
歩きながら辺りを観察した。園内は色とりどりの遊具で溢れていた。
滑り台、ジャングルジム、登り棒、シーソー。誰かが乗っていたのだろうか。
金属音を響かせながらブランコがかすかに揺れていた。ひとつひとつ
遊具の構造を確かめながら頭の中で遊ぶ姿をシュミレーションした。衛生面に
おいて多少難はありそうだが、遊び場としては申し分ないコンテンツだった。
定番の遊具の他にも見たことのない器具がいっぱいあった。
どうやって遊ぶのだろう。
心を奪われた。
『SECRET SOCIETY ?』 に関する調査報告書 6(13)
かわず公園は林に囲まれた円形の公園で、中心部にドーナツ状の万年池が
広がっている。池に囲まれた穴の部分には要塞のような小島があり、
緑の壁に阻まれて外から内部の様子をうかがうことはできない。
東西南北にゲートがあり、四方から池にアクセスすることが可能だ。
池を越えて小島に渡る方法はひとつ。
唯一架けられた橋を通るしかない。
ゲートを潜り抜けると空気が一変した。湿気を帯び、踏み締めた落ち葉が
足の裏にまとわりついた。のどの痛みも幾分和らいだ気がした。
林の奥から小鳥たちのさえずりが聞こえてきた。
どこからか、水の流れる音がした。
小さな林道を抜けると池が姿を現した。
海浜とは違った溜め池特有の生臭い臭気が漂っていた。
池の周囲には黒色の柵が敷かれていた。
並行するようにボロボロのベンチが等間隔で並べられていた。
木製の板の上には枯葉や鳥の糞が散乱し、地面には食べ残しの
弁当の器や飲み残しのビンや缶が無造作に転がっていた。
鉄柵の向こうに広がっていたのは深緑の床だった。水草が繁茂し、
水鳥たちが美しいカーブを描いて優雅に滑走していた。
透明度は低く、水深は計り知れなかった。河川に通じているのだろう。
排水溝にはゴミがたまり、ビニール袋が浮き沈みしていた。
泡立つ水面。水質はお世辞でもよいとは言えなかった。鼻を擦った。
とにかく臭い。
欄干を叩きながら池の縁を歩いた。林から飛び出してきた
つがいの鳥たちが水面を低空飛行しながら戯れていた。
「何鳥だろう?」
カウンターを押す真似をしながら呟いた。
専門家の解説を聴いてみたい。鳥についてそれほど興味はなかった。
都合のいい話だ。
しばらく欄干に寄りかかって小鳥たちの姿を眺めていた。
遊び疲れたのか、小鳥たちは空高く飛び立つと、大きく旋回しながら
小島の方へと姿を消していった。遠くを見つめた視線の先に和風の
小屋が見えた。目を凝らした。側には傾きかけた看板が立っていた。
どうやら橋の入り口らしい。
橋を通って小島に渡り売店を見つける。あと少し、もう少しだ。
足早に小屋に向かった。
池にせり出した休憩小屋を過ぎると橋の全貌が見えた。
目の前には広がっていたのは複雑に絡み合う迷路のような橋だった。
立ち止まっている暇はない。
池に浮いた板の上を右往左往しながら、無心で出口を探した。
迷宮はなかなか迷い人を解放しない。
牛ではない。亀と蛙を探しに来た。
なぜ直線に架けなかったか。このような橋を造った意図が知りたい。
先を急ぐ者としてなおさら腑に落ちなかった。
会うべきではないということなのか。
いや、もうあとには引けない。
要塞に潜入。
予想以上に時間を費やして、ようやく小島に辿り着いた。
空は随分と白けてきた。
橋の袂にあった外灯の横の時計台を見上げた。
待ち合わせ時間が迫っていた。
枯葉のトンネル。
木漏れ日が差し込む緩やかな坂道を
一歩一歩前進しながら
合流地点を目指した。
