半澤玲子Ⅻの5

 

食器を洗ってから、ちょっと散歩に行くと言って表に出た。出たところで、落ち葉を掃除している増川さんのおばさんと出くわした。わたしはまず黙礼した。

おばさんは、少しけげんそうな表情をしたが、すぐ気づいて、笑顔を返した。

「まあ、玲子ちゃん? お久しぶりねえ」

「お久しぶりです。母から聞きました。このたびはご愁傷さまでございました」

「はい、どうもありがとう。でも、もう年でしたしね。順繰りに逝くのよ」

「おばさん、大丈夫ですか」

「ええ。ちょっとごたごたしたけど、もう元気になったわよ」

「これからお寂しくないですか」

「そうね。息子たちに来てもらおうかとか、いろいろ考えてはいるけど、向こうの都合もあるしね。ま、四十九日過ぎてからゆっくり考えるわ。いざとなったら一人でもいいと思ってるの。お宅のお母さんだって、ああしてがんばってるしね」

話している間にも、落ち葉が舞い降りてくる。

今年は木枯らしが吹かないそうだ。だから落ち葉は一つ、また一つと、静かに枝を離れていく。その風情は、はかなさが目に見えるようで、なかなか味わい深い。増川のおじさんもそういうふうに散っていったのだろう。

 

公園を一回りして家に戻ると、3時だった。

「準備、手伝うわ」

「なに、大したことないよ。3人だからね。それより玲子、なんだったらお前も一緒に活けない?」

「わたしが? おじゃまじゃない?」

「そんなことない。むしろありがたいわ。みんなにも紹介するよ」

「花材は余分にあるの?」

「あるわよ」

「どんな方たち」

「学生さん一人と、30代二人、みんな女性。まだ初級よ」

「わかったわ。付き添うのも勉強になるわね」

「そうよ。アドバイスしてあげて」

アドバイスまでできるかどうか、それは自信がないけれど、いい活け方かそうでないかは判断がつくだろう。

 

「これ、娘の玲子です。少しばかり心得があります。こちらが渋川さん、と、山根さん、で、こちらが学生さんの前原さん」

「玲子です。どうぞよろしく」

「よろしくお願いしまーす」

「今日から傾斜型のレッスンに入ります。傾斜型は、主枝をぐっと左か右に延ばして、垂直線から60度ないし90度の範囲内に傾けます。そして客枝を前方に。上から見た時は、そうですね、主枝と客枝の間が120度くらい開くのが標準です。それ以外はすべて中間枝です。その点は直立型と同じで……」

母が板についた調子でしゃべり始めた。

わたしも母と並んで、プリンセスと呼ばれる花器の前にラナンキュラスと鳴子ユリを置いて、神妙に母の話を聞いた。鳴子ユリが主枝と中間枝、ラナンキュラスが客枝。

みんな真剣に活けていた。それぞれの生徒さんがほぼ活け終わったところで、母が一つ一つ点検、修正。私のには何も言わなかった。前原さんのはけっこうセンスがよかった。若いってことは素晴らしい。

山根さんがちょっと悪戦苦闘している感じ。で、わたしが、中間枝の挿し場所についてアドバイスした。

「このあたりにもう一本、そうですね、これくらいの長さで挿すと、右側の空きすぎてる部分がしまってくるんじゃないかしら」

「わあ、ほんとだ。どうもありがとうございます!」

「いいえ。先生に見てもらってくださいね」

母がちょっと直すと、やはり一段と形になってくる。この前の冗談半分の話を思い出し、研鑽をつんで、ここで教えるのも悪くないなあ、と思った。でもすぐに佑介さんのことが頭に浮かんで、この間と同じような混乱に陥った。

彼にもここに来てもらって、いえ、わたしのマンションで、それとも彼のマンションに出張して、でも、彼は忙しいし、休日は食い違ってるし……などなど。バカな妄想に耽っているうち、レッスンは終わって、お茶菓子が出た。わたしが用意すべきだった。

 

「先生、ありがとうございまーす」と若やいだ声。渋川さんが気を利かして「玲子先生もありがとうございまーす」と言うと、二人がそれに唱和した。

玲子先生、か。そういえば、明日あたり、そろそろ会社のエントランスのを頼まれそうだ。

「いつもおんなじこと言ってますけど、先生に直していただくと、ぐっと引き締まりますね」と渋川さん。

「わたし、こちらに来てよかったです。大学にもカリキュラムに一応、華道ってあって、取ってるんですけど、ああいうところだと、大ざっぱで、いまいち繊細な心みたいなのが学び取れないんですね」と前原さん。

母は終始にこにこしている。

「みなさん、すごく熱心だから、わたしも教えがいがありますよ」

「あの、すっごく失礼なこと、お聞きするんですけど……」ともじもじしながら山根さん。

「なあに?」

「玲子先生は、もしかして先生のお跡を継がれる……?」

わたしは思わず吹き出してしまった。大きく手を振って、今日はたまたま実家に戻っただけで、自分には全然そんな資格はないんだと弁解した。

でも考えてみれば現実的な疑問だ。

「ホホ……そうね。もうわたしも何年できるかわかりませんものね。それって考えておく必要があるわね。どう、玲子」

ちょっと、母さん、こっちに振ってくるなよ。

「ええ。でもそのためには、これからお勤め辞めて猛勉強しないと」

ふーん、とみんなは感に堪えたように息を漏らした。

「お花って奥が深いんですねえ」と渋川さんがまとめた。

 

みんなが帰ってから、母と夕食も共にすることになった。

その折にも、「跡継ぎ」の話が出たが、この前わたしが冗談半分で言ったことが、今日はもう少し現実味を帯びてきているのが感じられた。

後片付けを終えてから、ハナを抱っこして、チュッとキスして、実家を後にした。

半澤玲子Ⅻの4

 

1時ごろ実家に着いた。

武蔵野は紅葉の真っ盛り。公園の木々が陽光を受けて美しく照り映えていた。風もさわやかだ。路肩の溝にはすでに落ち葉が積もり始めている。サクラ、カエデ、コナラ、イチョウ……。

玄関を開けると、ハナがのっそりと出てきた。

「ただいま」

「お帰り」

奥から母が顔を出した。和服姿だった。和室には座卓の上に花器やハサミ、花材などが積み上げてあった。赤いラナンキュラスと鳴子ユリ。

床の間の活けものは、今日は、四角い枯れた感じの水盤に、苔柿と斑入りのコリウス、黄色い小菊があしらってあった。

苔柿かあ、いいな。晩秋にふさわしかった。

「あら、もう着替えちゃってるの」

「うん。玲子と話が長くなるかもしれないからね」

「紅葉、きれいね」

「こっちは、もう朝晩相当冷えるのよ」

暖かいかき揚げそば。ネギをいっぱい入れてふーふー吹いて食べた。ハナはちゃっかり私の膝の上。

「この前、お隣の増川さんのご主人が亡くなったのよ」

「あら、そう。いつ?」

「この前の金曜だから」と母はカレンダーを見ながら、「9日ね。珍しく雨が降った日よ」

中田さんの送別会があった日だ。

「いくつだったの?」

「82だって言ってた。食道がんだって。わたしはお焼香に行ったけど、人がほとんど来なくて、ちょっと寂しいお葬式だったわ。傘さしながら出棺待ってたら、冷えちゃってね」

「あのおじさんには、小さいころ可愛がってもらったわ。残念ね。おばさん、これからひとり暮らし?」

「さあ、息子さんたちが越してくるかもしれないわね。こんな静かなところでも少しずつ変化していくのね」

「諸行無常ね」

「玲子のほうはどう? 変わりない?」

「こないだ、課長が変わったの。京都支社に転勤になって、新しい課長が来たんだけど、若くてシャープなんで、ちょっとこれまでよりきつくなったわね。さっそく新しいシステムに変えるんだってさ」

「そう。それはたいへんね。無理しないようにね」

「ありがとう。そのへん、こっちもベテランだから心得てるわ。適度に距離を取ればいいのよ」

風がひとしきり樹々を通り抜けたらしく、はらはらと落葉が舞い降りるのが窓越しに見えた。ハナが何か感じたのだろうか。わたしの膝から降りて、窓のほうに歩いて行った。

 

「その後、お付き合いのほうは?」

やっぱり来たか。わたしは少し首をうつむき加減にして小さな声で言った。

「うん。好きな人できた」

「そう。それはよかったわね。どんな人だか聞いてもいい?」

この前、四谷三丁目での別れ際に母から聞かれて、その時はたしか、「進行中」というようなあいまいな答え方をした。でもあの時、頭の中にあったのは、岩倉さんだった。それが一月ちょっとの間に相手が変わっている。

わたしは自分に対して皮肉な気持ちになった。若い人たちみたいだ。でも、自分なりの言い訳はできるんだ。セフレを次々と変えるなんてのとは、わけが違う。

「ちょっと変わった人なのよ。仕事は中堅どころの不動産会社の営業所長なんだけどね。政治とか経済とかに関心が高くて、休みの日にもいろいろ難しいこと考えて、メモ取ってるんだって」

「へえ。たしかに変わってるわね。ふつうだとゴルフとか囲碁とか」

囲碁と言われて、別れた夫が夢中だったのを思い出した。母はそれを知っていたはずだが、いまはそこに連想を馳せた様子ではない。わたしはあわてて自分の中に甦った記憶を打ち消した。

「そうよね。あの人、やっぱ変わってるんだ」

自分に再確認させるように言った。でもその変わってるところがわたしは好きなんだと、ひそかに別の再確認をした。

「きっと知的な方なのね」

変わっているという言葉が持つネガティブなニュアンスを打ち消したいと思ったのか、母がわたしの気持ちを代弁するように言った。

「どこで出会ったの?」

「婚活って知ってる? 恋活とも言うけど」

「ああ、聞いたことあるわ。お見合いの現代版みたいなものでしょう」

「うん。まあ。インターネットで、仲介してくれるのよ。それをビジネスでやってる会社がたくさんあってね」

「ふーん。そういう時代なのね」

「うん。すごく流行ってるみたいで、それだけ、みんなが出会いを求めてるのね。でも成功率は低いみたいよ」

「へえ。わたしは、若い人たちは、自由に恋愛して好きに結婚相手を見つけてるんだと思ってた」

「それが、なんていうか、自由だからこそ、これっていう相手が見つからないらしいのね」

「ふうん……それはなんだか……湾の中でだったら魚取れたのに、大海に出ちゃったら、どこで見つけたらいいかわからなくなっちゃったみたいね。わたしたちは湾の中だけで満足してたからね。お父さんとだって、小さな職場で知り合って、そのまんまゴールしたんだもの」

巧みなたとえを言うのに驚いた。75歳の母が、直感的に真実をつかんでいる。

「それで、その方のお歳は?」

「55歳。もうすぐ6になるって言ってた」

「ちょうどいいじゃない。少し年配のほうが落ち着かせてくれるわよ」

母は、もう結婚相手みたいに考えてる。いろんなことを聞いてくるし、いつもの母よりも、ハイテンションだ。それだけ、わたしのことを心配してきたのだろう。

「でもお母さん。まだ、何も決めたわけじゃないのよ。向こうの気持ちだってあるし」

それにファースト・キスしただけだし、と心の中でつぶやいた。

「はい、そうでした。失礼いたしました」

そう言って母は笑い出した。わたしもつられて笑った。お母さん、うれしそう。

 

「それよりもね、彼、堤さんっていうんだけど、わたしとおんなじで美術鑑賞が趣味なの。そいで、こないだ、ほら、フェルメール展やってるでしょ。一緒に行ったのよ。そしたら、けっこう鋭く分析するのね。わたし、感心しちゃった」

「まあ、どうもごちそうさま」

わたしは覚えずのろけていることに、母によって気づかされた。えい、どうせなら、この際、自分の気持ちをさらけ出してしまえ。

「それとね、お花のこと、興味持っていろいろ聞くのよ。お母さんのことも話したら、習ってみたいなあ、でも遠いし、時間が取れないしって残念がってたわ」

「ホホ……玲子が教えてあげればいいじゃない」

「そんなことも言ってたなあ」

「でも、その堤さんて方、思いやりのある方みたいね」

「うん。歳にしてはちょっと繊細すぎるかな。オヤジ臭くないのよ。でもありがたいわ。ウソでもわたしの関心事にちゃんと話題振ってくれるんだもの」

「ウソでも、なんて、言うもんじゃありませんよ。礼節をわきまえてるってことでしょう。お花でもお茶でも、形から入ることが大事だっていう考え方が基本になってるじゃないの」

「はい、そうでした。先生。それとね、落語が好きで、そのうち連れてってくれるって。忙しいからいつになるかわからないけどね。落語の本、紹介してくれたわ」

「まあ、落語が。それはいいわね。伝統芸能って意味じゃ、まんざらお花と無関係とも言えないでしょう。静と動の違いはあるけどね」

言われて初めて気がついた。

まったく別世界と思っていたけれど、考え方によっては、あれも高座に一人座って、ある宇宙を構成してみせるのだ。噺家自身が活け花みたいなものだ。

活け花だって、よく向き合っていると、人みたいに絶えずこちらに何か語りかけているのがわかる。ちょっとこじつけ臭いかなとも思ったが、きっと何かの参考になるには違いない。

「それにしても、楽しそうでよかったわね。ほんとによかった」

母が心から喜んでいるふうが伝わってきた。それが結論のようになって、会話にけりがついた。

半澤玲子Ⅻの3

 

外は晴れて星が出ていた。月も出ていた。満月よりちょっと欠け始めているだろうか。

わたしたちは、神楽坂の表通りの明るさにぎやかさとは対照的に、人通りも街灯もめっきり少なくなくなった短い道のりを、ふたりして牛込神楽坂駅へ向かって歩いた。

ほどよい月明り、そして楽しいお話の余韻と、酔いのほとぼり。二人の足音が少しずれながら響く。

どちらからともなく、身を寄せ合っていた。佑介さんがそっとわたしの左肩に手をまわした。ほとんど同時に、わたしは首を傾けて、彼のコートの胸のあたりに頬をぴたりとつけた。

彼が声にならないようなかすれ声でささやいた。

「玲子さん……好きです」

言わなくていいの、わかっているの、とわたしは心の中で言った。

佑介さんは、立ち止まって、両手でわたしを引き寄せた。わたしは彼のほうに首をもたげて目をうっすらと閉じた。彼の唇が近づいてくるのがわかった。

はじめ、それはちょっとわたしの唇に触れ、一度離れてから、今度は強く長く押し当てられた。

わたしは両手を彼の首に回した。ハンドバッグが肩までずり落ちる。わたしを抱く彼の両手が、背中から腰のほうへと下がっていき、その力はさらに強くなった。

あそこが濡れてくるのがわかった。何年ぶりなのだろう。もうこの成り行きは止まらないと感じた。でも……。

だれかが道の向こう側を通り過ぎる気配を感じた。

好奇心でこっちを見ているだろうか。なに、かまうものか。

身を離してから、わたしは言った。

「あしたの佑介さんのお仕事が……」

彼はわたしの目をじっと見ながら、しばらく黙っていた。

それから

「ええ」

と素直に答えた。そしてわたしの手をぎゅっと握った。わたしもぎゅっと握り返した。

 

人通りの途絶えた暗い道を駅へ向かって歩き始めた。

駅へ降りる階段はもうすぐそこだった。もっと遠ければ、もっと時間があれば、と思った。

明るい改札口を通ってから、わたしはやっと彼に耳打ちした。

「佑介さん……わたしも好きです」

彼はわたしを見て、黙って微笑んだ。ふたりで手を固く握りあいながら、ホームに向かった。階段を降りる時、もう一度唇を合わせた。

わたしはそのまま乗って行けばいいが、佑介さんは、次の飯田橋で乗り換えてしまう。

「また一駅でお別れね」

「そうだね。また連絡するね」と彼が言った。

わたしは二度、三度大きくうなずいた。そして、車両の内と外とで、前と同じように、でも今度はわたしが車内、彼がホームに残って手を振り合いながら別れた。代わりばんこだ。

 

目が覚めてからしばらく、ベッドの中で昨日の余韻を楽しんでいた。

布団のぬくもりと、きのう二人の心の間に通った温かさとが重なった。布団をきゅんと胴体の真ん中のほうに抱き寄せた。布団に顔を埋めると、うっかり昨夜の興奮にそのまま襲われそうになった。

起きてみると、だいぶ寒い。本格的な冬が近づいているようだ。でも空は気持ちよく晴れていた。

床暖房をつけて、エアコンも暖房にした。

母に会おうと思った。

「中間報告」という言葉が浮かび、自分で笑ってしまった。「中間報告」というよりも、もう一月以上会ってないし、実家には2か月以上帰ってない。母もおそらくわたしに会いたがっているだろう。

電話すると、4時に生徒さんが3人来るのだという。じゃあお昼を一緒にということになった。

半澤玲子Ⅻの2

 

もう一度坂を昇り、毘沙門天を通り過ぎ、少し下りかけたところで左に曲がる。「おん」にたどり着くと、約束の時間には少し早く、堤さんはまだ来ていなかった。

1階がカウンターで、2階が掘りごたつ式の座敷席。予約を告げると、座敷席に案内してくれた。

小さいけれど、木がふんだんに使われていて、和風に徹している感じだ。カウンターに若いカップル、座敷席には、わたしたちの席と離れて、中年男性の三人組。

堤さんは、きっとこういうのが一番の好みなんだろうな、と思った。入ってきた時、カウンターの横に日本酒の大きな棚が置いてあるのに気づいた。豊富な種類が揃っている。彼は、どんなお酒が好きなんだろうか。

約束の7時半ちょうどに、「すみません。もうすぐ牛込神楽坂駅に着きます。10分くらい遅れます」とメールが入る。「お店でお待ちしています。どうぞごゆっくりいらしてください」と返事。

 

掘りごたつに足を下ろして待っている間、天井をしばらく見上げていた。昔の民家のような太い梁が渡されていた。そういえば、青荷温泉もこんなふうだったっけ。

そのとき、堤さんが階段を昇ってきた。わたしは子どもみたいに手を振って招いた。

「ごめんなさい、お待たせして。会議が延びちゃって」

「いいえ。たいへんね。お疲れ様」

中ジョッキで乾杯。

お料理は。

「ここは金目鯛の煮つけが名物だそうですよ。それいきますか」

「はい」

「嫌いなもの、ない?」

「ないです」

「じゃ、茹でアスパラと、お刺身の盛り合わせ取りましょうか。それと鳥の竜田揚げ。玲子さん、あと何か、どうぞ」

「このキュウリの梅昆布和えっておいしそうね……それと……揚げ出し豆腐」

「じゃ、それいきましょう。芋がらもうまそうですね」

注文を終えると、堤さんは、ジョッキを一気に半分ほど飲み干し、ふうとため息をついた。

「お疲れだったのね」

「ちょっとね。本社でややこしい打ち合わせがあって」

「無理なさらないでね」

「どうもありがとう」

「ここ、いいお店ね。くつろげるわ。よくいらっしゃるの?」

「いや、ここは二回目です。駅の向こう側に区民センター箪笥町っていうのがあってね」

「タンスマチ」

「ええ、きっと江戸時代から家具作りや指物師が多かったんでしょうね」

「まあ、あのあたりは職人さんの町なのね。味のある名前ね。それでこっちは色町……なるほど」

「ええ。そこに友人と落語を聞きに来たんですよ。その帰りにここを見つけて寄ったんです。落語を聞いたあとなんで、雰囲気満点でした」

「ああ、落語。わたしもいつか行きたいわ。連れて行って下さる?」

「もちろん。いい出し物を探しておきましょう。あまり縁がない?」

「ええ、ほとんど。ずっと昔、誰か年配の男性にくっついていったことがありますけど、たぶんその時だけですね。誰が出たのかも忘れました」

「そうですか。それならかえって新鮮な感じで楽しめそうですね」

「堤さんはごひいきの噺家さんているんですか」

「ええ。暇がなくて、ごひいきというほど聞いてませんけど、最近では、志んざ、三之輔、談奴なんかがいいですね」

「まあ、ひとりも知らないわ」

「みんな、それぞれすごい芸達者ですよ。あ、そうだ。落語好きの友人にもらった『落語閻魔帳』って本があって、300席近い有名な落語を解説してるんですが、これ、とても便利ですよ。著者は、えーっと、矢島正一だったかな、ちょっとあやふやですが」

「それ、買います」

「それから、小説で、佐藤佐恵子って人の『話せども 話せども』っていうのが、二つ目を主人公にしていて、すごく面白いです。小説そのものが、落語の現代版人情話みたいになってるんですね」

「二つ目って言うと……」

「一番下が前座ですね。つらい修業を積んで、やっと二つ目。それからがまた大変で、師匠のお眼鏡にかなうと真打となります」

「その本も買うわ」

 

金目鯛とお刺身を二人でつつく。揚げ出し豆腐は一つずつ。竜田揚げは、堤さん二つ、わたしが一つ。ちょっと夫婦になったみたいな気分だ。

「金目鯛、おいしいですね」

「ほんと。名物って書いてあるだけあって、うまいですね」

堤さんのジョッキが空になったので、「お酒、召し上がる?」と聞いてみた。

「あ、そうします。ここは酒の種類けっこう多いんですね。」とメニューを見ながら「この大信濃っていうのは、香りがあってけっこううまいですよ。玲子さんも飲む?」

「はい。いただきます」

「すみませーん。大信濃の二合とお猪口を二つ」

丸く広くなった陶製の片口冷酒酒器になみなみとたたえられた大信濃が運ばれてきた。

堤さんが私のお猪口にゆっくりと注いでくれた。

日本酒はふだんほとんど飲まないけど、口に含むとほのかに香りが広がって、コクがあり、ほんとにおいしい。日本酒ってこんなにおいしかったんだ。

それから話があっち飛び、こっち飛び、とても楽しい思いをした。活け花の話もした。堤さんはまじめだけれど、お酒が入るとけっこうひょうきんなところがあって、お腹を抱えて笑う場面もあった。

「大酒飲みはウチの家系でね。親爺はそりゃあひどかったですよ」

「お兄さんも大酒飲みなんですか」

「そう、血は争えない。僕が学生のころ、兄は会社勤めから帰ってきて、よく玄関前で寝ちゃってた。まあ、兄の場合は可愛いもんでしたけどね」

別れた夫の記憶が甦ってきた。あの人の場合は半端なかった。いまで言うDVってやつだったからな。ふと心配が兆したので、杞憂だとは思ったけれど、

「佑介さんは、大丈夫?」

「僕も若い頃は、多少無茶したけど、もともとそんなに強くないんで、汚い話で申し訳ないけど、飲み過ぎると戻しちゃうんですよ。だからだんだん自分のペースがわかってきてね。それと、食べたり水飲んだりしながら飲むと、あんまり酔わないんですよ」

彼は、ほんとに目の前に残った竜田揚げをぱくりと口に放り込み、もぐもぐ噛んで、それから水をゆっくり飲んだ。

たぶん、ウソじゃないだろう。今日だって相当飲んでるけど、乱れない。きっといいお酒なんだわ。

 

時計を見ると10時を回っている。ああ、時間が経つのが早い!

「そろそろ行きましょうか」と二人でほとんど同時に言って、立ち上がった。

伝票をつかんだ彼に向かって、

「今日はわたしも払います」

「いやいや、僕が誘ったんです」

彼はわたしの申し出を相手にしなかった。

わたしがライトブルーのチェスターコートをはおると、佑介さんが目を見張るようにして、

「あ、きれいなコートですね。とてもよく似合う。初めてカフェ・グラナダで会った時も素敵なお洋服だなって思ったんですよ。白い丸首の、衿のところにきれいな刺繍がしてある……」

とほめてくれた。

「ありがとうございます。よく覚えてらっしゃるわね。男の人って、女性の服装にあんまり関心持たないでしょう」

「ええ。一般に男は相手の服装に関心がないですよね。女性は見てほしいのにね。でもあの時の僕の場合はきっと……」

佑介さんは、その後を言わずに、言葉を濁した。何が言いたいか、わかった。

くすぐったかった。だからわたしもその後を問いただそうとしなかった。でもなんであれ、この人が、視覚的な感受性に優れていることはたしかだ。それはこの前のフェルメール展の時でわかっている。

半澤玲子Ⅻの1

                                   2018年11月25日(日)

 

フェルメール展に行った翌日、堤さんからメールが入り、24日の土曜日に会えないかと打診してきた。つまり昨日だ。今度はわたしの休日に合わせてくれたのだと思う。

わたしは、すぐOKの返事をした。うれしかった。

場所は神楽坂の一番奥のほう、「おん」という和食の店だった。わたしの家からは、地下鉄一本。これも配慮してくれたのかしら。

 

神楽坂といえば、中田さんを振ってしまった場所だ。かすかにあの時のことを連想して複雑な思いがよぎったが、でも、そんなことにこだわる必要はない。

そして昨日、少し早めに家を出た。

寒い曇り空の一日だった。グレーの浅い衿のタートルネックセーターに、黒地に白いストライプの入ったロングのワイドパンツ、明るいブルーのチェスターコートといういでたち。

早めに出たのには理由があった。おかしな話だが、こだわる必要はないと言っておきながら、中田さんのことが心のどこかでまだ気になっていたのだ。それで、神楽坂を歩いてみようというつもりになった。できればあの店にも。

それで、牛込神楽坂の駅から降りて約束のお店「おん」の場所を確かめてから、神楽坂に出て、飯田橋のほうにゆっくり降りて行った。にぎやかな人通りを縫って、真ん中より少し下くらいまで来たとき、右に曲がる小路があった。

見覚えがあったので、そこを曲がったら、すぐあの古い格子戸の店を見つけた。ところが「十月末日をもって閉店いたしました」と貼り紙。わたしは一瞬たじろいだ。

中田さんと会ったのが、たしか十月の初めころ。ということは、あれからひと月もしないうちに店を閉めてしまったのだ。

もちろん、自分に関係があるわけはないけれど、でも、なんだかこのお店にも中田さんにも悪いことをしてしまったような感じがした。

飲食店に限らず、しばらく行かなかった店に行ってみると、閉店していたという経験に、ここ数年よく出会う。この前、便利だった自宅近くのホームセンターが閉店したし。

地方はもっとひどいらしい。

長引くデフレ不況のせいだろう。政府は景気は回復基調とか、いざなぎ越えとか言ってるけど、それはウソだ。この前、堤さんに消費増税のインチキなからくりを聞かされていたので、なんだか、いまの政府のやっている緊縮財政路線に無性に腹が立ってきた。

そういえば、ウチの会社でも、売り上げの減少傾向がここのところ見られるし、製品価格の値下げをやむなくされて、下請けにその差額分を押し付けているケースも多くなっている。

もしかしたら、中田課長の転勤と、辣腕の安岡新課長の赴任も、本社の業績不振と関係あるのかもしれない。だから、安岡さんは、来てから間もなく、ああいう合理化システムの導入を企画したのではないか。

経理部門を合理化しても、あまり業績改善には役立たないと思うけれど、でも残業時間を減らせれば、それだけ人件費節約にはなるわけだ。しかしこういうのって、全体から見れば悪循環じゃないのかしら。

そう考えると、中田さんのことがよけい可哀相になってきた。あんなに冷たく突っぱねるんじゃなかった……。とは言ってもなあ、こればっかりは。

いまごろ、京都で中田さんは頑張っているだろうか。いい人見つけてくださいね、と今度は本気で祈らずにはいられなかった。

堤佑介Ⅺの2

 

昨日20日の夕方、ようやく本部に報告書を送ることができた。

二人の合作はなかなかよく出来ていた。いずれも、ネットにはない写真付き。微調整をしてから、四つ選んだ物件に優先順位をつけるのがよいと思った。

 

1位 13号のシェアハウス

2位 1号の土地

3位 11号の賃貸アパート

4位 7号の賃貸アパート

 

これに、冒頭、「下町コンセプト」についての私なりの考えを付け足し、さらにそれぞれの取得にかかるコストの概算結果を入れておいた。

結局、土地にしてもアパート建設ということになるのだから、これが受け入れられれば、すべて小さな間取りの賃貸住宅ということになるのだった。そのほうが、ある種の下町的共同体の雰囲気が作り出せるかもしれない。その代わり、西山ハウスがはらんでいるようなトラブルの可能性も増すかもしれない。

こういう生活のあり方は、日本が豊かだった時代から見れば、貧しい時代への復古と言えなくもなかった。見方を変えれば、落語の長屋ものに出てくるような、庶民的な人情世界の復活を目指しているとも考えられる。

実際、そういう貧困層、高齢者層がどんどん増えているのだから、これはある意味で必然的と言えるだろう。政治が変わってくれない限り、残念ながら、私たちの仕事の領分では、そんなことを試みるしか、手がない。

心構えとして大切なことは、そういう人が、できるだけ毎日を気持ちよく暮らせるような環境を提供することだ。

 

そして昨日は玲子さんと待望のフェルメール展デートの日でもあった。

早いところ報告書の仕上げを終えて、と思ったが、そうもいかない。3時ごろ原案が出来上がってきたが、それから完成までに3時間半くらいかかってしまった。

まだ残っている所員もいたが、本部への送信を終えてから、ちょっと約束があるのでと後を頼んで、慌てて飛び出した。岡田と八木沢がちらりと意味深な視線を送ってよこした。

途中で腹がグウと鳴ったので、乗換駅でいったん改札を出て、立ち食いの釜揚げうどんを食べた。

 

西郷さんの銅像のわき道を急いで登った。

会場前には長い行列がS字状にできていた。会社帰りが多いのだろう。

玲子さんは、列の前から三分の一くらいのところにいた。にっこり笑って、早く早くというように手を振った。

「よかった、間に合って」

「息を切らしてらっしゃるわね。お忙しかったんでしょう」

「ええ、ぎりぎりまで報告書を作成していたもんですから」

「たいへんでしたね」

「まあ、いつものことです。でもおかげで、何とかいいのができたと思いますよ。入学試験みたいなもので、締め切り時間が迫ってくると、けっこうエネルギーを集中できるんですね」

会場入り口は2階になっております、と案内員がやかましく繰り返していた。

私は、じつはこの上野の森美術館があまり好きではない。奥にある、ル・コルビュジェ設計の西洋美術館に比べると、外観も展示空間も数等格が落ちると考えている。でも、いまは玲子さんとフェルメールが見られるのだから、そんなことはどうでもよかった。

初めの展示は、フェルメールと同時代の画家が描いた肖像画、宗教画、神話画と並んでいて、風景画、静物画から風俗画へとつながっていた。2階にはフェルメールの絵はなかった。最後の3枚がハブリエル・メツーという人の絵だったが、特にそのうち2枚は「手紙を読む女」「手紙を書く男」と一対になっていて、フェルメールが描いたのではないかと思った。

「女」のほうの衣服は、「真珠の首飾りの女」や「手紙を書く女」と同じだし、「女」も「男」も、左の窓からの光の当たり方が、フェルメールの他の絵とそっくりだ。

玲子さんが近寄ってきて、「これ、フェルメールのまねじゃないのかしら」と囁いた。

まさにその通りだった。しかも制作年代の推定が1年ほどしかずれていない。絵画の考証などまったくの門外漢だが、もしかしたら同一人物の可能性だってある。

私たちはしばらくこの二枚の絵に見とれていた。それから1階に降りて、順にフェルメール作品をじっくり見ていった。

やはり、「手紙を書く婦人と召使い」が素晴らしかった。夫人の白い衣装と召使いの顔が、窓からのほのかな光を受けて、背景の黒ずんだ絵の前で、くっきりと浮き出している。

見終わってから、美術館横のエレベーターで、下の飲食店街に降りた。

「ビール、飲みませんか」

「いいですね」

一緒に買った画集をビールバーで広げながら、感想を話し合った。

意見の違うところもあったが、だいたいが一致した。

私は言った。

「メツーもそうですけど、フェルメールは男女同士で手紙を書いたり読んだりする絵が多いですね。当時の上流階級の習慣だったんですね」

「手紙を書く習慣て……いいですね」

玲子さんが丸い目を大きく開け、少し上に向けて、何か憧れの対象を見るようにつぶやいた。

「そうですね。昔の人は悪筆でも文章が下手でも、時間をかけて一生懸命だったんでしょうね」

「その切実さを考えると、なんだか胸が熱くなりますね。でも今は電話やメールで簡単に片づけてしまう……」

「電話はたしかにあれだけど、メールでは、肉筆の生き生きとした表情はたしかに伝わらないかもしれませんね。でも、昔の手紙みたいに文章で頑張ればいい。僕たちも手紙を通じて知り合ったようなもんでしょう」

「ああ、ほんとに」

彼女は、今度は両手を頬にあてて、肘はテーブルにつけず、私をまっすぐ見つめた。じっと見続けていた。一度瞬いたけれど、目のかがやきは変わらなかった。

そのひたむきな視線は、私をたじろがせた。少し恥ずかしくなったので、まぶたを下に落とした。何気なく言った言葉が彼女にもたらしたその重みに、自分自身が耐えきれないような気がしたのだ。

なぜか篠原が言った、三島由紀夫の言葉を思い出していた――「女は愛の天才で、男は夾雑物が多過ぎて、愛で世界を包むなんて絶対できない」……。

私は彼女の思いをしっかり受け止められるだろうか。

自信がなかった。でも、こんなふうに見つめられている自分はいま、最高に幸福な瞬間を味わっているのかもしれないと思った。

堤 佑介Ⅺの1

                                 2018年11月21日(水)

 

本部の前園君が18日の日曜日、朝一で訪れた。まだ30になったばかりくらいだろうか。背の高いなかなかの好青年だった。岡田と私が対応した。

「若輩で未熟者ですが、よろしくお願いいたします」

「こちらこそ、どうぞよろしく。チーフの岡田が同伴します。候補地がちょっと遠くて申し訳ありません。二回乗り換えがあるんですよ」

「存じております。本部が選定したんですから。むしろこちらが謝らなくてはならないところです」

前園君は、そう言って快活に笑った。

「それじゃ、岡田君、頼む。帰ってからまた話し合おう」

「私もご一緒に一度こちらに戻りますので」と前園君。

「それはご苦労様です」

「参りましょうか。じゃ、所長、行ってまいります」

「いい成果を期待してるよ。でも張り切り過ぎてへばらないように」

「大丈夫です。レポリタンC飲んできましたから」

彼らの留守中、こちらもすでに入手している該当地区の情報をもう一度整理した。

脈のありそうな物件にあらかじめ目星をつけておいた。それぞれに、1号、2号というように番号がふってある。

売り物件で土地1件、戸建て3件、賃貸物件で戸建て2件、アパート6件。それにシェアハウスで一つ、丸ごと売りに出ているのがあって、これはかなり有望に思われた。築5年、10室あって、私鉄蓮沼駅から徒歩4分、蓮沼駅からJR蒲田駅までは一つである。価格は9850万円と、意外に安い。

この物件は、単身高齢者世帯が激増している今の時代に合っているし、「下町コンセプト」にも適合していそうだ。しかし、なにぶん、現物を見ないことには何とも言えない。

 

午後になって、本部の人事課から電話がかかり、12月1日付で派遣社員を一人、こちらに回してくれるという。予想通りだったが、誰も雇ってくれないよりはマシだ。これで少しは、事務作業や雑用面で楽になるだろう。

5時半過ぎ、当たりが真っ暗になってから、二人は帰ってきた。

「ご苦労様。少し休んでください。お疲れのところ申し訳ないけど、一服したら、報告と感想を聞きます。みんなにも残ってもらうから」

じきに岡田が報告を始めた。

現地の不動産屋を10軒近く回り、あらかじめ連絡しておいた通り、こちらのプロジェクトを簡単に説明した。理解を示すところもあったが、交渉を嫌がるところもあった。半々くらいか。乗り気な不動産屋は、指定した物件を案内してくれた。戸建ての空き家売り物件は、古すぎるか、面積が大きすぎるかで、あまり食指が動かなかった。1号の土地には古家があるが、立地がとても便利だし、安い。近々最寄り駅に駅ビルができるのだという。6号の賃貸戸建ては、やや脈がありそう。賃貸アパートの空室率は、判明した限りでは、7号と11号がかなり高いので有望。しかし何といっても、今日一番の収穫は、13号のシェアハウスだった。築浅だからとてもきれいだし、7割くらい空いているそうだから、オーナーはおそらく経営難と償却の無理を感じて売りに出したのだろう。

岡田は、ネットの紹介では見ることのできない部分の写真を、タブレットで見せてくれた。やはりそうか、と私は思った。これはねらい目かもしれない。前園君も、これがイチオシだと思うと述べた。

その後も話し合いを続けた。7時近くなったので、直接かかわらないスタッフには退社してもらった。腹が減ってきたので、残ったメンバーで、店屋物を頼んだ。

結局、前園君には明日も来てもらうことにして、もう一回だけ岡田と二人でリサーチを頼むことになった。

1号と13号は有力候補として、それ以外の可能性を探る。両物件とも、すぐに売れてしまうことはまず考えられない。その後、三つから四つくらいに絞り込み、それぞれについてなるべく詳しい報告書を二人で協力して作成し、私がチェックする。

前園君が言った。

「所長、差し支えなければ明後日もうかがいますよ。報告書は時間をかけてきちんとしたものを作った方がいいでしょう」

「その通りですね。それじゃ、悪いけどお願いします」

川越がかなり遅くまで残って、何やかやとわたしたちの世話を焼いてくれた。何度か前園君を憧れるような目で見つめるのを、私は見逃さなかった。お茶を出すときの手つきにも何となく同じものを感じた。

「川越さん、ご苦労様。もう帰っていいよ」と私が言うと、「そうですか。では」と返事して身支度を始めたが、何となく未練がありそうだった。

 

三人の打ち合わせが終わったのが、九時過ぎだった。いつもの居酒屋で一杯やることにした。

「いやあ、たいへんだったですね。前園君、どうもありがとう」

「いえいえ、とんでもない。仕事ですから、岡田さんとコンビになれて、よかったです。とても勉強になりました」

岡田はジョッキを口につけて傾けたまま、大きく手を振った。

「前園君は優秀ですよ。すごく勘がいいんで、僕も助かった」

「ハンサムだしね」と私が付け加える。

「そういえばさ、川越が前園君のこと、まんざらでもない雰囲気で接してたけど、岡田君、気づいた?」

「よくぞ聞いてくれました。気づきましたとも。一目ぼれってやつじゃないですかね」

前園君は「いやあ、そんな」と言って、照れ笑いを隠さなかった。

「やっぱりそうか。前園君、独身?」

「はい」

「どう、あの子」

「はあ、なかなか素敵な……」

「所長、何言ってるんですか。こんなイケメン、彼女いるに決まってるじゃないですか。まずそれを確かめなきゃ」

「あ、そうか。彼女いますか」

「はあ、一応」

「ほれ、ごらんなさい。所長とはちがうんだって」

「ハハ……これは参った」

そう笑い飛ばしながら、俺だってこの歳で彼女くらいいるんだぞ、もっともまだレベル0.5くらいだけどな、と、心の中で、一昨日会ったばかりの玲子さんの顔を思い浮かべた。

「あの、失礼ですけど、所長、おひとりなんですか」

前園君が意外そうな口ぶりで聞いた。

「そうなんですよ。面目ないことにバツイチです。こっちはしっかり家庭持ってますけどね」と私は岡田を指さした。

「あれを家庭と言えばの話ですけどね。なんかもう最近バラバラですわ」

「そういえば進一君、いくつになったんだっけ」

「高2です。もう反抗期で、親の言うことなんかてんで聞かない。来年は受験生だってのに、バイクに凝っちゃって全然勉強しないんすよ」

「でも、我々だってそうだったよね。その歳のころは。……奥さんはお元気?」

「元気通り越して、羽が生えて夜空を飛び回ってます。今日はコンサート、明日は合唱クラブってね」

「フフ……稼ぎがあると、しょうがないよね。いいんじゃないの、家でくすぶってるより」

「そりゃ、まあね。私も専業主婦にはなってほしくない。経済的負担がたいへんだし、主婦って鬱憤抱えますからね。とばっちりがこっちに来る」

「前園君は結婚考えてるの?」

「自分ですか。ちょっとまだわからないですね。いつかしたいとは思ってますけど」

「失礼だけど、おいくつ?」

「31です」

「それじゃ、まだ早いかもね。30代前半の男の未婚率ってどれくらいか知ってます?」

「3割くらいですか」

「34歳まで取っても、47%」

「そんなですか。じゃあ、まだ安心ですね」

「個人的には安心かもしれないけど、晩婚社会が少子化の大きな原因になってることはたしかだよね」

「ああ、なるほど」

岡田が横槍を入れる。

「ほらね、ウチの所長、仕事に直接関係ないことに妙に詳しいんですよ」

昼間、前園君と二人の時、私の噂をしたな。私はすこしおどけ気味に言った。

「ちょいと待ちたまえ、岡田君、これは関係なくないんだよ。人口構成とか世帯構造って、これからどういう種類の不動産をどれくらい提供すべきかってことにかかわってこない?」

「あ、そうか! すみません。これはうかつでした」

「だから、『下町コンセプト』でも、単身高齢者を主たるターゲットにしてるじゃん」

「まったくそうですね。所長の研究熱心には兜を脱ぎます。」

「いやいや、未婚率とか、世帯別構成人員とかは知っといた方がいいけど、岡田君の言う通り、じつは、私は関係ないことにもいろいろ首を突っ込むんだよね。これは一種の病気です」

「所長は、やっぱり真面目なんですよ。真面目の上に超がつくぐらい」

「あの、感じるんですけど、所長と岡田さんとは、すごく息があってますね。何年くらいになるんですか」

岡田と私は顔を見合わせながら、「えーと」としばし考えた。

「私が本部からこっちに来たのがリーマンショックの前の年だから2007年」

「僕が来たのがその2年後ですね。だから9年か。え、もうそんなになるんですね」

「いや、彼がいてくれなかったら、ここの営業所はもちませんよ。ほんとに助かってます」

「とんでもない。所長にはほんとにお世話になってるんですよ。改めて御礼申し上げます」

岡田は肘を直角に曲げて、開いた膝に両手のひらを当て、頭を深く下げた。私はその姿を見て笑ってしまった。

「苦しうない、膝を崩せ」

「は」

「でも、羨ましいですね。こういうつながりって。いまの本部ではなかなか」

「……作りにくい?……それはなぜだと思う?」

「いやあ、よくわかりませんけど、けっこうみんな、自分の持ち場だけ守ってるって感じですかねえ」

そうかもしれない、と思った。どこの業界でも、合理性を重んじるようになって、効率優先になっている。短期で採算が取れない部門はすぐに切り捨てられる。そのようにして上で決めたことが、官僚的にトップダウンで下に降りてくるのだ。

この前、ネットを見ていたら、iPS細胞の研究でノーベル賞をもらった山上哲弥さんの研究所では、研究者の9割が非正規職員だと知ってびっくりした。

文科省が、すぐには役に立たない時間のかかる研究には金を出さない、つまりはあの財務省の緊縮財政が学術研究の発展も阻んでいるわけだ。こんなことでは、やがて日本からノーベル賞は出なくなるだろう。

快い出会いがあり、協力体制もうまく行きそうで、それには満足感が伴っていたが、反面、自分の内部では、いつもと同じ鬱屈を抱え込む心境にもなった。

半澤玲子Ⅺの3

 

午後は意外と早く終わった。そうだ、今日は帰宅したら、ウチで花を活けてみよう。

せっかく置いた水盤がまだ空になっていたので、おととい、通販で花材を取り寄せておいたのだ。

夕食はなんにしようかしら。ちょっと寒いし、この間、宮益坂で食べたポトフがおいしかったから、あれをまねて作ってみよう。

駅を降りて、いつものスーパーで、買い物をした。ジャガイモと人参はあるから、キャベツ、ソーセージ、インゲン、ニンニク、ローレルなどを買った。マスタードはあったかしら。念のため。

煮込むのにそんなに時間はかからなかった。二人分くらい作って明日もこれでOK。味見をしてからお皿に盛ってみると、うん、われながらうまそうだ。

赤ワインの小瓶があったので、それを開けてグラスに注いだ。

熱いポトフを食べているうちに、この間、レストランで食べながら堤さんにメッセージを送った時のことが、鮮やかによみがえってきた。ハロウィーンのバカ騒ぎについて意見を述べたら、すごく賛成してくれたっけ。

それと、昨日、堤さんが言っていた、初めてメッセージを受け取って家に帰ったら散らかってるのに気づいたっていう話。

いま思い出しても微笑ましくて、こそばゆい。

そしてわたしは、明日の分も、ということで二人分のポトフを作った。自分の中でこれらのことが自然に結びついて、ああ、堤さんの家にまで押しかけて、二人でポトフを食べたいという思いが、急激と言っていいくらいに襲ってきた。それは、いまここにこうしていることの寂しさと背中合わせだ。

ちょっと思いついて、お鍋に残っている分を、お皿に盛ってテーブルの上に乗せ、写真を撮った。それをもう一度お鍋に戻した。

今度いつ会えるかしら。

 

食事を終えてから、一休みして、活け花に取りかかった。

花材は、野ブドウと赤いダリア。

青い水盤の右に寄った部分に剣山を置いて水を張り、余計な葉と枝を切っていく。野ブドウの長い枝を主枝としてぐっと右に延ばし、中央に客枝としてダリアを三つ配置する。変化に富む枝ぶりを利用して、左側にも短く野ブドウをあしらう。

濃い赤と葉の緑、間をおいていくつも可愛くぶら下がる微妙な色合いの丸い小さな実。

なかなか満足できないけれど、うん、まあこんなところか。

写真を撮った。当然、堤さんに送ることを考える。

 

11/21  22:41

堤 佑介さま

昨日は、楽しい一日をありがとうございました。

好きだったフェルメールを一緒に見ることができて、とても幸せを感じています。

また、堤さんの鋭い観察力に感心いたしました。

 

今日、この前渋谷のレストランからメールを送ったときに食べていたのと同じポトフを作ってみました。けっこうおいしくできましたよ。明日の分もと思って二人分作ったんですけど、ほんとは、二人で一緒に食べられたらなあ、なんて、気持ちで作っていたのかもしれません。

 

たぶん、堤さんに褒められたので、調子に乗ったんだと思いますけど、いま、自宅で、野ブドウとダリアを活けてみました。

ポトフの写真と一緒に送ります。

 

明日はお仕事ですよね。がんばってください。

どうか安らかな眠りが訪れますように。お休みなさい。💛 》

半澤玲子Ⅺの2

 

そして今日。

新課長の安岡さんは、思った通り厳しい人だったが、態度は意外と優しく、言葉遣いも丁寧だった。

本部の状況を早くつかもうという熱心さの表れだろう。部下を集めて、会議を開いた。経理の効率化を図るために、システムを少し変えたいと言う。

すでに部長の承認を得ているのだが、と断ったうえで、新しい会計システムの導入を提案した。そのための説明資料が配られた。

「政府が働き方改革を今年の4月に閣議決定して、来年4月に施行されますね。これに対応して、わが社でも、無駄な残業をなるべく減らして、みなさんにもっとゆとりを持って仕事に取り組んでほしいという方針が決まっています。経理部門でも、この方針に従う必要があります。というよりも、みなさん、日々実感されている通り、特に経理部門こそ、残業を減らせないネックになっていると言っても過言ではありません」

ここで安岡課長は、言葉をいったん切り、みんなの顔色を見た。たしかにその通りだ。経理は、なぜかほかの部門に比べて、手作業が多いのだ。みんなうなずいていた。

安岡さんは、それから、ちょっと言葉の調子をやわらげて、話を再開した。

「私も、静岡時代に苦労したんですよ。なんて経理は細かくて面倒なんだろうってね。それで気づいたことの一つに、各書類の仕訳が、書面項目別に分類されているでしょう。これなんですね。経営陣や現場から、ある事業を新しく始めるにあたって、昔の仕事を参照したいから、これこれのプロジェクトに関係した書類をそろえてくれないかって要求がよく来ますよね。ところが、こっちは、稟議書や契約書や請求書なんかをそれぞれ別々にファイリングしてる。でもあるプロジェクトって、それが行なわれたときには、こういう各書類がひとつながりの紐でつながってたはずなんですよね。ところが書類項目別に分類すると、バラバラになってしまってるから、それらをいちいち探し出して、紐でつなぎ合わせなきゃならない。それでないと、経営陣や現場の要求に応えることができないわけなんです。この部分が手作業になってる。だから残業が多くなっちゃうんですね。要求には期限がありますから、さあ、たいへんです」

これも確かにその通りだ。みんなこれで苦労してきた。再びみんながうなずくのを見て、安岡さんは満足そうに言葉をつづけた。

「もちろん、この問題だけが経理の非効率を生んでるわけじゃありませんけど、けっこう大きな問題であることはたしかだと思うんです。これはコンピュータにファイリングしてある場合にも、方法が今までのままだったら同じことですね。棚から探すのと、PCから探すのとそんなに変わらない。それで、あるプロジェクトごとにいろんな書類をさっとリンクできて、まとめて差し出せるようなシステムはないかって探したんですよ。専門家に任せずにね。そしたらあったんです。それがお配りした資料の「HOPE21 ITEM」ってやつです」

みんなは資料に目を注ぎ、急いで追いかけた。すぐには把握できない。戸惑いの表情が浮かぶ。

「ああ、いいです、いいです。すぐにはわからないですよ。パソコンで実際に動かしてみないと。私、静岡で導入してやってみたんです。初めはちょっと苦労しましたけど、慣れるとすごく効率的ですね。実際、残業時間減りましたよ。それでこちらでもさっそく導入してみてはどうかということなんです」

話は、何となく分かった。でも、そのITEMとやらに慣れるのがたいへんだな、やだな、と内心思った。わたしなど、旧式でやってきて慣れてるし、機械には弱いほうだ。年取ってから頭を切り替えるのは、かったるい。いいかげん仕事そのものにも飽きてきてるし。

そうしたら、藤堂さんが質問した。

「もし本当に残業時間減らせるんなら、取り入れることに大賛成ですけど、問題は、コストパフォーマンスと、適応の難易度、それと、一番知りたいのが、これまで積み上げてきたデータ処理の方法と中身を、新しいシステムに転換できるかどうかってことなんですけど」

さすが、キャリア組の藤堂さん。わたしが感じていたことをきちんと整理して言ってくれた。

何となく、古株の藤堂さんと、新進気鋭の安岡さんとの間で、火花が散りそうな雰囲気だった。

「いちいちごもっともな懸念だと思います。最後のご質問からお答えしますが、これは、システム自体にその転換の仕方が内蔵されてますから、そこをいじれば問題ありません。もちろん、項目別分類に復帰させることもすぐできます。相互置換が可能なんです。それから、コストパフォーマンスについては、全課入れ替えとして試算しまして、部長に報告して許可を得ております。まあ、業務量との関係にもよりますが、そんな不利益を出すようなことはないと思いますよ。中長期的には、確実に効率化が期待できます。それから、適応の難易度、これは申し訳ないんですが、みなさんのご努力で、できるだけ早く慣れていただくと申し上げるしかありません」

やっぱりね。それに適応するために、かえって残業が増えちゃったりして。

しかしこれは、部長のお墨付きを得たトップダウンだ。文句を言える筋合いではない。

 

お昼をさくらちゃんと一緒に食べた。さっそく午前中の会議の話になった。

「ねえ、新課長の話、どう思った?」

「正直言って、きついですね。ここだけの話ですけど、中田さんの時のほうが、ほんわかしててよかったです」

「そうよね。わたしも同じだわ。なんであんなに効率、効率っていうのかしらね。さくらちゃんは若くて適応早いからいいでしょうけど、わたしなんかおばあさんだから、また新しいシステムに変えるのかよって、なんかげんなりするわ」

「いえ、わたしもIT苦手だからよくわかります。でも、決まっちゃった以上はできるだけ早く適応するほかないですね」

「そうね。そう考えるしかないわね」

私は軽くため息をついた。それからもう一つ、別に考えていたことを口に出した。これはもっと大きな問題だ。

「それとね、働き方改革って、冒頭で言ってたでしょう。まるで既成事実だから、疑う余地がないみたいに。でもあれ、残業代ゼロ法案って言われてるわよね。残業減って賃金減らないんならいいけど、減った分だけ賃金も減るわけでしょう。わたしたちのためみたいなこと言ってるけど、結局、経営側が人件費削減しようって発想から出てるんじゃないの」

さくらちゃんは、うなずきながらすぐに応じた。

「ああ、たぶんそうだと思います。高プロがそもそもそうですもんね。あれって賃金を労働時間から切り離して成果で量ろうって発想ですよね。いまんところ、高所得者に限定してますけど、ああいうの一度やると、どんどんこっちにも降りてくるでしょう。気づいてみたら、わたしたちの年収でも、残業代は一切払いませんなんてなるかもしれませんね」

さくらちゃんとこういう話をしたのは、初めてだった。この子もそういうこと真剣に考えてるんだと思って、感心した。

「なるような気がするわ、きっと。でも、残業ってなくなるわけないのよね。仕事は繁忙期にはどっと来るんだから。私たち普通のOLにとっては、労働時間と賃金を切り離そうって発想がそもそも合わないと思うの。それに、ブラック企業がその習慣を悪用するわよね。なんか、いまの日本て、何でもアメリカのマネしておかしくなってない?」

「ええ。いろんな面でそうですね。非正規もどんどん増えてるし。だから若い人、なかなか結婚できないんですよね」

若い人……さくらちゃんの口から「若い人」なんていうの、似合わない気がする。そうだ、彼女自身、いま、結婚に限りなく近づきつつあるんじゃなかったのかしら。話題転換。

 

「あ、そうそう。結婚て言えば、さくらちゃん、その後どう?」

「わたしですか。ええ。続いてます、何となく」

前のように溌剌とした雰囲気ではない。

「何となく? まだゴールじゃないってこと?」

「ええ。それが、二人の間では問題ないんですけど、向こうのお家との関係とか、いろいろあって」

「そうなの。たいへんね。ちょっと立ち入ったこと聞いていい?」

「どうぞ」

「相手の方って、何してる方なの」

「野田でお醤油の卸売やってるんです」

「ああ、サラリーマンじゃないの。」

「ええ」

「野田っていったら、キンケイ醤油のあるところでしょ」

「ええ。系列化されてはいるらしいですけど、一応独立した問屋さんなんですね。それで、ご両親もご高齢で、一人っ子だから、跡を継がなきゃならないんです。結婚するなら、家に入ってくれって」

「それで、さくらちゃんは、OKなの?」

「私自身は、まあ、ちょっと抵抗感はあるんだけど、覚悟はしてるんです。でも私の両親、特に母が反対なんですよ。これまでと全然違う環境だし、お姑さんがいれば苦労するばかりだし、先行きも不安定だって」

「……そうかぁ。結婚となると、やっぱりいろいろと出てくるのね。昔より、そのへん、難しくなってるみたいね」

わたしは、わがことのように、さくらちゃんのこれからが少し心配になった。

「いいんです。きっと何とかなりますし、してみせます」

「そうね。がんばってね」

「はい。それより、先輩。最近、なんか華やいでますよ。わたし、何かあったとにらんでるんですけど。こないだも素敵な服着てたし」

やっぱり悟られるのか。とぼけてやり過ごしてもよかった。でも、こっちがさくらちゃんの行状を突っ込んでる以上、黙ってるのはフェアじゃない。

「うん。まあ、ちょっと付き合い始めた人がいるの」

「わあ、すごーい! 年上ですか、年下ですか」

「かなり年上ね。でも、まだ、そんなんじゃないのよ。どうなるかわからない」

「どうにかしてくださいよ」

昨日、展覧会デートをしたこと、これは話した。でも、どういうふうに知り合ったかは、「秘密」ということにしておいた。彼女に婚活サイトを進めておきながら、じつは自分もそれをやっていたというのを告白するのは、いかにも照れ臭かったからだ。

半澤玲子Ⅺの1

                                    2018年11月21日(水)

 

昨日のデートはフェルメール展。

まず2階に上がり、同時代の画家たちの神話画、風景画、静物画、風俗画などを見て、それから一階に降りて休憩所を通り、最後にフェルメールの絵を集中的に見せる演出になっていた。

フェルメールの絵はほとんどが風俗画だから、この順序は、とてもうまく考えられていた。

2階の絵で「いいな」と思った作品がいくつかあった。画家の名前は覚えられなかったけれど、二人とも画集を買ったので、会場を出てから立ち寄ったビールバーでそれを見ながら感想を話し合った。

わたしは、パウルス・ボルの「ギュディッペとアコンティオスの林檎」とヤン・ウェーニクスの「野ウサギと狩りの獲物」という絵が印象に残った。特に、ボルの絵は、とても不思議な作品で、一度見たら忘れられない。遥かな神話の世界に吸い込まれるようだった。

堤さんは、同じボルの絵とユーディト・レイステルの「陽気な酒飲み」、アリ・デ・フォイスの「陽気なバイオリン弾き」が庶民の表情が生き生きと描かれていていいと言っていた。ハブリエル・メツーの「ニシン売り」も、庶民生活を描いた風俗画の中では、老婆とニシン売りの女の明暗のコントラストに感銘を受けた、と。

でも、それより二人で感想が一致したのは、そのメツーが描いた一対の作品、「手紙を読む女」と「手紙を書く男」が、主題と言い、タッチと言い、フェルメールそっくりだという点だ。

「これ、フェルメールをまねたんじゃないかしら」と、絵を前にして、思わず堤さんに近寄って囁いてしまった。しかもこの二作品が最後に展示されていて、それから1階へと降りてゆくのだ。

堤さんは、その時は黙って食い入るように見ていたが、あとで、「僕もまったく同じように感じた」と言っていた。

「とてもよかったわ。『牛乳を注ぐ女』はもちろん傑作ですけど、わたしも堤さんが書いてらした『手紙を書く婦人と召使い』が特に気に入りました。例によって左から柔らかい光が差し込んでいるのに、手紙を書いている女性の白い衣装が強いコントラストを作っていて鮮やかに浮き出して見えますね」

「そうですね。同じことなんですけど、僕が今日感じたのは、この画家は、白の使い方がすごくうまいな、という点です。今日見た『赤い帽子の女』とか『ワイングラス』も『牛乳』もそうだけど、あの有名な『真珠の耳飾りの女』なんかでも、耳飾りの部分にちょっと白を置いて、すごく効果的ですよね」

「ああ、ほんとだ。『赤い帽子』の鼻先と下唇なんか、いちばん大事なところに点描みたいに白を置くんですね」

「しいて言えば、そこがメツーとは違うかもしれない」

 

それからわたしたちは、ビールのグラスを傾けながら、今日受けた感銘について、ずっと話し合った。もっと話していたかった。

「明日も早いんでしょう。そろそろ行きましょうか」

「わたしはまだ大丈夫ですよ。家まで近いですから。堤さんこそ、遠くてたいへん」

「僕は男だから、何とでもなりますよ。それに明日は休みだし」

「お友達と飲み明かしたりなんて、あります?」

「さすがに最近は自制を効かせますね。昔は、誰かが飲みたりなさそうだと、もう一軒、さらに飲み足りないと、めんどくさいから、ウチに来い、なんてんで、みんなでなだれ込んで徹夜とか。あのころが懐かしいです。ハハ……」

「堤さんのところは広さ、どれくらいなんですか。うちは1LDKで狭いんですけど」

「何平米くらい?」

「30いくつくらいだったかな」

「僕も一人だから狭いですよ。同じ1LDKで、リビングが少し広め、全体で40平米ちょっとですね」

行ってみたい、とまでは言えない。でも、ほんとは、なだれ込んじゃいたーい、と思った。

「堤さん、おしゃれだから、きっとお部屋もきれいなんでしょうね」

「いやあ、そんなことない。こないだ、帰ってみたら、散らかってるのに気づいてびっくりしました。男所帯に蛆が湧くってね。掃除なんてろくにしませんから。その時は慌てて片付けましたけど。……そうだ、そういえばあれはたしか、初めて玲子さんからメッセージをもらった時の夜ですよ。僕のことをユニークだって言ってくれて、うれしくて、それで、なんて俺の部屋は汚いんだって気づいたんだった」

「フフ……そうだったんですか。本とかで散らかってるんですか」

「本もありますけど、書類とか紙くずとか、ふだん使ってる家財道具」

私のメッセージで、散らかってることに気づいたなんて、こそばゆい思いがこみ上げてきた。おもしろい人。可愛い人。わたしのこと、初めてファーストネームで呼んでくれた。

でも、わたしが休みの日に行ってお掃除してあげます、というのも、まだ、言えない。

 

この前と同じように、地下鉄ホームで別れた。別れ際に彼が握手を求めてきた。ほっそりした手だったけれど、暖かい感触。

今度は堤さんのほうの電車が先に来た。堤さんが電車の中、わたしがホームで、この前と同じように手を振り合った。