浦山桐郎の評伝を読んで思う豊かな日本映画史②吉永小百合、演技派へ | con-satoのブログ

con-satoのブログ

映画を中心にエンタメ、旅などを紹介しています。

 昭和37年に「キューポラのある町」で監督デビューした浦山桐郎。生涯9本の映画しか残さなかった。

 デビュー作も、それに続く作品も、評価の面だけでなく、観客動員も好調だったのに、なんで映画が撮れなかったのか。


 その理由がこの評伝で明かされている。それは彼があまらにも、酒乱だったから。彼の作品を評価する周囲の人も、記憶がなくなるまで飲んでは、暴れる浦山には手を焼いた。

 次第に周囲から人が去り、だんだん撮れなくなってしまう。不幸なことは、浦山桐郎が監督になった昭和30年代後半は、日本映画がテレビに食われ、どんどん衰退する時期に重なる。

 それに他人を寄せ付けない彼のキャラも大きかった。彼が心を許すのは肌を重ねた女だけ。ゆえに同時に何人もの女のところへ行き来することになり、さらに生活は荒れるという悪循環。

 今なら社会から完全に拒絶されるタイプの人。しかし、この評伝を書いた田山力哉は、そんなダメな桐山を愛を持って描いている。

 映画監督にとって大切なのは作品であって、好かれるキャラクターではないと。もちろん、彼がもう少し社交的ならば、応援する人もいて、多くの作品を残せたのかもしれない。

 しかし、創作に対する妥協のなさで彼は追い込まれていく。この追い込まれることがなければ、浦山桐郎はあれほどの作品を残せなかったかもしれない。

 助監督時代に桐山とはソリがあわななくて、桐山を無能と罵った中原康は石原裕次郎主演の「狂った果実」で華々しくデビュー。その映像センスが高く評価された。

 助監督仲間で仲の良かった今村昌平は監督デビューするや「豚と軍艦」「にあんちゃん」「にっぽん昆虫記」などど早くから世界的な評価を得て、晩年には「楢山節考」「うなぎ」でカンヌ最高賞を日本映画監督で唯一2度受賞した。

 先輩にあたる鈴木清順も晩年になって「ツゴイネルワイゼン」など傑作を連発した。

 日本映画斜陽期にあって、それぞれが自分の作風を守り、作品づくりを続けていたことがわかる。

遺作は「夢千代日記」の映画版。脚本を書いた早坂暁のたっての希望で監督。しかし、テレビ版のイメージを守りたいという、吉永小百合、早坂暁と仲違いというビターな結末になってしまったとか。