さて、いまから ここから。

 

<今日のあらすじ>

洪武帝の治世と三代目、永楽帝の対外政策について。この時同時多発的に世界の各地で、「光り輝く海がわたしを呼んでる〜」な、モアナみたいなのが広がっていました。

 

 

 

 

洪武帝はやり手政治家だった話を書きましたね。

 

 

ずっとずっと前、黄巾の乱のときはちょうど三国志のときでしたね、ずいぶん遡りますが、そこから隋、唐、と、いかに農民を手なづけるかだったんだよ、って話をしました。均田制というのもそのための大事な制度だった、と、おぼえてますでしょうか。。。

 

 

右差し参考ページ

 

 

 

で、この洪武帝もやはり農民をいかに手なづけるかってところに長けていて、戸籍作ったり土地台帳作ったり、とにかく戦場と化した農村をちゃんと農村たらしめることをしっかり行いました。まあ、もともと農民上がりだったからね。

 

 

さらに、ほら、軍事にも長けていたからその辺のこともちゃんとできた。仕事できる人に多いことだけど、洪武帝って人は部下を信頼しない人で、どんなに有能でも容赦なく弾圧しました。

 

 

元農民で政治家。つまり、いかに農民から税金を取るかっていうところをなんともなしにやっちゃったんだな。自分のリソースをフルに活かしたわけだ。少しわたしにもわけてほしいよ、そのスキル・・ショボーン。別名、独裁者だけどね。

 

 

 

で、北に追いやったモンゴルもしっかり見張りながら、儒教・朱子学の考え方で国を治めた独裁者その人も、寿命には勝てなかった。

 

 

 

権力争いの内乱の果てに三代目永楽帝のとき、年代でいうと1399年、都を南京から北京に移して、領土拡大のためにまた争うようになり、政治改革を行なって、中国の人が積極的に海外へ出ていくのを認めるようになりました。それまでは洪武帝が海外へ出ていくことにいい顔しなかったんだよね。

 

 

 

 

↑永楽帝。どうも中国には歴代皇帝トランプなるものがあるらしい。なぜ日本には歴代天皇トランプなどがないのだろうか。

 

 

 

 

そうなると、当然交易が活発になります。時代は1400年、ヨーロッパでも、積極的に海外へ飛び出す人が増えていたとき。またこの地日本でも、時は室町時代。積極的に海外に目を向ける支配者が現れていたとき。その名も足利義満。

 

 

 

この時代から、日本と中国は、勘合貿易を行うようになっています。この話はまた日本の歴史の時に。

 

 

 

↑勘合符。

 

 

 

 

続く。