堤 佑介ⅩⅢの1

                                     2018年12月2日(日)

 

28日に、玲子さんにメールを送った。30日に会えないか、と。

返事はOKだった。

玲子さんは、その返事の中で、実家の隣の、可愛がってくれたおじさんが亡くなったと書いていた。

「私たちの間には、『諸行無常』は、なしですよ」という言葉が、胸に切なく響いた。

 

その30日に、西山ハウスに越してきたばかりの老夫婦から、さっそく苦情が来た。受けた本田が、しばらく話していたが、折り返しこちらから連絡すると言って、いったん電話を切った。どうにもらちが明かないと私に相談に来たのである。

中身を聞くと、笑ってはいけないが、何といったらいいか、やっぱり人が聞いたら笑ってしまうような話だった。本田も困ったような顔をしながら、口元が笑っていた。

要するに、ゲイカップルが、夜中に派手な音を立てるので、安眠できないというのだ。派手な音というのが何を意味するのか、だいたい想像がつく。声ではなく、音。もちろん、声も混じっているだろう。

やっぱりゲイカップルって、激しい人たちがいるんだな。あそこの壁は薄いし。

この日は、岡田も中村も谷内も出払っていたし、この種のトラブルを女性に任せるわけにもいかない。たまたま時間があったので、仕方なく、私が現場に出向くことにした。

老夫婦の鹿野さんにしてみると、隣にどんな人が住んでいるのか知らないわけだから、深夜のドタバタは、さだめし不気味に思えることだろう。ヤクザでも住んでると思って、恐怖に駆られているに違いない。すぐうかがいますと電話を入れて、現場に向かった。

 

「もう、困りますよ。なんか、毎日喧嘩でもしてるんですか。年寄なんで眠りが浅くてね、不眠症になっちゃいます。いったいどんな人が住んでるんですか」と、これは旦那の鹿野さん。

「せっかくいい街に越してきたと思ったのに、これじゃ、怖くて怖くて、居ても立っても居られません」と、奥さん。

間借り人どうしのトラブルや大家と間借り人との交渉に、当事者同士が直接渡り合わなくなってから、もうずいぶん長い時が経つ。

これはこれで、みんなが求めたことだ。成熟した社会の知恵というべきで、とてもいいことだと思う。しかしその代わり、地域社会は崩壊して、みんな「隣は何をする人ぞ」になってしまった。

私は、真相を明かさない方がいいと思った。年寄りだから、余計気持ち悪がる可能性が高い。第一、真相を知ったからと言って、問題が解決するわけではない。

そこで、隣は兄弟で、二人とも酒飲みなので、夜中に調子に乗ってはしゃいでいるだけで、騒音以外の害はないと思いますと、一応の説明はした。

しかしそれで「不眠症」や「恐怖症」が治るはずもない。オーナーさんと相談して、笹森さんか鹿野さんか、どちらかに他の空き部屋に移ってもらうよう、調整してみましょう、と提案した。

この場合、どちらに移ってもらうか。答えは自明だった。

笹森カップルに移ってもらうには、なぜそうするのか、隣室に迷惑をかけていることを、具体的に説明しなくてはならない。そのことで新たなトラブルを引き起こしかねない。仮に承諾したところで、移った先でまた同じ苦情が出るかもしれない。

しかし、鹿野さんに移ってもらえば、それだけで済んでしまう。まだお互いに顔見知りでもないだろうから、笹森カップルのほうが不審に思うこともないだろう。何かあったら、部屋が気に入らないので、引っ越したとでも理屈をつけておけばよい。

というわけで、一応納得してもらって、午後は、西山さんに連絡を取った。オフィスからの電話では、所員の耳もあるし、ことは簡単ではないので、彼の家に直接赴くことにした。

 

柏台はけやきが丘から二つ東京寄り。しかし不動産価格はけやきが丘よりだいぶ落ちる。

築30年以上経っているという西山さんの自宅は、外観だけでなく、内部も、かなり痛んでいた。ついそういうところに目がいってしまうのが、この職業の性だ。

奥さんがお茶と干菓子を出してくれた。意外と(といっては失礼だが)上品な感じだ。若い頃はけっこう美人だったろう。話の内容が気になるらしく、引っ込まないでそばに寄り添っていた。

「電話でも申し上げたと思うんですが、鹿野さんからの苦情は、もっともだと思うんです」

「笹森さんとこは、なんで夜中にそんなどたばたしはるねん」

「それが……ちょっと申し上げにくいことなんですが、ゲイカップルの中には、夜の営みが激しい人がときおりいるらしいんですね」

「友人いうふれこみやったけど、ありゃゲイカップルやったんか」

しまった、それは西山さんには隠してあったんだ、と思ったが、彼はたいして動揺するふうも非難するふうも見せなかった。

やがて西山さんは、にやにやしながら言った。

「さよか。がんばっとりますな。あの手合いはそういうとこあるって話、わても聞いたことあります。おなごの声やったらまだ我慢できるんやろけどな」

奥さんが、「あんた!」と言って西山さんの腕をぴしゃりと叩いた。西山さんはからからと笑った。

「それで、このままだと、最悪、どちらかに立ち退いてもらわなくちゃならなくなるかもしれないと思いまして、私どものほうで考えたんですが……」

西山さんは最後まで言わせなかった。

「鹿野さんに2階の空室に移ってもろたらよろしいがな」

「ああ、私どもも同じことを考えてました」

「せっかく入ってもらったばかりやさかい、どっちにしたってすぐ立ち退きやいうたら、評判落としますねん」

「おっしゃる通りですね。それは私どものほうで説得にあたりますが、ただ、問題が二つばかりあって、ひとつは、鹿野さんはお年寄りで、2階を喜ばないんじゃないかという点、ご夫婦どちらかに持病でもあると難しくなりますね」

「うーん。ふつうに歩けるんでっしゃろ」

「じつは私、担当していませんでしたから、今日初めてお会いしたんですが、部屋の中で見た限りではそのようですね」

「ま、2階程度なら我慢してもらうんやねえ。よろしゅう頼んますわ」

「わかりました。それから、もう一つは、鹿野さんの部屋が空いたとして、そこに新しい人が入居を希望して来たら、またトラブルにならないとも限りませんね」

「うーん。そりゃそやね。ま、しかしいま6室埋まっとるんやから、当面は空室でもかまへん。そう急ぐこともないやろ」

「そうですか。それじゃ、追加の募集はしばらく……」

「見合わせときましょ」

西山さんはなかなか決断が早い。思ったよりずっと早く話がついたので、引き返してもう一度鹿野さん宅を訪問した。

 

大家さんが、せっかくだから住み続けてもらいたいと思っていること、二階は少し家賃が高くなるが、見晴らしもいいし、落ち着けるだろうこと、引っ越し費用は、トラックもいらないし、出入りの業者に頼めば格安で済ませられること、斡旋した責任もあるので、半額はこちらでもつこと、一両日中にでも可能なことなどを懇切丁寧に説いた。

鹿野さんは、階段の上り下りの苦労を理由にはじめ渋っていたが、よそへ引っ越す手間と費用とかったるさ、いまの苦痛から解放されることなどを考えたら、背に腹は代えられないということで納得した。奥さんのほうが聞きわけがよかった。

こういうことは早いに越したことはない。オフィスに戻って西山さんと業者と、両方に連絡を取った。両方とも、翌日でもOKということだった。大した荷物があるわけでもないし、段ボールも残っている。まだ梱包を解いていないものもある。見積もりは当日でもできるだろう。

 

退社時刻近くなって岡田が帰ってきた。いきさつを簡単に話すと、

「それはたいへんでしたね。私が当たれるとよかったんですけど」とねぎらってくれたが、やはり理由を聞いてにやにや笑いをやめなかった。

「いや、この程度の厄介ごとはどうってことはないよ。これからもいろいろあるだろうね」

「中国人一家も含めて、おそらくこれだけでは終わらないでしょうね。……所長。ゲン直しに一杯行きませんか」

「ありがとう。それが、残念だけど、今日はちょっと予定があるんだ。申し訳ない」

これを聞いて、岡田は、さっきとは違ったにやにや笑いを浮かべた。

「所長。八木ちゃんとも話してたんですけど、最近、なんかお安くないんじゃないすか」

やはり悟られてしまっていたか。

私は「いやいや、そんなんじゃないよ」と言ってごまかしたが、たぶんごまかせないだろう。だって独り者の酒好きが、長年のよきコンビである部下から、一日の仕事のあとで誘われたのだ。それを断るのは、そういうことでもなければ、いかにも理由が薄弱だ。

時計を見ると6時を少し回っていた。

「それじゃ、悪いけど、あと、頼む」

「任せておくんなせえ。グッドラック」

岡田は軽くウィンクした。

駅に向かって歩きながら、あまり夢中になって統率がおろそかになってもいけないな、と考えた。ロシア農民運動のボス、ステンカ・ラージンの伝承を思い出した。しかしボルガに私の「姫」を投げ込むわけにはいかない。このテーマは、いまでも生きているんだな。

半澤玲子ⅩⅢの6

 

わたしたちは、夕ご飯の支度にかかった。

わたしは野菜切り係。エリはほうれん草のおひたしを作った。すぐにIHヒーターの上で、お湯が煮立った。食べきれるかしらと思うほど、たくさんの霜降り肉が大皿に並んだ。

赤ワインで乾杯。とても風味があるけど、ちょっと変わった味だったので、これどこのワインかと思って、ボトルを見た。

「モルドバってウクライナとルーマニアの間に小っちゃい国があるでしょう」

「あ、知らないわ」

「元ソ連領で、冷戦崩壊後に独立したんだけど、経済が厳しくて、日本も貧国救済の名目で体制づくりに貢献したことがあるんだって。古くからワインの名産地だったらしいのね。ヨーロッパのワインと違うでしょう」

「うん。すごく風味があっておいしいね。こんなの、ふつう、お店で売ってないでしょう。どうやって手に入れたの」

「そこが、物流企業に勤めてる特権よ。ルートはよくわからないんだけど、同僚が何本か手に入れてきて、分けてくれたの」

わたしたちは、しばらくの間、二人だけの宴を楽しんだ。

 

黙っている時間が少し続いた。エリのこれからについて思いをめぐらした。それからわたしは思い切って口火を切った。

「エリ、考えたんだけどさ、エリはやっぱり闘うべきだと思う」

慎重に結論を出したつもりだった。けれど唐突だと思ったのか、彼女はちょっといぶかしげな表情を見せた。それから、「レイはいつから恋愛至上主義者になったんだ」と冗談めかして言った。

あ、それは当たっていなくもない、とひそかに思った。佑介さんとの恋に浸っているいまの自分は、無意識のうちにそこで生きることに最重要な価値を見出しているのだろう。でもそれを悟られないように、一般論めかして答えた。

「っていうより、いま生きてて、何が自分にとっていちばん大切かってことよ。それは別に恋愛じゃなくてもね。自分が打ち込んでる、何か。創作活動でも、子育てでも、」

エリは、わたしの常ならぬ調子に戸惑いを感じたらしかった。しばらくわたしの目をじっと見つめた。それから溜息をつくように、言った。

「ありがとう、レイ。とてつもなく難しいけど、やってみる。女の闘いね」

「わたし、エリのためなら何でもするから。無責任な言い方するけど、これって、道徳とか法律とかの問題じゃないと思うのね。そりゃ、もう相手を十分傷つけてるわけだし、これからももっともっと傷つけることになるかもしれない。人の家庭を壊しちゃうかもしれない。そうなってもわたしはエリの味方よ。反対に、もしエリが迷った挙句、やっぱりそれはできないって決断したなら、それにはそれだけの理由があるわけだから、その場合でも、わたしはエリの決断をサポートするよ」

「ありがとう。なんかファイト湧いてきた」

エリは珍しく感情を高揚させたような調子で言った。

わたしは、エリのグラスにモルドバのワインを注いだ。こんなにはっきりとものを言ったのは初めてなような気がする。やはり何かが私を強くしているんだと思った。

 

偶然、トイレに入っている時に携帯が鳴った。佑介さんだった。胸がときめいた。

「いま、大丈夫?」

「うん。友だちの家にいるんだけど」

私は声をひそめた。

「あ、じゃ、あとにしようか」

「ううん、いいの。いまトイレの中。フフッ。どうぞ」

「あの、ただ声が聞きたかったんだ」

「うれしい。いまひとり?」

「そう。また会いたい」

「わたしも。いつにしよう」

「あさっては?」

「火曜日ね。大丈夫よ」

「じゃ、この前と同じ時間、同じ場所でいい?」

「わかったわ。ゆうくん、大好き。チュッ」

「チュッ。じゃね、れいちゃん」

水を流してトイレから出た。聞こえちゃったかな。まあ、いいや、エリにはどうせ話すつもりだ。

リビングに戻ると、エリは、少し物思いにふけっている様子だった。聞こえなかったらしい。

「そうそう、フェルメール展、行った?」

わたしのほうから聞いた。

あの時、彼氏と約束したから行くと言っていたっけ。これはエリを励ます気持ちの延長で聞いたのだけれど、そこには同時に、自分の状況を伝えたいという心情も伴っていたようだ。飲むほどに、やっぱり告白したい気持ちが勝ってきたのだろう。

「行ったよ」

「いつごろ?」

「この前レイと会ってからじきだから……10月下旬の土曜日だったと思う」

「もちろん、彼氏とでしょう」

「うん」

「どうだった?」

「よかったよ。ダブル・エンジョイね。彼がいろいろ解説してくれたしね」

「作品は何がよかった?」

「やっぱ、『牛乳を注ぐ女』と、それから『手紙を書く婦人と召使い』がよかった」

あ、おんなじだ、と思った。

「わたしも『召使い』に感動したわ。あと、メツーって、フェルメールそっくりの絵があったでしょう」

「え? レイも行ったの いつ?」

「えーと、エリよりひと月あとくらいかな」

「ひとりで?」

わたしは微笑みながら、ゆっくり首を横に振った。エリが複雑な状況に置かれているのに、自分のいまの仕合せ感をどうしても包み隠すことができなかった。

エリが言った。

「あ、そうか。そういえば、あん時、彼氏ができそうだって話、してたね」

わたしは、そう話したことを忘れていた。その時、話に出た彼氏とは、岩倉さんだ。忘れていたということが、いまは佑介さんで心をいっぱいにしている証拠なのだろう。

その後こちらにもちいさな「てんやわんや」があったことを説明しなくてはならない。浮気者と思われないように。

わたしは、経緯をかいつまんで話した。岩倉さんへの失望、中田さんの転勤、母の跡を継ぐかもしれないこと、「恋愛以上、結婚未満」の状態が一番長続きするのではないかと考えていることも。

聞き終わったエリは、感に堪えたような表情をした。それからにっこり笑って、

「すごいじゃん、レイ。嫉妬しちゃうな。ちょっと目離すとすぐこれなんだから、隅に置けねえ」

「アハハ……。でもまだわかんないよ、人生、何があるか。それに、彼とまだいろんなこと話し合ってないのよ」

「レイのためなら何でもするから」

わたしの口調を意識的にまねて、エリが言った。

「お互い、がんばろう」

改めて乾杯した。ちょうどボトルが空になった。

最近、めったに売ってないサバランを千駄木駅前のケーキ屋さんで見つけたので、二人でそれを食べた。ほのかに広がるブランデーの香りが私たち二人をまた少しだけ近づけてくれたように思った。

表の喧騒はまだ続いていた。

半澤玲子ⅩⅢの5

 

エリの家は千駄木駅から6分ほど歩いて谷中の中層マンション。庶民的な商店街の中にある。わたしのところよりも古いけれど広い1LDK。便利だというので2階に住んでいる。

わたしは特に下町を好んだわけではないけれど、エリの場合ははっきりしていて、住むなら谷中、と決めていたそうだ。

ピンポン押して、「わたし」と言うと、「散らかってるけど、どうぞ」と顔を出した。やつれているようには見えない。

 

おいしいコーヒーをごちそうになりながら、彼女が話し始めるのを待った。

「要するに、ばれちゃったのよ」

「うん……」

「11月半ば、奥さんから電話があって、会いたいと言って喫茶店の場所を指定してきたの。怪しいと思って彼のスマホのメール記録を見たって言ってた。電話番号も登録されてるるしね。そいで、まあ、型どおり、切れてくれと。凄い剣幕だったよ。でも、こっちにも防戦の仕方がないわけじゃない。最初はこっちも騙されてたわけだし、深い関係になってからあとで知ったってウソつくこともできたしね。それに、奪ってやろうかって覚悟も固めてたから、闘ってもいいと思ってたんだ。だけど、何か言おうとすると、向こうはすぐ感情的んなって、大声出して、全然聞く耳もたない。まわりに客もいるのにね。途中から、こりゃダメだと思った。そいで、とにかくらちが明かないから、この場は謝って、切れることを約束しておいたってわけ。彼も深く謝罪して約束したんだって」

淡々と話してはいたが、さすがに奥さんとの出会いの部分では、感情の昂揚を隠せないようだった。その調子から、わたしは彼女の今の心境を読み取ろうとした。でもそれはできなかった。

「覚悟も固めてたから、闘ってもいいと思ってた」というのは、その時点での心境、問題は、いまの心境と、これからどうするかだ。まだ半月しか経っていない。

「彼からはその後、連絡ないの」

「あったよ。3日ぐらい経ってからかな。悲しませちゃって申し訳ないって、しきりと謝ってた。妻のほとぼりを覚ますのは自分の責任だから、そのためにしばらく時間が欲しい、君とは別れたくない、これからどうするか、情勢を見ながら考えよう、少し落ち着いたら、こちらから必ず連絡するから、それまで待ってくれってね」

「奥さんと別れたいって言ってたんだよね。その言葉、いまでも信じてる?」

わたしの質問に、エリはしばらく答えなかった。冷めたコーヒーを口に運んでから、おもむろにつぶやいた。

「状況が変わったからね。信じてるってはっきりは言えないけど、でも、できるできないは別として、そういう気持ちが今もあることはまあ間違いないかなあ」

わたしも返す言葉が明確にあったわけではない。でも何か言わなくては、と思った。

「……わたし、あれから思ったのね。婚活で独身を装ってたのって、そんなに悪いことかなって。もしエリの言うように、別れたいって気持ちがほんとにあったんだったら、自然の勢いで他に女性求めるでしょう。それって、ふつうの出会いで不倫になっちゃうのとそんなに違わないんじゃないかな」

「そう言ってくれると、なんか救われる気がする」

エリはうるんだような目をしながら、わたしの手を軽く握った。

わたしはその手を握り返しながら、折り重ねるように言った。

「こういうことになって、かえって彼氏のその気持ちにドライブがかかるってことはないかしら」

「うーん、それはどうだろうか。逆も考えられるよね。離婚ってひとりじゃできないからね。奥さんのあの剣幕じゃ、向こうが承知しないんじゃないかって気もする」

 

それを聞いて、わたしは、誰だったか、昔読んだ女性作家の不倫小説の一節を思い出した。

これを言うと、少しはエリを元気づけることになるだろうか。少し考えてから言ってみた。

「ある小説で読んだことがあるんだけどさ、結婚生活って、年季が入るとたいていは愛情なんて冷めちゃって、あんなの、ただの給料運びだから、いなくてもいいなんて思うようになることが多いじゃない。ところが、いったん裏切られると、途端に逆上して、『あなたを愛してるのよ。その私を裏切るなんて!』なんていうんだってさ。なかなか真相ついてるなって思った」

「なるほどね。結局プライドの問題なのよね」

「あと、この人との関係を続けてきたっていう日常生活の重みみたいなものに依りかかってるんだと思う」

「そうね。そこを剥がされちゃうことの不安が大きいんだろうね。それと、他人事みたいな言い方でおかしいんだけど、人によりけりで、もう戻らないものは仕方がないってあきらめるケースもある一方で、逆に復讐の鬼みたいになっちゃって、意地でも別れてやるもんかっていう場合とか、いろいろあるんじゃないかしら」

「その奥さんの場合はどうだと思う?」

「たぶん、あの調子じゃ、後者でしょうね」

「で、エリは? もう闘わない?」

彼女は、コーヒーポットの取っ手を握ったまま、また少し考えるふうを示した。

「うーん。彼のこと、いまでも好きだし、これも彼次第みたいなところあるしね。……コーヒー、もう一杯、どう?」

「いただくわ」

 

カーテン越しに窓の向こうから、買い物客たちの喧騒が伝わってきた。そういえば、もう師走だ。

テーブルに戻ってコーヒーを二人のカップに注いでから、エリは、伏し目になってしゃべり始めた。さっきよりずいぶん冷静で、静かな声になっていた。

「これも他人事みたいなんだけど、仕事柄、よく統計資料とか見るじゃない。こないだ、こういうの見つけたんだ。不倫を許すかどうかっていう意識調査があってさ、それがなんと、彼の勤めてる広林堂の調査なんだけどね。もちろん彼とは何の関係もないよ。で、それが年次変化を追いかけてるのよ。それがなかなか面白くってね。面白いというよりも身につまされて考えさせるっていうか。要するに、この20年間で不倫に対する世間の見方はより厳しくなっているっていうのね……そうだ、『お気に入り』に入れてあるから、見てもらった方がいいね」

そう言って彼女はタブレットを持ってきて、テーブルに立てた。

「こっちに座らない?」

わたしは彼女の傍らに席を移した。腕と腕とが接するようになり、二人のセーターを通して、肌のぬくもりが伝わった。わたしが彼女を慰めたり励ましたりしなくてはならないのに、なんだか彼女に庇護されているような気分になった。

「これ、広林堂のLTLってところで出してるデータベースなんだけどね、1500項目にわたって衣食住や仕事や価値観とか人間関係について調査してるのよ。そんなかで、『好きならば不倫な関係でも仕方がないと思う』っていう設問があって、その結果が24年間でどう変化したかを載せてるわけ。直近2016年だと、ほら、この円グラフで「そう思う」が9.8%、10人に一人ね。ところが、こっちのグラフ見て。98年には2割超えてたのに、この20年間で半減してるのね」

 

 

「ほんとだ。そう言えば90年代って、快楽園ブームとか、石塚純の『不倫は文化』なんていう言葉もはやったわね」

「うん。それでね、これ分析してる人が、『世帯給与月収』のカーブとそっくりだって、このグラフを載せてるのよ。97年にピークに到達するんだけど、だんだん下がって直近では49万円まで下がっちゃってるのね」

 

 

「うわあ、下がり具合がそっくりね。つまり、家計が苦しくなると、不倫どころじゃないってことね」

「うん。やっぱ、関係あるだろうね。それと、これみて。意外なのが、この不倫肯定派の下落の足を引っ張ってるのが、20代、30代の若年層だってことなのね」

 

 

「ほんとだ。それって、若い人たちがいちばん経済的に苦労してて、『不倫なんて冗談じゃない。そんな暇あるわけねえだろ』って感じかな」

「たぶん。90年代の若い女性って、男と同じくらいかそれ以上に肯定派が多かったのにね。わしら40代以上は横ばい。その変化の違いが目立つよね。それともう一つ、このレポートには、『いくつになっても恋愛をしていたいと思う』という設問があってさ。98年に『そう思う』が49.9%でピーク、2016年だと33.1%で最低。しかもさ、こっちは、20~30代の男は急速に意欲が低下してて、直近だと中高年層を下回るほど落ち込んでるのに、20~30代の女は、下がってることは下がってるけど、比較的高止まりなんだよね。

 

 

「なるほどねえ。韮崎絵理研究員は、これをどう分析しますか」

「つまりさ、若い女性は、不倫恋愛の現実的な余裕はなくしてて、それが道徳的な意識にも反映してる。だけど、じつはロマンチックな夢だけは捨てないでいる。ところが若い男性のほうは、そんな夢すら捨てちまってる」

「そうすると、不謹慎な言い方になるけど、若い女性って、なんかかわいそうね。不倫でも何でも、とにかく恋愛の夢を持ってながら、それが実現できないってことよね。希望と現実との間にギャップがあり過ぎるわけでしょう」

わたしはさくらちゃんのことが心配になってきた。こないだの表情、言い方に、何となく影がつきまとってた。

「そういうことになるね。いくら恋愛したくたって、同年代の男がこれじゃね。いきおい年上を狙うことになるのかな。」

「もしそうだとすると、不倫になる可能性が高いってことかもね。だってこれ見ると、50代、60代男性の恋愛願望はけっこう旺盛じゃないの。それってふつうに考えたら、妻帯者が願望満たすためには、若い女と不倫するってことでしょう」

「そうかもね。でも、じゃあ、50代以上の男性がみんな結婚できてるかっていうと、いま、4人に一人は結婚経験がないんですよ」

「一度も?」

「一度も」

わたしは、佑介さんがバツイチであることと、岩倉さんや中田さんが未婚者であることと、両方を思い浮かべた。佑介さんは「4人に一人」からは外れるわけだけど、長い間独身だったんだから、似たようなものかもしれない。身寄りがないって、やっぱ、寂しいことよね。

そういえば、佑介さんはお嬢さんとは会っているのか、まだ聞いてみなかった。いずれにしても、女だけじゃなく、男も、いや男のほうがもっと寂しい状態なのかもしれない。

「どっちがって一概に言えないけど、かわいそうっていえば、男もかわいそうだよ」

エリが、わたしの思ってるのと同じことを言った。

これから男と女はどうなるんだろうか。わたしはいま仕合せ気分だけど、それだって、どうなるかわからない。そして、エリとエリの彼氏は……?

「みんな寂しいのね」

「みんな寂しい」

これ以上、エリの気持ちを聞いても仕方ないと思った。それにしても、自分の置かれた「てんやわんや」の状況のなかで、静かに自分を客観視しようとしているエリに、改めて畏敬のようなものを抱いた。冷たい女、というのではなかった。彼女なりの懸命のもがきのようなものがその冷静を装った背後に感じ取れたのだ。

半澤玲子ⅩⅢの4

 

翌日、つまり昨日、帰宅してからしばらくは、前日のことばかり思い出して、ぼーっとしていた。不安が大きかっただけに、それが解消して、期待以上に充足感があった。だからいつまでも余韻を確かめることになってしまったのだ。

シャワーを浴びた。このわたしのからだを佑介さんがこんなふうに愛撫してくれて、と思うと、また芯のほうから燃えてくるものがあった。

 

夕方くらいになって、ようやく頭が冷えてきた。そうしたら、これからどう生きていこうかという問題がしきりに気にかかってきた。そこで、佑介さんみたいに、「覚書」をつづることにした。

といっても、彼のような社会のことや政治のことじゃない。もっぱら、自分のこれからのこと。

佑介さんとの付き合いを大切にする、何といってもこれを最優先に考えたい。めったにない仕合せに巡り合えたのだから。

さてそれをどうするか。もちろんわたしひとりで決められることじゃないけれど、でも自分なりにこうしたいという意思をはっきりさせておくことは必要だ。

「結婚」という言葉が何度か浮かんでは消えた。たしかに結婚という形式を踏めば、親族や友だちに正式に認めてもらうことがひとつの安定装置としてはたらくだろう。でも、わたしはもう子どもを産めない身体だし、その形式にこだわる必要があるのだろうかとも思う。

それと、世間の夫婦を見ていると、たいてい二、三年で新鮮さを失ってしまって、日常生活の惰性で仕方なく関係を続けているといった例が多い。

たしかに子どもが生まれれば、いっしょに生活する意味はすごくはっきりするだろう。わたしには子育ての経験はないけれど、それはきっと、二人で作った存在を完成させていくという、逃げることのできない協同事業なんだ。でもそれは、二人の愛が続くということとはまた別の問題だろう。

恋愛と結婚生活は全然違う。恋愛は相手のいいところばかり見ようとする。結婚生活のなかでは、相手のやなところばかりが目立つようになる。

不倫も離婚もすごく多い。

いまわたしは恋をしているし、佑介さんもわたしを愛してくれている。だから、諸行無常はわたしたちにはなしよ、と口では言った。その気持ちにウソはない。

でも、もし結婚したら、じきに飽きられてしまうかもしれないし、わたしのほうで飽きてしまうかもしれない。

だから、この仕合せな感情ができるだけ長く続くためには、結婚という形を取らない方がいいのかもしれない。

かといって、時々会って食事して、セックスして、睦言を交わし合って、お誕生日にはプレゼントを贈り合ってというのも、なんか違う気がする。だって、いつも一緒にいたくなるっていうのもほんとの気持ちだもの。

ああ、頭が混乱してくる。でも、わたし、いい大人なんだから、ちゃんと考えを整理してまとめなくちゃいけないわ。

ああ、でもこんな年になってこんなことになったんで、かえって混乱するのかもね。

 

もしお互いに経済的余裕があるなら、家を二軒持って、どっちかに行ったり来たりする、というのが理想かもしれない。

と、ここまで考えて、ふと気づいた。それって、いまのわたしたちにできないことじゃないんだ。わたしが実家でお花を教えて、佑介さんはいまのマンションに住み続ける。

それから、職業の問題。

これはわたしの場合、かなりはっきりしてきた気がする。たぶん、いまの会社に勤め続けることはもうないだろう。せいぜいあと1年。退職金もそれなりに出るだろう。これもちゃんと調べてみよう。

いつまでもうじうじしていると、チャンスを失ってしまう。思い切って活け花の修行に賭けてみるべきだろう。退職金をつぎ込んでもかまわない。わたしには、母の跡を継ぐという強力な条件がある。これは一石二鳥だ。

ただ、問題は……二つくらいありそうだ。

一つは、わたしが今から始めて、果たして師範の免状がもらえるかどうかということ。

でもこれはわたし自身の才能と努力にかかっているとしか言えないだろう。もちろん、この世界のこと、家元制度にからむ面倒な世渡りも覚悟しなくてはならない。

もう一つは、あの武蔵野の閑散な地区で、新しい発想の教室を展開できるかどうか。それに、家だって、もう相当古くなっている。改築も必要だろうし、要領のいい宣伝も必要だろう。果たして生徒が十分に集まるかどうか。

でもやってみるしかないだろう。人生の冒険は、もしかしたら中高年から始まる。それに、佑介さんの収入に依存するのは、わたしの本意ではない。稼げる間は自分の生活費くらいは稼がなければ。

これ以上は、いまのところ考えが進まない。

今度佑介さんに会った時、相談してみよう。彼は、この提案に好意的だったし、それに何よりも、佑介さんとの今後の関係のあり方にかかわっている問題だ。彼自身が自分の将来について、わたしとの関係についてどう考えているか、それが第一の問題だ。

というわけで、話はもとに戻ってしまった。これ以上頭を巡らせてもしょうがない。なんにしても、また、早く佑介さんに会いたいと思った。

 

夜、テーブルに置いたスマホが鳴った。飛びついてスワイプしたら、佑介さんではなく、エリだった。彼女のことをすっかり忘れてしまっていて、悪いことをしたと一瞬思った。

「エリ! ご無沙汰ね。どうしてた? 元気?」

「元気よ。でもいろいろあってね。明日会えないかしら」

「いいよ。ごめんね、全然連絡しないで」

「それはいいの。こっちもてんやわんやしてたから」

「また北千住のあの店にする?」

「なんならわたしの家に来ない? ごちそうする。しゃぶしゃぶでいい?」

「お、いいね。もうそんな季節なんだね」

「そうなんだよね。じゃ、4時ごろでどうかしら。ちょっと早いかな」

「早い方がいいよ。いろいろ話せるから」

「そうだね。いろいろね。じゃ、待ってる」

「何か買ってこうか」

「うーんと、ワインもあるし、材料は揃ってるから特にいらないと思うけど……あ、じゃ、悪いけど、食後のデザート、お願い」

「わかった」

てんやわんやとは、どういうことか。心の準備として、概略でもいいから聞いておけばよかったと思ったが、切れてしまった。

声の調子は、いつものように快活な感じだった。でも彼女は気丈だから、声に弱みを見せることなどめったにない。だから、想像してもわからないのだ。会ってみるしかないと思った。

 

水盤のダリアが、そろそろ枯れてきた。少し水を足しながら、今度の花材はなんにしようかな、と楽しみながら考えた。知らず知らずのうちに、佑介さんに喜んでもらえるような花を選ぼう、と心に決めていた。

やっぱりバラ、ピンクのバラに、カスミソウ、こないだ母のところで使っていた鳴子ユリあたりかな。それで、活けたら、写メじゃなくて、彼に来てもらう。そして……ルンルン♡

でもエリにはどう話そうか。彼女が不仕合せな目に遭っていたら、わたしはどんな顔して接すればいいだろう。なるべく控えめに、そして、できれば、彼女の話の聞き役に徹することにしよう。

半澤玲子ⅩⅢの3

 

意外と広い部屋だった。クイーンズベッドが幅を利かせていたが、手前にはテレビに面してラブソファまである。散財させちゃった、と思った。

コートとバッグをソファの上に放り出して、彼に抱きついた。彼の両腕が、わたしのからだをがっしりと締め付けた。彼の舌が優しく私の唇を押し開いた。

「シャワー、浴びてくる」

「うん」

新しくて、とてもきれいな浴室だった。もう一度お化粧直しをして、きのう買った下着をつけ、その上に、備え付けてあるタオル地のガウンをはおった。

彼がシャワーを浴びるのを待つ間、わたしはなぜか急に不安になった。うまくいきますように。彼をちゃんと迎え入れることができますように……。

わたしがベッドの脇にちょっとうなだれて立っていると、彼が後ろからそっと近づいてわたしの肩を抱き、わたしのほうに顔を傾けて静かに唇をつけた。同時にガウンの紐をゆっくりと引いた。ガウンが床に落ちた。

 

……されるがままになればいいんだわ。わたしの不安は和らいできた。

彼はからだを寄せたまま、ブラジャーのホックを上手に外した。そのまま手をわたしの腋の下から前に回して、ブラジャーを床に落とし、両の手のひらで乳房をそっと押し包んだ。

抱き寄せる力がだんだんと強くなる。熱く固いものが腰に触れるのがわかった。

「玲子さん……すてきだ」

ささやき声で彼が言った。

襟足から、うなじ、肩へと、彼の唇が這っていく。左手は乳房に、そして右手がゆっくりとわたしの下腹部を撫でながら、ショーツの中に差し入れられた。

ぴりぴりと電気が走るのを感じた。何年も味わったことのない感覚だった。膝ががくんと折れ曲がった。わたしたちは一つになったままベッドに倒れ込んだ……。

 

「不安だったの……ありがとう」

「……」

佑介さんは、黙って、サイドテーブルの水を飲んだ。

わたしは人差し指を使って、彼の裸の胸を上から下へ、おへそのあたりまですーっと撫でた。

彼はくすぐったそうに、くっくっと笑った。

それから佑介さんは、わたしのことを「れいちゃん」と呼んでもいいかと聞いた。もちろんOK。

「ねえ?」

「ん?」

「佑介さんは、子どもの時、お母さんから何て呼ばれてた?」

「ゆうくん」

「わたしもこれから、ゆうくん、て呼んでいい?」

「いいよ」

「ゆうくん」

「はあい」

「ゆうくん?」

「なあに?」

「ゆうくんはどんな子だった? 優等生? それともやんちゃ坊主?」

「やんちゃ坊主。いたずらして叱られてばかりいた。人の家のイチジク、いっぱい盗んできたり、教室の机に彫刻刀で彫り物入れたり、友だちのノートに落書きしたり」

「スカートめくりは?」

「それはやらなかった」

「なんで? わたしはしょっちゅうやられたよ」

「なんでだろう。きっと、女の子にあこがれてたんだと思う」

「ゆうくんは、そのころから変わってたのね」

「そうかもしれない。中勘助の『銀の匙』って読んだことある?」

「うん。若い頃ね。でもあんまり覚えてない」

「僕、あの主人公にすごく共感したんだ。幼馴染の女の子と夜ならんで座ってて、月の光を浴びた青い腕を見せ合って、『まあ、きれい』っていうところがあるの、覚えてない?」

「ああ、そうそう、思い出した。それで、そのころから、自分は、あの何ちゃんだったっけ。その子のことをきれいだと思い始めたっていうのね。」

「そう。それで、自分は女の子みたいにきれいになりたいっていうんだよ。兄が無理やり釣りに連れてくんだけど、河原のきれいな石ころばかり拾ってて、兄に怒られる」

「あのお兄さんは、男らしくしろ、鍛えてやるみたいに思ってたんでしょう?」

「そう。ところがね、あのお兄さんは、実際の兄をモデルにしてるんだけど、その兄が途中で脳出血になって30年間も廃人として生きて、最後は自殺しちゃうんだよ。反対に虚弱だった中勘助のほうは、そういう家族の重荷を背負いながら、80歳近くまで生きてる。虚弱だから早死に、剛健だから長生きとは限らないんだね」

「ゆうくんも小さいころ虚弱だったの?」

「そう。虚弱だった。かけっこも遅かったし、高校まで泳げなかったし」

「そしたら、ゆうくんも長生きね」

「ハハ……それはわかんないよ」

「長生きしてね」

わたしは、そう言って、佑介さんの腕に縋りついた。それから彼のからだのあちこちに口づけを繰り返した。それで……佑介さんが私を抱きとり、またしてしまった。今度はさっきよりももっと快感が強かった。

 

「あしたもお仕事、あるのよね」

「ある。でも今夜はここに泊まろう」

「え? 大丈夫なの」

「うん。そのつもりで来たし、それにここからオフィスまで近いから、ちょっと早く起きれば大丈夫だよ。いま何時?」

「10時半」

「じゃ、この最上階にカフェバーがあるから、そこで一杯やってから寝ることにしよう」

そう言って彼はもう服を身につけ始めた。

きれいな夜景を眺めながら、お互いの子どものころの話にしばし興じた。時計の針が重なりかけたころ、部屋に戻ってベッドに入った。抱き合ってキスを繰り返しているうち、これまでなかったほどの安らかな眠りに落ちた。

半澤玲子ⅩⅢの2

 

30日の朝になった。だいぶ冷え込む。でも天気は気持ちよく晴れている。

ちょっとあの服装では寒いなと思った。それにまわりから何やかやと気取られるのもうっとうしい。

そうだ、と思いついた。出勤には、野暮ったく着込んで、例の衣装は小さなキャリー・バッグがあるから、あれに入れて持っていこう。

残業さえなければ時間的余裕があるから、退社してからどこかで着替えればいい。キャリー・バッグはコインロッカーにでも入れておけばいいだろう。こんなのって、女子高生なんかがやってる普通の知恵よね。

 

新システムの講習があった。

安岡課長が講師を招き、第一経理課全員が集まってパソコンを前に初期操作から指導を受けた。安岡さんは、こういうところ、けっこう律儀なんだなあ、と思った。

ただ、わたし自身は、胸にいろいろなことを抱えているので、集中できず、適当にやっていた。

安岡さんは助手よろしく、みんなの周りをまわって、不備や誤動作をいちいち指摘していた。わたしの適当さを彼に発見されてしまった。彼はていねいに修正してくれた。

 

この新システムに苦労しながら習熟して、わたしはずっとここにとどまるのだろうか。それともその前に辞表を提出して、華道の道を突き進むのか。あるいは、システム習得に挫折し、OLとしてのやる気のなさを見抜かれて首になるか。

佑介さんと一緒に暮らすこと――そういう選択肢も考えないではなかった。

妄想はいくらでも膨らむ。彼に武蔵野に来てもらう。優しいから受け入れてくれそう。交通も彼のオフィスからそんなに遠くないことがわかったし……。無理ならしばらく彼のところで暮らしてもいい。

「半澤さん、そこ、キー操作が違う方向に行ってますよ。それだと稟議書がカウントされなくなります。もういっぺん、S4の段階までもどらないと」

「あっ、すみません。えーっと」

また注意されてしまった。戻り方もよくわからない。安岡さんがうしろからわたしを抱え込むようにキーボードに両手を置き、複雑な操作を素早く行って直してくれた。噛んでいるガムの匂いがした。

 

退社してから約束の時間までだいぶあったので、最近駅前のショッピングビルにできたパウダールームに寄って、着替えを済ませ、念入りにお化粧した。ケバくなってないかなと、気を遣った。

目黒駅の改札は出入りの乗客でごった返していた。少し早めに着いて、来たらすぐに見つけられるよう、改札口の向こうからやってくる人の波を追いかけた。

来た。ダークグレーのトレンチコートがカッコイイ。わたしを見つけるなり、丸い眼鏡の奥の目がさっとほころぶのがわかった。

改札をくぐって近づくと、人目もかまわず両手を広げてわたしを抱いた。わたしは彼の肩に顎をすりつけ、それから目を瞑った。彼は少し身を離してチュッ、チュッ、チュッと3回キスした。

「早く会いたかった」

「僕も」

 

2,3分歩いて、きれいなホテルに着いた。一階にレストランがあった。

「初めて会った時の服だね。やっぱりいいね。寒くない?」

「大丈夫。ここ、あったかいし、それに……」

「それに?」

「佑介さんがいるから」

彼は子どものように笑った。

 

「そうそう、マズルカ、ありがとう。あれからYouLoopでいろいろ聞いちゃった。今度音楽のことも教えてね」

「うん。でも僕あんまり知らないんだよ。クラシックって、聞き込んでる人、すごいからね」

「あんまり知ってる人って、なんかひけらかすから好きじゃないわ」

「そう言ってくれてありがとう。いつかコンサートにも行こうよ」

「うん!」

二人とも、簡単な一品料理で済ませた。

食事が終わるころ、「部屋取ってあるんだ」と彼が言った。

昔見たクロード・ルルーシュ監督の『男と女』を思い出した。わたしが生まれる前の映画だけど、少女期に見てとてもあこがれた。一度聴いたら忘れられないあの主題曲のメロディーが、いま、わたしの頭の中を駆け巡っている。

半澤玲子ⅩⅢの1

                                 2018年12月2日(日)

 

佑介さんから4日前に来たメール。

 

11/28  21:38

愛しい玲子さん     

 

どうしてますか。お仕事、お疲れさま。

新課長のしごきで、へたばってなければいいけれど。

僕のほうは相変わらずです。忙しいと言えば忙しい。

 

この前、会社の近くの松風台というところで、一人住まいの84歳のおばあさんが老人ホームに移ったので、空き家となり、息子さんが売りに出したいと言ってきました。。日曜日に現地を見たのですが、もう古家と言ってよく、壊して更地にしたほうが高く売れると説明したのですが、一応そのまま売りに出すということになりました。

元はここに住んでいたのでしょうか。人手に渡るとしても、なかなか壊す気にはなれないのかもしれません。

世の物事は、人の生き死にも含めて、本当に移り変わっていきますね。もう11月も終わります。

 

でもこの秋は、あなたに出会えたので、この歳になって僕の人生が新しい彩りに染められ、すごく生きる励みになっています。思ってもみないことでした。こういう移り変わりなら、大歓迎ですけれどね。

 

今日は休日だったので、途中まで読んでそのままになっていた、中山武志という人の『国富と戦争』という大著に取り組みました。経済についてのみんなの常識を破っていて、すごく新鮮な本です。

でも、フェルメール展に行く約束をしたあともそうだったのですが、あなたのことが気になって、なかなか読み進めませんでした。もし興味がありましたら、読み終わったあとで、どんな本かお話ししますね。うまく要約できるかどうか、自信がありませんが。

 

活け花のお師匠さんになるかもしれないというお話、とても素敵で、希望の持てる将来像だと思います。もちろん、そこにはいろいろとハードルがあるのでしょうが、僕としては、そんな玲子さんにすごくあこがれます。本気で考えてみてはどうでしょうか。

 

いまショパンのマズルカを聞きながらこれを書いています。マズルカの中で一番好きなのは、15番です。なんていうか、いたいけな少女がいっしょうけんめい輪舞しているイメージです。でも心から楽しくてそうしているのではなくて、曲芸師に訓練を受けさせられているような、そんな哀しみもこもっています。

有名な5番と一緒に、添付しますね。

 

30日の金曜日、もしご都合悪くなかったら、会っていただけませんか。場所、時間はお任せします。7時以降なら大丈夫です。

お返事、お待ちしています。

 

音楽にも詳しいんだわ。そういえばプロフィール欄に趣味の一つとして挙げていたっけ。

さっそく聞いてみる。ああ、たしかに5番は聞いたことがある。

15番は佑介さんの言う通りだと思った。一度そう言われたのでそのイメージが染みついちゃったのかもしれないけれど。それで他のマズルカと比べてみたいと思って、You Loopで探して聴いてみた。

似たようなイメージのものもいくつかあった。23番、25番、38番なんかもそんな感じだ。25番はちょっと哀しすぎるかな。でもやっぱり15番が、一番佑介さんの言うことにぴったり合っていた。

もう一度聴いた。主旋律のきらめきが際立っていた。

音楽のことはよくわからないけれど、全体に、ショパンのマズルカって、民族の歴史の哀しみみたいなものを背負いながら、それでもけなげに舞っているという感じだ。

今度彼に会ったら、音楽についていろいろ聞いてみよう。

 

あ、そういえば、お誘いが来ていました。金曜日。あさって。土曜日の前――これって、もしかして……そういうことよね。

うれしい、すごく。

そして恥ずかしい。

でも、覚悟がいるわ。だっておばあさんですもの。うまくいくかしら。ああしようか、こうしようか……。

でもそれは、夜が明けてから考えればいい。まだ間に1日ある。

だいぶ遅くなってしまったけれど、とりあえず、すぐにでも返事を書かないと。

 

11/28 23:47

大好きな佑介さん

この間は、とても楽しいひと時をありがとうございます。

新課長、大したことないから大丈夫です。

佑介さんはたいへんそうですね。どうぞご無理をなさいませんように。

 

>世の物事は、人の生き死にも含めて、本当に移り変わっていきますね。もう11月も終わります。

 

この言葉、身に沁みました。

というのは、あの日の翌日、実家に帰ったのです。佑介さんのお仕事で、おばあさんが老人ホームに移ったので空き家をご覧になったのと同じ日ですね。それで、お隣のおじさんが少し前に亡くなったことを知らされたのです。小さい頃、とてもかわいがってもらったおじさんでした。

 

公園の紅葉が青空に照り映えて、あんまりきれいなので、散歩に出たら、亡くなったおじさんの奥さんにばったり。彼女も一人になってしまったわけです。

立ち話で、これからどうなさるのか聞いたら、わたしの母だって一人でがんばってるじゃないのと言われました。でも、母だっていずれ……ほんとに世は移ろっていきます。

 

あの提案、なんだか現実味を帯びてきましたね。支持して下さってありがとうございます。でも、もしそうなっても、これからもずっとつきあってくださいね。私たちの間には、「諸行無常」は、なしですよ。

 

30日、わかりました。なるべく早くお会いしたいので、7時に目黒線目黒駅中央改札ではいかがでしょうか。わたしは会社から5分ほどです

 

すぐ返事が来た。自分のオフィスから目黒までは、40分ほどで行けるので、たいへんありがたい、駅近くのレストランを予約しておくとあった。

 

翌29日、仕事を終えてから、駅前のショッピングビルで、デパートの化粧品コーナーとランジェリー・コーナーに立ち寄った。不足してるわけじゃないけど、やっぱり……。

服装は決めてあった。初めて会った時のボタンデザインの入った白の丸首セーターにモスグリーンのロングスカート。彼は覚えていて、褒めてくれたっけ。それにこれも彼が褒めてくれたチェスターコート。ちょっと寒いだろうけれど、なに、室内なら、大丈夫でしょう。

ブラウン系のアイシャドウを使って眉を整えることにしたので、それも新しく買った。

ブラジャーとショーツを買うのにとても迷った。面積が小さくて、セクシーなのが増えてる。私のお腹、そんなにたるんでないと思うんだけど、あんまり小さいと滑稽だ。でも、オバサン的なのはダメ。かといって、お水系も喜ばれないだろう。

しばらく物色したあと、思い切って今着けているのよりちょっと小さめで、大人のセクシーな雰囲気を醸しているのに決めた。薄めのパープルと水色と白の三つをセットで。

 

帰宅してから、念入りにお風呂に入った。ムダ毛のお手入れも。

髪をドライヤーでよく乾かしてから、洗面所の鏡で乳房を映してみた。前は気楽に自惚れていたけど、ちょっと垂れてきたかなあ、と自信が揺らいだ。『マディソン郡の橋』のメリル・ストリープの気持ちが前よりもいっそうよく分った。

髪をかき上げて、合わせ鏡で背中とお尻を映してみる。お尻の張りはまあまあだ。

でもあんまり気にするのもどうか。佑介さんて、そんなことにさほどこだわらない人かもしれない。それに、あすは、まだ仕事があるんだ。どうせ少しは疲れが出る。

それから今日の買い物を一応試着。ちょっとエッチな感じだけど、うん、だからこそOKよね(*ノωノ)。

夕食は買ってきたもので簡単に済ませた。

それからパソコンを開いて、にわかクラシックファン。YouLoopで次から次へといろんな曲を聞いてみた。

ショパンのピアノ協奏曲1番、バッハのシャコンヌ、モーツァルトの40番、これは3楽章がすごくよかった。

グノーのアベマリア、ヘンデルのオンブラマイフ、この2曲はチェロで。

それからメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲、ベートーベンのバイオリンソナタ「春」……――ああ、音楽っていいな。体を直撃してきて、そして、体の中に入って、それから今度は、自分が音楽そのものみたいになって一緒に連れだってどこかへ出ていく。まるで恋人たちのように。もしかしたらわたしたちのように。ウフッ。

遅くなってしまった。まるで結婚式の前日のような気分で、眠りに入った。

堤 佑介Ⅻの3

 

一夜明けた。

今日は、西山ハウスに老夫婦の鹿野さんが引っ越してくる日だった。

これで、新しく募集した時に入居手続きをした借家人は、すべて収まることになる。異質な人たちの隣りあわせ。トラブルにならなければいいが。

しかし、それを言うなら、「下町コンセプト」でこちらが推薦したシェアハウスのほうが、もっとその可能性があった。一部屋が10室だし、キッチンとシャワールームは1階と2階に一つずつあって共有、誰が入居するのかわからない。

老人どうしというのも、とかく頑固者どうしで喧嘩になりやすいし、異質な人々が共存できるかどうかは、入居者の組み合わせにかかっている。だれかリーダーシップを発揮できる人がいて、その人がトラブルを収めてくれるといいのだが。

もちろん、こういう危惧は初めからあったので、買い取りに成功したら、厳格なルールを決めておく必要があることを、報告書にも盛り込んでおいた。ただ、難しいのは、年齢、性、国籍などで、入居条件をつけられるかどうかだ。

私自身は、たとえば60歳以上というような年齢制限をつけるべきだし、つけることはできると思う。「もみじハウス」とでも銘打って、そういうコンセプトの物件であることを初めから告知しておくのだ。また、国籍も日本人に限るとしてかまわないと思う。

おそらく排外主義との批判が渦巻くだろう。しかし、日本の独身高齢者に集まってもらって和やかな共同体を作ろうという特別な理念を持った集合住宅施設なのだから、乗っ取られないためにも、はっきりとその趣旨を謳う必要がある。

ことに移民促進の旗を振っているいまの政権下では、日本語や日本文化を理解しない移民が紛れ込む可能性がある。政府がだらしない以上、こちらが主体的に防衛に動くほかないのだ。こうした点までは、まだ本部とも、ウチでも話し合っていなかった。

 

午後、例の松風台の戸建てから連絡が入り、ざっと査定してもらえないかとのことだった。性急な話だ。

八木沢と私とで、現地に赴いた。

売主は井上さんといった。私と同い年くらいだろうか。そういっては何だが、あまり柄のいい人には思えなかった。

ざっと見て回ったところ、八木沢の言う通り、これは上物付きでは厳しく思えた。

「お急ぎですか」

「そう。決めたことは早くやんなきゃ気が済まない性分でね」

「明日以降でしたら、登記所も開いてますから、コピー取ってきて、もっと正確な判断ができますが」

「いや、だいたいのところでいいのよ」

「そうですねえ。じゃあ申し上げますが、どうぞお気を悪くなさらないでくださいね。最初にお断りしておいた方がいいと思うんですが、この物件ですと、上物があると、かえって売れにくいと思います。つまり、このまま価格査定すると、かなり低い金額になってしまいますが、それでもよろしいですか」

「え? そうなの」

井上さんは、自分の持ち物にケチをつけられたように、かなり不満そうな表情をあらわに示した。

「はい。申し訳ありません」

「んじゃ、ぶっ壊して更地にしちゃった方がいいってこと?」

「それは建物によりますけどね。一般に築40年ということになりますと、耐震基準改定の前ですし、建物のほうはゼロ査定どころか、かえってマイナスになってしまうことが多いのが実態です。つまり、そのぶん現状で査定ということであれば、かなり金額が低くなるということです」

「低くってどれくらいよ」

「まあ……25から27ってとこですかね」

「そんなに安くなっちゃうの。この地域高く売れるって聞いたけどな」

「でもこれは、あくまで私どもの、大ざっぱな査定ですから、お客様のご希望通りで一度出してみてもよろしいですよ」

「……」

井上さんは、さっきのふくれっ面を続けたまま、黙っていた。間がもたないので、私は言った。

「あるいは、もしご不満でしたら、他を当たっていただくって手もあります。でも私ども、ここは長いですから、まずそんなに狂いはないと思いますよ」

「いやいや、そりゃわかってるって。他当たる気はねえのよ。それより更地にしたらどれくらいなのよ」

「そうですねえ、それもなんとも言えませんが……ここは土地は30坪いってませんよね」

「いってない。27坪かな」

「そうすると、解体料がかかりますので、それを上積みして……3000万以上で行けると思いますけれどね」

「ふーん。解体料ってどれくらくらいかかるのかね」

「これも業者さんによって様々ですけど、ここでしたら、そうですねえ、150万から200万程度見ておいていただく必要がありますね」

井上さんは貧乏ゆすりをしながら、しばらく考えていた。

「じゃさ、とにかくこのまま28くらいで出してみてくれる? ダメだったらまた考えっから」

「かしこまりました。でもいちおう、正確な面積を知る必要がありますので、明日以降に数字を出しまして、ご連絡差し上げるということでよろしゅうございますか」

「うん、いいよ。だけどなるべく早くな」

 

オフィスに戻る道すがら、八木沢と車中で話した。あの客はバカに急いでるな、という点で、意見が一致した。

「借金でも抱えてるんじゃないですかね」

「うん、その可能性濃厚だね。でも立派なスポーツカーで来てたけどね」

「ちょっとやーさんぽかったじゃないですか。ああいうのに限って車だけはいいの持ってるんですよ」

「そうね。それだって抵当に入れてるかもよ」

「そうですね。不良息子持ってお母さんも可愛そうですね」

「ハハ……そうと決まったわけじゃないさ」

それからそれぞれの業務に返って、一日は暮れた。

堤 佑介Ⅻの2

 

「おん」の階段を昇ると、玲子さんがにっこりと手招きしていた。

今日は地味目の服装だなと思った。しかしその笑顔で、会議で感じたストレスがいっぺんに吹き飛ぶ心地になった。

ビールがうまかった。思わずふう、とため息を発してしまった。

それから、金目鯛の煮つけや芋がらやアスパラガスを肴に日本酒を飲むことにした。玲子さんも飲むと言った。

かつて牛込神楽坂に落語を聞きに来た話から、いつか落語に一緒に行きましょうという話になった。

「落語のよさを外国人に理解してもらうのって、たいへんだと思うんですよ。最近は意欲的な噺家が苦労しながら世界を回っているようですけどね。あれ、どこまでわかってもらえるのかなあ。俳句なんかもそうですけど、日本の伝統文化って、ほんとに独特で、西洋人にはなかなか理解されないような気がします。」

こう話したとき、玲子さんがこの前送ってくれた活け花の写メを思い出した。

「そうそう、そう言えば、この前の野ブドウとダリアの写真、あれも素晴らしかったですね。あれはお家で活けたんですよね」

「ありがとうございます。そう、母にもらった水盤で初めてうちで活けてみたんです」

「活け花も日本独特で、ほんとにいいですよね。日本庭園と同じで、自然の素材を使いながら、まるで自然に生きているかのように手を加える。そうすると、自然以上に造化の美がそこに出現する。西洋のフラワーアレンジメントのような人工性が露出しないで、ひっそりと隠される……こんな理解でいいんですか」

「ええ。その通りだと思います。ただ、流派や作品によってはすごく人工的なのもありますし、近年は、フラワーアレンジメントのほうも、けっこう活け花に近いのも増えてきてますね。ただ、花数が多くてびっしりなのが違いますね」

「ああ、間の感覚がないんですね。だから、ブルーノ・タウトって建築家が桂離宮見てびっくりしちゃったんでしょうね。昔、一度だけヨーロッパに行ったことがあるんだけど、いろんな記念建造物の壁や破風が、人の顔や体のレリーフでびっしり埋められてるのね。こっちは逆にあれにびっくりした憶えがあります。ちょっと哲学風に言うと、彼らは『無』とか『空』を恐れていて、すべてを人間の手つきで埋めずにはいられないのかな、と思ったのね」

「ああ。なるほど。だから外へ外へって出て行ってあんなに強いとも言えるんじゃないかしら」

「そうか。それは考えなかった。それって、関係ありそうですね」

連想が、文化論から海洋進出や植民地収奪や帝国主義など、西欧の歴史と政治というややこしいほうに及びそうになったので、それは思いとどまった。

 

ビールを飲み終わった玲子さんのお猪口にお酒を注いだ。透明なマニキュアをしたきれいな可愛い両手がそれを支える。

「僕もお花、習ってみたいな。男がやってもおかしくないでしょう?」

「ええ、全然。大原流の家元は、まだ三十代の男性です。それと最近は男性でお花を習う人が増えてるみたい」

「暇がもう少しあったらなあ。玲子さん、教えてもらえない?」

半分冗談のつもりだったけれど、彼女はそれをまともに受けた。

「わたしなんかより母のほうがずっといいですよ。でも遠いですからねえ」

「いえ、玲子さんがいいです」

愛の告白の意味も込めて、すこしおどけ気味に、しゃっちょこばって言ってみた。

「まあ、フフフ……ありがとう。でもそれだと、わたしもきちんと修業しないと。活け花は奥が深いから」

お酒のせいもあるのだろうけれど、彼女の頬がほんのりバラ色に染まっている。こちらも楽しい空想が膨らんでくる。

「これはどう。玲子さんがご実家に帰った時に、お母さんの教えをみっちり乞う。それで自信つけて、僕に時々伝授してくれる。もちろん、授業料払います」

「授業料なんていらないわ。水臭いです。でも、そのお話って、まんざら空想でもなくって、わたしもちょっと本気で考えたことあるんですよ。会社辞めて真剣に修行積んで、師範の免許取って、母の跡継ごうかなって」

「え、そうなんですか。最近ですか」

「ええ、最近」

もしそれがほんとなら、彼女は、会社勤めに飽きてきているのかもしれないと思った。無理もないことだ。

「玲子さん」

「はい?」

「会社、きついですか」

「そんなにきつくはないですけど、ただ、今度、課長が変わって、若いバリバリの人になったのね。その人が、いきなりシステム変更するっていうんですよ。私みたいなオバサンには、それにちょっと抵抗感があるんです。もともと機械に弱いんで。同僚で同じこと言ってる女性も多いんですよ」

「ああ、なるほど。たしかにそれはわかるところがあるなあ。とにかくIT社会になってから、次々と新しくなりますからね。僕なんかも、もう四苦八苦してますよ。だんだん若い連中に任せていかないとね」

私も昔なら定年だ。しかし役職としての責任はあるし、先はまだ長いし、ここでへばるわけにはいかない。それにしても、玲子さんがそういう気持ちになるのはとてもよく理解できた。

「芸は身を助く」――お母さんがそういう仕事をしているという条件は、身を引くための強い牽引力になるだろう。

「お母さん、おいくつ?」

「75です。まだ元気ですけど、どっちにしても、いずれはわたしが同居しないと……」

そう言って、彼女は少し目を落とし、何か考えているふうだった。話がにわかに現実的になった。私は、武蔵野で活け花教室を開いているというお母さんのことを思い浮かべ、それからそこで若先生を務めている玲子さんの姿を想像した。

いい構図に思えた。

そしてお前は? お前はどうするんだ、という声がした。私は、私は、彼女にプロポーズする? もし彼女が武蔵野に引っ込んだら、私とは疎遠になってしまうだろうか……そんなことはないだろう。そんなに遠くないんだし、会おうと思えばいつでも会えるし。

もし彼女が会社を辞めたら、いまよりも、もっと会える時間が増えるんじゃないだろうか。そうしたら、別にすぐにプロポーズとまではいかなくても、ゆっくりつきあっていけばいい。きっと彼女も受け入れてくれるだろう。

そう思うと、彼女が欲しいという気持ちがじわじわとこみ上げてきた。

 

「まだ、飲む?」

「はい」

お酒のお代わりが運ばれてきた。

きれいな両手の間にお猪口があった。ゆっくりと、ゆっくりとそこに大信濃を注いだ。これが今の私の気持ちですというように。すると彼女は、それを形のよい唇にもっていって、やはり、ゆっくり、ゆっくりと飲み干した。

それからふいに彼女が言った。

「佑介さん……ってお呼びしていいですか」

「ええ、もちろん」

私はうれしかった。

「佑介さんのご両親って、どんな方だったの?」

「ああ、お袋は……そうね、小さくて繊細なたちでしたね。文学が好きで、小説をよく読んでました。でもけっこう教育ママで、兄と私は、よく食卓で勉強させられましたよ。厳しいところもありましたね。人付き合いは、あんまりうまいほうじゃなかったです。僕は可愛がられましたけどね」

話しながら私は、お袋が、男と女がお互いの家族のことを話し出すとその二人は好き合っている証拠だと、何の根拠もないことをしきりに言っていたのを思い出した。

「お見合い結婚?」

「うん、そう。あれは、あんまり相性のいい夫婦じゃなかったな。親爺のほうは、ものにこだわらない、社交的な人でしたから。ただ、大酒飲みでね、よく外で飲んで、会社の仲間を家に連れ込んできましたよ。」

玲子さんは、くすっと笑って言った。

「それって、佑介さんのこないだの話と似てますね」

「え? あっ、そうか。そんな話、したね。でも親爺のほうがずっとひどかったですから、どうぞご安心。親爺は人連れてきて、自分は寝ちゃうんですよ。お袋は酒飲めないのに、招かれざる客の相手をしなくちゃならなかった。そのうち、親爺がひょっと目覚めて、『なんだ、××、まだいたのか、もう帰れ』なんていうんですよ。お袋はまじめだったから、そういうの、すごく嫌がってましたね」

「アハハ、おもしろいわ。お父さんっておもしろい方だったのね」

「いやあ、いまでこそ笑えますけど、はたで見てる子どもの目からすると、すごくいやでしたよ」

「ああ、それはそうでしょうね。ごめんなさい」

「いえ、いいです。それと、ちょっと酒が入った時はご機嫌がよくて面白いんだけど、日曜日なんか、ぶすっとして、こうやって一日中ひげを抜いてるんですよ」

「アハハ、笑っちゃいけないけど、それもおもしろい」

今度は、玲子さんのお父さんについて聞いてみた。

「うちの父は、お酒飲みだったけど、そういうところはなかったですね。酔っぱらってもあんまり崩れるとこともなくて。ごく普通のサラリーマンとして一生を終えました。定年退職してからも、死ぬちょっと前まで別の会社に勤めてたんですよ。ええ、わたしや妹にも優しかったです。でも最後はやっぱりお酒で肝臓やられちゃいましたけどね」

「じゃあ、幸せなご夫婦だった?」

「ええ、そんなに喧嘩もしませんでしたしね。まあ、幸せだったって言えるのかな」

 

10時をだいぶ過ぎた。そろそろ、ということで、立ち上がった。

玲子さんの明るいブルーのコートが、影になった場所のハンガーにかかっているのに、今まで気づかなかった。着せてあげようと思ったら、彼女はもう自分でとり、袖を通していた。淡いグレーのセーターにとてもよく似合った。彼女自身が活け花みたいだった。

抱きしめたい、と強く思った。他の客はもういなかったが、店員が控えている。まさかここでは、と我慢した。

牛込神楽坂駅までの、人通りのない暗い道を、黙って歩いた。少し進んでから、彼女の肩にそっと手をまわし、抱き寄せてささやいた。

「玲子さん……好きです」

彼女もそれに応えるように、私の胸に頬をすり寄せた。それから首をこちらにもたげて目を閉じた。

唇を合わせると同時に、彼女の両腕が私の首に絡みついてきた。とても官能的な唇だ、と感じた。青いきれいな花を摘み取る――そんな気持ちで腰に回した手に力を込めた。厚い衣服を通しているのに、不思議にからだの温かみが伝わってくる。

長いことそうしていた、と思う。

身を離したとき、彼女は私に支えられながら、目を閉じてはーっと長い息を吐いた。この口づけが彼女の心をこれまでとは違う世界へ連れていった――そう私は確信した。

彼女は明日も休日だ。このままホテルへ、という考えが浮かんだ。けれど、彼女が聞き取れないほどの声で言った。

「あしたの佑介さんのお仕事が……」

私は言葉を封じられたように、彼女の目をじっと見つめた。しばらく見つめていた。うん、そうだね、わかった。もう少し待とうね。きっとそれはいいことだ……。

改札をくぐって手を固く握りあいながら、ホームへの階段に向かう時、彼女が私の耳元に口を寄せてささやいた。

「佑介さん……わたしも好きです」

ホームへの階段を降りる時、あたりに誰もいないのを幸い、もう一度抱き寄せて口づけをした。彼女の柔らかい胸の感触が伝わってきた。いつかの夢が正夢になりそうだ、と思った。

堤 佑介の1

                                  2018年11月25日(日)

 

昨日の朝、本部の前園君から電話があった。報告書の提出は、ウチが一番早かったという。

「こないだはお世話様でした。とても勉強になりました」

「こちらこそ」

「それで、課長がですね、せっかく早く出していただいたので、報告資料を基に、所長と私と三人で、もう少し話を詰めたいというんですよ。急な話で申し訳ないんですが、今日午後は、ご都合いかがですか」 

玲子さんとの約束がある。長引くようだと、間に合わないかもしれない。しかしそんなことは言ってられない。岡田に代わってもらうわけにもいかない。

「いいですよ。ただ夜ちょっと予定が入ってますので、3時ごろからでもよろしいでしょうか」

「ええっとですね。こちらから申し出ておきながらたいへん申し訳ありません。私が3時に予定が入ってまして、4時でしたら何とか」

「わかりました。それでは4時に伺います。ぎりぎり6時半くらいまででよろしいでしょうか」

「十分です。勝手なことを申し上げて、申し訳ありません」

「いいえ。とんでもない」

というわけで、まず渋谷に出向いて一仕事終えてから、玲子さんと会うという形になった。

しかし長引けば、最悪、デートは延期ということもありうる。

 

お昼近くに、けやきが丘駅からバスで5分ほどの、高級住宅が多い松風台で、84歳の高齢女性が一人で住んでいた戸建てを売りに出したいという話が入った。昼休み後、八木沢が現地に赴き、帰ってきて、状況をわたしに報告した。

「お母さんはいなくて、息子さんが来ててですね。お話を聞きました。ご家族は別のところに住んでて、こちらに引っ越してくるわけにもいかず、お母さんを引き取るのも難しいんでいろいろ悩んでいたけれど、試しに老人ホームに入ってもらって、ダメだったら、その時点でまた考えようということだったらしいんです。そしたら、お母さんが、ホームが気に入っちゃって、これでいいって言ったんですって。それで、こっちは売ろうという話になったそうです」

「データはどうなの?」

「そんなに広くないんですね。2階建てで延べ床95平米くらいかな。まだ登記簿取ってませんから正確にはわかりませんが、庭がほとんどなくて隣家と軒を接してますから、容積率150%くらいでしょうね。三方囲まれてて、南側が狭い道路です。しかも築40年経ってるんですよ」

「ふむ。建物の傷み具合は?」

「水回りなんかは一応改装してますけど、かなり古い感じが目立ちますね。ちょっとあれはそのまま売るのは厳しいと思います」

「うん。まあ、その判断はわれわれ専門家の判断として、オーナーさんはそのまま売りたいって言ってるの?」

「今のところそういう感じです。わたし、松風台って広い高級住宅ばっかりみたいな印象持ってたんですけど、そうでもない物件もあるんですね」

「高級住宅は目立つからね。たしかに印象と実態は食い違うことが多い。松風台には、慎ましい家もけっこうあるよ。それはそれとして、とりあえず売主さんの希望通り、上物付きで査定して、一定期間出してみたらどうかしら。買い手つかなかったら、壊して更地だな」

「はい。そのほうが高く売れると思います」

「そのへん、売主さんによく話してわかってもらってください。今日はちょっと無理だけど、私も近いうち見に行って、判断しましょう。どうもご苦労様」

「はい、わかりました」

 

「課長がけっこう気に入ってるんですよね、報告書」

本部の一室で、前園君が言った。

「いや、前園君のおかげですよ」

「そんなことないです。所長が書かれた冒頭の位置づけと、優先順位に感心してましたよ」

すぐに課長の島崎が入ってきた。私の本部時代の同僚でもある。

「これ、いいよね、堤。今回のプロジェクトにぴったりだよ」

「ありがとう。しかし、正直言って、こないだの横浜営業所の所長が質問してたように、ウチ程度の事業規模じゃ、単発的で限界があるね。都市計画的広がりが持てない」

「そりゃ、わかってるさ。でもやらなきゃしょうがない。それで、大筋この路線でいいと思うけど、細部をもう少し詰めたいんだ。」

それから私たちは、交渉の進め方、交渉の主体を本部とウチのどちらに置くか、期限、プレゼンの張り方などについて協議した。一番もめたのが、交渉の主体の問題だった。

ウチでは、人員数と能力からしてとても責任が持てない、本部から出向要員として二、三名現地に派遣して仮事務所でも置いてもらえるのが最も望ましい、そうでなければウチに常駐してもらうしかない。そのスペースなら何とか提供できると説明した。

しかし島崎もなかなか強硬だった。そんな余裕は確保できそうもない。何とかそちらで頑張ってもらえないかというのだ。私は繰り返し事情を話し、それは無理だと主張した。第一、本部の出向要員とウチのスタッフの接触を深めておく方が得策ではないか。

この議論で感じたのは、あの温和で、私とも気の合っていた島崎が、官僚的な姿勢をずいぶん露骨に示すようになったことだった。それは本部に長くいて、昇進途上の彼としては仕方のないことなのかもしれないが、それにしても、「彼は昔の彼ならず」だ。しかし、ここで気まずくなるわけにはいかない。

前園君が、現地視察をして、岡田と一緒に報告書の原案を書いてくれていたことが幸いした。話が膠着状態に陥っていた時、彼が遠慮がちに、自分が出向してもいいですよと言ってくれたのだ。

結局、私の説得がおおむね通って、本部要員の出向が認められるかどうか、上と相談してみるということになった。

「わかった。でもこれは急ぐ話だからな。1号や13号が売れてしまったら元も子もない。そのへんはどうなんだろう」

「まあ、いまの情勢では、そんなに早く売れることはないと思うよ。その見込みについても報告書に書いた通り。何しろ、ウチの近辺でも、空室が1年2年埋まらないのはざらだからね。まして空き家の買い取りとなったら」

会議というのは、双方の言い分がもともと決まっていて、同じことの説得を繰り返すことが多い。時間はそのあいだにどんどん過ぎていく。

本部を出たのは、6時40分頃だった。あわてて渋谷駅に走る。クソ島崎め、と心の中でつぶやく。

牛込神楽坂駅に近づいたころすでに7時になっていた。玲子さんにメールを入れる。すぐに「お店でお待ちしています。どうぞごゆっくりいらしてください」と返事が来た。ほっとした。