「きっと、ここが帰る場所」のショーン・ペンの絶対的存在感 | con-satoのブログ

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今のアメリカ映画を代表する「名優」になったショーン・ペン。
若かった頃のやんちゃさの雰囲気を残しつつ名優に域に到達している。
アカデミー主演男優賞を2度受賞。そんな名誉は「当然」だろうと思う。
同世代のジョニー・デップも、若い時はショーンのような「名優」への道が見えたが、あの海賊以来、スター街道を歩み「商業的」な俳優になった。
ショーンが世に出た頃、「普通の人々」で10代でアカデミー賞を受賞したティモシー・八ットンがいて。コッポラの「アウトサイダー」からロブ・ローなどスターが排出した。トム・クルーズのそんな集団から抜け出てスターになった一人。
そういう同世代の俳優の「浮き沈み」を傍目に見ながらショーン・ペンは「コマーシャル」な映画に出る訳でもなく、スコセッシのような巨匠に歩み寄るでもなく。独立独歩な道を選んできた。
マドンナと結婚、離婚した時は、ハリウッドの魔力に取り込まれてしまうかと思ったが、それでも彼らしさは変わらなかった。

そんなペンの新作「きっと、ここが帰る場所」が公開されている。ペンが演じるのは現役を引退した「ロックミュージシャン」。かつてはミック・ジャガーと共演もした「人気」アーティストだった「シャイアン」。
今は豪邸で悠々自適の日々。このペンの容姿が凄い。「パイレーツ」のデップの向こうを張るロッカーぶり。

この引退したロッカーはアイルランドの地方都市に住み、カートを押しながら近くのショップピングセンターへ買い物に行く。寂れたショッピングセッターの日常に、ペンの演じる「ロッカー」の非日常の対比。
前半はこのロッカーの「変わった」日常を描写する。同性するのはフランシス・マクマーンド扮する女。アメリカ独立映画の星、マクマーンドの、どこでもいる「普通」さとペンのロッカーの変わり者ぶり。この「映画」は徹底的に「あり得ない」コンビネーションを見せる。

そのロッカーの届いた父危篤の知らせ。彼は父に住むアメリカへわたる。でも父は既に亡く。ユダヤ人の父はナチの残党を追っていた事を知る。

前半はアイルランドの家から半径5キロのドラマ、後半はアメリカを横断するロードムービー。
ネットなどのレビューを見たが「ロードムービー」の傑作などという評があったが、その人はベンダースの「パリ、テキサス」を見ているのか。あの世界の焼き直し。ヨーロッパ人の見た大陸アメリカの世界、後半はあれの焼き直し。違いは、不在を妻の存在を追うというパーソナンルな問題なのか、ナチの残党を追うという社会的広がりがあるかという事ぐらい。といっても、この世捨て人は真っ当に、その悪人をチェイスしたりしない。
監督はパオロ・ソレンティーノ。監督が脚本も書いている。

資本はイタリア・フランス・アイルランド。
監督はイタリア、出演者はほとんどがアメリカ。
一番印象的な音楽を提供しているのはイギリスのディビット・バーン。
今の映画界を反映する国際的な映画。それだけに、この「根なし草」な感覚が生まれたのか。
といっても、この手の映画で「パリ、テキサス」を越える作品になることはない。

やっぱり映画には根っこが必要なのではないかと改めて感じる。アメリカを舞台したいヨーロッパ映画の成功例として「バクダット・カフェ」があるが、あれもドイツに根の張った作品だから成功したのだ。ハリウッドを舞台にした「グッドモーニング・バビロン」もしかり。

それでもショーン・ペンの存在感は凄い。この映画のロッカーや「ミルク」で見せたゲイなど、地のペンにはまったく要素として「無さ」そうな存在を実存で見せる。それにバーンの音楽。映画を見てサントラを久々に欲しくなった。この映画のタイトルはバーンの曲から頂いているそう。もっと音楽映画的展開だったら、成功していたのかも。

「きっと、ここが帰る場所」(原題「THIS MUST BE THE PLACE」
監督パオロ・ソレンティ-ノ
出演ショーン・ペン
   フランシス・マクドーマンド
   ジャド・ハーシュ
2011年 イタリア・フランス・アイルランド映画 118分
スターサンド/セテラ配給