本来この記事は、2018年5月20日に更新の、追悼 西城秀樹さんをしのんで 数々の日本初や先駆者でもあった実績の数々 ヒット曲も4曲ご紹介と、2018年5月23日に更新の、追悼 西城秀樹さんをしのんで ハウスポテトチップス バーモントカレーのCMには12年間出演!の、西城さんの追悼記事を2記事更新した中で、5月23日更新の記事の【追記】としてご紹介の予定でした。
けれども、西城さんの葬儀・告別式に関する情報を記事にしていくうちに、予定していた以上に長くなったこと。
新御三家における野口さんと郷さんの弔辞、出棺までとても印象に残った葬儀・告別式であったことから、ひとつの記事で書いてみることにしました。
さて、今月の5月16日(水)にお亡くなりになった、歌手の西城秀樹さんの通夜が5月25日に。
葬儀・告別式が26日に、いずれも青山葬儀所で営まれ、西城さんと交流のあった有名芸能人や、音楽関係者。
そして西城さんのファン1万人以上が参列しました。
葬儀・告別式の会場には、西城さんが写った大きな写真パネルが設置されました。
祭壇は、1974年に西城さんが日本の歌手として初めて野球場での単独コンサートを行なった、大阪球場をイメージして作られたとのこと。
遺影の前には、愛用していた白いマイクスタンドが置かれ、まるで西城さんのラストステージというような華やかなものとなったそうです。
◆新御三家の長男である野口五郎が弔辞を読み上げることに
弔辞を読み上げたのは、西城さんの全盛期の栄光も、脳梗塞を患ってからのリハビリの苦しさも知り尽くしていた、歌手の野口五郎さんでした。
西城さんがお亡くなりになってからも自宅に足を運び、何度も西城さんの亡き骸に触れたということです。
かつては新御三家と呼ばれていたころ、3兄弟にたとえた場合、いちばん最初にデビューしたのが野口さんだったことから長男。
西城さんが次男で、郷さんが三男と捉えられていたことがあらためてわかりました。
では、野口さんの弔辞の中から、印象に残った一部をご紹介しましょう。
「秀樹との46年間は、簡単に語りきれるものではありません。
本当に、君への弔辞を読むなんて考えてもみなかった。
ある時は兄のようでもあり、ある時は弟のようでもあり、親友でもあり、ライバルでもあり、いつも怒るのは僕で、君は怒ることもなく、全部受け止めてくれて。
いま思うと、僕と君の違いは、心の大きさが違うよね。
つくづくそう思うよ」
かつて新御三家と呼ばれ、年は重ねてもいまでも新御三家のころの友情は変わらずに続いていた、3兄弟にたとえるならば次男でもあった野口さん。
弔辞は、西城さんが60歳を迎えたころに行なわれ、野口さんもゲストで参加していた還暦パーティーの話にも触れていました。
「還暦パーティーで、僕が抱いていいかって言うと、『なんだよう』って言われたけど、僕はそんな君を抱きしめた。
その時、君は、僕のことを必死に抱きしめ返そうとした。その瞬間に、君の体の全体重が僕に掛かった。
それは、僕にしかわからない」
「心の中で、『秀樹、大丈夫だよ。僕は大丈夫だからね』、そう思った。
それと同時に僕の全身が震えた。
こんなギリギリで立っていたのか…。
こんな状態で、ファンの皆さんの前に立っていたのか…。
そこまでして立とうとしていたのか。
なんてすごいヤツだ。
彼の大きさに驚いて、一瞬頭が真っ白になって、彼のコンサートなのに、サプライズで来ている僕が『西城秀樹です』って秀樹のファンの皆さんに彼を紹介してしまった。
私も、西城さんの還暦コンサートで、野口さんが西城さんを抱いたシーンをテレビで見ました。
抱いた西城さんの体から離れた後、野口さんは後ろを向いて涙ぐんでいましたが、それには野口さんにしかわからない、西城さんの体が衰えている中、それでも必死に立っているという感覚を感じることができたからなのかもしれませんね。
弔辞の最後には次のように締めくくられていました。
「僕も、ひろみも、秀樹の代わりにはならないけど、まだしばらくはがんばって歌うからね。
オマエの分も、歌い続けるからね。
君を慕ってくれた後輩たちとともに、僕らが秀樹の素晴らしさを語っていこうと思います。
何よりも君を愛し、支えてくれたファンとともに」
「秀樹…、お疲れさま。
そして、ありがとう。
もう、リハビリしなくていいからね。
もうがんばらなくていいから。
君のかわいい子供たち、家族をいつも見守ってあげてほしい。
オマエの思うラブソングを、天国で極めてくれ。
秀樹、お疲れさま。
そして、ありがとう」
◆野口五郎だけが読む予定だった弔辞を、急きょ郷ひろみも読むことに
ところで、本来野口さんだけが読むはずだった弔辞を、急きょ新御三家の三男である郷ひろみさんも読むことになったのでした。
こちらも、印象に残った一部をご紹介いたします。
「これが僕から秀樹に送る最初で最後の手紙になります。
秀樹、五郎、そして僕…新御三家と呼ばれて、気がついたら45年以上の月日が流れていました。
秀樹、五郎は僕より先にデビュー。
何もわからず芸能界に飛び込んだ僕は、2人の背中を見て歩んでいくことがやっとでした。
あのころ毎日のように音楽番組があって2人が当たり前のようにそばにいて、2人のことをライバルと思ったことは1度もなく、同じ世代を駆け抜けていく同志という思いでした」
弔辞では、
「人は努力すれば必ず叶う、それを教えてくれたのは2人の存在です」
と読んだときには声を詰まらせた郷さん。
さらに、
「ある雑誌の対談で久しぶりに新御三家が顔を合わせました。
それが秀樹を見た最後になってしまいました。
あのとき対談の中で感謝の気持ちを持って歌い続けていこうって締めくくったにも関わらず、秀樹は天国に行ってしまいました。
本当に残念です」
と読んだことで、早すぎる別れを惜しんだのでした。
さらには、
「日本中の人々から愛された秀樹の歌、笑顔。
これはこれからも人々の心の中にしっかりと刻まれていくことでしょう。
僕は秀樹のことを兄貴と思っていました。
最初にデビューした五郎が長男、秀樹が次男。僕が三男。
それはいまでも変わっていません。
これからも秀樹の背中を見て、ずっと歌を歌い続けていきたいと思っています」
と誓った郷さん。
そして、
「いままで本当にありがとう。
そして安らかに眠ってください」
という言葉で郷さんによる弔辞が締めくくられたのでした。
◆西城さんの妻が感謝 出棺時には「ヤングマン」の曲が流れファンが「YMCA」の身振りで大合唱 最後は「ブルースカイブルー」の曲で西城さんの棺を乗せた車が会場を去っていくことに
葬儀後には、長女の莉子さん(15)、長男の慎之介くん(14)、次男の悠天(ゆうま)くん(13)と横一列に並ぶことに。
夫の西城さんの闘病生活を支え続けてきた18歳下の妻は、
「秀樹さんが(4年後の)デビュー50周年を目指し、ハードなリハビリに励んでこられたのは、ファンの皆さんのおかげです」
と感謝。
「どうか、秀樹さんを忘れないでください」
と呼びかけたのでした。
関係者によると、色がブルーだった棺の中の秀樹さんは、大好きだった赤いステージ衣装を着用。
いまにも歌い出しそうな穏やかな顔だったとのことです。
また、棺には美紀さんと子供3人からの手紙、家族写真や悠天くんがプレゼントした帽子、愛用のゴルフ手袋が納められました。
すでに、会場から離れた場所にほど近いファミレスの階段をも埋め尽くすほど、沿道にも多くの喪服姿のファンが西城さんの最後の別れを見届けようとしていたのでした。
青山葬儀場の会場には、同じく喪服姿の約1万人のファンで埋まっていましたが、出棺前からすでに泣き崩れていた方も多く見られました。
そんな悲しみを打ち消すかのように、会場に流れた音楽は、1979年の東京・後楽園球場でのライブ音源。
西城さんの「いくぞー! わかっとるな!死ぬ気でノれよ!!」の絶叫から「ヤングマン」の曲が始まると、西城さんのファン歴は40年を超える人が多い年配のファンは「YMCA」の身ぶりで大合唱に。
会場内に歌声が響き渡ったのでした。
そして最後の出棺時には、西城さんのバラードの名曲であり、実は西城さんがもっとも好きだった曲として紹介された「ブルースカイブルー」が流れる中、西城さんの棺を乗せた車は会場を去って行ったということです。
ということで、追悼記事に続き、葬儀・告別式の記事も書いたご縁によりまして、西城秀樹さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。