エンタメ情報誌「CITYROAD」に勤務した日々。80年代後半。世間はまさにバブル真っ最中。しかし、零細媒体の待遇は良くなかった。安い給料。もちろん残業代などない。有給だって、あってないようなもの。
それでも、自分が「したい」と思う仕事をしていたので、不満はなかった。自社はバブルとは関係ない零細でも、世間はバブル。
付き合いのあったレコード会社などは景気が良かった。付き合いがあったのはレコード会社の広告担当部署やデザイン部。
年末になると、西麻布あたりのイタリアンで忘年会にお誘いいただいた。でも、自分の財布は薄いまま。ちょっと複雑な心境だった。
音楽系に比べて映画界は少し地味だった。今では世界中でマーケットを席巻しているディズニーも80年代後半は曲がり角だった。
日本国内では日本支社さえなく、映画の配給はワーナーなどに委託していた。(「プリティ・ウーマン」「今を生きる」「天使にラブソングを」などの時代)
今だったら、考えられないけど、当時はそんな厳しい条件ではなく、ホール試写会を提供して貰えた。ホール試写の一部、50名程度の券がもらえるのではなく、ホール全部。
当時は銀座ヤマハホール、ガスホール、新橋のヤクルトホール、新宿の朝日生命ホールや安田生命ホールなとが試写会に良く使われていた。
このホール試写全体の運営を任されるのだ。映画好きのファンも多い媒体。もちろん読者サービスになる。
あまり頻繁にお伺いするので、ヤマハホールの売店を経営していたマダムとは知り合いになったほど。
いち雑誌の読者だった自分が試写室に入れていただけるだけでなく、500、600席のホール試写会まで任されようになる。夢のような気持ちで試写会の入り口に立っていた。