半澤玲子ⅩⅣの7

 

「ベッド、狭くてごめんね」

「狭いほうがくっついて寝られるよ」

夜が更けてきた。窓辺に寄ってカーテンの隙間から外を見ると、空気が煙っている。雪ではなく雨が降ってきたようだ。

急に彼がわたしを後ろから抱きすくめた。今日の「真面目な話」の結論みたいに。

わたしは、向きなおった。それから立ったまま、性急にお互いの服を脱がせにかかった。彼のYシャツのボタンをはずすのがうまくいかなくて、もどかしかった。これまでも感じたけれど、彼はブラジャーを外すのがうまかった。今日は白。彼の目に感動の色が光ったように感じた。

わたしたちは、これまでにも増して愛し合った。

いろいろなことをした。いままで誰ともしたことのなかったいろいろなこと。

 

時計を見たら1時を回っていた。

「れいちゃんのおっぱい、かっこいいね」

佑介さんは、わたしの左の乳房の下にあるほくろを撫でながら言った。

「でも最近垂れてきたの」

「垂れてないよ。もし垂れてきたら僕がも一度プリプリにさせてあげる」

「ウフッ。でも誰かを好きになるとほんとにそうなるって話聞いたことあるわ」

「ほんとだよ」

「……ねえ。さっきの話だけど」

「うん」

「あれ、実現したら、わたしたちって、もしかして、時代の最先端行ってることになるのかもね」

「そう。いろんな家族の形が出てくるんだろうね。そのなかでは最先端かもしれない。でもある程度経済的な余裕がないとできないよね」

「若い人たち、かわいそうね」

「うん。若者は当分、親にパラサイトする状態が続くのかな。でも、そのうち親がへたばってくるからね。その時が問題なんだよ。8050問題なんて騒がれてるし、高齢者のひとり暮らしもすごく増えてるし。このままだと、ふつうの家族はだんだん壊れてくかもしれない」

「みんな、個人個人でバラバラになっちゃうのかな」

「うん。もうある程度はそうなってるね。でも、一回そうなると、また一緒になろうなろうって気運が高まりそうな気もするけどね」

「8050問題だって景気が回復しなきゃどうしようもないわね」

「そう。それがまず第一」

それからとりとめのない話をして、いつの間にか眠りに落ちた。部屋は暖房が効いて、裸のままなのにちっとも寒くなかった。

寒くないのは暖房のせいだけじゃなかったけど。

 

翌朝、わたしが先に目覚めた。佑介さんの寝顔を初めて見た。これまでは彼のほうが先に起きていたのだ。

かわいい寝顔だと思った。でも眉間にちょっと皺を寄せている。悪夢でも見ているのかしら。夢の中でも政治経済のこと考えて悩んでたりして。

そーっと起きて、シャワーを浴びた。戻ってくると、彼はまだ寝ていた。ベッドの脇に散らかっている彼の服にちょっといたずらをした。

外は小雨。でも上がりそうな気配だった。

キッチンに入って、朝ご飯を作った。トーストとオムレツとトマトにホットミルク。

やがて彼が起きてきた。

朝ご飯を食べ終わってから、午前中は、ホットミルクのお代わりをしながら、ずっとベッドに腰かけてお話をした。音楽について。政治について。

BGMはモーツァルトのピアノ協奏曲20番と、それからシューベルトのソナタ21番。

「このソナタ、ちょっと暗いわね」

「やめようか」

「ううん、いいの。いい曲だし、人生には暗いところもあるでしょう。だから共感できる」

「そうだね」

 

それから佑介さんは、「暗いと言えば」と前置きして、政治の話をしてもいいかと聞いた。

「いいわよ。ちょっと待ってね。どうせならノート持ってくる。堤先生のレクチャー、はじまりはじまり」

「ハハ……そんな値打ちはないよ。だけど、聞いてくれる人がなかなかいないからね。でもれいちゃんも僕の話をノートしようなんて、相当の変人だね」

「うん。見かけは普通のOLだけどね。でもこれまでの人生振り返ってみると、やっぱり変人だったんだわ。ゆうくんと出会って、そういう自分に気づかされたの」

それから彼は、前々日の10日に、臨時国会が閉会したが、こんなひどい国会は初めて見た、という話をした。それは、主に入国管理法の改正と、改正水道法の成立に関してだった。

聞いてみると、たしかにひどい話だ。わたしはできるだけ克明にノートした。

「ほんとに暗い話になっちゃったわね。雨あがったみたいだから気分変えて散歩でも行かない?」

「そうしよう。浅草は久しぶりだ。浅草寺にお参りしよう」

「堤先生の暗黒の授業はこれまで。せめてわたしたちは楽しくやりましょうね」

「そうするしかないね」

彼のその言い方には、絶望感に近いものが淡く漂っているようでもあった。

 

わたしたちは手をつないで雷門をくぐった。お参りを済ませてから、お店に入り、お守りのつもりでふたりのお箸を買った。漆塗りの赤と黒。先端の色が反対になっていた。ふたりともそこが気に入った。

「ねえ。さっき、浅草寺でなんてお祈りしたの」

「たぶん、れいちゃんと同じ」

「そうね。きっと同じね」

お昼を食べてお別れということになった。

「麦とろのおいしい店があるのよ。隅田川に面してるの。そこにしない?」

「うん。いいよ」

隅田川を眺めながら、できるだけゆっくり食事をした。吾妻橋が寒い曇り空の下で少しかすんで見えた。

食後も、なかなか離れがたくて、浅草界隈をぶらぶらしているうちに4時近くなった。そろそろ暮色が迫ってきた。地下鉄浅草駅の改札で別れることにしたけれど、何となく永の別れみたいな気がして胸が詰まった。

「これからまっすぐ日岡のマンションまで帰っちゃうの?」

「うん。名残惜しいけどね。昨日と今日のこと、覚書に書くよ。しっかり書いとく」

「わたしもこのまま乗ってっちゃいたい」

「ハハ……またすぐ会えるじゃないか。28日には待ってるからね。ポトフの材料、教えてね」

「うん。メール、ちょうだいね」

「うん。れいちゃんもね」

また抱き合ってチューした。オジサンやオバサンがちらちらこっちを見ていた。

改札を隔てて、いつまでも手を振り合っていた。

半澤玲子ⅩⅣの6

 

「あのね、わたしもまじめな話していい?」

「どうぞ」

「床暖、熱すぎない?」

「ちょうどいいよ。なに、真面目な話って」

「ちょっと待ってね。ご飯炊けたみたい。どうする? もっと飲む? それともご飯にする?」

まだ720ml瓶には三分の一くらい残っていた。

「よし、れいちゃんの真面目な話を、残りの酒を酌み交わしながら聞こうではないか。ご飯はその後で」

ちょっとおどけるようにそう言って、佑介さんは、どっしり構えるふうを見せ、瓶のお酒をお猪口に注いだ。

「わかりました。さっき、〇〇に二人にとって大事な言葉を入れるって言ったでしょう?」

「うん」

「それって……もしかして、……婚約とか……結婚とかイメージしてた?」

わたしは言いながら、思わず顔が引き締まってくるのを感じた。不安がよぎる。

ところが彼は、そう聞かれて、まったく意外ではないという感じですらりと答えた。

「ああ、その問題ね。イメージしてたよ、かすかにだけどね」

「話したいことって、それなの。ゆうくんがどう考えてるか、聞きたいの」

「うん、僕もちゃんと二人で話そうと思ってたんだ。僕は……もしれいちゃんが結婚してって言ったら、一も二もなく『いいよ』って答えるつもりだった。僕もしたいから」

「僕もしたいから」――そう言ってくれたことは、素直にうれしかった。でも、わたしは、何が何でも結婚、なんて考えていないのだから、わたしのほうからプロポーズするのは控えていた。

「わたしは……」

「ちょっとまってね。でもね。僕らの状況、年齢、これまで生きてきた過去やこれからのこと、それから、結婚生活ってものの世間一般のあり方、そういうことをいろいろ考えたら、自分から言い出すのはちょっと慎重にした方がいいんじゃないかって、いま思ってる。ずるいように聞こえるかもしれないけど」

そこで彼は言葉を切った。お猪口に残ったお酒を飲み干して、独酌で注ぎ足した。

 

もしかすると、わたしが考えているのとほとんど同じかもしれない。

「ううん、ずるくなんかないわ。……もう少し言ってくれる?」

「つまり……結婚て、なんだろうね。誰かが結婚するっていうと、周りはおめでとう、おめでとうって騒ぐけど、結婚生活続けると、愛情が冷める例がすごく多いよね」

「うん。たいていはそうね」

「いま未婚者がすごく増えてるでしょう。もちろんその第一の理由は若い人たちが経済的な余裕がなくて結婚できないってことなんだけど、それだけじゃなくて、結婚生活ってものに対するメリットを感じなくなってる人が多いんじゃないかと思うのね」

「うん。それは、1人でいた方が束縛されなくていいってこと?」

「そう……かな。そうも言えるけど、いま、昔と違って、独身で暮らしてても、毎日の生活に困らないでしょう。一生ひとりの人とだけ暮らすことに対する一種の絶望感――ていうと大げさだけど、そのことにあんまり希望の光を見ない感覚みたいなものが共有されてるんじゃないかな」

「ゆうくんも、そう感じてる?」

「あ、僕は違う。一生って言ったって、僕は残り少ないし、いまこうしてれいちゃんと出会って、すごく一緒に暮らしたいって感じてる。いつもくっついていられたらいいなあって。でも……」

「でも?」

「一つ屋根で暮らしたら、お互い、恋愛時代とは違った面が見えてきて、絶対愛情が冷めないって言い切れる自信があるかっていったら、正直なところ、そうは言い切れない」

正直な人だと思った。わたしの考えにだんだん近づいてる。

「問題はさ。どうしたらいまのこの気持ち、れいちゃんとずっと一緒にいたいって気持ちを長続きさせられるか、その工夫にかかってる、って考えたんだ」

「こうして、時々会って、愛を交わしている方が長続きする?」

「それもまた違うなあって思うんだよ。いつも同居してるんでもなく、お互いの都合のいい時、たまに会うんでもなくて、その真ん中くらいの形が取れないかなあって」

 

ここまで聞いて、わたしの考えとほとんど同じだとわかった。

今度はわたしが語る番だ。

「ありがと。いま聞いてて、わたしの考えと同じだなって思った。うれしいわ。わたしもね、そういう真ん中みたいな形って、できるんじゃないかって気づいたのよ。だって、わたし、ゆくゆく実家で母の面倒見ることになるだろうし、ゆうくんは、お仕事続けながら、いまのマンションにいればいいわけでしょう。それと、実家は古いけど、二階は空いてるし、もしゆうくんがいたければずっといることもできるのよ」

「そうだよね。同じこと考えてた。二つの家を行き来できるんだよね。自分で想像してて、これって昔の通い婚みたいだなって」

佑介さんは、微笑とも苦笑ともつかない表情を浮かべた。

「お母さんはどう思うだろう」

「母は昔の人だけど、けっこうさばけてて、わたしの生き方にああだこうだ言う人じゃないのよ。だからたぶん大丈夫だと思う」

「そうだといいね」

「わたし、もう子どもは無理だと思うのね。それは寂しいけど、仕方がない。でね、それをあきらめた上で、わたしたちのこれからを想像してみたら、なんだかすごく恵まれてるような気がしてきたの」

「会社勤めはどうするの」

わたしはそう突っ込まれて、一呼吸置いた。そして思い切って決意を語った。

「じつは決めたの。1月の内示の時、退職願い出して、4月から華道の修業に本格的に邁進しようって。近々大原流の本部に問い合わせてみるわ」

「え、そうなんだ! わあ、いいね、それって。僕もうれしい。全面的に応援する!」

ふたりは思わず立ち上がって、強く抱きしめあった。

 

「ね、ごはん食べよ。お味噌汁作るから待っててね。ダシ、鰹節でいい?」

「うん。鰹節が一番好きなんだ。それからCD持ってきたの忘れてた。かけていい?」

「もちろん。安いオーディオしかなくて、音悪いけど」

少し経って、聞いたことのある曲が響いてきた。

バッハの管弦楽組曲? 静かに、そして華やかに、わたしたちを祝福してくれるように、それは流れた。

半澤玲子ⅩⅣの5

 

いろいろな話をした。

佑介さんは、『広い世界の端っこで』を見た、と言っていた。

「さらっと見ただけなんで、よくわからないところもあったんだけど、幼いころヘンなオヤジの駕籠のなかで、未来の夫の周平と出会ってるでしょう。それ、妹に描いて見せるよね。あれ、ゆきさんの空想なんだよね。一応、結婚話の時に周平がどっかで一度会ってるって言うけどさ。でもその好きな絵をずっと描き続けていて、そのままアニメで日常生活を描いていく画面の流れにつながってくとこが、すごく見事だね」

「うん。そうそう。それで、あのヘンなオヤジさん、最後のほうで、橋の上で話してるふたりの後ろを影みたいにスーッと通り抜けるのよね」

「え? そうなの? 見落としてた。今度もう一度見てみよう」

「わたし、原作の漫画も読んだのよ。そこにもほんのちょっとだけ出てくるの」

「あ、そうなの。原作とアニメとどっちがよかった?」

「うーん、一概に言えないけど、アニメでは、たとえば子どもの時におばあちゃんのうちで天井裏から降りてきてスイカの残りをしゃぶる貧しい女の子が出てくるでしょう。あれ、ゆきさんが闇市で買い物してから遊郭に迷い込んじゃう時に出てくる遊女のお蘭さんなのよね」

「あ、そうか、それも気付かなかった。だからスイカの絵に引きつけられるのか」

「うん。それがね、原作では、そういう伏線がはっきり描かれてなくて、その代わり、お蘭さんは周平さんの昔の恋人だったってことになってるのよ。恋人って言っても遊郭で知り合ったんだろうけどね。それがさりげなく示されてゆきさんはそれを知って複雑な思いに駆られるのね。そういう翳りみたいなのが、アニメにはない」

「なるほど」

「それと、周平さんの勤め先にゆきさんが会いに行って街を散歩するシーンで、ゆきさんがこのごろあまり食が進まないって言って、二人で『あーっ!』て言いあうところがあるでしょう」

「あった、あった。あれ、妊娠したんじゃないかってことでしょ。それで、ヘンだなって思ったんだけど、義姉さんが二人分、って言って、てんこ盛りのご飯差し出すのに、翌日んなると、おかゆ一人分しか出さないよね。あれ、どういうことなの」

「あれ、よくわからないわね。ちらっと産科医院から出てくるカットがあるんだけどね。それも原作だと、産科行って調べてもらったら栄養不足の生理不順だったってことがちゃんと書いてあるの。で、産科の帰りにもう一度お蘭さんの所に寄って、いろいろ話すんだけど、そこでお蘭さんがゆきさんの名前聞いて、はっと覚るのよ。ゆきさんはゆきさんで、荷物整理してた時に派手な茶碗発見して、それで覚るのね。そういういきさつがアニメじゃ省かれてるから、そこは原作のがていねいだし、なんていうか、文学的な深みがあるわね」

「その原作持ってる?」

「ええ。あとで貸してあげるね。でもわたしはやっぱり直美ちゃんと右手を失う時のシーンが、アニメならではと思ったわ。原作ではちょっと物足りない描かれ方してる」

「ああ、そうなんだ。アニメで人間の何とも言えない感情を表現するのって、難しいんじゃないかって思ってたけど、あの真っ暗になっていろんなイメージがちかちか飛び交うの見たら、一瞬にして運命が変わってしまったゆきさんの、呆然とした感じと虚脱感がすごくよく出てたね」

「それもさりげなくなのよね。それって、絵はうまいけど、ぼーっとしてるっていうゆきさんのキャラとマッチしてるんじゃないかしら」

「ああ、なるほど。そうだね。いい映画、紹介してくれてありがとう。僕はあれ見てるうち、広島の実家に戻って原爆でやられるんじゃないかと思ってたんだよ。でもそれだと悲惨さが強調され過ぎて、メッセージ性が出ちゃうでしょう。ちょっとした偶然で地雷を踏んづけちゃったってのが、全体のトーンを壊さない要素になってると思う」

「うん。そっちは時限爆弾があるから気をつけろよーって声がするんだけどね。ゆきさん、ぼんやりしてるのよね」

「うん。考えてみると、僕たちの日常って、あんなふうかもしれないね。だからこそ戦争のさなかでも、戦争に負けても逞しく生きていけるのかもしれない」

「そんなに悲惨さが強調されてないところがいいわね」

「そう。広島の原爆っていえば、教科書なんかに乗ってる丸本夫妻の『原爆図』とかさ、マンガの『はだしのケン』とかがもてはやされてきたでしょう。ああいうのって、やたら悲惨さが強調されるから、それだけで政治的なメッセージ性持っちゃうんだよね。それをサヨク政党が利用する」

「わたし、ああいう気持ち悪い絵とかマンガって、好きじゃないわ。ああいうの見て、平和の大切さを知る、なんて気持ちにほんとになるかしら」

「たぶん、一部のインテリはなるだろうね。頭で理解しようとするから。それで思い出したんだけどね……」

「あ、ちょっと待ってね。ゆうくんの持ってきたお酒出してくる」

わたしは冷蔵庫で冷やしておいたのを取りに行った。もう一度乾杯。

 

佑介さんは、それから、広島の原爆慰霊碑の文句がふざけてると言い出した。

「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから」というあれだ。過ちは誰が犯したのか、主語がない。原爆投下は、明らかにアメリカの民間人大虐殺という戦争犯罪なのに、日本人や日本政府は、それに対して正当な怒りをぶつけたことがなく、ただ「平和への祈り」を繰り返すばかり。敗戦は、かくも日本人を去勢してしまった。GHQに完全に洗脳されて、日本人はこんなに悪い戦争をしたんだって思いこまされてしまった云々。

わたしもほんとにそうだと思った。でも、珍しくやや興奮気味の佑介さんをなだめなくてはならなかった。

「ゆうくん。顔がちょっと怖くなってる」

「いや、ごめんごめん。いつの間にかヘンなほうに話が行ってしまって。誕生日にふさわしくないね」

これは、彼がまじめな証拠だ。そういう真面目なところがわたしは好き。でも、もし食卓でしょっちゅうやられたら、ちょっとうんざりかもな。こういうの我慢するのが難しいんだよな。

そう考えた時、もう自分が彼と夫婦気取りでいることに気づいた。それで、さっきの決意を思い出した。やはりいまここで話してしまおう。

半澤玲子ⅩⅣの4

 

11日はとても寒い日だった。そして雨が降りそう。

4日はすごく暑かったのに、対照的だ。このままどんどん寒くなっていくのかしら。そんなことはないと思うけど。ゆうくん、風邪ひかなきゃいい。

バースデー・ケーキは前日、会社の帰りに買ってきた。

ケーキを受け取る時、なぜか、さっきまで黙々と勤務していたさくらちゃんの姿が思い浮かんだ。わたしが退社する時、彼女はまだ残ってて、「お先に」っていったら「お疲れさま」って、元気よく返事したけれど、何となく思い屈しているように見えた。

破談になる前日だったというのは、あとで知ったことだ。

 

朝、掃除を念入りに済ませた。冷たい空気が部屋を満たした。床暖房とエアコンで急いで温める。お昼を早めに食べて、ゆっくり食事の下ごしらえにとりかかった。

 

お献立。

・新玉ねぎとツナの和風サラダ

・鯛の和風カルパッチョ

・厚揚げと豚肉の和風煮

・なめこ汁

・なすのおしんこ

・大根の葉とじゃこの炊き込み御飯

 

時間が近づいたので、床暖もエアコンもつけっ放しで出てきた。

黒いダウンジャケットを着て、改札の外側で待っていた。足元から寒さが伝わってくる。

右奥のほうからゴーッという音が近づいてきた。たぶんこの電車だ。普段着の自分。それを佑介さんの前にこれからさらす。

平日のこの時刻、まだ通勤客は乗ってないから、電車はすいている。そして、ゆっくりと停車した。この駅で降りる人はあまりいない。

わたしは改札の外側から身を乗り出して車内を見回す。ぱらぱらと客が降りる。

少し前のほうから、青いダウンジャケットを着た彼が近づいてきて、すぐ私を見つけた。着ぶくれして大きく見える。肩にかけた、もう擦り切れている古鞄。わたしのプレゼント、使ってね。

「寒いねえ、きょうは」

「寒いわねえ。夜、雪が降るかもしれないって言ってたわ。そうしたら雪の誕生パーティね」

「それも風情があっていいね」

さすがにこの狭い改札で抱き合うことはせずに、急いで地上に出る。

寒さがひときわ身に染みる。わたしは彼の腕に抱きつくようにして歩き出す。

「……すっぴんで来たの」

「ん?」

「こういうわたしも見てほしいから」

「うん。いいんじゃない」

「あ、こっち曲がるの」

もうほとんど真っ暗だ。後ろからスカイツリーのライトアップが道をぼんやりと照らしてくれる。

「地図で見たけど、このへん、すごくお寺が多いね」

「うん。お寺だらけ。うちも東本願寺のすぐそばよ」

「いいところだね。雷門は近いし。自分で探して見つけたの?」

「うん。でも特に選んだわけじゃなくて、何となく決めちゃったの。あ、ここです」

エレベーターで8階まで。防犯カメラに映されるのもかまわず、そこで口づけを交わした。寒さから、気分がだんだんと甘さのほうに移っていく。

 

「わあ、きれいだなあ。築何年?」

「10年かな」

いつかのエリと同じことを聞かれたな、と思ったが、

「まるで新築みたいだね。ヘンな話、これだと立地もいいし、駅近だし、相当高く売れるよ」

そうか、佑介さんは不動産屋さんだった。そこに目が行くのは当然だ。

でも、考えてみると、ここを売るというのは、場合によっては、意外と現実的な話になりつつあるのだ。佑介さんはそんなことを考えて言ったのではないだろうけれど。

「あ、これがおととい活けたやつだね! うーん、すごい! 可愛くて、すきっとしてて、しかも力強くて、うまく言えないけど、すごいよ」

「ありがとう。どうもありがとう。二つのバラがわたしたちのつもり」

わたしたちは、抱き合いながら、しばらく「作品」の前に立っていた。うれしかった。すごくうれしかった。

 

シャンパンとケーキで型どおりにお祝いした。わたしの立てたローソクは二本。佑介さんはわざと力を込めて吹き消した。

猫印のバッグを渡すと、佑介さんはとても喜んで、「YUSUKE」の文字をゆっくり撫でた。

「すぐ食事にするから、ケーキは食後に食べましょうね」

「いろいろ、すまないね。手伝うよ」

「だいじょぶよ。もうだいたいできてるの」

まずサラダとカルパッチョを並べる。

煮物やなめこ汁の食材も調味料も下準備してあるので、火にかけるだけ。

炊き込みご飯はスイッチ・オンでOKだから、頃合いを見計らって。

カーテンの隙間から外を見ていた彼がテーブルに戻ったのをきっかけに、ビールから始めた。

「景色もいいねえ。なだれ込みたくなっちゃった」

「まあ。ホホホ……。でも狭いわ」

「そうだ。今度僕のうちにも来てくれる? こんなきれいにしてるれいちゃんが見たら汚くてびっくりすると思うけど、きちんと片付けておきますから」

「行きたいわ。今年中に行きたい」

佑介さんはさっそく古鞄から手帳を取り出して、

「うーん、クリスマスに、と言いたいところだけど、この辺はちょっと厳しいな。28日なら、仕事納めで午前中で終わるから、それでもいい?」

「いいわよ。私は28日はもうお休み。そしたら、あの幻のポトフ、作ってあげるね。材料知らせるから、買っといてね」

「わかった。それってすごくいいね。幻のポトフか。そういえばあのメールは切なかったな。あれ読んだとき、すごく一緒にいたいって思いがこみ上げてきて」

言いながら佑介さんは、サラダとカルパッチョにお箸をつけた。味付けがすごくいいとほめてくれた。

「この味がいいねと君が言ったから11日はゆうくん記念日」

「ハハ……その『ゆうくん』のところを○○としておいて、何か二人にとって大事なことを表す言葉を入れた方がいいかも」

そういうと同時に、彼の表情がちょっと真剣になった。思わず言ってしまってからそうなったという感じだった。わたしもそれを聞いて、真剣な気分になった。

佑介さんは、わたしのグラスにビールを継ぎ足した。わたしも彼に注いであげた。

あんまり真剣になると、楽しさが半減する。いまはちょっと待とう。でも今日か明日かで、私の気持ちを必ず、しっかりと話す。

そう決めてからすぐ立ち上がり、キッチンに入って炊飯器をオンにした。それから煮物を作った。

煮物を大きな鉢に移して、そろいの取り皿で食べた。

「うまい! お料理屋さんみたい」

「よかった。厚揚げがおいしいでしょ。これ、四谷三丁目に山形料理の店があって、そこの鍋がおいしいんで、似てるのをネットのレシピで探したのよ」

半澤玲子ⅩⅣの3

 

待ち遠しい11日がなかなか来なかった。1週間をこんなに長く感じたことはなかった。

もう真剣に取り組む気のなくなっているITEMを、それでも勤めている以上はマスターしなくてはならない。7日が刻限だと言われていたので、もう少しの辛抱、と思って、通常業務の合間を縫って修練に励んだ。5,6,7の三日間残業し、何とか使えるまでに習得できた。

 

5日にボーナスが出た。65万円。

 

8日の土曜日に浅草の老舗・猫印鞄製作所まで出かけて、幌布製の鞄を、プレゼント用に買った。大きさと色、どれにしようかだいぶ迷ったけれど、彼の好み、けっこうシブいから、モスグリーンの、やや小さめのにした。革製のタグに「YUSUKE」と名前を入れてもらった。

 

9日は、部屋を念入りに片づけ、11日の献立を考えて買い物に出た。

午後、注文してあった花材が届いたので、さっそく活けることにした。

左に剣山を置いて、いちばん見事な鳴子ユリを思い切り右前にふり出した。根元部分、大きなバラを客枝としてぐっと前方に。葉は邪魔なので少しだけ残して切り落とす。その左側に鳴子ユリを小さめに切り、バランスをとる。これで基本はできたけれど、真ん中の空いた部分を埋めるために、中くらいの鳴子ユリを主枝とは反対に後ろに傾けて挿す。

ピンクのバラは二つ欲しい。佑介さんとわたし、と思い入れをしながら、小さいほうのバラを、少し高さを下げて客枝の斜め後ろに。二つのバラと中間枝の鳴子ユリの周りをカスミソウで飾る。

うーん。こんなものか。われながらうまくできたかな。主枝の鳴子ユリの、右にたわんで力強く描く曲線が美しい。もしかして、わたしたちのこれから進んでいく道、なあんて、勝手な思い入れがさらに広がってしまった。

写真は撮ったけれど、写メは送らなかった。

 

夜、携帯が鳴った。佑介さんだ。

「はい」

「れいちゃん、元気?」

懐かしい声!

「元気じゃありません。ゆうくんに会えなかったから」

「ハハ……連絡もしなくてごめん。いろいろあったもんで」

「え、だいじょうぶ?」

「だいじょぶ、だいじょぶ。単に忙しかっただけ。そちらは?」

「私も週末にかけて忙しかった。例の新システムをマスターするんで、3日連続残業だったの」

「そう、それはたいへんだったね。疲れてない?」

「あ、昨日今日と休んだから、全然平気よ」

「よかった。それであさってだけどね。5時前にはそちらに行けそうだよ」

「え? お仕事、いいの?」

「うん。一段落ついてるし、適当言って、早退する」

「まあ、うれしい。早く会えるわね。そしたら……4時50分に田原町の改札でいい? 浅草寄りとホームの真ん中あたりと二つあるけど、真ん中のほう。そこで待ってる」

「うん。わかった。お酒は僕が買ってくから」

「そうそう、シャンパンとビールはあるんだけど、お酒、何買っていいかわからないから、どうしようかなって思ってたの」

「任せろ」

マッチョな口調を気取って彼が言った。あんまり似合わない。

「さっきね、お花活けてたの。でも写メ送らないね。じかに見てほしいから。思いを込めたんだぞー」

「わあ、そりゃ楽しみだな。ふたりで見れるんだね」

「そう。見てくれる人がいるのといないのとじゃ、全然気合いが違うわね」

「そうだろうね。半澤玲子個展だね」

「でも一点だけだわ。クシュン」

「一点豪華主義。ところで、全然関係ないんだけど、ボーナス出た?」

「出た。5日に。ウチ、早いのよ」

「よかったね。僕んところは明日なんだけどね。今日、電車乗ってたら、動画広告でニュースやるでしょ。あれで、え?って思わせるようなこと言ってるんだよ」

「なに?」

「今年のボーナスが平均90万円超で記録更新だって。そんな、と思ってもいちど回ってきたの見ると、それって経日連が発表した、たった72社の平均なんだ。要するに、超一流企業だね。そういうの見逃しちゃうんだよね。なんかすごく景気が回復してるみたいな印象与えるんだ」

「ああ、ほんとね。それって国経ニュースじゃないの。わたしなんかもああいうのにはウッソーて感じることがよくあるわ」

「だよね。それで、そんなはずねえだろって思って、家帰ってきてネットで調べてみたんだ。」

「うんうん。さすがゆうくん」

「そしたら、別の調査結果が出てきてね。ある調査会社が20代から40代の会社員241名にアンケートした結果みたら、全然違うんだよ。ここにメモってあるんだけどね」

それから彼は、ゆっくりゆっく数字を並べていった。わたしも聞きながら、思わず傍らのメモ用紙に、それらの数字を走り書きした。数字の周りをボールペンでぐるぐる囲みながら。

「えーと、56%が『支給なし』で、出ない会社のほうが多い。それで『支給あり』の平均が42万円。しかも企業規模が下がるにしたがって、支給額が下がっていくんだ。1000人以上だと、44万円、300人未満だと30万円、ていうふうにね」

「まあ。マスコミが流してる情報と全然違うのね。もし零細企業まで調べたら、もっと悪くなるでしょうね」

「そう。それに非正規社員にはもともとボーナスなんて出ないしね」

「なんでそういうデタラメ情報流すのかしらね。ムカつくわね」

「結局、政府が『いざなぎ越え』とか何とか言って、景気が回復してるって思わせようとしてるのに、御用マスコミがひたすら追随してるんだよね。れいちゃんと初めて会った時に消費増税のインチキについて話したと思うけど、あれとおんなじだよ」

「ああ、そうだった。ゆうくんとこんなふうになれたんで、仕合せのあまり、つい忘れてました」

「ハハ……それはそれでいいことだ。暗くて固い話になっちゃって、ごめん」

「ううん、そんなことない。大事なことよ。だって大部分の人は中小零細企業でこき使われてるわけでしょう。経営者だってだいたいがすごく苦労してるわよね。そういうことをちゃんと報道しないマスコミって何なのかしらね」

「はっきり言って腐ってるね」

「わたしんところは一応大企業だけど、仕事で、下請けさんとか中小企業さんと関わることが多いのね。そういう人たちのお金のやりくりなんか見てるから、苦労がとてもよくわかる。政府やマスコミって、そういうことに想像力はたらかせないのね……中小企業って、どれくらいあるんだっけ」

「たしか企業数で99%以上、従業員数で6割以上だったね」

「日本人の大きな部分がそれに支えられてるわけよね。そういうのを大切にしない政府ってダメね。なんでこうなっちゃうのかしら」

「その通りだね。簡単に言うと、グローバリズムがそうさせてるんだと思う。そのへんも今度時間あるとき話そう。僕も勉強しとくよ。」

「わたしも勉強するわ。……でもとりあえず、あさってと、しあさっては楽しみましょうね」

「そうだね。とても楽しみにしてる。今すぐにでも飛んでいきたいで~す」

「だめよ。玲子亭は『準備中』で~す」

「わかりました。じゃ、あさって、お世話になります。4時50分、田原町ホーム真ん中の改札で」

「待ってるね。もっと話してたいけど、じゃね。ゆうくん、大好き。チュッ」

「れいちゃん、大好き。チュッ」

半澤玲子ⅩⅣの2

 

4日、この前と同じホテルで、佑介さんと会った。

12月に入ったというのに、異様に暑い日だった。どんより曇っていて夜になってからも暑さがおさまらなかった。適度にエアコンの効いた室内がありがたかった。

佑介さんは、この前と同じように優しくしてくれた。わたしはだんだん激しく感じるようになってくる自分に気づいた。

「火がついた」とはこういうのを言うのだろうか。毎日でもしたい、と思った。

終わってから、素裸のまま、彼の肩に首をもたせかけて、指と指をからませていると、彼が言った。

「こないだの電話の声、すごくセクシーだったよ。興奮しちゃった」

「まあ。フフフ。あれは友だちの家のトイレに入ってたから内緒話みたいになっちゃったのよ」

「ハハ……そのせいもあったかもね。友だちって、その人とよく会うの?」

「うん。大学時代にバイトで知り合ってから、ずっと親友なの。韮崎絵理っていって、すごく頭がいい人なのよ。わたしたちどうしでは、エリ、レイって呼び合ってるの。今度紹介するね」

「それはぜひ」

「そうそう、婚活サイトへ登録するのも彼女が勧めてくれたのよ」

「そうなんだ。じゃ、僕たちを結び付けてくれた女神様だね。そうすると彼女自身も、サイトで出会って成功したってこと?」

わたしは、いまエリが陥っている複雑な境遇を、彼に話そうかどうしようか、一瞬迷った。しかし無二の親友の苦境を佑介さんに話さないなんて、そんなの……何というか、水臭い。

「うん。一応そうなんだけど、それが、相手に奥さんがいたことがわかって、奥さんにもばれちゃって、いまたいへんなのよ。ちょうど電話くれた時、その話をしてたの」

佑介さんは、妻帯者でありながらサイトに登録した相手の不実をなじるかと思った。ところが彼はしばらく黙ったままだった。それから、

「そうか。それはたいへんだな」とため息を漏らすように言った。

「相手がウソの登録をしていたことはどう思う?」

これも佑介さんはすぐには答えなかった。半身を起してサイドテーブルの水に手を伸ばした。ごくりとのみこむとき、のどぼとけが動くのが見えた。わたしの問いかけを消化するのに手間取っているみたいだった。まだ黙っていた。

それから慎重に言葉を出し始めた。

「……男の勝手な言い分かもしれないけど……」

「うん?」

「夫婦でも愛情が冷めきってるってことはあるよね」

「うん」

「そしたら、よけい孤独を感じて、そういうことしたくなるってことは……いいとは言わないけど……ある、と思う」

「うん」

「……でもその人がそういう状態だったかどうかは、わからない」

わたしがエリの悲しみに接触して、感じたこととほぼ同じだ。佑介さんはまた少し間をおいてから言った。

「絵理さんは、その人を愛してるの?」

「うん。愛してる、と思う」

「それで、れいちゃんは、絵理さんになんて言ってあげたの」

「応援するから闘うべきだって。諦めると決めた場合でもサポートするって」

またしばらく間があった。

「……いいことを言ってあげたね」

わたしは天井を見上げた。灯りを落とした簡素なシャンデリアのランプたちが、こんな会話をしているわたしたちを静かに見守っていた。裁いているのかもしれなかった。

でも、ゆっくり言葉を選びながら答えている佑介さんを、たぶん裁くことはできないだろう。

きっとこの人にも複雑な過去があるんだろうな、と思ったが、それは聞かないことにした。そのほうがわたしたちにとって仕合せが持続するからだ。

「あなたの過去など 知りたくないの」というあの歌が、一瞬だけれど頭の中で鳴り響いた。

 

「エリと私との関係って、恥ずかしいんだけど、ちょっとレズみたいなのよね。でも誤解しないでね」

「ハハ……誤解なんかしないよ。仲のいい女どうしって、そういうところあるよね」

それから佑介さんはLGBTやセクハラやポリコレのことを話し始めた。わたしも関心を持っていたので、彼の考えを聞きたかった。だいたい、次のようなことを言った、と思う。

なぜLGBTが「差別」問題とか「人権」問題としてことさら取り上げられるのか。現代人は、ほとんどの人が生きるよりどころをなくしているので、自分の存在を確認するために、「人道的、政治的な正しさ」という絶対的な基準を無理に打ち立てて、それによりかかって生の不安を解消する。そしてその基準に少しでも引っかかる言動に「差別主義」のレッテルを貼って糾弾する。そのことで、自分は「正しい人だ」という確信が得られる。でも裏を返せば、それは、自分がリア充の実感を持てないからではないか。つまりどこか関係の空虚を生きている証拠でもあるような気がする……。

なるほど、と思った。

もしわたしたちが、ふつうの男や女として、また仕事に意欲を持って打ち込む人間として、充実した日々を生きていれば、自分とは種族の違う人たちのことなど、大して気にならないはずだ。たとえそういう人が身近にいたからって、それがどうしたの、で済ませられるはずだ――佑介さんは、たぶんそういうことが言いたかったのだと思う。

わたしたちは、充実した日々を生きているか?――もちろん生きている! だってこうして愛し合っているんだもの。

でも24時間充実しているかと言えば、そんなことはない。味気ない仕事の時間でほとんどが満たされているのだから。それは忙しい佑介さんなんか、わたし以上にそうだろう。

また、これからもずっと充実した日々を送れるかと言えば、これもそうとは限らない。どうしたらこの仕合せをできるだけ長く持たせられるかを、ふたりしてしっかり考えていかなくてはならない。

半澤玲子ⅩⅣの1

 

                                    2018年12月15日(土)

 

さわやかに晴れた冬らしい朝だ。

佑介さんのために活けた花が、ガラス越しの日を浴びて、輪郭鮮やかに見える。

ピンクのバラとカスミソウと鳴子ユリ。

活けてからもう何日も経っているのに、不思議と衰えを見せない。全体がわたしの今の心境とマッチしているように感じられた。きっと佑介さんが息吹を吹き込んでくれたんだわ。

今年もあと半月。

テレビでは今年の十大ニュースとか、流行語大賞とかやってるけど、そんなこととは関係なしに、わたしにとって、夏の終わりから今日まで、じつにいろんなことがあった。

もちろん、佑介さんとなさぬ仲になったことがダントツ大きいけれど、それ以外でも、エリの事件、さくらちゃんの婚活、中田さんのこと、岩倉さんのこと。安岡新課長の就任と、勤務に対するわたしの心境の変化。

佑介さんとのこれからがどうなろうとも、わたしは年度末の人事異動の際に退職することを決意した。年が明けたら内示の時期が来るので、早めに退職願いを出す。来年四月から大原流師範獲得に向けて邁進あるのみ!

そう決めると、心が今日の空のようにすっきりした。

 

でも悲しいニュースもあった。

おととい、さくらちゃんとお昼ご飯を食べた時、彼女から、例の話が破談になったことを聞かされた。それが、ちょうどわたしが休暇を取っていた11日の晩だという。佑介さんとわたしが幸福感に浸っていたころ、彼女は失意を味わっていたのだった。

何かが行き違って人生の明暗を分ける。

それはよくあることかもしれないけれど、あんなにわたしのことを慕ってくれている部下がそういうことになるなんて、他人事とは思えなかった。

「向こうは嫁として入ってもらうのが絶対条件みたいで、いえ、彼自身は別に親の言いなりになるような気弱な人じゃないんです。でもやっぱりお店を閉めるわけにはいかないでしょう。だから、すごくすまながってましたけどね。わたし、母に言われたんです。あんた、醤油屋の女房として一生やってく覚悟あるの、これから老親介護だってあるのよって。結局、娘に苦労させたくない母の言うことももっともだし、それで、この前、話し合って、なかったことにしようって」

さくらちゃんは下を向いて、きれいにネイリングした両手の爪をこすり合わせていた。

「お母さんが反対してるって言ったの?」

「……ええ。言いたくなかったんですけどね。やっぱり言っちゃいました」

それから彼女は、顔を上げてきっぱりとした表情を見せた。

「もちろん、わたしが自分で決めたことだとも言いました」

「彼はどうしたの。素直に受け入れた?」

「優しい人だから……わたしが言い出す前から気づいてたみたいで……そう、わかったって一言だけ。結局わたしに根性がないんですよね」

「でもそれは……なかなか難しい問題よね。さくらちゃんだけの気持ちでどうなるものでもないわ」

彼女の目が涙で滲んでいた。ぐっと歯を食いしばっているようだった。

 

わたしは、うまく慰める言葉がなかなか見つからなかった。

美人、とは言えないけど、こんなに可愛くて明るくて人柄がいい彼女が、私が聞いただけでも三度も出会いを逃している。

「それは残念だったわねえ。せっかくいい線行ってたのにねえ」

「でも、いいんです。二人ともよく事情を理解しあって別れたんで、傷つけあったわけじゃないんですから」

さすがにその声は沈んでいた。

しかし考えてみると、その相手も、かわいそうだなと思った。家業に縛られて、なかなか出会いの機会がない。そこにさくらちゃんみたいな素敵な女性があらわれたのに、周りの事情で断念しなくてはならなかったのだから。

「さくらちゃん」

「はい」

「いい男はほかにもいっぱいいるわよ。まだまだこれからよ」

結局、こんな月並みなことしか言えなかった。

彼女は明るい調子に戻って答えた。

「はい、そう思ってます。婚活サイトはもうやめて、別の方法で好きな人探そうって。半澤先輩みたいに」

「半澤先輩みたいに」と言われて、穴があったら入りたいような気持ちになった。これで「わたしも婚活サイトで出会ったのよ」とは口が裂けても言えなくなってしまった。

「わたしなんか、参考にしない方がいいわよ。大したことないもの」と答えるのがやっとだった。

さくらちゃんは何か聞き出そうとするふうを見せたが、わたしは「そろそろ戻りましょ」と言って逃げた。

じつは、「大したことある」のだ。さくらちゃんは直感的にそれを察しているのだろう。隠そうとしてもやっぱり自分の幸せそうな雰囲気が出てしまうのだろうか。

複雑な気持ちのまま、立ち上がった。

さくらちゃんが食べ残したパスタのお皿が気になった。

堤佑介ⅩⅢの4

 

帰宅すると、とたんにれいちゃんのことが恋しくなった。これまでそれほどには感じなかった独り暮らしの寂しさが、ひときわ身に染みてくる。でもこれは仕方ないことだと自分に言い聞かせた。

冷凍ご飯をチンして、買ってきた刺身とポテトサラダで侘しい夕食をとった。

この前から、出羽菊の無濾過生絞りというやつの一升瓶を冷蔵庫に入れている。それをぐい飲みになみなみと注いだ。

お米の香りが何とも言えない。せめてもの慰みにと、ちびりちびりとやりながら、パールマンとアシュケナージの「春」を聴いた。だが聴くほどに、恋しさが募ってきた。

れいちゃんにマズルカを送った日の翌日、そして彼女と結ばれる日の前日、彼女もこれを聴いたという。

これは呼吸がぴったり合った女と男の愛の対話。

トルストイは「クロイツェル」をもとに、たぶん同じ形式を読み取って、あの小説を書いたけれど、「春」のほうがその趣が強いと感じる。

たまらなくなって、れいちゃんに電話した。

友だちの家にいると言う。トイレの中だから大丈夫だそうだ。急いで会う約束を取り付けた。あさって、また会える!

声をひそめて「ゆうくん、大好き」とささやいたのが、とてもセクシーに聞こえた。

 

少し落ち着いてきてから、二人は今後どうなっていくのだろう、という想念がふいにやってきた。

どうなっていくのだろう、というより、どうすればこのすてきな関係を長く続けられるのか、と考える方が大事だ、と、すぐ思い直した。

私は、若い人たちと違って、それなりに分別をわきまえているはずの年齢だ。だから、こんな昂揚した甘い気分が永続するはずがないことを知っている。

れいちゃんもそれは同じに違いない。彼女もバツイチ、私もバツイチ。

しかも私の場合、不倫した上に、その関係でも失敗している。

あの失敗は、やはり一つ屋根の下で暮らすということがもたらした、どうしようもない日常生活での齟齬が露出したせいだろう。

依子との結婚生活では、子育てを仲立ちとした強力な絆があった。落語の「子別れ」のように、まさに「子は鎹(かすがい)」だった。

もちろん養育方針や今後の生活方針を巡ってしょっちゅう喧嘩した。しかしその喧嘩が、お互いの気持ちを破綻に導くようなことはけっしてなかった。

依子は賢くて冷静な女だった。私は彼女に生活の知恵を何度も教えられた気がする。だが、そのことがかえって二人の関係の質を乾いたものにしていったのだろう。私は無意識に飽き足りないものを募らせるようになっていた。

やがて不倫相手の芙由美に出会った。インテリアデザインの講習会でだった。若くて魅力的だった。私の中の「男」が、眠りから目覚めるように、にわかに甦った。急速に溺れていった。

依子と別れてからは、そういうことをした以上、芙由美と一緒に暮らすことが責任を果たすことであるかのように思った。もちろん、あれだけ燃えたのだから、ただ、責任を果たすために同棲したわけではない。そのまま直行で一緒に暮らすことがきわめて自然な成り行きだ、と感じていた。

だが現実はそう甘くはなかった。どちらともなく傷つけあうようになった。この経験で、私は恋愛と毎日の生活を共にすることとは、まったく違うという事実を手ひどく味わった。

これは世間でさんざん言われてきたことだ。しかし愚かなことに、自分で味わってみるまでは、それがわからなかった。

 

そしていま、私は恋愛のさなかにいる。過去の痛い経験から何かを学び取らなくてはいけない。

私はいま、彼女とずっと一緒にいたいと強く思っている。一緒にいたいという私の気持ちの延長上には、結婚という文字が浮かんだり消えたりしている。

彼女と結婚したいか、と自問する。そして「したい」と自答する。でも結婚は二人の愛情を色あせさせる早道だということも経験的に知っている。

おまけに、二人の間に子どもを作ることはもうできない。「鎹」は生まれない。では、どういうかかわりの仕方を続けることが、いちばん愛情を色あせさせない賢い方法なのだろうか。

同居しないで、時々会ってセックスしたり、食事したり、映画を見たり、語り合ったりする?  それではきっとすぐ飽きてしまうだろうし、一緒にいたいという欲望を満たせない。

どちらかの目移りを防ぐ力にもならない。それに、これは男である自分のほうに起きやすいなとも思った。

また、相手が不在の時に不安が増大して、あらぬ嫉妬心を抱いたりもするだろう。

 

前にも考えたことだけれど、いま日本では、どんどん晩婚化が進んでいる。それは経済が主な理由だが、主観的には、自由を束縛されたくないという理由も大きいのだろう。

また、男女双方の理想が高くなってしまって、なかなか出会いが成立しない。恋愛の自由市場が成立してからというもの、貧富の差の拡大と同じように、モテるやつはますますモテ、モテないやつはますますモテない。

こんなに独身者が多くなったのでは、もう昔のような、恋愛したら結婚して家族を作るもの、という規範は一般性を失っている。

では逆に、男女とも自立した生活を送って、個々ばらばらに生きていけばよいのかと言えば、それもまた心を満たさないだろう。

れいちゃんと私という「この二人」については、たぶん、その中間を選ぶようにすればいいのだと思う。

考えてみると、それは不可能ではない。彼女は活け花を本格的に習って、武蔵野で、お母さんの跡を継ぐ。私は当分、いまの仕事を続けて、この自宅と武蔵野をしょっちゅう行き来する。れいちゃんも私の自宅と実家を往復する。

これは一種の「通い婚」だな、と思いついて、私は苦笑した。ひょっとして、こんな大昔の結婚のかたちが、これから男女の理想形の一つになってくるのかもしれない。女性のほうも通ってくるというところが昔と違うけれど。

でも、と私は思い当たった。こんなことができるのは、ずいぶん恵まれていることなのだ。

家が二軒あって、当分お金に困っていないし、子どもの教育の問題もない。私について言えば、自分の老親を介護することからも免れている。れいちゃんのお母さんにはまだ会ったことがないけれど、私が養子みたいになって、ゆくゆく面倒を見てあげることだってできる。

そう思いつくと、なんだか楽しいような申し訳ないような、複雑な気分になってきた。

いずれにしても、二人の将来をどうするか。これはぜひ近いうちに彼女と相談することにしよう。

堤 佑介ⅩⅢの3

 

翌日、つまり昨日12月1日、ホテルからそのままオフィスに出向いた。

例の土地付き古家を売りたいと言っていた井上さんから連絡があった。やっぱり古家は解体して更地で売りに出したいというのだ。それもできるだけ早くとせかす。

気まぐれな人だと思った。すでに2800万で広告を打ってしまっている。それからまだ5日しか経っていない。

八木沢に聞くと、引きは三、四人はあったらしいが、いずれも反応は芳しくない。1か月くらい待ってもいいと思うのだが、まあ、お客さんというのはそんなものだ。

解体工事屋さんに解体費用を査定してもらわなくてはならないから、その交渉をするために、3日後に現地に三者が集まることにした。これは八木沢に頼もう。

 

午後、本部の島崎から電話があった。「下町コンセプト」のために、前園君と、もう一人、若手の派遣社員を明日送ってくれると言う。その派遣社員が、そのままこちらに居つくことになる。とりあえず助かった。

「大田区の都市計画課へのアプローチの具合はどうなってる?」

「それは先日、部下に行ってもらったんだけどね。けんもほろろというわけじゃないけど、どうも苦戦しそうだな。とにかくいろんな提案を持ち込んでくる連中が多いし、こっちは何しろ区外で中小だろ。堤の心配が当たってたよ。今度おれ自身が行って、直接話してくる。場合によっちゃあ、堤につきあってもらうかもしれない」

正直なところ、望み薄な仕事につきあうのは気乗りがしなかった。でも嫌とは言えない。

「要するに、個別の開発云々に許可が下りるかどうかといった問題じゃなくて、このコンセプトに将来性があることを説得して、周辺地域に広げられる可能性を探るってことだよね」

「理想的にはそういうことだけどな。難しいから、計画の将来性を宣伝して、せいぜい補助金

のおこぼれにでも与れればいいと思ってる。もともとそういう方向で検討してるんだ」

それも難しいんじゃないかと内心思った。

「とにかく、何とか役所とのパイプができないかと思ってるんだ」

「お役所は固いからな。大田区の都市計画の現状は調査済みなの」

「それは概略調べてある。でもどれも具体化の目途はあんまり立ってないみたいだ。何しろ持ち出す理由が必ず財政難だからな」

「それだったら、かえって食い込む余地はあるな。PFI方式にこぎつけられるかもしれない」

PFIは官庁の財政難を理由に、最近よくとられる手法だ。所有権を保持したまま、運営を民間に任せる。そこには規制緩和を強引に推し進めようとする竹山平助ら構造改革派のイデオロギーも絡んでいたので、それに便乗することは本意ではなかった。しかし背に腹は代えられない。

「原則的にはその通りなんだけど、やっぱりメジャーでないと信用が得にくいよ」

「だったら民間のメジャーにも渡りをつける必要があるんじゃないか。あの地区は、やっぱり東海不動産?」

「うん。そうだな。東海の下請けで張り付くって手もある。いや、ありがとう。堤、今すぐじゃないけど、何とか力を貸してくれよ」

「わかった、わかった。できることはする」

今日の島崎は、友好的だった。やっぱり壁にぶつかって困っているんだろう。ただ、二つばかり心に引っかかった。

最初に役所に渡りをつけるのに、部下を派遣した、というのはまずい。

若手かベテランか知らないが、名前も知らない不動産業者の、しかも地位の低い者が尋ねたって、まともに相手にしてくれないだろう。ここは、島崎自身か、本当なら、さらに上の部長クラスが行くべきだったのだ。

しかも一度訪ねてきた者の陳情を、向こうは覚えているかもしれない。そうすると、この前却下したのにまた来たのか、しつこいな、と嫌な顔をされる可能性がある。

もう一つは、やはり、島崎が援助を求めてきたことに対する、私自身の負担感だ。

彼の気持ちはわかるが、私もまた、少し疲れている。正直なところ、行政と渡り合って連携を勝ち取るとか、補助金を引き出すなどの、成功の望みが少ない試みに情熱を燃やす気になれない。

本部の領分は、本部でこなしてもらうのが筋というものではないだろうか。その線は別動隊ですでに進行中だと説明していたのではなかったか。

とはいえ、私も頼まれると断れない性分である。役所との交渉はちょっと願い下げだが、自分で言いだした東海不動産と渡りをつけることなら、やってもいいかなと思った。

いずれにしてもこのプロジェクトは、踏み出してしまったものの、前途多難だ。いささか気が重くなった。

 

そして今日、鹿野さんの引っ越しが早速行われた。本田に始めと終わりに確認に行ってもらった。報告によれば、鹿野さんは結局のところ、すごく喜んでいるとのことだった。

さいわい、「お店」を経営しているという笹森カップルは、昨日から家を空けているらしく、シャッターがしまっていた。業者が外階段伝いに荷物を運ぶのを、陳さんの子どもが面白そうに見ていたという。

西山さんに報告すると、後日、空室の確認に行くとのことだった。あとは、賃貸契約書の書き換えが残っているばかりだ。やれやれ、である。

堤 佑介ⅩⅢの2

 

改札口の向こう、左手の片隅にあのライトブルーのコートがすぐ目に入った。にっこり笑って小刻みに手を振っている。

帰りの通勤客でごった返している中で、私は急いで近づくと、思わず彼女を抱きかかえた。それから、チュッ、チュッ、チュッと3回キスした。

彼女も自分のほうからためらいなく応える。気持ちが同じだと、どうしてこんなにタイミングが合うのだろう、と一瞬、不思議に思った。

レストランを予約、と玲子さんには言っておいたけれど、じつは上階のホテルの一室も予約してあった。そのことはたぶんわかっているだろうな、と思った。

少し不安がないわけではなかった。でも、もし抵抗感を示すようだったら、そのときはすぐ彼女の思いを受け入れることにしよう。

そのホテルまでの道を、ぎゅっと手を握りながら歩いた。私に肩をすり寄せながら、「きつくて痛―い」と彼女は甘えた声を出した。

食事をしながら、音楽の話になった。

マズルカを贈ってから、どんな曲を聴いたのか尋ねてみたら、私の好きな曲とほとんど一致していた。特に「春」を挙げたのには、季節外れではあるけれど、二人の恋の気分を表現してくれているようで、とてもうれしくなった。

「部屋が取ってあるんだ」と遠慮がちに言った時、彼女は少し顔をうつむけて、真面目にうなずいた。

 

ドアを閉めるなり、私たちは余計な持ち物をソファに放り出して、固く抱きついた。私は舌で彼女の唇を開いた。彼女はそれをそのまま受け入れた。

どれくらいそうしていただろう。永遠に続いてもいい、と思った。

「シャワー、浴びてくる」と彼女がかすれ声で言った。

待ち遠しかったが、念入りに整えているのだろうなと想像して、少しわくわくする気分にもなった。

私は入れ替わりに洗面室に入った。女性向きに、なかなか豪華な造りになっていた。彼女のなんともいえない残り香が私の気持ちを高揚させた。

下着のままシャワールームから出てくると、彼女はベッドの脇で、ガウンを羽織った背を向けて、何となくしょんぼりしたような様子だった。私はそっと近づいて、彼女を包み、ガウンを脱がせた。袖を外すときに身をよじらせるしぐさが色っぽかった。

薄紫のセクシーな下着だ。私の興奮は高まった。「すてきだ」と思わず感嘆の声を漏らした。ブラジャーをゆっくりはずして床に落としてから、両の乳房をつかんだ。大きすぎず小さすぎず、とても形のいい乳房だった。

正夢になった。

彼女はこちらに首をひねって、私を見つめた。私はその官能的な唇にもう一度自分の唇を合わせた。そのまま、うなじや肩にキスを浴びせ、右手でゆっくりと肌を撫でた。その手を下腹部に滑らせ、ショーツの中に入れていった。濡れていた。

「あ……」と小さな声が漏れた。同時に彼女の腰が折れ曲がるように傾いた。密着させた私のからだも折れ曲がった。そのままベッドに倒れ込んだ。

 

ほの暗い灯りの中で、私たちは裸の肌を寄せ合っていた。青春時代に返ったようだ、と思った。それからいろいろな感慨が頭の中を巡った。

「不安だったの……ありがとう」

彼女が言った。

私も不安だったのだ。彼女のそれほどではないにしても。

日常の忙しさの中にだんだんと入り込んできた、大切な非日常。どうやったら、うまく運んでいけるか。彼女の心を逃がさないようにできるだろうか。あまり頻繁にしつこくしてはいけないし、でも、不必要に我慢するのもいけない……そんなことに心を労してきた。

でも、とりあえずこぎつけた。これからも、違った形で心を労さなくてはならないだろう。

「ねえ」

「なあに」

「何て呼ばれたい?」

「そうね……佑介さんのお好みのままに」

「れいちゃん、でいい?」

「……うれしい」

「れいちゃん」

「はい」

私は彼女の耳たぶを軽く口に含んだ。

「あのね、れいちゃん」

「なあに」

「さっき、駅前でキスしたじゃない」

「うん」

「あのとき、ちょっと不思議に感じたことがあって」

「なに?」

れいちゃんはおもしろそうに、からだをこちらに向けてきた。

「どうして、気持ちが合ってると、チュッ、チュッ、チュッてタイミングがぴったり合うのかなって」

彼女はそれを聞いて、ウフフフフ、っと笑いだし、しばらく笑いが止まらないようだった。

「あれ、そんなにおかしい?」

「だって、いかにも佑介さんらしいんだもん。子どもみたい。ウフフフフ……」

「そうか。やっぱりおかしいか。そんなこと気にするのって。でもなぜなんだろう」

「きっと、キューピッドがそうさせてくれるのよ」

「心が通い合うって、からだも通い合うことなんだね」

うん! と言って、れいちゃんは唇を私に近づけた。短いやつの連発。今度もタイミングがぴったり合った。

逆も真なりかな、と思った。心が通い合わなくなったら、からだを接触させるタイミングも合わなくなる? ふたつははっきり分けられないのだろう。

それから彼女は、子どものころ何と呼ばれていたかと尋ね、じぶんも「ゆうくん」と呼んでもいいかと聞いた。そして「ゆうくん」の子どものころの話になった。私は中勘助の『銀の匙』の話をした。

子どものころ虚弱だった中勘助が80歳近くまで生きたこと。私も虚弱だったこと。れいちゃんは、私の腕に縋りついて、ゆうちゃんも長生きしてねとささやき、私のからだ中にキスの雨を降らせた。愛しさが増してきて、欲望が頭をもたげ、再び彼女を抱いた。れいちゃんは声を上げた。そのハスキーな声がずっと耳に残った。

 

そのまま眠るにはまだ早かった。最上階のカフェバーで夜景を楽しみながら一杯やった。その時、彼女が聞いた。

「そうそう、聞くの忘れてたんだけど、お誕生日、いつなの?」

「12月11日」

「あら、もうすぐね」

「れいちゃんは?」

「2月14日。バレンタインデーなの。チョコ贈るね」

「そしたら、僕がチョコもらう代わりに、れいちゃんにプレゼントを贈ろう」

「ありがと。ああ、でもあと2か月で48になっちゃうんだわ」

そう、それは女性にとって大きな問題に違いない。私は慰めの言葉を探した。

「お互い、そういうの、気にしないようにしようよ。気にするなって言っても気になるけどね」

「ほんとね。気にしないための呪文を考えときましょう。……それはそうと、11日って何曜日だっけ。えっと、あ、火曜日よ。翌日お休みでしょう。ねえ、よかったら、わたしの家でお誕生祝いしない?」

「うん。素晴らしいけど、れいちゃんはお勤めで忙しいでしょ」

「大丈夫。火、水と有給取るわ。全然こなしてないのよ」

「ほんとに? じゃ、お言葉に甘えて。仕事早めに終わらせて、すぐ駆けつけるから」

「手料理、張り切るわ」

「ありがとう。田原町だったよね」

「そう。時間がわかったら駅まで迎えに出ます」

女性は、こうと決めると、どんどんことを進めていく。ありがたいことだと思った。

しかしけやきが丘から田原町だと、ふつうに退社したら、けっこう遅くなってしまう。11日は本部に呼ばれたとスタッフにウソをついて、早めにオフィスを出ることにしよう。そう、何があっても。手下の不平を無視するステンカ・ラージン。