MY LIFE IS MY LIFE -3ページ目

祈り


人は嘘をつく



いや、嘘というのは語弊があるかもしれない




この場合、誰にでも心を開くわけではないということだ

また逆に伝えたいと思っていても伝えることの出来ない人も多くいるはずだ




様々な理由や立場から




ではどうするか




どうにも出来ない




ただ信じるしかないだろう

そしてもし自分の想いと異なったことが起きたとしても、それを受け入れ「許すこと」ではないだろうか




そしてそれは決して稀有なことではなく、多く起こりうるということを知るべきだ





それでも信じきること





それがすべてだと思う






それが出来る人は少ないけれど






僕もそうでありたいと願う




そして出来れば君もこれから僕がどんなに君を傷つけても僕を信じきって欲しいんだ




そして許して欲しい

僕がそうしてきたように






ボクが悪かい?

それともキミかい?





そんなの無意味だ




































2012.06.02



自分に出来る事は少ない



だた今はせめてそれだけでも







中村文則『遮光』

中村文則『遮光』



中村文則氏の作品を読むと作品と読んでいる最中の緊張感と、そして何より読み終えた後に変に安心感を残る。


この『遮光』もそんな後味を感じた。



僕も時々この主人公のように自身を客観的に観察し、まるで自分を他人の目からような状態になることがある。そして普段から「自分の脳とは違う行動をまるで自分が望んだことのようにしている」時がある。

しかもそれを冷静にこなしている。


そして自身の中に潜む「口には出来ない狂気」や「どうしようもない事柄」からの逃げ場のない苦しみが何時となくやってくるときがある。

逃れようとするが、それはきっと自分がこの世から去るときまで付き纏うのだろうと、諦めている自分もいる。うまく付き合うしかないと。


僕が今、こうして書いていることは「遮光」のストーリーとは少しズレルかもしれないが、僕がいう安心というのはこれを読んで僕が狂っている訳ではないことを教えてくれる作品だからだ。

僕の頭の中で起こりうる僕が狂気だと思っているそれは実際はすべての人とまでは言わないが多くの人が内に持っているものなんだと思う。少なくともこれを書いた中村氏はそういう一面を持っているに違いないと勝手に思う。


主人公は恋人の突然に死を受け入れることが出来ず、その狂気が表面に露出した。

だがその狂気と呼ばれるものは多くの人の中に存在し、それはいつどのようなタイミングで露呈するかわからないのだろう。


今回の主人公の行動が「純愛」なのか「狂気」なのかと作品のあらすじに掲載されていたが、それはどちらにせよ同じなのではないだろうか。

つまり彼にとっては「純愛」であり「狂気」なのだ。



愛情の表現は人それぞれであり、それは怒りや哀しみや喜びも同様である。

みなそれぞれの事情で生き、それぞれの生き方の範囲でしかそれを表せない。




そう誰もが誰にも見せていない自身の奥に押し込んでいる自分がもう一人いるように。



























中村文則『何もかも憂鬱な夜に』

何度も読み返して、もっとこのストーリーを理解したいという衝動にかられた。

読み始めた時は正直、一気に読むことが辛くて重かった。
でもなぜ辛いんだろう?
ただの小説なのに。


でも読み進めていくうちに、その謎が解けたような気がする。


この話は自分だ。
いや自分だけじゃない。
すべての人に存在する闇だ。

ほとんどの人はその闇に飲み込まれないためにそれから目を背けたり必死に逃げたりする。存在を打ち消そうとする。
それが正しいし、そうすべきだ。
でもそれは所詮無理な話だ。
それは常にここにあるものだから。


この主人公は、この死刑囚はすべてだと思う。
だから僕は僕を理解するためにこの作品を何度も読んで理解したいと思った。
僕もきっと何かになりたいんだ。
すべての人もきっとそうだと思う。




書中より
『何かになりたい。何かになれば、自分は生きていける。そうすれば、自分は自分として、そういう自信の中で、自分を保って生きていける。まだ、今の自分は、仮の姿だ。』






みんなそうだ。



2012.05.22


例えば、あなたにこぼしてしまいそうな愚痴や嫌味のひとつを自分の胸の中に消化して溶かしてしまえば、僕は少しはマシになるかな。


それが大人になるってことなのかな。




心は渇いても魂が泣かないように。





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