鬼頭すみの死

昭和34年2月、鬼頭副社長および社長夫人の母堂、鬼頭すみが69歳の天寿を全うした。広路町への移転計画を聞き、その青写真を眺めながら、娘たちに「生きている間に目でみられそうにもないね」と語っていたが、不幸にもその予言は的中してしまった。


鬼頭工業株式会社|KITO MAC|
昭和33年(1958年)末の払い込みで、資本金を100万円に増資、年明けとともに広路町での工場と社長宅の建設が急ピッチで進み、昭和34年(1959年)4月、皇太子殿下のご成婚に合わせて、高畑町から前面移転した。


鬼頭工業株式会社|KITO MAC|
当社にとって、初の金融機関からの大口融資は、東海銀行の融資と中小企業金融公庫の代理貸付の合わせて800万円。当時、月間平均加工賃収入は300万円程度で、鬼頭副社長は「三日三晩、不安で眠れなかったことを鮮明に覚えています」と語る。


鬼頭工業株式会社|KITO MAC|
「大なり小なり、当時のトヨタ自工の関連工場は、どこへ行っても事務処理などおかまいなしだった・東海銀行としては、当時、自動車産業の大きな飛躍を確信、他の業種に優先して融資をしていたため、鬼頭工業所も審査をパスした…。ともあれ、あまりの積極的な経営姿勢にこちらがついていけず、副社長とよく議論、うやむやのうちに話しを終った光景を思い出します」と、秋野氏は当時をなつかしむ。


鬼頭工業株式会社|KITO MAC|
当時、東海銀行挙母支店で融資申し込みの審査を一手に処理していた秋野静夫氏(現、中央信託銀行岐阜支店長=昭和56年(1981年)7月現在)は、副社長とは別の意味で驚いた。企業とは名ばかりで、帳票類はまだ不ぞろいで、設備台帳などもあろうはずがなく、秋野氏は結局、当社に出向き、融資申し込みに必要な大半の書類を作成することになった。


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