人生を、自分自身が舵をとって進もうとするすべての人のことをリーダーと言ってます。
<今日のあらすじ>
足利義満は南北朝を統一し、ここに室町幕府の最盛期が訪れます。金閣寺が建立され、能文化が花開き、明との国交が開始され、勘合貿易が始まりました。
1357年に足利尊氏が亡くなります。その年に産まれた尊氏の孫、足利義満が、1368年、10歳の時、三代目将軍として跡を継ぎました。
彼は源氏の始めた場所(鎌倉)での政治をやめ、新たに室町(京都市上京区)にやしきを建ててそこで政治をするようになりました。元々上皇の御所があったところ。花の御所。その名の通り贅沢な作りだったとか。
それで、そんな感じで室町へ引っ越したので、鎌倉幕府に対して室町幕府(室町時代)と呼んでいます。
足利義満は、金閣寺を作った人です。すごい家に育ってきたから、もともと派手好きでした。納得でしょ![]()
室町幕府が成立しても、南北朝の争いは続いていました。
そんな中、足利義満率いる幕府は、朝廷(北朝)までもおさえる勢いにまで勢力を拡大していました。もはや朝廷としても、幕府(武士)の力無くして食べていけなかった。
そこで改めて、足利義満によって3つの条件が出され、南北朝が統一されます。1392年のこと。
当時、上の99番目、後亀山天皇は退位し、後小松天皇一人が天皇ということになりました。また、今後も持明院統と大覚寺統が交互に天皇を出すこととか他条件はありましたが、後亀山天皇はそれを受け入れ、ここに南北朝が統一しました。
ちなみに、今の天皇は125番目です。100番目の後小松天皇なんていつの時代の(っていうか室町時代なんだけど)どんだけ遠い昔だよって思ったあなた、今の天皇の、25代前と考えると、意外と近いですよね。
足利義満は上に書いた通り幼少期から贅沢な暮らしぶりで、もう貴族、それも貴族の中の貴族みたいな生活をしていた人でした。
和歌を詠み、蹴鞠をして遊びました。武士の子供でしたけれど、まさに和洋折衷ならぬ武貴折衷、武公折衷。禅寺で座禅、密教寺で祈祷も行いました。
出家してから、今でいうと600億円程を金閣寺建立にあて、内外に力を示します。
↑金閣は第一層が公家風の寝殿造。第二層が武家好みの書院造。第三層に禅宗風の仏殿。貴族、武士、寺や僧などすべての上に立ち支配するのが自分(足利義満)だという主張だった。
↑義満は能、狂言を特に氣に入って、熱心に応援した。能は面をつけて舞うもの。狂言は能の合間に面白い言葉のやりとり(漫才)を演じるもの。
時は観阿弥・世阿弥親子の頃。明や朝鮮との貿易で潤った分、こちらに財力が使われ、日本を代表する文化として花開いた。
そんな足利義満が、明に目を向けます。明という国の王様に、日本国王と認めてもらおう!と。そうすれば、国内だけでなく海外からも認められたという箔がつきますしね。
しかし、当時明との正式な国交がなくて、貿易ができませんでした。明はそのとき倭寇に苦しんでいたから、正式な国交のない国とはやりとりしなかった。だから日本は朝鮮と貿易し、朝鮮経由で明のものを手に入れていました。
で、1404年、勘合貿易を始めます。
勘合ふだって単純なつくりで、
「日本」の「日」と「本」にわけて
明から日本に来る時は「本字一号」
日本から明に行く時は「日字一号」
と書いた札を半分に切って、到着国でもう半分と照らし合わせる仕組みでした。
で、一号から百号までありました。
↑これは「本字一号」と書いているから、日本から明に行く貿易船に乗せられました。
まあそんな感じで、室町時代がまだ続きます。。。
なんで、こんなに、長いのか?
かれこれ2週間は、日本の話。
さすがにそろそろ、飽きたよ![]()
って、書いてるの自分なんですが。。。
続く



