半澤玲子ⅩⅤの2

 

17日の昼休み、大原流本部に電話した。母が師匠をしていて、自分にも多少心得があることを話してみた。

電話に出た女性は、上の者に相談してみると言って、電話を替わった。名簿を調べてくれて確認が取れた。いろいろ話をしているうちに、向こうがこちらを信用してくれたようで、それでは初等科を飛ばして本科から受講して下さいということになった。

1月に出す辞職願いが受理されるのが2月になるだろうから、それが済んでから入会手続きをすることにした。

5月に研究会があって、そこで点数がよければ、師範科1期に飛び級も可能ということだった。

やったぞ、がんばるぞ。でもそれからが、いろいろとたいへんだろうな。

このことを夜、佑介さんにメールで知らせた。

彼はお返事メールで、わがことのように喜んでくれた。それから、わたしの母にはお正月にお邪魔してぜひお会いしたい、とも。

わたしは、大晦日をわたしの家で過ごし、翌日一緒に実家まで出かけることにしようと提案した。すぐOKのメール。

 

23日、横浜の真奈美一家の自宅に行って来た。

姪っ子、甥っ子には会いたかった。去年の夏以来だった。ふたりともずいぶん成長していた。特に詩織はもう女の子から思春期少女へと変貌した感じだった。

明滅する可愛いツリーの傍らで食事した。詩織と英太がわたしの送ったプレゼントを持ってきてお礼を言った。

英太にはニッキーのサッカー・ウェアー、詩織はちょっと意外だったが、英文社のシャーロック・ホームズ文庫全集。あまり本に親しむような子ではなかったのだが。

塾の友だちに感化されたのかもしれないし、勉強漬けの毎日から早く抜け出したくて、読み物に飢えてきたのかもしれない。あるいはうがちすぎだが、母親のくびきから脱したいという間接的な反抗のサインか。

少し値が張ったけれど、いずれにしても、けっこうなことだと思った。

真奈美から近況について何か突っ込まれるかと思ったが、それは杞憂だった。彼女自身が、それどころではないという雰囲気なのだ。かえって助かった。

崇さんが帰ってきた。すれ違いと言うのではないけれど、少し話をしてから早めにお暇した。

崇さんは、働き盛り。わたしより一つ下だが、お腹が出てきて堂々としていた。

夜道を歩きながら、こういうのがふつうの仕合せな家庭……と何度もそのイメージを反芻した。

それはそれで結構なことだけれど、どこかに違和感が残った。

詩織が中学生になり高校生になって、英太も中学生になって……つまりあと三、四年でこのイメージは崩れてしまうのではないか。はかないものだ。

 

25、26、27と、残務整理に追われた。

給料日が重なったので、その最終チェックが必要だっただけではなく、残務整理も新システムで行わなくてはならなかった。だからよけい時間がかかってしまった。

26日の夜、佑介さんからメールが入っていた。休日だったので、一生懸命、片付けと掃除と雑巾がけをした、とのこと。

 

ゴミがいっぱい出ました。少しはきれいになったと思います。ポトフの材料は買ったので、28日、もし自分よりも先に来れるようだったら、どうぞ来てね。鍵はメーターボックスの中にかけておくね。メーターの裏側なのでちょっとわかりにくいかも。では楽しみにしています。

 

日岡駅からの地図とストリートビューが添付されていた。掃除で奮闘している佑介さんの姿が目に浮かんだ。思わず笑みがこぼれた。

 

そして今日、28日になった。

昨日、かなり遅くなって疲れていたにもかかわらず、早く目覚めた。

張りつめるような寒さだが、快晴だった。しかしそれは関東だけで、他の地域はだいたい曇り。夜には全国各地で初雪が見られるかもしれないという。

東北や北陸には今年も豪雪の季節がやってくるのだろうか。つくづく南関東に生まれ育ってラッキーだと思った。

ゆうくんの家に早く行ってみたくて、10時少し前に家を出た。日岡は駅前に大学があるので有名な駅だ。

彼のマンションは、大学とは駅の反対側。電車の乗り継ぎがよく、家から1時間ちょっとでたどり着いた。赤いタイル貼りのしゃれた中層マンションだ。4階までエレベーターで昇った。ほんとに鍵がなかなか見つからなかった。そうね。簡単に見つかったらやばいよね。

やっと探り当てて、ドアを開いた。 

わたしのところより、間口が広いタイプで、しかもリビングがかなり大きかった。でも隣のベッドルームとリビングとに本棚やラックがあって、かなりのスペースを占領している。南向きで、日当たりがよかった。斜めに差し込む真昼近い日のために、白木のコーヒーテーブルが反射光でまぶしいほどだった。

エアコンのスイッチを入れた。

ソファの上にノーパソが投げ出してある。ラックにはCDやDVDがかなり並んでいる。間に趣味のいい花器や陶磁器のたぐいがいくつか置かれていた。中の一つ、この花器だったら活け花に使えるなと思った。

ダイニングの壁には、ワイズバッシュのリトグラフ。チェロとバイオリンのデュオの絵だ。

カウンターキッチンなので、これならお互いにお話しができる。田原町のマンションにも愛着はあるけれど、ここもすっきりしていてとても快適だ。早く引っ越してきたいと思った。

ダイニングテーブルの上に書き置きがあった。

 

愛しいれいちゃん、おはよう!💛

よくいらっしゃいました。

昨日までお仕事、お疲れさま。

今日は、3時までには帰れると思います。

僕はオフィスのほうでお昼を済ませるので、

れいちゃんは、冷蔵庫の中のものを適当に食べてください。

なるべく早く帰ります。

鍵は僕も持っているので、内側からかけておいてください。

たいせつなれいちゃんに何かあったら大変!

                          佑介

 

そういえば、彼の文字を見たのは、これが初めてだ。さらさらと流れる、女みたいなきれいな文字だった。最近の男の人には珍しい。活け花を習いたいというのが本気なんだというのがよくわかる気がした。

冷蔵庫を開けてみた。

ほんとに出羽菊の一升瓶が入っていた。いろんな食品が買い込んである。冷凍ご飯も作ってあった。それからシンクの脇にウイスキーが置いてある。昨日も飲んだのかしら。

ベッドルームを覗いてみる。

こちらには、不動産関係の本もあったけれど、多くは文学や哲学の本だった。フェルメール展の時ふたりで買った画集も下のほうに収まっていた。政治や経済の本もあった。『国富と戦争』という分厚い本に、付箋がいっぱい貼ってあった。取り出してみると、随所に線が引いてある。

 

適当に昼食を済ませた。待ち遠しかった。しばらくしてからおもむろに「幻のポトフ」の準備にかかった。

カチャリと音がした。わたしはキッチンから飛び出した。

「お帰りなさい!」

「ただいま!」

抱きついてずーっとチューしていた。二週間ぶりよ、二週間ぶりよ、と心の中で叫んでいた。

「ワイン、赤と白と買ってきたよ」

そういえばゆうちゃんは、重い鞄を肩からかけて、ワインの袋を片手に提げたまま、わたしを抱き締めていたのだ。

「あ、ごめん、ごめん!」

わたしは思わず笑ってしまった。

半澤玲子ⅩⅤの1

                                 2018年12月28日(金)

 

12/16 17:24

💛💛💛恋しい恋しいゆうくんへ💛💛💛

メール、待ち焦がれてました。ありがとう。

わたしもすごく楽しかったです。人生のうちでいま、いちばん仕合せかもしれない。

こんな年になってって、諦めていたのに、素敵なゆうくんに巡り合えて、いまだに信じられない気持ちです。

 

鞄、気に入ってもらえてとてもうれしいです。オフィスで話題になるなんて、わたしもちょっと誇らしい気持ち。噂なんてほっとけ。

 

きのうは、実家の母のところに泊まりました。さっき帰ってきたところです。

みんな打ち明けちゃったよ。母はすごく喜んでた。それで、一度お会いしたいって言ってました。お正月にでもいかがですか。

辞職して華道に打ち込む決心の話もしました。これも母はすんなり認めてくれました。前に話したときは、こっちもぐらついてたから、あんまり本気にしてなかったんだけどね。

 

「即興曲」90と142、ありがとう。母のところから帰ってくる途中、新宿で途中下車してイヤホンを買いました。ほんとにすごくいい音です。

90は帰ってきてすぐ聞きました。全曲、すてきね!

142は、いまちょうど聞き終わったところです。旋律の美しさもさることながら、なんていうか、とても内省的で、こないだ「暗い」なんて言っちゃったけど、孤独に美を追究してるシューベルトの姿が浮かんでくるようです。寄り添ってあげたい感じ。

あ、もちろん、こういう素晴らしい曲を勧めてくれたゆうくんに寄り添うのよ。

 

活け花のほうは、明日にでも大原流の本部に連絡を取って、いろいろ聞いてみるつもりです。母は、分派争いのことなんて遠い昔のことだから、もう関係ないだろうって言ってました。

今度は、傾斜型だけじゃなくて、並ぶ形や開く形など、いろいろ挑戦してみるつもりです。ただ、部屋が狭いのがちょっと気になります。

 

わたしも正直なところ、年末処理で、やっぱりちょっと忙しいので、28日にしてよかったです。でも待ち遠しいなあ。音楽のことやいろんなこと、また教えてくださいね。

 

旅行のお話、うれしい! 金沢でいいですよ。昔行ったことあるけど、もう何年前になるかしら。ついでに加賀も回ってみたいですね。

 

お仕事、たいへんそうだけど、どうぞ無理なさらないでね。

またメールくださいね。待ってま~す。大好きなゆうくん💛

 

佑介さんへのお返事メールを書いた16日の夜、珍しく妹の真奈美から電話があった。何か月ぶりだろう。半年以上?

「ご無沙汰してまーす。姉ちゃん元気だった?」

「ほんとご無沙汰だねー。元気だよ。まあちゃんたちは?」

「うちも元気よ。詩織がもうすぐ受験でしょう。いま追い込みでたいへん」

「あ、そうだったわね。志望校、もう決まってるんでしょ」

「もちろん」

「どこ?」

「エリスが第一志望なんだけどね。ちょっと厳しいかな。それで滑り止めに江南女学院選んだのよ。こないだの模試では、まあ何とかこっちは行けそうで。でもあの子ちょっと気が小さいから本番に弱いんじゃないかしらって心配でね。だから、この冬期講習で猛特訓受けなくちゃなんないの。体力的には大丈夫だと思うんだけどね。でもいま、子ども少なくなってるのに私立は希望者が多くて昔より厳しくなってるのよね。こないだも塾で父母面談があったんだけど、やっぱり先生も詩織の気の小さいとこ見抜いててさ。クラスのランク一つ下げて、そこでいい思いして自信つけるのも一つの手ですね、とか言うのよ。でもさ、そう言われちゃうと、今度は何となくムカついちゃってさ。だいち、詩織になんて言っていいか、傷ついちゃうんじゃないかって、親としてはなかなか難しいところなのよね。それでさ……」

どこかでストップをかけないと、延々と続く。要するにわたしに何の用があって電話して来たんだ。

「詩織ちゃんなら上のクラスでも大丈夫よ。それで、今日は?」

「あ、そうそう。それでね。冬期講習が24日から始まっちゃうのよ。クリスマスイブからよ。クリスマスも返上。だから代わりに23日にウチでパーティやろうって話になって、子どもたちに聞いたら、玲子おばちゃんにも久しぶりに会いたいって言うの。23日、都合どう?」

「来週の日曜日ね。大丈夫よ」

だいたい電話の声が高い。それに「子どもたちに聞いたら」は余計だろう。自分は別に会いたくないんだけど、と白状してるようなものだ。

「じゃ、悪いけど(悪いなんて思ってないんだろう)、ウチに来てくれる? 詩織も、小学校最後のクリスマスだしね。雰囲気盛り上げたくて」

「わかったわ。何時ごろ行けばいい?」

ちょっと冷ややかな調子になってるのが、自分でもわかった。

「そうね。あんまり早くてもなんだから(なんだから、って何よ)……あ、5時くらいでどうかしら」

「わかったわ。崇さんもいるんでしょう?」

「それがゴルフで、帰りが8時くらいになっちゃうっていうのよ。途中から合流ね」

何となく、ご一家の雰囲気がわかるような気がした。そっか、三人だけじゃ寂しいもんね。

「そしたらさ、あらかじめネット通販で、プレゼントが当日時間指定で届くようにしとくからさ、詩織ちゃんと英ちゃんに何が欲しいか聞いてもらって、また連絡くれる? うん、メールで指定してくれるとありがたい」

「わかった。じゃね」と、急に電話を切ろうとする。

こっちで気い遣ってプレゼントの話もちかけてるんだから、ありがとうぐらい言ったらどうなんだ。

それに、たまに自分からかけてきたんだからもう少し愛想ってものがあるだろう。英太のことは一言も言わないし。

しかたなく、「英ちゃんはこの頃どうなの?」とこっちから水を差し向けた。

「英太はサッカーに夢中よ。こないだも地区の大会でミッドフィルダーで出てさ、準決勝まで行ったんだけど、惜しくも敗退。すごく悔しがってたわ。小さいのに負けず嫌いで、よく頑張ってるなあって思う。パパもあいつはなかなか根性あるなって言ってるのね。まあ、勉強のほうはいまいちだけど、そろそろあの子も来年は考えなくちゃ……」

はい、そのへんでいいでしょう。

「あら、まだ3年生でしょ。男の子はわからないわよ。両親が頭いいんだからこれから伸びるわよ」

と、ごまをすっておいて、それ以上は続けさせず、

「あ、お正月はどうするの。お母さんところには行かないの?」

「それが、お母さんにもしばらく会ってないから、行きたいのはやまやまなんだけれど(ほんとにやまやま?)、なにしろ、詩織が大晦日と元旦しか休めないのよ。だからせめて家で過ごそうと思って。姉ちゃん、代わりに行ってあげてくれる?」

「代わりに」はないだろう。でも、そのほうが佑介さんを紹介できるから、わたしとしては好都合だ。

「いいわよ」とあっさり言っておいて、今度はこちらから電話を切った。

みんな、自分の関心事にしか興味を示さない。もっとも人のことは言えないけど。

しかしあのキンキン声でまくしたてるのだけはやめてもらいたい。母親続けてるうちによけいひどくなったような気がする。

兄弟他人の始まり、か。母にもしものことがあったら、何か言いだしそうだな。あ、それよりもわたしが母の跡を継ぐ時点で、きっと何か言ってくるだろう。佑介さんとのことだって、黙ってるわけにいかないし。

今度行ったとき、そんな話が出るかもしれない。向こうから何か聞いてきたら、佑介さんのことは黙っているにしても、この際、辞職して華道一本で行くことに決めたことをはっきり言うことにしようか、どうしようか。やっぱりまだやめておこうか。

でも、こんな取り越し苦労に悩まされるのは、精神衛生上、よくない。活け花で母の跡を継げるかどうかだって、まだわからないんだし。出たとこ勝負で行くことにしよう。

そう思って、この夜は佑介さんの面影を胸に抱いて、早々と寝た。

堤 佑介ⅩⅣの8

 

今日15日、本部の島村から電話があった。

「下町コンセプト」を有効に拡張していくために、東海不動産との連携作戦を模索したいという。部長も賛成している。そのとり持ちをやってくれないかというのだった。

自分が提案した以上、協力を約束せざるを得なかった。

それで、どう渡りをつけるか、作戦を練る必要があった。

けやきが丘に東海不動産の営業所の知り合いがいることはいたが、こいつがちょっと横柄で強引な奴で、あまり接触したくなかった。たぶんあいつに話を持って行っても、乗ってくれないだろう。

そのほかの近隣の営業所にも知り合いが二、三いたが、あまり有力な地位にいない。また大田区の蒲田営業所には知り合いがいなかった。何らかの迂回路を考える必要がある。さてどうするか。これはもう、来年に持ち越しかな。

 「アプローチに慎重を期した方がいいんでね。ちょっと作戦を練ってみるから、実際に動き出すのは年明けからでいいかい」

 「そうだな……うん、それでかまわない。ただ、その作戦が決まったら概略でいいから連絡してくれるか」

 「わかった」

 「じゃな。成功を祈る」

 

 《12/15 23:08

 愛しいれいちゃん♡

 この間はほんとにありがとう。

 お料理もおいしかったし、お話しも楽しかったし、何よりも、これからの二人について建設的な話ができたのがよかったね。

 政治ばかりでなく、音楽についても、熱心に追求しようとしているれいちゃんに、すごく感銘を受けました。

 別れる時の切ない気持ちもしっかり覚えています。

 

 プレゼントの鞄はさっそく使っています。とても使いやすい。

じつは、ウチのスタッフの何人かに、僕に最近「異変」が起きていることを悟られていて、時々冷やかされます。

 鞄も気付かれました。ベテラン女性に、目ざとくタグにネームが入っているのを見つけられ、「どなたのプレゼント?」と聞かれてしまいました。

 金曜日にチーフの岡田という奴と飲んだのですが、告白をしつこく迫られました。

 それでしかたなく「つきあってる女性がいる」と簡単に答えたんだけれど、「ご結婚なさるおつもりですか」とか聞くから、「いや、いまのところそのつもりはない」と言っておきました。

 活け花をやってると話したら、「いいですねえ! 大和撫子 羨ましいなあ!」と言われましたよ。

 

 シューベルトの即興曲90と142、添付するね。ちょっとおせっかいだけど、PCで聞く場合、性能のいいイヤホンで聞くことをお勧め。少し値が張るけど、いま、すごくいい音がするのが出てるよ。

 

 これから年の瀬まで、ちょっと仕事がたまっています。忘年会なんかもあり、忙しい日が続きます。会えなくてごめんなさい。

 活け花、頑張ってね。いつも、いつも応援してます。

 春になったら、旅行に行こうね。どこか行きたいところがあったら言ってください。僕は新幹線で金沢に行きたいなと思ってるんだけど。

 

 寒いので、風邪ひかないようにね。では、ゆっくりお休みなさい。れいちゃんにとって明日がいい日曜日になりますように♡

堤 佑介ⅩⅣの7

 

話はやっと一段落した。一生懸命書き取っていたれいちゃんが言った。

「ほんとに暗い話になっちゃったわね。雨あがったみたいだから気分変えて散歩行かない?」

「ほんとだ、ほんとだ、そうしよう。浅草草は久しぶりだ。浅草寺にお参りしよう」

そう言ってから、この浅草に、ウチの営業所があることを思い出した。ひょっとして散歩してるうちに役に立つ情報が手に入るかもしれない。今までなんで気づかなかったんだろう。やっぱり恋に夢中だったんだな。

ダウンをはおりながら、その話を始めた。

「そういえばさ、れいちゃん。前にウチの仕事で、『下町コンセプト』っていうのをやってるって話したの憶えてる?」

れいちゃんはもう靴を履いていた。

「ええっと、ああ、思い出した。うん。空き部屋の多いアパートなんかで売りに出てるのを買い取って、独り暮らしの高齢者向けに貸すっていうんでしょう」

「そうそう。じつはウチの営業所がこの浅草にもあるんだよ。それで、ここなんか、下町コンセプトにぴったりだと思うんだけどね」

エレベーターに乗った。話を中断して、またチューしてしまった。この密室空間は、なぜかそういう気にさせる。

寒さは昨日よりは和らいでいた。

手をつないで雷門のほうに向かった。れいちゃんの手はけっこう冷たい。手の冷たい人は心が温かい、なんて話を子どものころ聞いた覚えがある。怪しい話だけど、私は信じることにした。

「それでね、ここの営業所は僕んところより大きいし、適地を探すのも割合簡単じゃないかと思うんだ。どれくらいプロジェクトが進んでるのかなあって思ったわけ」

「どのへんなの?」

「雷門通に面してて、雷門1丁目の信号の近く」

「あら、それだったら寄っていけば。必要な情報とか得られるかもよ。わたし表で待ってるから」

話しているうちに、もうその分岐点にさしかかっていた。でも、もともとそんな気はなかった。せっかくの楽しい休日、しかももうすぐ別れが迫っているのに、貴重な時間を、仕事でつぶしたくない。第一、今日は向こうも休みだろう。

「ああ、ごめんごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。ただ、散歩しながら街の雰囲気さえつかんでおけばいいの。あとで何か役立つかもしれないって思っただけ。向こうも休みだし」

「あ、そうだったわね。じゃ、ずっと一緒に歩きましょ」

れいちゃんは握っている手に力を込めた。

 

平日の昼なので、そんなに混んではいなかった。それにしても、外国人観光客の多いのに驚いた。中国語、韓国語、英語などが、入り混じって聞こえてくる。篠原が大分出張から帰ってきた時にしてくれた話を思い出した。

雰囲気豊かな街並みの中を歩きながら、ひょっとしてそのうち、最も東京の下町らしいここも、彼らに占領されてしまうのかもしれないという悪夢のような思いがよぎった。政府が内需拡大をせずに観光なんかに入れあげたら、ギリシャみたいになってしまって日本は終わりだ――そう篠原が言ってたっけ。

「それにしても外国人が多いわね。さっきのゆうくんの話じゃないけど、これが観光客だからまだいいけど、住みついちゃうと困るわね」

私が考えていることと同じことをれいちゃんが言った。

「そうだね。だんだん雰囲気壊されちゃうかもね。この辺のコンビニ店員て、どう? やっぱり外国人労働者が多い?」

「多いわよ。道聞いたって全然わからないって誰かが言ってた。わたしはよく知ってるからいいけどね。」

すると、下町コンセプトといっても、日本の高齢者に住みやすい環境や便宜を提供するのは難しくなっていくかもしれない。

 

雷門をくぐってまっすぐ仲見世通りをとおり、浅草寺にたどり着いた。ふたりはお賽銭を投げてから、長い間手を合わせていた。

帰り道、お箸の専門店に入って、赤と黒のきれいなお箸を買った。お箸――まだすぐ一緒に暮らすわけにはいかないのだから、これからは、家で食事する時、お互いに相手のことを思いながら食べることにしようねと約束した。

「ねえ。さっき、なんてお祈りしたの」

「たぶん、れいちゃんと同じ」

「そうね。きっと同じね」

れいちゃんは確信を抱いたようで、輝くような笑顔を見せた。

もちろん私は、彼女といつまでも仲良くいられますようにと祈ったのだが、じつはもう一つ、日本の将来が悲惨なことになりませんように、とも祈ったのだ。

 

もう2時近くになっていた。川に面した麦とろのお店があるというので、そこでお昼を食べて別れることにした。

「ね。ビール飲まない?」

ゆったりしたくなって、思わず言った。

れいちゃんはちょっと目を丸くしたが、「いいわ」と言った。

名残惜しいので、ビールをゆっくり飲み、運ばれてきた食事をできるだけのろのろと食べた。

「吾妻橋、先まではっきり見えないわね」

「ほんとだね」

私がこれかられいちゃんのもとに渡っていく《吾妻橋》。

たしかにはっきり見えないかもしれない。でも、それでいいんだと思った。ぼんやりしているのも、また夢膨らむ話だ。

曇り空の下で、川の水もとろんとして元気がなさそうに見えた。日本のこれからみたいだと思ったが、そんな不吉なことを考えるべきではないと、すぐ打ち消した。私たちはいま、幸せなんだ。

店を出てから、すぐには別れないで、あちこち歩き回った。そのうちに、雲は薄らいできたが、早くも暗くなり始めた。冬至も近いのだ。浅草駅の改札で別れることにした。

れいちゃんが私のことをじっと見た。熱いまなざしだった。涙がにじんでいた。それから言った。

「わたしもこのまま乗ってゆうくんとこまで行きたい」

「ハハ……そんなこと言ったって……またすぐ会えるじゃないか」

「二週間以上会えないわ」

恨めしいような調子だった。慰めなくてはならなかった。

「……28日には待ってるからね。ポトフの材料、教えてね」

「うん。メールちょうだいね」

「うん。れいちゃんもね」

思わず恋しさが募って、人目もかまわず抱き合ってキスしてしまった。

改札をくぐった。向こうとこっちで、ずっと手を振っていた。

私は人にぶつかるのもかまわず、後ろ向きにだんだん改札から離れていった。れいちゃんはその場から動こうとしなかった。

堤 佑介ⅩⅣの6

 

午前中は、BGMをかけながら、ベッドに並んで腰かけていろんな話をした。

「ゆうくんの好きな作曲家は?」

「やっぱり、バッハ、ベートーベン、ショパン、シューベルト、かな。あと、グリーグとかチャイコフスキーとかラフマニノフもいいね。通からすると俗っぽいって言われるんだけどね。最近は、ドヴォルザークのチェロ協奏曲をよく聞いてる。でも僕は、この前も言ったけど、あんまり知らないんだよ」

「チャイコフスキーはわたしも好き。♪チャン、チャン、チャン、チャ、チャ♪、ね」

「リヒテルってピアニスト、知ってる?」

「わたし、何にも知らないのよ。ごめんね」

「謝ることなんかないよ。僕も有名曲、人気曲しか知らないもの。それでね、そのリヒテルが、チャイコフスキーのチャン、チャン、チャン、チャ、チャと、ラフマニノフの2番を吹き込んでるアルバムがあるんだよ。これがとにかくすごいんだ。圧倒されちゃってね。他の人たちの追随を許さないね、あれは」

「わたし、それ買うわ。 えーっと、リヒテルのぉ、」

「チャイコフスキー、ピアノ協奏曲1番と、ラフマニノフのピアノ協奏曲2番」

「ネットで買える?」

スマホで調べてみたら、最新のリマスター版が出ていた。評判も悪くない。

「あと、何買えばいいの?」

れいちゃんは、ボールペンで一生懸命、書き取っていた。

「ハハ……別に買わなくても、YouLoopでいろいろ聞いて、どうしても欲しかったら買えばいいんじゃないの」

「違うの。ゆうちゃんのおススメを聴きたいの」

それは意外にも、初めから決めているような強い調子だった。

私はこの言葉に、さっきのYシャツと同じように、くすぐったい感動を味わった。やっぱりこの人は、「可愛い女」なんだ。

私は少しかしこまって答えなくてはならなかった。

「そうか。おススメは、……まず、ショパンの練習曲作品10と25。……ピアニストは、ルビンシュタイン。……それから、バッハの無伴奏バイオリンソナタとパルティ―タ、これは誰がいいかなあ、僕はパールマンが好きなんだけど。……そうそう、シャコンヌ聴いたって言ってたよね。あれ、この中の一曲だよ。それからっと、ベートーベンで好きなのは、いろいろあるけど、ピアノソナタ8番の『悲愴』と30番。古いけど、ホロヴィッツの『悲愴』は優しくてすごくいいよ。……ベートーベンのピアノソナタは、アシュケナージが全曲弾いてるから、とても無難。バックハウスも弾いてるけど、僕はあまり好きじゃない。あと、前にも言ったけど、バイオリンソナタの『春』。これは僕たちの曲だよ」

ああ、ほんとにそうね、とれいちゃんはほてった頬に両手を当てた。

「それからさっき、ドヴォルザークのチェロ協奏曲聴いてるって言ってたけど、チェロは誰がいいの?」

「僕はフルニエが好き。音色がすごくきれいだから。カザルスやロストロポーヴィチは力強いけど、弦楽器は音がきれいなほうがいいな」

「交響曲はあまり聴かないの?」

「若いときは聴いたけどね。最近はあまり。でも交響曲は圧倒的にベートーベンだね。9つあるうち、1,3,5,6,7,9がいい」

「ブラームスは?」

「玄人筋はすごく評価するけど、僕はちょっと苦手」

「シューベルトは?」

「おススメは即興曲作品90。ブレンデルのしか持ってないんだけど、曲そのものがすごくいい。れいちゃん、絶対気に入ると思う。そうだ、ソナタ21番を持ってきたんで、かけてみよう。これはポリーニ」

あの印象的な旋律が始まってしばらくすると、れいちゃんがつぶやいた。

「このソナタ、ちょっと暗いわね」

「そう。たしかに暗い。やめようか」

「ううん、いいの。いい曲だし、人生には暗いところもあるでしょう。だから共感できる」

「そうだね」

人生には暗いところもある――たしかにそうだ。私もいくつか覚えがある。切ない記憶がよぎる。

私は、そんな連想に引き込まれそうになる自分を慌てて打ち消した。

それから、「暗いと言えば」と前置きして、政治の話をしてもいいかと聞いた。

「いいわよ。ちょっと待ってね。ノート持ってくる」

ずいぶん熱心だなと感心した。

 

じつは、前々日の10日に、臨時国会が閉会したことを苦々しく思っていたのだ。こんなひどい国会は初めて見たという気がした。それは、入国管理法改正、水道法改正、漁業法改正という、グローバリズムに奉仕する法案を矢継ぎ早に通したことにかかわっていた。

入国管理法改正は移民受け入れの拡大、改正水道法は水道の民営化を意味していた。

移民受け入れ拡大は、ヨーロッパですでに失敗が検証されていて、これに反対する国民運動が各国で盛り上がってる。フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアその他。イギリスは国民投票でEU離脱を決めたが、その主な動機の一つに、大陸からの移民規制がある。

ロンドンではすでに45%が移民。スウェーデンは、いまや世界第三位の犯罪大国。

移民受け入れを拡大すると、低賃金競争が起こって、デフレはますます進む。国論は国民生活を守ろうとする人々と、排外主義を批判する人々とに分裂する。文化摩擦が深刻化し、治安も悪化する。本来なら実習を終えて本国に帰るべき技能実習生をそのまま日本に残して、低賃金で奴隷のように使い続けることを許してしまう。やがて家族を連れてくることも許す。

しかも阿川政権は、日本語教育や日本の文化慣習になじませる施策やテロ対策など、何の受け入れ準備もしていない。そして、ろくに審議もしないまま、数十万人の新たな移民を受け入れるこの法案を強行採決してしまった。

野党は、体を張って抵抗していたが、しかしその抵抗の理由が的外れだった。国民が貧困や危険に陥ることなどまるで意に介せず、ただ入ってくる移民の人権だけを問題にしていたのだ。

ということは、移民受け入れそのものについては、待遇さえ多少よければOKだと考えていることになる。こちらも欧州の失敗のことなどまるで念頭にないのだ。

 

水道法改正の場合、水は消費者に選択権がない。外国の水メジャーが独占するし、利益が上乗せされるから水道料金がどんどん上がる。災害時に故障や断水が発生しても、民間企業は責任を負わなくてもいい仕組みになっている。パリ、ベルリン、アトランタなど、世界の各都市では失敗に気づいて、公営に戻しているところが200を超えている。

わが国の漏水率は世界一低く、しかも飲料水として飲める世界でも数少ないきれいな水だ。自治体が少ない予算で懸命にその良質さを守ってきたのに、なぜ外資に売り渡すのか。これも財務省の緊縮路線からきている。

「あ、その話は、こないだゆうちゃんが最初に勧めてくれた『売られゆく日本』にも出ていたわね」

「あ、あれ読んだんだ。勉強熱心だね」

漁業法改正は、農協法改正と同じで、漁業協同組合を解体して、株式会社に明け渡そうとの趣旨である。そうは謳っていないで珍妙な理屈をつけているが、農協の場合を見れば明らかだ。もちろん外資規制はない。

 

れいちゃんが質問した。

「そんなこと、為政者はわかっているはずじゃないの? どうしてそんな自分で自分の首絞めるようなことばっかりするのかしら」

「それは、いまの政権が、全体として自由貿易や規制緩和、つまりグローバリズムをいいことと信じていて、政策の基本を、グローバル資本の利益になるようなところにばかり置いているからだよ」

「国民生活のことなんか、全然考えてないのね」

「考えてない。こういう政策の中心にいるのが、内閣の諮問委員を務めてる竹山平助というやつだ」

れいちゃんは「竹山平助」とノートに書きながら、言った。

「日本は、これからどうなっちゃうのかしら」

「このままいくと滅びるよ。一番ありそうなのは、中国に吸収されちゃうことだね」

私はそれから、最近読んだばかりの『領土喪失』についての話をした。

日本には、不動産購入の外資規制がなくて、中国が北海道や沖縄の土地をどんどん買っている。しかも登記の義務がないから、誰がどこにどれくらいの土地を持っているか、政府は把握していない。所有者不明の土地が、九州全体の面積を超えている。

篠原から聞いた、芝山団地の話もした。中国人が七割を超えていて、まったく日本人に溶け込もうとしないそうだ。そういうところが全国各地にまだら模様のようにできている。

 

堤 佑介ⅩⅣの5

 

今度は彼女がまじめな話をしてもいいかと聞いた。

さっき私が〇〇に大事な言葉を入れると言ったことについてだった。それは婚約とか、結婚とかを意味していたのかというのだ。

私はその通りだと答えた。それについてゆうくんの考えを聞きたい、と彼女は言った。たしかにまじめな話だ。

私は、いまの心境だと結婚したいという気持ちが強いけれど、結婚生活に入ると愛情がだんだん低減していくことを恐れてもいると答えた。問題は、どうしたらこのラブラブの気持ちをできるだけ長く持続させられるかの工夫にかかっていると思う、と。

それは一つ屋根で日常を共にするのでもなく、ふたりの都合が合う時にたまに会って恋人関係を続けるのでもない、両方の中間みたいな形が取れないか、と。

これを聞いて、れいちゃんは、じつは私もだいたい同じことを考えていた、と言った。でも今度は私のほうから、もう少し彼女の気持ちを詳しく聞いてみたかった。

彼女は語り始めた。

「わたしはこれからの人生で、ゆうちゃんとの関係を最優先にしたいと思ってるの。だって、こんなことってもうないと思うのね。で、わたしも結婚という言葉が何度か浮かんだの。でも、わたしはもう子どもを産めない身体だし、その形式にこだわる必要があるんだろうかって考えた。さっきゆうくんが言ったみたいに、結婚するとたいてい二、三年で新鮮さ失っちゃうでしょう」

「残念だけど、そうだね。昔、『愛はなぜ終わるのか』って本がアメリカでベストセラーになって、愛は四年で終わるって言葉が流行ったんだよね」

「あ、そういえば大学時代、読んだ覚えあるわ。とにかく恋愛と結婚生活って全然違うわよね。恋愛してると『あばたもえくぼ』だけど、結婚すると『えくぼもあばた』になっちゃうことがすごく多い。だから思ったの。この仕合せ感ができるだけ長く続くためには、結婚しない方がいいのかもしれないって。でも、じゃあ恋人関係で時々会ってっていうんで満足かっていうと、それもなんか違う気がするのね。だって、いまは、いつも一緒にいたいっていうのがほんとの気持ちだから、それを偽るのもよくないなあって」

思慮深い、と思った。それに私が考えていたのとほとんど変わらないことがうれしかった。

「俳優のポール・ニューマンているでしょ。もう亡くなったけど」

「うん、好きな俳優だった」

「彼は、女優のジョアン・ウッドワードと結婚して、ハリウッドでは珍しくオシドリ夫婦って呼ばれてたでしょう。芸能人てしょっちゅうくっついたり離れたりしてるじゃない。それで記者が長続きの秘訣は何ですかって聞いたら、なるべく一緒にいないようにすることだって答えたんだって」

「ハハ……それは、年季が入ってからの話だろうね。たしかに、結婚した以上、だんだん共通の時間を減らしていくのも一つの知恵かもしれない。日本の続いてる夫婦って、自然にそうなってるんじゃないか。それで年取ってからまた仲良くなってお互いを看取り合ったりね……そうそう、こういうのもあるよ。フランスの、何といったかな、有名な劇作家の言葉、『結婚とは判断力の欠如である。離婚とは忍耐力の欠如である。再婚とは記憶力の欠如である』」

「アハハ……さすがフランス人、スパイシーね。……でも、わたしたちも再婚に近い形を取ることになるのよね。だから、大いに記憶力を捨てましょ」

「そうだね。付け加えてもいいよ。『未婚のままなのは、決断力の欠如である』ってね」

 

さらに彼女は、このマンションを売って、会社も辞め、華道に専心して母親を継ぐつもりであること、自分たちは、私のマンションと彼女の実家と、二軒の家を持つことになるのだから、そこを行き来できるので、すごく恵まれた位置にいること、などを語った。

私が空想していた通りだった。これを聞いた時、私は喜びのあまり、思わず立ち上がって彼女に近寄り、強く抱き締めた。

身を離してから、れいちゃんがちょっと心配そうに言った。

「でもちょっと気にかかることがあるの」

「なに?」

「いまから始めて師範の免状がもらえるかなあって」

「それは……僕は家元制度のことはよくわからないけど、こんなに素晴らしく活けられるんだからきっと認めてもらえるよ」

「ありがとう。でもこんなのは初歩中の初歩だし、それに家元制度って、面倒なとこあるのよね」

「お金とか?」

「それもあるし、人間関係でもね」

「お母さんがお師匠さんしてるってことは、メリットにならないの」

「そこがよくわからないのよ。母は独立したでしょう。分派争いみたいなことがあったかもしれないから、かえって不利にはたらく可能性もあるわね」

「なるほどね。お母さんにはこの話、もうしたの」

「まだなの。年内には話して、よく相談してみるわ」

「うん、それがいい。お金のこともよくわからないけど、マンション売った代金とか退職金とか、けっこう期待できるんじゃないかな。足りなかったら僕が援助するよ」

「ありがとう。でも、なるべくゆうくんに依存しないでやってみたいの」

「そう。偉いね。できればそのほうがいいね」

「あと、実家のあの場所はけっこう閑散としたところだから、生徒が集まるかどうか。何らかの新機軸を出さないとだめだと思うのね」

「ああ、それこそ僕の仕事にもかかわる領域だ。査定できるし、宣伝は慣れてるし。それに、構想をしっかり立てておけば、大丈夫だよ。きっと何とかなるよ。」

「そうね。いまから心配したってしょうがないわね」

れいちゃんは表情が和らいで、私に優しいまなざしを送ってきた。

「ゆうくんと話してよかった。安心するわ。あ、お酒がちょっとしかない」

そう言ってれいちゃんは瓶を振ってみせた。ふたりでちょっとずつ分け合った。

「れいちゃんの新たな出発を祝って」

ふたつのお猪口がかちん、と鳴った。

カール・リヒターの管弦楽組曲1番を聴きながら、食事をした。なめこ汁がすごくうまかった。

後片付けを一緒にした。時々チューをしたり、彼女のジーンズの形のよいお尻を触ったりしながら。

 

11時を過ぎた。

「ベッド、狭くてごめんね」

「狭いほうがくっついて寝られるよ」

「ねえ、やっぱり雨が降ってきたみたい」

カーテンの隙間から外を見ていたれいちゃんが言った。

私はうしろから彼女を抱きすくめた。そしてラフなグレーのセーターをすぐ脱がせにかかった。れいちゃんは臆せずに両手を上に挙げた。それからこちらに向きなおって私のYシャツのボタンをはずしにかかった。レースのついた可愛い白のブラジャーの間で、胸のふくらみが震えるように揺れた。

私たちはこれまでよりもずっと長く、それぞれのからだをむさぼり合った。

 

ずいぶん時が流れたような気がする。

ベッドの横、窓際に目をやると、置台の上の鳴子ユリが勢いよく葉をこちらに向けていた。愛し合う二人をずっと見守っていたのだ。手を伸ばして葉先にちょっと触ってみた。うなずくようにゆっくりと揺れた。

れいちゃんは私のからだを隅々まで点検して、時々犬のようににおいを嗅いでいた。

「この膝の下の傷跡はどうしたの」

「それは、小学校の運動会の時、転んで7針縫った跡」

「この脇腹のあざみたいなのは」

「ああ、それは生まれつき」

「ゆうくんはケンカした?」

「ほとんどしなかったね。一度だけ近所の悪ガキと取っ組み合いしたことあるけど」

「どうしてケンカになったの」

「さあ、よく覚えてないけど、たしかそいつが、貸したマンガ返さなかったんで、早く返してくれって言ったんだと思う。僕は口が立つ方だったから、相手を怒らせるのがうまかったんだね。いきなりとびかかってきたから、やむなく防戦」

「結果は?」

「引き分け……かな」

「相手は強い子なんでしょう? よく引き分けたわね」

「たぶん必死だったんだと思う」

「気が強いのね」

そうだったのだろうか。1年生の頃はよくいじめられて、泣きべそをかいていた。帽子に犬のフンをつけられた。一時期学校に行くのが嫌になってしまったこともある。

しかし後から考えると、小学校生活というのは、いろいろな悪ガキとつきあって、自分の精神を少しでも強くしていく恰好の練兵場だったのだろう。

また『銀の匙』を思い出した。ひ弱だった主人公は、高学年になると、好きな女の子を守るために棒を用意していじめっ子を撃退するのだ。

 

「……ねえ。さっきの話だけど」

と、れいちゃんは今度は腹ばいになって、両肘付きで顔を手の上に乗せ、私のほうに身を乗り出した。私はれいちゃんの腰からお尻のあたりをゆっくり撫でた。

「うん」

「あれ、実現したら、わたしたちって、もしかして、時代の最先端行ってることになるのかもね」

「そうかも。でもそれも経済的な余裕があるからできることだよね」

「……若い人たち、かわいそうね」

れいちゃんは今度は、仰向けに姿勢を変えた。それから、ためらいがちに、ゆっくりと言った。

「籍……入れないでおこうね」

「……うん。籍とか式とかなしで済ませよう。最低限、身内と友だちには話した方がいいだろうけれどね」

「ゆうくんなんか、周りが黙ってないでしょう」

「それは言えるかもな。まあ、派手なことはできるだけ避けよう。内輪のパーティみたいにして」

「それがいいわ。……寒くない? わたしは平気だけど」

「寒くない」

「あした、散歩しようね。仲見世通りのあたり」

「うん」

ふたりで毛布と布団を引っ張り上げてそのまま眠りに入った。

 

翌朝、目が覚めると、れいちゃんはもう起きていて、キッチンにいるようだった。私はベッドの脇にくしゃくしゃになっている下着や服を拾い上げた。下着を身につけてからYシャツを着ようとしたら、Yシャツが見当たらない。ベッドの下、後ろ側などさがしまわったが、やはり見つからない。

そのまま起き上がって、「ねえ、僕のYシャツ知らない?」とれいちゃんに呼びかけた。

彼女はそれには答えずに、くすくす笑いながら、

「おはよう。シャワー浴びてきたら」と言った。

眼鏡をかけ、キッチンに近づいてよく見ると、彼女は、私のYシャツを着ながら朝ご飯の支度をしているのだった。

ヘンなことを連想してしまった。阿部定が吉蔵のペニスを切り取ってから逃げる時、吉蔵のシャツとステテコを腰巻の上に巻いていたそうだ。篠原が言っていた三島のあの言葉、「女は愛の天才だ」という言葉をまた思い出した。

朝のシャワーが気持ちよかった。浴室と洗面所がとてもきれいで、いろいろな化粧品やバス用品のたぐいが置いてあった。

そうか、彼女はレオンに勤めていたんだっけ、と気づいた。社の製品をもらえるんだな。でもそれも今年度限りで終わりか。私は名残を惜しむように、それらの品々をゆっくり眺め、ふたを開けて匂いを嗅いでみた。一つ一つにれいちゃんが身をひそめているようだった。

堤 佑介ⅩⅣの4

 

ようやく11日になった。

急に冷え込んでびっくりするほどの寒さだ。でも誕生日を祝ってくれる人なんて十年以上いなかったから、心の中はぽかぽかしていた。

3時半くらいまで仕事をし、スタッフに本部から呼ばれたと偽り、駅前のデパ地下で出羽菊の純米無濾過生絞り720mlを買って、電車に乗った。

田原町というのは浅草のすぐ前の小駅だ。降りて少し戻ったところに改札があった。改札から身を乗り出しているれいちゃんを見つけた。

地上に出るともう真っ暗で、息が白くなった。風は強くはなかったが身を切るように冷たい。れいちゃんは私の腕に縋りついて頬を私のダウンジャケットに埋めた。

お化粧をしていない彼女を初めて見たが、それも可愛かった。普段の生活の匂いがして、いいなと思った。

5分ほどで着いた。エレベーターの中でキスをしたが、口紅を塗ってなくてもその感触に変わりはなかった。

ヘンな話だが、これまで何人もの女性とキスをしてきたうちで、れいちゃんの唇がいちばん官能的だった。中年女性なのに、それは薄くてみずみずしい果肉のような味わい。芙由美のそれも悪くなかったが、彼女のはむしろ厚い豊潤な感じと言ったらよいだろうか。

こんなことを覚えていて比較するなんて、俺はけっこうスケベだなあと思った。でもこうした感覚の違いはもしかすると、自分の側の恋心の程度に依存しているとも言えそうだ。キューピッドはそこまで配慮してくれるのかもしれない。

 

ドアの中に入ると、白いきれいな世界がぱっと広がった。

癒し系のハーブの香りがほのかに漂う。とてもよく整頓されていて、全体に新築のモデルルームといってもおかしくなかった。

右にお風呂場とトイレ、左にキッチン、水回りの奥に二つの洋間が連続している。手前の洋間に四人掛けの小さなダイニングテーブルと、1人用のソファ、奥の洋間の右側にベッド、左側にクローゼット、そして窓際に置台があって、そこに活け花! 

「うーん、すごい! 可愛くて、すきっとしてて、うまく言えないけど、すごく素敵だよ」

「ありがとう。二つのバラがわたしたちのつもりなの」

れいちゃんはちょっとはにかんだ調子で言った。

「この伸びてる葉の勢いが素晴らしい。これは何ていうの?」

「鳴子ユリっていって、よく使うの」

彼女と私は抱き合いながらいつまでも眺めていた。

 

私は出羽菊を取り出し、冷蔵庫に入れてもらった。

れいちゃんは灯りを落としてケーキにローソクを二本立てた。ハッピバースデーを歌ってくれた。その声がかすかにふるえていた。見ると彼女の目が涙ぐんでいる。

私は気負って息を吸い込み、ふーっと吹き消した。

「これ、プレゼント。開けてみて」

「わあ、なんだろう」

モスグリーンの幌布の鞄だった。タグのところに「YUSUKE」と名前が刻んである。

「どうもありがとう! こういうの、どこで売ってるの」

「浅草の老舗で、猫印鞄製作所っていうところがあるの。いくつも種類があるんで迷ったんだけど」

「色もいいし、頑丈そうだね。すごく気に入ったよ。こっちの古鞄はもういらないね」

私は子どもみたいに肩から掛けて室内をスキップするように歩き回った。れいちゃんは笑ってそれを見ていた。

それから彼女はキッチンに入った。

カーテンの隙間から外を見た。浅草のネオンがすぐ間近に見える。隅田川を隔てて少し左寄りにライトアップしたスカイツリー。空気がもやっているのか、少しかすんで見える。雨になるかもしれない。

自分のうちにも来てくれないかと誘った。れいちゃんは今年中に行きたいと言った。

28日の仕事納めの日を提案すると、彼女はその日はもう休みだから、早く行けると言った。

「あの幻のポトフ、作ってあげるね」

「幻のポトフか。そういえばあのメールは切なかったな。あれ読んだとき、すごく一緒にいたいって思いがこみ上げてきて」

サラダとカルパッチョが出た。味付けをほめると、れいちゃんはちょっとおどけたように、

「この味がいいねと君が言ったから11日は ゆうくん記念日」

「ハハ……その『ゆうくん』のところを○○としておいて、何か二人にとって大事なことを表す言葉を入れた方がいいかも」

思わず言ったのだが、言ってしまってから、俺はプロポーズしているのかなと思った。ちょっと厳粛な気持ちになった。

れいちゃんも真面目な顔になった。それから何となく逃げるような感じでキッチンに立った。白けさせたかもしれないと感じ、後悔と不安に襲われた。

厚揚げと豚肉の煮物が出た。お料理屋さんみたいにうまかった。

 

前に勧められた『広い世界の端っこで』の話をした。

戦時中に呉市に嫁いだ18歳のゆきさ んの話だが、義理の姉の子、直美ちゃんをちょっと預かって散歩している間に、時限爆弾に当たって直美ちゃんを死なせ、自分の右手を失ってしまう。右手は絵を描き続けてきた彼女の命といってもよかった。そのときのアニメ表現がとても印象的だった。

私よりもれいちゃんのほうがいろいろなシーンをよく覚えていて、その意味をしっかりとらえていた。原作の漫画との違いについても説明してくれた。

このアニメには、広島の原爆投下のシーンも出てくるのだが、その悲惨さをやたら強調するのではなく、爆撃を免れた普通の生活者の目線で描かれていて、そこにとても好感を持った。

私は丸本夫妻の『原爆絵図』や、マンガの『はだしのケン』を例に出して、それらとのコントラストに言及した。れいちゃんはああいうのは好きじゃない、とはっきり言った。

彼女は出羽菊とお猪口を二つ出してきて、私のほうになみなみと注いだ。私も彼女のお猪口に注ぎ、二人で改めて乾杯した。

「このお酒ね、純米無濾過生原酒って書いてあるでしょう。お米の香りがすごくするんだよ。それでひとりで一升瓶買ってきて、毎日少しずつ飲んでるんだ」

「いい香りね。それにコクがすごくある」

「二人で飲むとよけいうまい」

「ほんとね、ウフ……」

「ところで、さっきの原爆の話で連想したんだけどね、広島の原爆慰霊碑に『安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから』って碑文が書いてあるでしょう」

「うん。あれおかしいね。主語がないのね」

「そう、僕はずっと前からあの文句には憤りを覚えていたんだ。ふつうに見て、まるで日本人自らが過ちを犯したように読めるよね」

それから私は、自分の憤りについて説明した。止まらなくなってしまった。

 

民間人の大虐殺という戦争犯罪を行なった直接の下手人は言うまでもなくアメリカである。そのアメリカに対する怒りを完全に封じ込められて、自分たちがもっぱら悪い戦争をした結果であるかのように洗脳されてしまった。ここに戦後平和主義の欺瞞が象徴されている。

私は、アメリカに対して憤っているのではない。「日本が悪い」と思いこまされて、それに対して正式な抗議も怒りもぶつけたことのない、大方の日本人や日本政府のふがいなさに対して憤っているのだ。国内での論争や碑文に対する嫌がらせはあったようだが、いかにも内向きだ。

あの碑文が決定したのは、サンフランシスコ条約発効の3か月後である。占領下であれば仕方がないとも言えるが、すでに日本の独立は果たされている。だからこんな碑文を決定する前に、原爆投下責任についての大議論が内外に向けて巻き起こされてしかるべきだったのだ。

ところが日本人は、平和に対する祈りを繰り返すばかりで、正当な怒りを表明しようとしない。「勝てば官軍」の論理にあっさりと丸め込まれてしまったのだ。

これは何も原爆投下だけの問題ではない。戦後ずっと、「アメリカは正しい戦争をし、日本は悪い戦争をした」という認識が定着してしまった。東京裁判史観というやつだ。

けれど、本来、戦争とは対等の争いなのだから、そこに道徳的な善悪の判断を下すことは容易ではない。私は歴史にはあまり詳しくないが、当時の状況をざっと調べていけば、日本は拙劣な戦争をしたかもしれないが、道徳的に悪い戦争をしたわけではなかったことがわかる。

いまでもそうだけど、日本人て、どうしてきちんと自己主張しないんだろう。だから韓国や中国に対しても舐められるんじゃないか。

気づいてみたら興奮していて、れいちゃんにたしなめられてしまった。たしかに自分の誕生日にこんな話を恋人に向かってするなんて、野暮の骨頂だ。恥ずかしくなって頭を掻いた。

 

堤 佑介ⅩⅣの3

 

スタッフの職務の再編成問題は、頭が痛かった。

7日の朝、とりあえず、スタッフ全員の陣容を、勤務曜日と時間とともに整理した一覧表を取り出して、しばらくにらめっこしていた。

 

●堤、岡田、山下、八木沢、中村、谷内、渡辺、本田、川越(週6日フルタイム)。

●非正規社員5人。

  ・うち-派遣1人(新人・小関。週6日フルタイム)

  ・パート3人(うち中岡・週4日フルタイム、鈴木・週3日フルタイム、村瀬・週5日10時から4 時まで)

  ・アルバイト1人(週3日1時から6時まで)

 

その上で、岡田と奥の会議室で密談することにした。

「そういうことでね。業績があまり芳しくない。下町コンセプトにも時間を割かれるし、年明けからは繁忙期だし、効率化を図らなくてはならないんだ」

「カード決済をいっそう進めていくってほうは問題ありませんよね」

「それはできると思う。問題は、ウチのような小人数所帯で、人事の面でどこまで効率化できるかだよね。もともと限界があると思うし、ハードなことを強いたら、転職されかねない」

岡田も表を睨みながら言った。

「ほんとにそうですね。私だって考え込んじゃいますよ」

「新人の小関君は、どう?」

「まだ未知数ですけど、よくやってますよ。まあ、ありがたいですね。存分に活用すべきです」

「スタッフのキャラをよくつかめるってのは、小さいところのメリットだと思うんだけどね。ここだけの話、たとえば八木沢君はあんまり接客には向かないなって、この前ちょっと感じたんだ」

「わかります」

「それで、それぞれの職分というか、業務内容をもう少し厳密化して、分業体制をはっきりさせた方がいいかなと考えたんだ。もちろん、臨機応変が大切だけどね。岡田君はどう思う?」

「基本的に賛成ですね。それには、指揮命令系統がしっかりしてないとだめですよね」

「そうだね」

「これ、いつごろまでに確定……」

「まあ、年内かな。そして年明けに発表する」

岡田はしばらく考えてから言った。

「たとえば、現時点で、すごく大ざっぱな話で申し訳ないんですけど、賃貸・管理部門と売却部門と、チーフを二人に分けるっていうのはどうですか」

「なるほど。それはいいね。賃貸・管理部門は岡田君にやってもらうとして、売却部門は?」

「当然、山下さんでしょうね」

「うん。山下さんには、賃貸からそっちに変わってもらうのがいいだろうね。それと、『下町コンセプト』は、私と岡田君が中心に当たるとして、本部の前園君とも緊密に連絡とって、頻繁に来てもらうことにしよう」

「それはいいですね。八木ちゃんはどうしますか」

「そうね。ちょっと考えたんだけど、外回りをなるべく減らして、全体の事業企画のような部門を新たに設定して、その責任者になってもらうのがいいかもしれない」

「なるほど。指導力を発揮するかもしれませんね」

「代わりに谷内君にもっと前面に出てもらう。彼は情熱的だけどちょっと勇み足のところがあるから、そのへんは、山下チーフが適宜コントロールする」

「わかりました。それと所長。アルバイトをあと一人、できれば二人雇わないと、正社員のほうに雑用の負担がかかりすぎて、せっかくの能力が十分活かせなくなりがちです。これって効率化のために大切だと思うんですが」

「そうだな。それは私も考えてた。パートの人たちとうまい連係プレーのあり方を考えることにしよう。ま、今日中に全部決める必要はないんだから、もう少し時間を取って詰めていこう」

「そうですね。私も極力時間を見つけて、所長との密談機会をできるだけ多く取りましょう。なるべくならオフになってからのほうがいいかもしれませんね。」

「ありがとう。私はかまわないが、悪いね」

「とにかくアグレッシブに行きませんと」

「アルコール抜きでな」

私が言うと、岡田はにこやかにうなずいた。私たちは、握手して、密談を終えた。

 

9日の日曜日、今度は西山ハウスの笹森さんから苦情が入った。隣の陳さんの子どもが、こちらの庭でうんちやおしっこをするというのだ。また、ゴミを庭に出しっぱなしにする。冬だからいいが、夏になってからでは困る。

いずれも本国でそういう習慣だったのだろう。

中村に折衝に当たらせてみた。彼にはもう少し度胸をつけてもらわなくてはと思っていたので、ちょうどいい機会だと考えた。

3時間ほどして、疲れた顔をして帰ってきた。

報告を聞く。

「奥さんしかいませんでした。ほんとは旦那と話した方が言葉が通じるし、効き目もあると思ったんですが」

「そりゃそうだね。日曜なのに旦那は何でいなかったの」

「なんでも、今日も仕事があるとかで、要領を得ません」

「ふむ。で、どうだった?」

「まず、おしっことうんちのほうですが、必ずトイレでさせてくださいと言ったんですね。そしたら、そうさせてるっていうんですよ。でもお隣さんから苦情が出てますよって言っても「クジョー?」とか言って「わかりません」の一点張り。しょうがないから、手振り身振りで説明しました。それでも要領得ないんで、玄関の外に子どもと一緒に出てきてもらって、たまたま笹森さんのところが留守だったもんですから、その庭まで連れてきて、この子がここでおしっこやうんちをするんだって、何度も手振り身振り交えて説明、これはダメですって知らせたんですよ」

中村の奮闘ぶりを想像して、なんだかおかしくなってしまった。しかし笑ってる場合ではない。

「でも納得しないんですね。そしたら、偶然、その子がそこでパンツ下げておしっこしようとしたんです。私はこれさいわいとばかり、その子を抱えて陳さんの庭のほうに連れて行った。奥さんはさらわれるとでも思ったのか、何するんですかって怒るんですよ。でも自宅の庭でもおしっこしてるんでしょうね。そこでさせたら、ようやくわかってくれたようです」

これもおかしくて、つい私は笑ってしまった。

「ハハ……それはたいへんだったね。しかし、自宅の庭でも困るな。たしか5歳くらいだったでしょ。奥さん、夜の仕事だっていうし、あまりちゃんとしつける暇がないのかもな」

「そうみたいですね。あれだと、またやっちゃうでしょうね。おしっこならまだしもうんちは困りますね。今度、旦那がいる時にもう一度行ってきますよ」

「悪いね。で、ゴミのほうは」

「これまた要領を得なかったんですが、こちらは現物があったんで、それを持ってゴミ置き場まで一緒に来てもらいました。でも、分別をわからせるのがたいへんでした。ゴミ置き場には絵入りの説明書きが貼ってありますよね。曜日の字は読めるようでした。で、何回も何回もこのゴミは何曜日、こういうゴミは何曜日って説明しました。まあ、その時はおとなしく聞いてくれて、一応理解したようでしたが、私の感じでは、すぐに守るとは思えませんね。だから、これも旦那がいる時に、もう一回、ちゃんと説明に行きますよ」

「旦那はたしか、リサイクル関係の仕事じゃなかったっけ」

「あ、そうなんですか。それだと説明しやすいかもしれませんね。行く前に中国のごみ収集状況を調べてったんですよ。そしたら、2017年に『生活ごみ分別制度実施プラン』というのが施行されたんですが、意味を理解しない住民が多くて、地域によってまちまちなんだそうです。専門家は、このプランは、1年や2年では定着しないだろうっていうんですね。だから、こっち来たって、わかるはずない。ましてや向こうとこっちでは分別方法も違いますからね」

「どうもご苦労様。じゃ、たいへんだけど、またお願いします。旦那の在宅、確かめてから行った方がいいね」

中村は小心なところがあるが、だからなのか、こういう細かい問題では、小役人みたいに几帳面に役をこなす。でもこれは、予想以上に長くかかるかもしれない。

堤 佑介ⅩⅣの2

 

それかられいちゃんは、自分たちはレズと間違えられてしまうかもしれないと言った。私は笑いながら、そんな心配はいらないと答えた。答えてから、女どうしの親密さと、男どうしの親密さの違いということに考えが及んだ。

女は、友だち関係が親密さを増すと、自然に肉体的にもレズビアン的な関係に移行できるような気がする。それは、女性のもつ優美さというのが、男が見ても女が見ても同じように優美に見えることと関係があるのではないか。

いっぽう、男は、戦友のように、何かと闘う意思が一致すると、とても深い精神的な友情が成立するけれど、それは、そのまま肉体的な同性愛に移行することはあまりないような気がする。

男の肉体的な同性愛は、はじめから性的な指向性として決まっているか、そうでなければ、軍隊や修道院のように男だけの閉鎖的な環境に置かれたときに、過剰な性的意識のはけ口として、女の代用品を求めるところに生まれるのだろう。

とにかく男のそれは、激しいのだ。西山ハウスの笹森カップルのように。だから時として犯罪にも結びついてしまう。

私は笹森カップルと隣に越してきた鹿野夫婦の話をした。れいちゃんは、お腹を抱えて笑った。

「でも、笑っちゃいけないわね。そのお年寄り、かわいそうだし、ゆうくんもたいへんだったわね。そんなにはげしいのね」

そう言ってから、れいちゃんはちょっと恥ずかしそうにして、私の胸に顔を埋めた。自分のことを思い出したのかもしれなかった。

 

それから私たちは、服を着てソファのほうに腰かけ、お茶を飲みながらLGBTやセクハラについて話した。

「LGBTが騒がれるのって、権力を倒したいサヨク勢力が、マイノリティをそのための道具として利用している面もあるって前に言ったよね。でも世界中でこんなに、サベツ、人権って騒がれるのって、そういう声を平気で受け入れるマジョリティの側の心理にも原因があると思うんだ」

「ポリコレってやつね」

「うん。これこそが政治的に正しい原則だって固執して、あらゆるところにサベツやセクハラの兆候を嗅ぎだしては、レッテル貼りをする傾向」

「わたしも、男の人が女の人に何か言うと、いちいちセクハラ、セクハラって騒ぎ立てるのって、男の人が委縮しちゃって、よくないんじゃないかしらって思ってたの。出会いの機会を奪ってるでしょう」

「流行現象みたいになっちゃってるね。もちろん中には、ほんとにそういうこと言ったりしたりする連中がいることはたしかだけど、一度そういうのがニュースになったりすると、言葉が独り歩きして、どんどん拡散するよね。それで、ポリコレがこんなにブームになるのも、現代人のほとんどが生きるよりどころをなくしているせいじゃないかと思うんだよ」

「生きるよりどころ……」

「うん。たぶん宗教的な権威が衰えたんで、どこかに『正しさ』の絶対的な基準を立てておかないと、生きていくのに不安で仕方がないんじゃないかな。そうしないと、自分の存在の確かさが確認できない。そういう下地があるんで、一部の政治勢力が、ポリコレに少しでも引っかかる言動に対して『差別主義』とか『排外主義』のレッテルを貼って、魔女裁判みたいに糾弾する」

「ああ、なるほど。そのことで、自分は『正しい人だ』って確信が得られるわけね」

「うん、そう。すごく脆弱な確信だけどね。でもそれは裏を返すと、自分たちがリア充の実感を持てないからじゃないか。つまり相手の否定によって、自分がより上位のアイデンティティを確保しているかのような気になれる」

「それって、何かコンプレックス抱えてたり、いまの自分に自信がなかったりする人に多いかもね」

「ああ、ほんとだね。それ、もう少し歴史に広げてみると、ポリコレブームを作り出したのは欧米人だよね。その深層意識には、自分の存在の基盤が失われていて、『関係の空虚』を生きてるっていう実態があるような気がする。だから、これはポリコレ・コードに引っかかるんじゃないか、こんなことを言ったら『差別主義者』とか『排外主義者』とか『セクハラ』呼ばわりされるんじゃないか、と絶えず恐れていなくちゃならない。しかも、そのことが自覚できないようにさせられているということでもあると思う」

「そこに反権力的な政治団体がつけ込むわけね」

「うん。ただ、ヨーロッパの場合、古くから、宗教対立や他民族の混交の問題があったでしょう。ナチスみたいなこともあったしね。だから、きっとアイデンティティ不安とか、緊張感とかがすごく強い。それで、反権力団体だけじゃなくて、むしろ中枢権力が、そういう正義の建前を率先して掲げてきたんだと思うのね。でもいま、イスラム系移民なんかがどっと押し寄せて、かえってその建前が仇になってるんじゃないかな」

「そうね。日本の場合は、そういう緊張感ってないわね。LGBTと普通の人たちって適当に棲み分けてるし」

「イスラム教じゃ、同性愛は死罪だからね。そういう宗教対立がない日本じゃ、LGBT問題なんてそんなに切実じゃないはずなんだけど、なんか、アチラから《問題》として輸入されると、すぐマネするんだよね」

「でも、いま移民受け入れ拡大の方向に向かってるでしょう。そうすると、東南アジアのイスラム系移民が大量に入ってきたら、そういうことも問題になってくるんじゃないかしら。だって豚肉食べちゃいけないとか、一夫多妻認めてるんでしょう。そういう人たちとの間で摩擦が起きるんじゃない?」

「うん。れいちゃん、いいこと言うね。たしかにこれからはその可能性はあるね。でも日本人はのんきだから、そういうこと、いままで考えてこなかったんだよね」

それかられいちゃんは、じっと思いを巡らすふうにしてから、ひとりごとのように言った。

「正しさとか、正義って何だろう」

哲学者みたいだ。私も同じようなことを考えていたけれど、この疑問に答えを出すことはすごく難しい。

それに簡単な答えは出せないけれど、ふだん思っていることを口にした

「文化によってすごく違うからね。Aの正義、Bの正義、Cの正義がぶつかり合ったりまじりあったりした時に、それが問題になるんだよね。リベラルな人たちって、特に学者に多いけど、よく『いろんな価値観があっていい。多様性を受け入れるべきだ』なんていうでしょう。でも実際にどうやって多様性を受け入れるんだろう。リベラルな人がそういうのは、自分がそういうぶつかり合いの場面に立たされてないから、そんな軽薄なきれいごとを言っていられるんだと思う」

「ヨーロッパは、それで失敗したのよね」

「そうだね。やっぱり相手の価値観を安直に受け入れると、とんだしっぺ返しを食う。かといってただ否定するんでもなくて、それはそれとして認めた上で、でもこっちにはこっちの価値観があるんだから、お互いに侵入しないで棲み分けられるような境界線をうまく引くことが大事なんじゃないかな」

「それって、国を守るってことに関係ある? 移民を規制するとか」

「大いに関係あるね。日本人は西洋のマネばっかしてないで、むしろヨーロッパの失敗を他山の石として学ぶべきなんだ。でも一向にその気配がなくて周回遅れをやってる」

「困ったわね」

それきりふたりの間では、言葉が続かなかった。

そもそもこんな話を、逢引きのあとでしている私たちって、やっぱりずいぶん変人なんだなあ、と思った。というよりも、私の変人ぶりのほうに、れいちゃんを引きずり込んでしまった感じだ。

これからどこまでこんな自分につきあってくれるだろう。チェーホフの『可愛い女』みたいだといいんだけれど、などと、自分勝手なことを考えた。

堤 佑介ⅩⅣの1

                                    2018年12月15日(土)

 

れいちゃんと初めて結ばれてから、もう半月経ってしまった。その間に4日に同じホテルで会い、11日の誕生日には、彼女のマンションに泊まった。彼女との絆はいっそう深まり、これからの付き合い方についても、同じ考え方をしていることがわかった。

 

だが仕事のほうでは、いろいろとややこしかった。めんどうなことと楽しいこととは、いつも入り乱れながら訪れてくる。私たちは、そのたびに気分のモードを切り替えながら、日常をやりくりしなくてはならない。

4日は、井上さんの古家の解体費用を査定してもらう日でもあった。八木沢に現地に行ってもらって、報告を待つことにした。

経理の渡辺からは、11月の収支報告が上がってきたが、あまり成績が思わしくない。成約数は下がってはいないのだが、賃貸の低家賃のところが多く、売却物件の売値も低くなっている。

デフレがますます進んでいるという印象だった。

仕事は楽になってはいないのだ。だからこそ雇用を一人増やしてもらったのだが、その手前、業績を伸ばさなくては、本部に顔が立たない。

年明けの繁忙期を控えて、今月中にも、カード決済を増やしたり、限られた人材の有効活用など、何らかの効率化を図らなくてはならないだろう。今日からそれについて対策を考えることにした。

 

八木沢が帰ってきた。怒ったような表情をしている。この季節にしては異様に暑い日だったからかもしれない。

「どうだった」

「所長、あの井上さんて人はほんとジコチュウで困りますね」

「まあまあ、落ち着いて。お茶でも飲んで。で、何があったの」

「三和工事さんが、丁寧に調べて、そのあと、6日に見積もり出しますって言ったんですよ。ふつうそうしますよね。そしたら、いまここで出せないのかって言うんですよ。上司と相談しなくてはなりませんから、いまここではちょっとって返事したら、じゃ、あんたの概算でもいいから言ってみろって」

「そりゃ困ったね。それで?」

「三和さん、仕方ないから、まあ150万から180万くらいですかね、って」

「それ、言わない方がいいんだよね。あとでこう言ったろってつけ込まれるから」

「ですよね。そしたら、井上さん、120万くらいにまからないかって価格交渉始めちゃったんですよ。三和さんが、それは私の一存ではきめられませんので、ご勘弁くださいって。それでも井上が粘るんですよ。仕方ないから、わたしが間に入って、井上さん、お気持ちはわかりますが、三和工事さんがあさってちゃんとした見積書を必ず出しますから、それから交渉なさってもよろしいんじゃないでしょうかって言ったんです。そしたら、今度はわたしのほうにらみつけて、そんな悠長なことしてられねえんだって凄むんですよ」

「そりゃ、やくざだな。悪かったね。近いんだから私が行けばよかった」

「いえ、所長のお役目じゃないから、それはいいんですよ」

「で?」

「わたしも内心ムカッとしてたんですけど、ぐっとこらえて、あと2日のご辛抱ですから、そこを何とかって何度も言ったら、ようやく引き下がりましたけどね。あれ、ホントの息子かよ」

「一応、売却の時、戸籍抄本持ってきたからね。免許証も見たし」

「そうなんですよね。それにしても、お母さんがホーム入りを喜んでたなんてウソで、無理やり放り込んだんじゃないですかね」

「そうかもしれない。でもそれはしょせんわからないね。それより、まあ、何とか今日のところは収まったから、よしとしようじゃないか。どうもほんとにご苦労さま」

「でも、更地にしたら、ウチの仲介物件になるんでしょう。先が思いやられますね」

「そうだなあ。いや、まだ更地段階での契約結んだわけじゃないから、まずいと思ったら、他を斡旋する手もあるよ。とにかくその時はその時だ」

八木沢は、しぶしぶ自分の席に戻った。書類を叩きつけるようにデスクに置いた。よほど腹に据えかねたと見える。

彼女はガッツがあり、物事をてきぱきと運ぶが、ちょっと切れやすいところがある。営業には向かないかもしれない。温和な山下と足して二で割るといいのだが。

井上問題がこじれて、部下に不向きなことを強いつづけると、パワハラと見なされかねない。あまり高い給料を払っていないのだから、下手をしたら転職してしまうかもしれない。

そんなことを感じながら、さっきの人材の有効活用の問題に連想が及んだ。

おそらくウチのスタッフの職分についての方法論も、見直すべき時が来ているようだ。あまりそういうことはしたくないのが本音だが、もう少し厳密に「適材適所」を考えるべきなのだろう。基本は適材適所、しかしガチガチに固めるのではなく、常に「臨機応変」の余地を残しておく。

難しい課題である。

 

その同じ日の4日、れいちゃんは、暑い日にふさわしくハーフコートの前を開けて、麻のような茶色のブラウス姿という軽装だった。マリンブルーのロングスカート。センスのいい女だ、と思った。

部屋に入ると、この前の電話でのセクシーな声が頭の中に甦った。

私は気がせいて、彼女を立たせたまま素裸にした。彼女も私の脱衣に手を貸した。シャワーを浴びたいとはもう言わなかった。

私はひざまずいて乳首から下へ唇を這わせ、濃い茂みに口づけした。野生の匂いがした。その時漏れた声が、あの電話の声と同じだと思った。

ベッドで体を合わせると、初めの時よりもれいちゃんは積極的に私をいざなった。そしてその乱れるさまが私の興奮をいっそう呼び覚ました。

「れいちゃん好き、れいちゃん好き」と私はささやきながら行為を続けた。れいちゃんはそのたびに「わたしも、わたしも、ゆうくん好きよ」と呼応して、私の背中に指を食い込ませた。

 

「こないだの電話の声、すごくセクシーだったよ」

「フフ。あれは友だちの家のトイレに入ってたから内緒話みたいになっちゃったの」

そう言ってから、れいちゃんは私の上にのしかかってきた。

「ゆうくん」

うるんだ目でわたしをじっと見つめた。

「なあに?」

「……愛してる」

耳元でのささやきだった。

「……」

「初めて使った」

私はその言葉を信じた。

答える代わりに、私は彼女のむっちりしたお尻をつかんで軽くもみもみした。それからわき腹をきゅっとひねった。彼女はひどくくすぐったがって体をよじった。そしてまた私の上に身を載せてきた。

「重くない?」

「重くないよ」

そのかっこうのまま、私たちは話し続けた。

「友だちって、よく会うの?」

大学以来の親友で、すごく仲がいいこと、とてもクールなので、彼女にはいろんな面で助けてもらったこと、婚活サイトも彼女に勧められて始めたこと、今度紹介すること、などをれいちゃんは語った。

「勧められたってことは、その絵理さんもサイトで彼氏見つけたの?」

れいちゃんは、私から身を離した。そして、少し考えてから、その通りだが相手が妻子持ちだったと告げた。奥さんにもばれてしまった、いまエリは、その複雑さのさなかにいる、とも。

婚活サイトへの登録は、当然、独身者であることが条件である。そういうルール破りに抵抗感はないかと、彼女は私に聞いてきた。

私は答えるのに戸惑った。

ああいうサイトには、ヤリモクの男が群がる。そのなかには、当然、浮気目的の男もたくさんいることだろう。いや、女だっているかもしれない。だからかまわないとは言えない。

その絵理さんの相手が、浮気目的だったのか、そうではないのか、それはわからない。

そもそも浮気と本気の間に線が引けるだろうか。本気のつもりが浮気で終わってしまうこともあるだろうし、浮気のつもりが本気に深入りしてしまうこともあるだろう。

また、私自身が不倫経験者だ。その立場からすれば、その男を道徳的に責める資格はない。

婚活ルール破りと言ったって、冷えた夫婦関係なら、そんなこともありうるだろうし、国法に触れているわけでもない。婚活サイトというようなシステマティックな仕組みでルール破りをするのと、ふつうの出会いが高じて一線を越えてしまうのとで、そんなに差があるとも思えない。

要は、当事者同士の感情の持ち方次第だろう。

愛憎の問題は、とりあえずルールとは関係ない。ルールがかかわってくるのは、エロスの関係がそのほかの社会関係とからまって、軋みを生じてしまってからあとのことだ。

私は聞いた。

「絵理さんは、その人を愛してるの?」

「うん。愛してる、と思う」

「それで、れいちゃんは、エリさんになんて言ってあげたの」

「応援するから闘うべきだって。諦めると決めた場合でもサポートするって」

なるほど。私は二人の友情が羨ましかった。

正しい、正しくないが問題じゃない。深く信頼しあっている親密な人どうしが、互いにどこまでも寄り添うこと。それがたぶん一番大事なことだ。たしか『論語』にもそんなくだりがあったな。

「それ、言うのに勇気が必要だった?」

「勇気、というか……何言ってあげられるかって決めるのにちょっと時間がかかったわね」

私は言った。

「……いいことを言ってあげたね」