割と好きで、医療系のマンガを読みます。
そのなかで、お見舞いのシーンについて
患者側の気持ちの描写があって
ざっくりいうと
「お見舞いに来てくれるなら、
ふつうに、していてほしい」
的な描写が、あったの。
で、思いだした。
・・・そういえば、あのときの私の態度は
未熟だったということか、
と
30年近くたった今、気づいたんだよね。
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今でも、細く長く付き合っている友人の子
※最初は、息子同志が仲よくしていて
途中から親同士が「●●ちゃんママ→個人としての友人」に
進化している、関係。
その子が、6歳くらいのとき
命にかかわる病気で、大手術を複数回したときのこと。
※現在は、結婚し家庭をもっています。
30年25年?近く前だね。
電話がかかってきたのか、記憶があいまいだけど
来てほしい、と言われて
わたし、夕方か夜だったと思うけど
病院に駆け付けたんだよね。
扉を開けた瞬間、その場で泣き崩れたわたし。
その子は、起きていて
にっこり笑ったように見えたの。
直視できないような状態だったけど
お話もできたんだよね。
で
ママ(友人)は
「ありがとう、みほちゃん、きてくれたんだ」って
「●●君ママきてくれてうれしいね」
って
言われて
「うん・ありがとう・・」って
私は泣き崩れちゃったんだよね。
そのこ、びっくりしちゃうよね。
なにやってんだ、あのときのわたし。
ここは、普通にしてほしかった場面だったのかもしれない。
わたしは、人間として成熟していなかったんだ。
さっき読んだ医療マンガだと、
「扉を開ける前に、深呼吸して
いつも通りに、こんにちは・・」っていうのが、成熟した
お見舞い、という描写で
患者側も、「いつも通りの、こんにちは」が
ありがたかった、って書いてあったのよね
そのあとのことは覚えていなくて
わたし、動揺で
帰る道が、わからなくなって、電車にのることもわからなくなって
10キロ以上を、歩いて帰宅したのよね
「よこはま・・私の家は横浜・・・」という感じで迷子になりながら
数時間かけて
家にたどり着いたのよ。
マンガに限らず、
読書も、人との会話でも
自分の心の奥底の記憶を、刺激してくれるから
外部からの刺激って大事だなと実感。