堤 佑介Ⅳの1

                           2018年9月13日(木)

 

 先週の土曜に脈がありそうに見えた中高年夫婦が、午後早く再び訪れた。事前に「ほぼ決めた」旨の電話連絡があり、もう一度物件を見たくて来たのだった。この夫婦、他の人に取られてしまうのを心配して焦っていたようだ。

 岡田が勇んで案内し、1時間ほどして戻ってきた。私の傍らを通るとき、「ご成約、ご成約」とささやいた。私も「よかったな」と微笑みを返した。彼は、今日の残り時間は、この夫婦への詳しい説明や書類上の処理に追われるだろう。

 マンションの賃貸物件が新しくまとめて入り、山下、谷内、中村と派遣社員を含めた四人がその処理に追われていた。

 八木沢は前から売り出している中古マンションの来客を、パート社員と一緒に案内。駐車スペースがない場所なので、一人車に残る必要があるからだ。川越、本田ともう一人のパートが、新しく入ってくる客の窓口を担当していた。

 東日本チェインズという宅建業者間だけで共有できる情報機関がある。

 地域に入ってきた情報は、オーナーが断らない限り、すべてここに報告する必要がある。

 そのうえでポスティングのためのチラシ原稿を作り、本部に送る。さらに店内用のリーフレットを作成して、ネット広告も手配する。

 急がなくてはならない。物件が複数重なると、けっこう重労働になる。

 「山下さん、今日はたいへんだね。手伝おうか」

 「ちょっと数が多いですね。でもお任せください」

 「悪いね」

 「いいえ」

 ねぎらいの言葉をかけたのには、わけがあった。

 彼女たちはかなりの残業になるだろうが、私のほうは、この間のモデルハウス改築設計案についての意見報告書を仕上げればよく、しかも、退社後に友人の篠原と会う約束を交わしていた。

 所長の裁量範囲とはいえ、部下たちが残業で頑張っているところを定刻退社するのは、何となく気が引ける。私たちのようなこじんまりしたグループだと、親密さの度が強いので、よけいそういう空気に支配されるのだ。 もちろん、部下たちの側からすれば、もっとその空気には敏感にならざるを得ないだろう。

 篠原には、数日前にメールでアポを取った。

 こちらは火曜の夜が都合いいのだが、その日は出張で無理だという。一泊するので翌日も無理。金曜日以降ははこちらが書き入れ時なので、今日ということになった。

 

 篠原の大学は都心にあって、自宅は、ちょうど私のオフィスがあるけやきが丘のそのまた先の郊外に位置している。 私は私で、同じ私鉄を少し都心のほうにさかのぼる格好になる。それで、私はオフィスからあまり動かずに、けやきが丘の気に入りの居酒屋「夕凪」で彼と待ち合わせることができた。

 こちらの方は、いつもスタッフと行く居酒屋とは違う。かなり狭いので、みんなで労いあうための一杯には適さない。私はこの店を彼らに教えていない。いわば秘密の隠れ家だ。

 定時よりも少し長く職場に残ってから、おもむろに店に行くと、カウンター席の奥で篠原はもう背中を丸めてビールを飲んでいた。猫背がいっそう高じてきたような印象だ。

 「なんだ、早いじゃないか」

 「おう、お先に失礼。今日は四限で終わったんでね」

 「出張はどこだったんだ」

 「大分。県立高校の社会科教師の会で講演に呼ばれてね。大分なんてずっと昔、一度行っただけだから、これ幸いと観光も兼ねてきたよ」

 「別府でのうのうと温泉三昧か」

 「別府じゃなくて湯布院に泊まったんだ。泉質にコバルトがふくまれていて、青い湯のホテルがあってさ。なかなか神秘的なんだよ。久しぶりにいい気分になって、あくる日、日田まで足を延ばしてきた」

 「日田っていうと、ずいぶん内陸のほうだろう」

 「うん。ところがあそこはさ、江戸時代、天領で、西日本じゃちょっとした金融の中心地だったらしいな。広瀬淡窓って知ってる?」

 「名前だけは聞いたことがあるけど、儒学者だったっけ」

 「そう、その儒学者が咸宜園という塾を流行らせて、全国から大勢の塾生が集まった。実践的な教育を重んじたんだけど、彼の弟が金儲けに長けていて、日田を金融の町に仕立て上げた中心人物だったんだ。兄の実学主義と弟の現実感覚とがどこかでつながっていたようだ。学問と金融で栄えた名残が今もあってね。豆田町というところが観光地としてけっこうにぎわっていたよ。なかなかよかった。もっと日本人が行くべきだな。」

 「羨ましいな。俺も暇があったら行ってみたいよ。二泊三日がなかなか取れない」

 「日本人はあんまり旅行しなくなったな。家計が苦しい人が多いんだろう。そういえば湯布院の近くに金鱗湖っていう小さな湖があってさ。そこもにぎわってるんだけど、聞こえてくるのが韓国語ばっかりだった。安っぽい土産物屋がずらっと並んでて、日本を珍しがる韓国人向けの品しか置いてないんだ」

 「そういえば、対馬なんかは観光客だけじゃなくて、業者もほとんど韓国に占領されてるらしいな」

 「うん。困ったもんだよ。堤のところなんかも中国人や韓国人がけっこう来るんじゃないか」

 「俺のところはほとんど来ないな。しかし日本政府は弱腰で困るよ。そのうち中国にとられちゃうかもしれない」

 「これ知ってるか。中国人の不動産爆買いが進んでて、日本の全国土の2%がすでに買い占められてる」

 「2%ね。それでもまだ50分の1か」

 「ところがこれが静岡県全県の面積に匹敵するんだ」

 「え、そんなになるか」

 ため息が出た。

 そのうち、私のところにも中国人が訪れるようになるかもしれない。正直なところ、職業柄、ちょっとめんどうだなという気持ちになった。

 

 「お飲み物は」

 可愛いことで評判をとっているアキちゃんという若い奥さんが注文を取りに来た。

 この店は夫婦で仲良くやっている。

 マスターはややむくつけき風体だが、腕は確かで肴が実にうまく量もたっぷりだ。生牡蠣などはちょっと他では食べられないような立派なのが出てくる。酒も種類が多い。

 まずはビールと一緒にいくつか好みの品を頼んだ。アキちゃんは素早く書き取りながら、 「こちらは大学の先生か何かでいらっしゃる?」と聞いた。

 「やっぱりわかる?」と私のほうが答えた。

 「ええ、いかにも教養がありそうな雰囲気で」

 にっこリ笑って愛想を振りまく。

 「おい、教養がありそうだってさ。少しは猫背を直したらどうだ」

 「うむ。これは研究熱心な証拠だから直らないな」

 「ところで講演の演題は?」

 「晩婚化とこれからの日本」

 「おや、それは切実なテーマじゃないか。俺もそのへん大いに関心があるよ」

 「晩婚化が不動産屋とどうかかわるのかね」

 「大いにかかわるとも。これでもひと様の生活意識をつかむのが仕事だ。これからの家族形態がどうなっていくのか、知っておかないと商売にかかわる。これは篠原の領域と大いにかぶるじゃないか」

 「ああ、なるほど。堤も研究熱心だな」

 「研究熱心なんだか、好奇心が強いだけなんだか。それでどういうことを話したの」

 「最近の男女関係の傾向について。政府の少子化対策のどこがおかしいか。これから結婚や家族がどうなっていくのか」

 「ああ、重大な問題だな。俺も素人なりにそれ考えたんだけどね。違ってたら言ってくれ。政府は育児休業の拡充とか幼児教育の無償化とか児童手当増やしたりとかしてきたけど、あれって少子化対策としては間違っているんじゃないか。子ども産める夫婦はけっこう裕福で、その裕福な層に児童手当や教育無償化とかやったら、かえって格差が開くだろう。本当は結婚しない男女が増えちゃったから子どもも生まれなくなったんで、子どものいる夫婦を支援する以前に、どうやったら若者が結婚するかを考えるべきだったんじゃないの」

 「そのとおり。日本人は欧米と違って婚外子をすごく嫌うんだよ。だからまず出会いから結婚までをサポートすることこそが大事なんだ。それは、できちゃった婚が多いところにも表れている。できちゃうと結婚に対するモチベーションがぐっと高まるんだよ。それと、少し前までは結婚すれば二人以上産んでた夫婦がけっこう多かったんだけど、最近では、結婚したカップルでも、一人しか産まないとか、子どもを産まない夫婦が増えてるね」

 「やっぱりね。それはこれからの日本にとって困ったことだな」

 「うん。その困ったことってのもさ、みんなはただ漠然と人口減少が国力を減退させるから困るって思ってるだろう。だけどあれは違うんだよ。人口減少そのものは、緩慢な変化だから、いますぐどうってことはないんだ。差し迫った問題は、高齢化と少子化が同時に起きていることなんだよ。」

 「というと?」

 「つまり人口減少のカーブよりも、生産年齢人口の減少カーブのほうがずっと大きい。そのギャップが人手不足とか、年金問題とか、いろんな問題を引き起こしてるんだ」

 「ああなるほど。要するに弱って働けなくなったじじばばが増えちゃって、少なくなった現役世代がそれを支えなくちゃならない、と」

 「そういうこと。政府は人手不足を移民で解決しようとしてるけど、あれもすごくまずいね。移民を大量に受け入れた欧米が今どんなひどいことになってるか、見ればわかるはずなのに」

 「しかしこれからの若者はますます結婚しなくなっちゃうんじゃないか。なんかそんな予感がするんだけど」

 「そうだろうな。だからもう少子化に歯止めをかけようって発想は捨てて、少子化を前提として対策を考えていかなくちゃならない」

 「篠原式対策は?」

 「それはAIでもなんでも技術力を駆使して労働者一人当たりの生産性を高めていくほかない。あとは給料上げて、日本人で余ってる人材を掘り起こすことだ」

 「だけどそれには企業がどんどん設備投資や人材投資していかなきゃならないだろう。企業は内部留保ばかりため込んで、一向にその気配がないじゃないか」

 「そう、それは政府が積極的な財政政策を打たないで、財源ばっかり気にしてるからだよ。最終的には財務省の緊縮路線が、デフレ脱却を阻んでるのさ。財務省は諸悪の根源!」

篠原は吐き捨てるように言った。絶望、とは言わないまでも、かなりペシミスティックなトーンがこもっていた。

 

 「お飲み物のお代わりはよろしいですか」

アキちゃんが近寄ってきて言った。見るとジョッキは二人とも空になっていた。

 「十二代ある?」

 「はい、ございます」

 「あ、僕もそれ」

 この店では、日本酒をブランデーグラスに入れてくれる。そのおしゃれな感じが私は好きだった。

 「そういう話を大分でしたわけね。それでどうだった。講演してて、聴衆の反応は」

 「うん。やっぱりのんびりしてるな、地方は。俺を呼んでくれた先生は俺の本を読んでるからしっかり問題を把握してるんだけど、他の聴衆はしんとしてて、質問もほとんど出ない。動員かけられて仕方なく来てるって感じだな。担当の人たちはそりゃ親切で、ものすごく優遇してくれるんだけどな」

 「そうか。大都市で問題にされてるほどじゃないってことだな」

 「なってない、なってない。ていうか、少子化や晩婚化は、若者が流出してしまう地方でこそ深刻な問題で、そのことはみんなわかってるんだ。でも日本全体の動向や経済情勢が絡んでいるから、一地方自治体レベルでは、どうしようもない」

 「大分県なんかだと未婚率とか初婚年齢とか、それから何て言ったかな、50歳以上になっても一度も結婚したことがない男女の率」

 「生涯未婚率。どれもランキングで言うと確かに低い方に属するけど、大した差じゃないな。要するに全国的に晩婚化傾向が顕著だってことだよ。でも意識の問題としては、教育の中にその問題を取り入れていこうっていうような発想がなかなか出てこないみたいだ」

 「文科省は、そういうお達しを出してないのかね」

 「全然。仮に出したとしたって、現場には届かない。効果はないだろうね」

 「そうすると、その、深刻さはわかっているにもかかわらず、打つ手もなく何となくぼんやりしてる、その理由ってのは」

 「まあ、俺みたいに客観的な社会現象として分析している学者と、自分の人生の問題として考えてる人たちとは距離があるってことかな。『学問の要は活用にあり』なんだけど、その活用の道筋が昔みたいにうまく見えなくなってる」

 「若者が結婚しなくなった理由は、何なのかね」

 「それはいろいろ考えられるけど、やっぱり何と言っても経済的理由だな。若者の結婚願望統計を見ると、やや低下傾向はあるけど、そんなに下がっちゃいないんだよ。俺の授業でさ、『将来結婚したいですか』ってアンケートとるんだけどね。そうすると、まずほとんどの学生が『したい』と書く。そのうえでさ、さっきの生涯未婚率の話を出して、君たちのうちで四人に一人は一生結婚できないというと、みんなびっくりするよ」

 「要するに結婚したくても金がかかるからできないってことか。やっぱり不景気の影響かね」

 「そう。それが一番大きい。でもみんなそのことに気づいていないんだよ。マスコミは景気がよくなったなんて言ってるけど、あれはウソだ。実質賃金はここ二十年、下がりっぱなしだからね。それにいま、非正規社員がうんと増えてて、短期間の転職も多い」

 「すごく不安定な時代だな」

 「うん。将来見通しが立たないから、結婚に踏み切れない。多くは親にパラサイトしてる状態だね。だから四十代になってもバイトで食いつないでいるなんてのはざらだよ。これは職業スキルが身につかないし、親がこけたらどうするんだって問題があるから困った状態なんだけど、当の学生諸君たちは、自由な働き方がいいなんて考えているみたいだな。」

 「でも二十歳や二十五の若者に将来のことまでも戦略的に考えろというのはちょっと無理なんじゃないかな。こないだ来たウチの客でも、芝居に夢中になっていたんで、気づいてみたら派遣しかなかったってのがいたよ」

 「それはそうだろうけどさ。でもそこが企業の目の付け所だよ。こんな情勢じゃ、これからブラック企業はますます増えるんじゃないかな。それともう一つ、これは地方に多いんだけど、結婚をためらう理由に、親の世代にイエ意識が残ってるもんだから、女性が相手の家に嫁として入るのを嫌がるってのもある」

 「ははあ、なるほど。その後のほうの理由と関係があるかどうかわからないけど、俺は女性が経済力を持ったのと、コンビニやスーパーが個食をたくさん揃えるようになったんで男も女も独身でも困らなくなったことが大きいんじゃないかと思ったんだけどね。これは俺自身の実感でもある」

 「うーん。それはどっちかというと原因であるよりも結果だな。ビジネスは男女の動向を敏感にとらえるからね。」

 「ああそうか、なるほど。つまり独り暮らしが多いのを見越して」

 「そう。そういえば俺の同僚でね。もう50代だから、それこそ生涯未婚率にカウントされちゃうんだけど、いい人がいれば結婚する気でいたんだ。仲間が仲介を買って出て、そいつのことを、こういう人がいるけどどうですかって、女性に持ちかけたんだそうだ。そうしたら、その同僚に会いもしないうちから、全然そんな気はありませんって言われたんだって。しかもなんとそれが三回もあったそうだ」

 「みんな別の女性?」

 「もちろん。その同僚はあきらめ気味に苦笑していたよ」

 「それだけ聞くと、女性の方が結婚願望が下がってるように思えるな。でもその相手ってのは、一部のインテリ女性じゃないのかな。一方では結婚相談所とか婚活サイトなんかはすごく盛んなんだろう?」

 「そう。だけどあの種のビジネスは、メジャーなところは収益は上がってるけど、それでも成約率は低いみたいだよ。実際にどれくらいかは、企業秘密だからわからないけどね。つまり、昔と違って女性のほうの理想水準が上がってて、それに応えられるだけの男がなかなかいないんだよ。結局、全体としては結婚願望はあるけど、さまざまな理由でミスマッチが多いってのが現状」

 篠原は、まるできっぱりと結論づけるように、グラスをぐいと上げて、残りの酒を飲み干した。

 二人とも酒がなくなったので、もう一杯注文した。少し腹を膨らませるために、追加でナスの味噌炒めとだし巻き卵。

 「アキちゃん、お嬢さん、いくつになったんだっけ」

 「5歳です」

 「早いなあ。そろそろもう一人どう。少子化の歯止めに貢献しなくちゃ」

 マスターにも聞こえたらしい。アキちゃんは、彼のほうにちらりと目配せしてから、恥ずかしそうに笑って答えた。

 「ハイ、頑張ります」

 マスターも包丁をたたきながらにやりとした。

 

半澤玲子Ⅳ

 

                                    2018年9月13日(木)

 

 今日はちょっとしたトラブルがあった。

 出勤して間もなく、社内でニュースが流れてきた。

 ウチの製品で、キーピィという子ども用の日焼け止めジェルがある。

 今年の夏、一部の地域で出荷されたその製品を自分の赤ちゃんにつけていた複数のお母さんから、赤みやはれが生じたというクレームがコールセンターに寄せられたのだ。

 赤ちゃんの体質にもよるので、一応注意書きには、そういう兆候が出た場合には、皮膚科に診せることを勧めてはいる。しかし、今度の場合は、いままでになかったことでもあるし、クレームの数も二ケタ近くに上った。

 こういうクレームはふつう、まず総務部に上げられて、そこで対処法が議論される。

もし製品そのものに欠陥があるのだとしたら、ブランドの信用にかかわるかなりの騒ぎになる。

 マスコミに知れる前に事実を一つ一つ確認し、そのうえで、機先を制してこちらから発表しなくちゃならない。社員をたくさん動員する必要があるし、出荷分の回収が必要だし、場合によっては製品全体の販売停止に追い込まれる可能性もある。

 総務部と経理部は同じフロアにある。五十嵐次長が大きなお腹を突き出しながら、いつになく緊張した顔つきで、何度も出たり入ったりしているのが遠目に見えた。優しい五十嵐さん、応援してるから頑張って。

 しかしそれだけではなかった。

 クレーマーの中にしつこいのがいて、電話で直接対応したコールセンターの社員がストレスのあまり倒れてしまったというのだ。

 「とにかく謝れ」が最近の傾向である。これってどうなのかしら、と疑問を持つ人は多いけれど、それ以外に手がない。キレちゃったらおしまい。

 モンスター・クレーマーは、自分の日ごろの不満を発散するために電話をかけてくるので、こちらがいくらていねいに対応しても聞く耳を持たない。

 口汚いくらいは当たり前、「出るところに出るからね」「他の製品一年分よこせ」などといった脅迫まがいのもある。一人のお客様係ではとても対応しきれない。

 私にも身に覚えがあるので、他人事とは思えなかった。

 会社にはそれなりに衛生管理の部門があって、カウンセラーも配置されているけれど、しょっちゅうそういうところにお世話になるのも、なんだか癪な話。

 「笑顔を絶やさず」何とか頑張って見せなくては、職業人としてのプライドが許さないし、だいいち、人事評価にもかかわってくる。

 大げさとは思うけど、「王様と奴隷」という言葉がふと浮かんだ。みんな平等な社会ということになっているから、身分がそういうふうに固定されているわけではない。そうすると、わたしたちは、自分が消費者の時には王様になれるけれど、逆に消費者に対応する時には奴隷にならなくてはならない。

 こういうまわりまわった関係になっているので、あるところで奴隷の気分を味わわされたその不満を、立場が変わった時に王様になって発散することになる。

 これって悪循環じゃないかしら。

 なんだかこういうことが、最近増えてきたような気がする。

 妹の子どもたちの学校にも、モンスター・ペアレントっていうのがいて、採点にいちいちケチをつけたり、ウチの子どもをリレーの選手にしろとか、どんな教え方をしてるのか疑わしいから毎日参観させろとかいうのがいるんだそうだ。

 個人主義って、干渉しあわなくて気持ちのいいところもあるけど、自分のエゴばっかり主張するようになると、いやな風潮だなあと思う。

 今日聞いたクレーム事件の場合、製品に問題があるならもちろん社としてきちんと処理しなくちゃいけない。でも、倒れちゃった人のことを考えると、こんな「お客様は神様」式のやり方を続けていていいんだろうかって言いたくなってくる。

 テレビでの謝罪会見て、しょっちゅう目にするけど、あれも見ていてあまり気持ちのいいものじゃない。あれって日本人特有じゃないかしら。もっと正当に釈明すべきところはした方がいい。受け取るマスコミの側も、釈明を許さないような圧力をかけるのをやめるべきだ。

 おまけにこの頃は、ネットでの匿名のバッシングがものすごい。わたしたちみんながお互い、何か見えない妖怪のようなものと向き合っている感じだ。

 今日のことは、私のいまの部署には直接かかわらないので、黙って観察してればよかった。でもことと次第によっては、こちらにも類が及んでくる。

 そんなことを考えていると、なんだかひどく精神的な疲れを感じてしまい、一人でマンションに帰る気がしなくなった。こういう時、優しい彼氏でもいればなあ。

 でもそれはかなわぬ望み。今日は母のところにでも寄らせてもらおう。

 

 母は武蔵野に一人で住んで、遺族年金で食べている。いまでも細々とお花を教えていて、そこそこ副収入になっているらしい。

 父は3年前に肝臓がんで亡くなった。74だった。働き過ぎとお酒。

 それでも中堅企業の役員クラスまで上り詰めたので、多少の遺産を残した。じつはわたしが今の会社に入社できたのも、父のコネが多少効いているらしい。またマンションを買った時も、少し援助してもらった。

 5時に電話を入れると、向こうもうれしそうだった。

 「何時ごろになるの?」

 「8時前くらいには行けると思う」

 「お夕飯作って待ってるわ」

 「ありがとう」

 駅からバスで5分ほど。市街地からは少し外れた閑静なところだが、バスは都心から帰る客でけっこう混んでいた。

 実家は30何年も前、わたしが中学生、妹が小学生のころに父が建てた二階家で、公園の際にあった。

 「ただいま」

 「お帰り。割と早かったわね」

 「うん。ああ、でもお腹すいちゃった」

 「すぐ食べられるわよ」

 教室にしている玄関わきの8畳の和室は襖が開けてあって、床の間に母が活けた花が飾ってあるのが見えた。ワレモコウを立てる形にして、薄紅色のケイトウをふたつ足元にあしらった大原流の流れ。

 「お母さんらしい活け方ね。清楚だわ」

 「このごろはもう、あまり派手なのは避けるようにしているのよ。玲子は最近やってるの」

 「ごめん。ほとんどやらなくなっちゃった」

 「仕事で忙しいだろうからね」

 父の遺影に手を合わせてから食卓についた。

 鰤の照り焼きに里芋の煮つけ、トマトに豆腐の味噌汁。わたしの好物が並んでいる。

 「仕事は順調?」

 「順調っていうか、もうルーティン・ワークだから。忙しくたって忙しくなくたって、おんなじようなものだわ」

 ごはんをぱくつきながら答えた。

 「今日、コールセンターの子が、客のしつこい苦情に参って倒れちゃったんだって」

 「倒れたって……入院でもしたの」

 「それはよくわかんないんだけど、たぶんストレスでめまいでも起こしたんじゃないの」

 製品に瑕疵があったかもしれないことは言わない。親であっても、これは企業秘密。

 「まあ、その子は可哀相だけど、玲子じゃなくてよかったね。お前もコールセンターにいたことがあったね」

 「あの頃はわたしもたいへんだった。お父さんやお母さんには言わなかったけど、倒れる寸前のこともあったわ」

 母は、わたしの結婚生活の破綻には触れないようにしてくれる。また、再婚しろとも決して言わない。それはとてもありがたい。でも実家から職場までそんなに遠くないのに、別れて互いに独り暮らししていることには反対らしく、実家に帰るたび、家に戻ってくればよいのにと、それとなくほのめかす。

 それはしかし、母が父を失って心細くなったからではなかった。自立心の強い人だから、子どもに迷惑をかけることを極端に嫌っていたし、子どもの意向をどこまでも尊重するタイプだった。また孤独を愛するふうもあった。

 ただ、昔の人だから、親子が両方とも独り暮らしをしてるのは、型として不自然だと思っているようだった。それに、確かに不経済な話だ。マンションを売れば少しはお金ができるわけだし。

 わたしが離婚しても実家に戻らず、独り暮らしを続けているのには、はっきりとした理由があるわけではない。父を疎ましく思っていたのでもないし、母とは昔からとても仲良しだった。

でも何というか、わたしにとっては、一度家を出てしまった以上、一人で生きていくのが自然に思えるのだ。慣れてしまったといってもいいかもしれない。地方への転勤が重なったこともあるし。

 だから一度自由を味わってしまうと、なかなか古巣に帰る気になれない。

 とはいえ、時々帰りたくなるところを見ると、やっぱり母に甘えたい気持ちもあるのだろう。今日も自分に直接災難が降りかかったわけでもないのに、実家の懐かしいにおいを嗅ぎたくなってしまった。

 庭はそこそこ広いし金木犀や紫陽花、山茶花や柿の木がある。公園は森になっていて武蔵野の柔らかい風が梢を通して季節ごとの香りを運んでくる。わたしの膝ではさっきからハナが気持ちよさそうに居眠りしている。

 「やっぱりここに帰ってくるとくつろぐわね」

 「そろそろ里心がついた?」

 「うーん、そうかもしれない。でもさ、わたしって別荘があるみたいなもんでしょう。このぜいたくもまた捨てがたいんだなあ」

 「ふふ……実家じゃなくて別荘か。勝手なこと言ってるよ」

 そうつぶやいたきり、母はそれ以上何も言わなかった。

 

 「話は変わるけどさ、わたし、こないだ通勤電車で痴漢に遭っちゃったのよ」

 「ええ? それでどうしたの」

 お茶を継ぎ足しながら、母は目を丸くしてこっちを見た。

 「ま、うまくすり抜けたけどね。でも久しぶりだったんで、ちょっと複雑な気持ちになったんだ」

 「複雑な気持ちって」

 「つまりね、わたし、もうこんな年でしょう。まだそういうことがあるのかと思うと、何ていうの、男どもは自分のこと、若い女として見てるのかなあと……」

 「それでうれしかったっていうの」

 「うれしくなんかないわよ。蹴とばしてやりたくなった。その日一日やな気分が残ってたわ。でも、そういうことが全然なくなっちゃったら、それはそれでどうなのかなって」

 母は少し考えるふうにしてから、分別をわきまえたゆっくりとした口調で言った。

 「いまの人たちは昔と違ってとても若く見えるからね。みんな出勤の時はお化粧してパリッとした服装で出かけるんでしょ。玲子だって47には見えないと思うよ。わたしもさ、街歩いてて、この人はいくつぐらいだろうって見当がつかないこと、よくあるもの。こないだ入会した生徒さんでね、どう見ても20代にしか見えないんだけど、入会録に42って書いたんでびっくりしたわ」

 やっぱりそうか。エリが言ってくれたのもまんざらお世辞や元気づけじゃないのかも。自信を持て、自信を持てと、もう一人の自分が囁いているように思った。

 「そうね。そういえばお母さんも75にはとてもみえないわ」と、これは、フォローしてくれたお返しのつもり。

 「ねえ、お母さん。変なこと聞くけど、最後に痴漢に遭ったのって何歳ぐらい?」

 母は、一瞬、答弁に詰まった政治家のように顎を引き、それから目じりに皺を寄せ、口元に微笑みを浮かべて言った。

 「さあねえ。わたしはあんまり電車に乗らないほうだからねえ。やっぱり45くらいまでかしらね。今の人と違ってそんなに若く見えなかったしねえ」

 恥じらうようにお茶を急須に継ぎ足しに立った小柄な母が可愛く見えた。

 ハナが目を覚まし、わたしの膝から降りて、母のほうに歩み寄った。

 「やっぱり、そうか。45か」

 帰ってきた母は、つぶやいたわたしの言葉をまともに受け止めるかのようにじっとこちらを見つめた。それから言った。

 「わたしのほうから変なこと聞くけど、生理はまだあるの」

 こんどはこちらが面食らう番だった。

 「……おかげさまで、まだ一応。時々不順かなあ」

 「そろそろ更年期ね。そういう兆候はない?」

 なにせアラフィフだ。心配されて当然だった。

 「うん、それも考えてはいるけど、少し疲れやすくなったぐらいで、目立った症状とかはないわね」

 「まあ、いまはいい薬や治療法もあるみたいだからね。それらしい症状が出たらすぐお医者さんに相談するといいよ。仕事で無理しないようにね」

 「ありがとう」

 母はしばらく間を置いてから遠慮がちに言った。

 「再婚するつもりはないの」

 初めての一撃だった。

 じつはわたしは、今夜ここに泊まらせてもらって、明日、例の婚活サイトに登録するためのプロフィール文を念入りに書くつもりでいたのだ。タイミングぴったりだ。気持ちを見抜かれているようだった。

 掲載する写真はすでにスマホにため込んだスナップと、新しく撮った何枚もの自撮りのなかから最良と思えるものを決めてある。

 どのサイトがどういう特徴を持っているかについて、きちんと紹介しているブログなどもけっこうある。目的別、シェアのランク、課金のしくみ等々。その種のサイトも、それなりによく調べてみた。

 また男性の中には「ヤリモク」といって、Hするだけが目的で登録しているのがたくさんいるという情報もあった。恋活サイトはヤリモクの巣窟とあり、自らヤリモクだった男が足を洗って、女性向けにヤリモクを避けるためのコツをわざわざご教示してくれている。

 これには笑ってしまった。そんなものだろうな、と思った。けれどこんなバツイチのオバサンにヤリモクで近づく男は、ほとんどいないでしょう。

 男はいくつになっても若い女の肉体を求めるものだ。仮にフケセンがいたとしても、こちらが本気度を示して拒否すれば問題ない。

 さて、エリがトップのシェアを占めているサイト「Couples」を選んでいたのに対して、わたしは二番手の「Fureai」というのを選んだ。自分にはこっちの方が性にあっているかなと思ったのだ。

 昔から、何となく一番人気を避けるようなところがわたしにはある。今の会社も業界トップではない。マンションも、一流どころではなく、ちょっとマイナーな不動産会社が売り出している物件を選んだ。

 それにしても、婚活、恋活サイトには、外国人向けも含めて、300以上あるのにはびっくりした。

 きっとこの業界も栄枯盛衰が激しいのだろう。中にはかなりいいかげんなものもあるに違いない。でもこれだけあるのは、少なくともニーズが豊富な証拠だ。ということは、いかに真剣な出会いを求めている男女が多いかを示している。

 さくらちゃんが言ってた「代理婚活」だって盛んらしいから。でも代理婚活って、結局お見合いと大して変わらない。それが立派なビジネスになってしまったというのが、昔と違うところだ。

 自治体や民間で催しているイベントのたぐいも調べてみた。しかし年齢制限で引っかかった。都内でもいくつかの人気地区で、盛んにイベントやパーティが行なわれていたが、だいたいが女性二十代、男性三十代前半までで、最高でも39歳までだった。

 そりゃあそうよね。四十代後半のわたしがのこのこそんなところに出かけたって、お呼びでないに決まってる。

 結局、婚活サイトぐらいしか可能性はない。とにかく、エリに勧められて、ここまで来てしまった。そうである以上、自分の決意をより固めるためにも、親しい人に何らかのかたちで話す、ということが大事に思われた。

 「再婚する気はないの」

 こういうことを聞く人はこれまで山ほどいたけれど、いつも適当に受け流していた。しかし一度も正面切って問うたことのない母から尋ねられると、そうはいかない。手にしていた湯飲みをいったん食卓に置き直してから答えた。

 「そうね。ちょっと考えはじめたんだけど……もうぎりぎりだもんね」

 「……誰かつきあってる人……いるの」

 今度はもっと遠慮がちな口調だった。

 「……じつはこれから探そうと思ってるのよ」

 頼りなく聞こえたに違いない。「いる」とウソをついてもよかった。「どんな人?」と聞かれたら、適当にごまかしてしまえばいい。

 でもそんな簡単に見つかるわけないものね。正直に答えた方がいい。

 「どうやって」と突っ込まれることを覚悟した。でも母は、

 「そう。いい人が見つかるといいわね。いま寿命が長くなってるから、これからの人生、きちんと考えておかないとね」

 そう言ったきり、それ以上追及しようとはしなかった。でもその言い方には、何となく安心したような響きがこもっていた。母の優しい言葉と心遣いが、また少し私の背中を押してくれたような気がした。

 明日は時間をかけて自己紹介文を練ることにしよう。エリのアドバイスも入れて、余計なことは書かずに、簡潔に。

 

半澤玲子婚活サイトFureaiプロフィール】

 ニックネーム:ワレモコウ

 年齢:47歳(認証済み)

 身長:159㎝

 タバコ:吸わない

 趣味:活け花、ショッピング、映画、美術鑑賞、温泉、国内旅行

 

 《自己紹介文》

プロフィールを見ていただき、ありがとうございます。

年齢が高いので、ずいぶんためらいましたが、友人に勧められて、思い切って登録しました。

毎日仕事に追われ、出会いの機会がほとんどないうちに、ここまで来てしまいました。

でも、これからの人生のことを考えると、先が長いので、このままひとりで老いていくのには、とても寂しいものを感じます。

どちらかというと、インドア系で、静かな生活が好きです。

東京在住ですが、若い頃、仕事でいくつかの地方をまわりました。そのせいか、それぞれの土地の特色を味わうことに関心があり、休暇をとって国内各地を旅行することが時々あります。

年よりは若く見えると言われますが、これはお世辞かもしれません。

極端に離れているのでない限り、相手の方との年齢差にはこだわりません。

相手の方のお話に合わせるのは、わりと上手なほうです。

お料理は、普通にできます。煮物などが得意です。

わたしのことを可愛いと思ってくださる方との、長くつづく着実なお付き合いを求めています。

 

 《ディテール》

 職業:トイレタリー系企業経理部

 休日:土日

 体型:やや細め

 居住地:東京

 出生地:東京

 家族:母、妹

 同居人:独り暮らし

 年収:500万円以上

 婚姻歴:離婚

 子ども:なし

 好きな料理:和食、イタリアン

 お酒:時々飲む

 性格:温和・明るい

 学歴:四大卒

 休日の過ごし方:映画鑑賞、ショッピング、友人と会う、散歩、美術館巡り

 転居の可能性:時と場合による

 望ましい交際:ゆっくりメール交換をし、機が熟してから会う

 

 

堤 佑介Ⅲ

 

                                      2018年9月8日(土)

 週の初めにだいぶ気温が下がって過ごしやすくなったと思ったのに、週半ばからぶり返して、今日はまた真夏日だ。

 それよりも、4日に台風21号が西日本を直撃し、関空への連絡橋にタンカーが衝突、多くの倒壊・半壊家屋が出た。それもつかの間、6日の夜中に今度は北海道胆振地方で震度7が襲って、全道がブラックアウトしてしまった。

 いやはや今年の日本は猛暑、水害、台風、地震と自然の猛威が立て続けにやってきて、これは神様の何かの警告ではないかと言いたくなる。

 首都圏はいまのところ被害に遭っていないが、いつ直下地震や南海トラフ地震がやってこないとも限らない。

 少し前に土木学会が阪神淡路大震災のデータをもとにして、南海トラフ地震による被害総額のシミュレーションをやっていたが、それによると、なんと1400兆円、首都直下の場合だと700兆円を超えると推定していた。こうなったら日本は終わりだ。

 政府はソフトな防災対策ばかりやらないで、インフラなどハードな対策にどんどん金をつぎ込んでもらわないと困る。「ヤマモリ」なんてくだらない問題で時間を空費して、政治家や官僚はいったい何をやっているんだろう。

 もっともあれは野党があらさがしのために仕掛けているんで、民自党は早く打ち切りたくてしょうがないんだろうな。野党もどうしようもないな。

 わが不動産業界だって、他人様に商品を進めるのに、耐震性や浸水の防止など、防災関連の部分をもっともっと重視しなくてはならない。お客さんも当然そこを突いてくる。

また、いくら災害列島だからといって、日本から逃げ出すわけにはいかないんだから、毎日の活動をやめることはできない。建設中のビルや住宅も、粛々と進めるほかはないわけだ。

 

 折しも今日は、大手から販売を委託された新築物件の発売開始日だった。

 初日なので、私も現地に行かなくてはならない。こういう時は一応、責任者の威厳とやらを客に示しておく必要がある。「威厳」などと言う言葉を浮かべてみて、少し自嘲的な気分にもなったが。

 山下以下、賃貸担当グループに後を任せて、現地へは4人で赴いた。山下はベテランだから、彼女に任せておけば、たとえ売買の部分が手薄になっても大丈夫だろう。

 ウチでは、賃貸と売買とに担当を一応分けている。賃貸のほうが物件数が多いし、維持管理業務もあるので、人数を多く配置している。

 しかし、格下の社員は時々担当を入れ替えて、臨機応変に対応できるようにしている。こうしておけば、一種の社員教育にもなって、一石二鳥だからだ。

 新築物件は、駅から徒歩20分、バスだと7分、バス停からは徒歩3分、土地190㎡、二階建て、延べ床面積112㎡、価格8,780万円。

 うーん、これで買い手がつくか微妙なところだ。しかし相場からすれば、条件はそんなに悪くないから、案外客がつくかもしれない。

 幟を何本か立てた。チラシも相当撒いた。ただ、マンションに比べると、ここのところ戸建ては相当売り上げが落ちているのが心配だ。先だっての若い男が言っていた「フユーソー」を狙うしかないだろう。

 洋間の一室があらかじめ仮のオフィスに充ててあり、私はそこに座り(と言っても、客が来れば立ち上がって出迎えるが)、岡田が主たる説明役、八木沢が補佐、受付役に去年正規として入社した川越嬢。

 9時に到着して、10時開場。前にも何度か下見しているが、やはり新築特有のいい香りが鼻をくすぐる。

 「今日は晴れたのはいいですけど、暑さが気になりますね。いまから30度近いですからね」と岡田。みんなの士気が落ちてはいけないと思って、私が応じる。

 「うん。でも雨よりはマシだろう」

 ところが出だしは上々だった。午前中だけで、17組が訪れた。3組の夫婦が同時に内見に訪れた時間帯もあった。

 天候はけっこう決定的なのだが、暑さはどうやらそんなに響いていないようだ。みんなもう慣れてしまったのかもしれない。

 中に脈のありそうな中高年夫婦がいた。ていねいに書かれたシートを見ると、夫57歳、妻54歳、子どもが社会人一年生の姉と大学生の弟二人。中堅IT関連企業の管理職で、年収も悪くない。

 私と年齢が近いので、ふと羨ましい気持ちが心をよぎる。

 この夫婦には岡田が対応した。

 「子どもが自立しないもんですからねえ。マンションが手狭になって」

 奥さんがニコニコしながら言った。

 「新築ってやっぱりいいわねえ。設備が素晴らしいわ」

 「最近は、そこに力を入れませんと、お客様に喜んでいただけないんですね」

 「庭がけっこう広いのがいいね」とご主人。

 「お庭造りなどは」

 岡田がそつなく奥さんに水を向ける。

 「わたし、前からの夢だったんです。ベランダや室内に鉢植えを置くだけでは物足りなくて」

 「ここですと、季節の花がいろいろと楽しめますよ」

 「そうですね。バラなんかにも挑戦してみたいわ」

 もう住んだ気になっている奥さんをよそに、ご主人はしばらくあちこちを見まわしている。やがて今度は私のほうに向きなおって聞いた。

 「この建物は、耐震級数はいくつですか」

 来た、と思った。最近の客はよく研究している。

 「はい。最高度の3を採用しております」

 パンフレットを見せながら、地盤の揺れの建物への影響を最も少なくする免震構造を採用していることも説明する。

 「この構造だと、普通の耐震設計と違いまして、最高震度7まで持ちこたえます。」

 次なる質問。

 「この地域一帯の地盤て、大丈夫なの?」

 いいところを突いてくる。

 「はい。杭を打ち込んで固い地盤にぶつかるまで何センチかを調査するんですが、この地域は、19センチで、関東では2番目に安定していることがわかっています。土地によっては50センチくらいずぶずぶ行っちゃうところもあるんですよ。あと免震構造は軟弱な地盤にはむしろ不向きなんですが、ここは盤石ですから、その点でも適合していると言えるんですね」

 熱心に説明を聞いてくれた。客の中には、冷やかしも多く、「こんな高い金、うちじゃ無理だよ!」などと捨て台詞を吐いて去っていく人もいるのだが、この夫婦は違った。

 

 午後もそこそこ盛況だった。三十代後半から四十代が多かった。金利が低いので、チャンスと見ているのだろう。消費増税の前の駆け込みを狙っている点も挙げられる。

 一人の男性客が訊いた。

 「来年10月になったら10%払わないといけないわけですよね。この価格だと8%との差額が……」

 八木沢が最後まで言わせずに応える。

 「ええ。18万近く出ますね。大きいですよね。ただ一応はそうなんですが、阿川政権の決定が不透明なものですから、それが出るまでは私どもも8%で計算させていただいております。」

 「というと、10月以降でも8%のままっていう可能性もあるわけですか」

 「皆無ではございません。おそらく年末までには決定すると思うんですが。申し訳ございません。今の時点で確かなことが申し上げられなくて」

 「軽減税率は適用されるんですか」

 「不動産はされないんです。大きい買い物ですから政府もガッチリ押さえようとするんでしょうね。ただし、ローンを組まれる場合は、住まい給付金制度というのがございまして、8%のままだと10万円から30万円ですが、10%に増税後は10万円から50万円までの一時金が出ることになっています。また、もしかしたらさらに優遇措置が取られるかもしれません」

 八木沢の説明を傍らで聞きながら、いまさらながら、消費増税という政策に対する苦々しい思いがこみ上げてきた。なんでこのデフレの時期にわざわざ消費を悪化させるような政策を取るんだ。

 お客さん、すみません。消費者の方たちだけじゃなく、こちら納める方もたいへんなんです。申告期になると一度にどっとですからね。しかも利益にではなく、総売り上げにかかるんですよ。

 ウチの場合はきめ細かさが要求されるサービス業だから、外国人を使うわけにはいかないが、コンビニや外食産業や建設業なんかでは、最近にわかに外国人が目立つようになった。あれはやっぱり経営が苦しいから、人件費を削減せざるを得ないんだろうな。

 それに、大企業じゃ、給料支払いにかかる消費税の控除を狙って下請けに外注するところが多いというのも聞いたことがある。下請けいじめだ。

 こういうところにも、増税が追い打ちをかけて、景気回復はますます遠のくだろう。困ったものだ。

 

 6時に終わって軽く打ち上げをしようということになった。

 明日の日曜日も重要なのだが、明日は本部でモデルハウス改築についての会議があって、私が現地に来られない。そこで岡田が気を利かせて提案したのだ。

 いつもの居酒屋で、男二人、女二人。

 三人が生ビール、川越嬢は遠慮がはたらくのか、グレープフルーツサワー。

 「皆さんご苦労様。好調な滑り出しでよかったね。今後の成功を祈って」

 「あの午前中のお客は脈がありそうですね」

 岡田がさっそく言った。

 「うん、私もそう思った。しかし皮算用は禁物。戸建て市場は厳しいからね」

 「明日もちょっとした勝負ですね」

 「うん、岡田君、よろしく頼む」

 「しかしこんなに災害が続くと、こっちもいつ来るかわからないから、やっぱりお客さんもあの辺を心配されるんでしょうね」

 「台風と地震と連続だからね。今年はちょっと異常だよね。」

 「そういえば川越さんのご実家、神戸じゃなかった? 大丈夫だった?」

 八木沢が訊いた。

 「はい、家は大丈夫でした。でも母から電話があって、風すごかったよ、家が何度も揺れたんだよって言ってました。わたし、ちょうど阪神大震災の年に生まれたんですよ。あの一か月後ですけどね。ですから母親はすごく災害に敏感になってるんですね」

 みんながああ、なるほどというようにうなずいた。

 「阪神大震災の時は大丈夫だったの?」

 「ええ、何とか大丈夫だったみたいです。でも怖くて、大きいお腹抱えて一晩中車の中で過ごしたって言ってました」

 「お母さん、震動で産気づいたとか」

 岡田がジョークを飛ばした。

 「ハハ、そんなことないと思いますけど」

 「震動こそが美女を生む、って誰か言ってなかったかな」

 ちょっとエッチなニュアンスを感じる。

 すかさず八木沢がチクリと刺す。

 「言ってませんよ、そんなこと。それよりいまの発言、セクハラに限りなく近い」

 「なんで? 川越君、いまのセクハラ?」

 川越は口を手で押さえながら笑って首を横に振るばかり。

 「ほら、セクハラじゃないって」

 「だから限りなく近いって言ったんですよ」

 それから二人はセクハラの定義を巡って、ああでもない、こうでもないと議論した。

私と川越はおもしろそうに聞いていたが、結局、言われた本人がそう感じるか感じないかが決め手なのだという八木沢の意見に落ち着いた。ブサイクなオヤジから言われたらセクハラだが、イケメンから言われたらかえってうれしい場合がある、とも。

 「すると俺は、ブサイクなオヤジに限りなく近いのかな」

 岡田がひとりごとのようにつぶやいて、この話題は笑いで一段落ついた。

 たしかにセクハラもパワハラも線引きが難しい。私自身も、日頃けっこう神経をとがらせている。岡田発言がセクハラとはどうしても思えなかったが、気の強い女性にそう言われたら、抗弁できないかもしれない。

  私もこの会話を楽しんではいたが、一方ではさっき出た地震の話題が気になっていた。

そう、阪神大震災は、もうあの時生まれた子がこうして社会人になっているほど古い話になったのだ。

 

 それにしても、あれから中越地震、中越沖地震、そしてあの3.11、熊本地震、今年6月の大阪地震、そして今度の北海道地震……と、数え上げるのを忘れてしまうほど大地震が続いている。

 今度の地震は暖かい時に起きたからまだいいけど、厳冬の北海道でブラックアウトが起きたら、水や食料だけじゃなくて、産業も物流も止まって凍死者が続出するかもしれない。考えただけでもぞっとする。

 話は変わるけど、と前置きして、

 「今度の地震で、全道ブラックアウトしただろう。電気は我々の生活の命だからね。ガスヒーターだって石油ヒーターだって電気がなきゃつかない。これが冬場に起きていたら大変なことになっただろう。いろいろ反対意見はあるだろうけど、政府はこの際思い切って帳(とばり)原発の再稼働に踏み切るべきだと僕は思うんだけどね」

 所長はまじめすぎる、とよく言われる。酒の席でこういう話題を出すのはまずいとわかってはいた。だが所員の反応も見たかったし、仕事上の心構えをしっかりさせておく必要もあった。

 原発再稼働の是非をみんなに問うのではなく、住宅で消費する電力源がどうあるべきかについての考えを、政府や電力会社任せにせずに、不動産業者としてしっかり固めておきたかったのだ。

 電力自由化の流れは一応できてはいるが、ひところ流行ったソーラーはコストがかかり、住宅では売電しても償却できないという声が高く、最近は伸び悩んでいる。

 しかし案の定、一瞬白けたような空気が漂うのを感じた。所長が言うことだから、うかつには意見を返せないという遠慮もあるのだろう。私は、なんでこんなことを言い出したのかを説明した。

 岡田が口を開いた。こういう時は、逃げずにまじめになるのが彼の性格だ。

 「でも再稼働には相当時間がかかって、冬場には間に合わないんじゃないですか」

 「それがね、専門家が書いてるのをネットで読んだんだけど、一か月ちょっとで出来た実績があるそうだよ。だから今すぐ始めれば十分間に合う。今度の停電では、帳を動かしていれば楽々避けられたんだ。ところが政府をはじめとした関係者は、反原発派を恐れて、原発のゲの字も出さない。おかげで北海道電力は死に物狂いの努力をしなくちゃならなかったそうだ。不合理なタブーの支配ほど怖いものはないよ」

 女性陣は、やはりあの原発事故の余韻が心の中にわだかまっているのか、固い表情をして黙っていた。

 岡田は、しばらく考えるふうにしてから、再び口を切った。

 「おっしゃることはとてもよくわかります。再生可能エネルギーは、太陽光や風力はおぼつかないですから、そうである以上、政府がベースロード電源として原発を位置付けているのは、当分の間は当然だと思います。でも、いずれにしてもこれは国家レベルの話ですから、原発を再稼働するかどうかについてはわれわれが口出しできない領域ですよね。」

 「うん、それはそうだ。だけど、これから発送電分離が進むとすると、各家庭での自家発電の機運も高まるかもしれないよ」

 実はそんな可能性はないと思っているのだが、ちょっとカマをかけてみる気もあった。

 「ですが、われわれの業界では、家庭用の電源を自家発電で、っていう方向性をあまり積極的にお客さんに勧めるべきじゃないと思います。」

 「というと?」

 「ソーラー発電に将来性が見込めないからです。供給が不安定だし、初期コストが高くてなかなか償却できない。売電価格が年々下がってますし、メンテ費用もけっこうかかりますからね」

 今度は私が助太刀する。

 「じつは岡田君の言う通りだと私も思ってる。それにマンションの場合は、充電設備の設置に管理会社や住民の合意が必要だからね。ますます難しいよ。……ちょっと話を戻すんだけど、発送電分離は、電力の安定供給の観点からいって非常にまずいと私は思ってる。アメリカなんか、あれやったために停電がしょっちゅう起きて、連携がうまく行かないんで修復にすごく時間がかかったそうだよ。」

 「あれって民営化の流れでしょう。何でも自由化、民営化ってよくないですよね」

 「そう。でもアメリカはもうそれを反省しつつあるんだよ。日本は相変わらずアチラサンの後追いをやってるんだね」

 話題がだいぶややこしくなってきた。というより私がややこしくしたのだ。ここらで締めた方がいいだろう。

 「……いや、お疲れのところ、面倒な話を持ち出して悪かった。そろそろお開きにしましょう。明日は頑張ってください」

 八木沢は、岡田と私の一方的な調子にちょっと不満そうで、何か言いたそうだった。セクハラ論議で勝ったからいいじゃないかと、私は含み笑いの気分で思った。川越はこれで解放されるかといった安堵の表情。

 

 帰宅してから、事業部から出されているモデルハウス改築の提案書をざっと調べた。あれもだいぶ古くなっている。とにかく今日の客が新築物件の設備をあんなに喜んでいたところをみても、そのあたりの綿密な議論は必要だろうなと思った。

 風呂から出て、いつものようにオンザロックを作った。

それから今日の打ち上げの会話を思い出してみた。くつろいだ気分になってみると、原発や電力自由化の話よりも、むしろセクハラ話題の方が気になった。

 セクハラかどうかは、当の女性がそう感じたかどうかにかかっている――これって少しおかしくないかな。すべては女の主観で決められる。

 この前『電子マン』を読んだときは、この本は「キモメン」の恨みつらみを代弁してるだけで、昔から許諾権は女が握ってるに決まっていると思った。

 セックスとか、それに類する行為だったら、それはそうに違いない。男の欲望のままにさせたら、男女入り乱れるいまの社会では、めちゃくちゃになっちゃうからな。だから風俗だってほとんど男が金を払って女にさせてもらう形になってる。

 しかし、ちょっとした言葉や振舞いまで、その判定の権利が女にあるというのは、どうも行きすぎてる感じがする。嫌がってるのに触ったり抱き着いたりしたら、これは論外だろうけど。

たとえば「今日はお化粧のノリがいいね」はセクハラか。「お。髪切ったの。なんかあったのかな」は? 「ちょっと疲れてるみたいだけど大丈夫?」は? 

 セクハラっていう言葉が定着してから、親睦を深めるつもりで言ったのに、そう受け取られない可能性がとても大きくなってしまった。

 これってジェントルマンシップの持ち合わせの問題で、やっぱり男にもっぱら心理的な負担がかかってしまう。だから最近の若者は、女性に対して引いてしまうんだろうな。

 もっとも今日八木沢が結論づけた、相手がブサイクなオヤジだったらセクハラになるけど、イケメンに同じことされたらかえってうれしい場合もあるってのは、いかにもリアリティがある――そう思って改めて笑ってしまった。氷とウィスキーを継ぎ足した。

 結局、誰がどんな状況、どんな口調で誰に向かって言ってるかをはっきりさせずに、ある言葉だけを切り取ってきてセクハラかそうでないかを判定しようというところに無理があるんだろう。ひところ流行った差別語狩りと同じようなものだ。

 ウチの社員で言えば、山下みたいな既婚者のさばけたお局に言っても、うまくかわす可能性が高いけど、同じことを川越嬢に言ったら、被害感情を抱くかもしれない。八木沢や渡辺は微妙だな。

 それと、こういうことも言えそうな気がする。

 女自身が自分の女性性に自信を持っているかいないかで、被害感情も変わってくる。自信を持ってると、何かそれらしきことを言われても、あんまり気にならないんじゃないか。セクハラ、セクハラ騒ぎ立てるのは、どうもブスやオバサンに多いような気がする。

 こんなことはあからさまには言えないけれど。

 でもそうだとすると、ここには被害を訴える女性の側の自意識の問題も絡んでるってことだ。

 そういえば、いつだったか、そんなに混んでいない電車から降りるとき、傘を持つ私の手が隣にいたオバサンの腿のあたりにほんの少し触れてしまったことがある。そのオバサンも同じ駅で降りるので、両方がドアに接近したのだ。謝るほどのことはないと思った。

 ところがオバサンは何を勘違いしたか、ホームに降りてからも私の顔を睨んでいた。私は知らん顔をしたが、心の中では「あんたみたいなブスオバサンに痴漢するわけないだろ。まず鏡を見ろ」と言ってやりたかった。

 とかくセクハラにしてもパワハラにしても、線引きが難しい。生命身体やモノの被害ならはっきりしてるけど、心の問題だからな。でもセクハラ問題がこれほどクローズアップされるってのは、要するに、女性が社会的に強くなりすぎたってことじゃないのかな。

 

 ウチの正社員の容貌を一人ひとり思い浮かべながら人事査定を試みる。まず女性。

 山下も八木沢も「優」。よく勉強しているし、接客も身についている。八木沢は頭が切れるが、ちょっと気が強すぎて接客には向かないかもしれない。川越はまだ未知数だが、伸びしろが大きそうだし、仕事への情熱を感じる。事務担当の渡辺も緻密に仕事をこなす。

 かたや男性社員。チーフの岡田は別格として、中村は入社何年だったかな。だいぶ経つけど、いまいち。誠実で真面目だが、ちょっとガッツに欠ける。もう少し押しが欲しいところだ。

 逆に谷内は元気で明るいところはいいが、それが災いする時もあって、接客面で少しハラハラさせる。この業界、やり過ぎは厳禁だ。

 川越の2年前に入った本田は、あの世代にふさわしく情報処理能力が優れているが、可愛い坊やみたいな風貌だから、お客さんになめられていないかちょっと心配。

 こうしてみると、ウチも女性の方が優秀かもしれない。

 セクハラ問題。

 これはもっぱら女性に対する男性の振舞い方への突き付けの問題だ。逆はほとんどあり得ない。昔、痴女もいるなんてことを言ってた評論家がいたが、そんなのは圧倒的に少数で、特殊な状況だろう。

 他にも女性専用車両、女性割引料金、女性議員や女性総合職の数がもっと増えることが進歩の尺度だったりする風潮。女性っていま、ほんとに社会的弱者なのか? 

 マイノリティと一口に言っても、女性は男性と同数だし。昔から、財布は母ちゃんが握っているとか、カカア天下とか、女のほうがいろんな意味で強いとは、よく言われるセリフだし。平均寿命だって五年以上の差があるし。

 緊急事態なんかで、女性より先に男が逃げたりしたら、そいつはやっぱり軽蔑されるだろう。車内で健康な同年齢の男女二人が立っている時、目の前で席が一つ空いたら、まず間違いなく女に座ってもらうだろう。

 こういうことって、じつは性差の問題が深く絡んでいるんじゃないのかな。難しい言葉で言うと、男と女の非対称性ってやつだ。

 そのことをよく考えないで、ただなんでも平等とか人権とかポリティカル・コレクトネスとか前面に振りかざすのって、どうも生活感覚と合わない。俺が古いのかな。

 そういえば親友の篠原がいた。あいつは、専攻が社会学だったな。今度会っていろいろ聞いてみよう。最近の若者の恋愛、結婚志向のことなんかも含めて……。

 

半澤玲子Ⅲの2

 

 駅から5分ほどの1LDKマンション。本社に戻って1、2年後だったからもう住み始めてから10年になるかしら。8階で見晴らしがいいので気に入り、思い切って買った。

 エリに先にシャワーを浴びてもらって、その間、窓際に立って夜の景色を眺めていた。

隅井川の向こうにスカイタワーが光り、手前に深草の灯りが煌めいている。でもひところに比べるとずいぶん寂しくなったような気がする。

 バブルが崩壊したころに大学を出た。まだ不景気という実感はなく、バブル期の浮かれ気分は何年か続いていた。それからあの男と結婚して、3年で別れた。

 ずっと同じ会社に勤めてきた。最初は営業に回されて消耗したけど、不向きと判断されたんだろう。結婚する少し前くらいからコールセンターでお客様の苦情聞きに転属になった。

一時は重荷が下りたようで安心したけど、いざやってみると、これも疲れた。私生活での苦労が重なってもいたし。

 離婚してから安アパートを2回ほど梯子した。独身になっていくつかの地方支社に転勤になった。あのころは身軽で、地方の暮らしの様子がわかってちょっと面白かったかな。

本社に戻って経理に配属されてからはもうそういうこともなくなった。これから仕事の面で発展の可能性はたぶんないだろう。

 この家に落ち着いてからは、何となく自分の人生はある決着がついてしまったような気分で毎日を過ごしている。ローンは初めはかなりきついと感じたけれど、最近では多少昇給もあったし、あまり気にならなくなった。

 こうたどってみると、わたし自身の人生がしょぼくなっていくのと、社会に元気がなくなっていくのとが、なんだか並走しているみたいな感じがしてきた。ああ、よくない、よくない。そんなふうに考えるべきじゃないわ……。

 

 「ありがとう。気持ちよかったわ。さすがトイレタリー系にお勤めだけのことはあるね。石鹸やコンディショナーなんかもみんなレオン製品?」

 「一応ね。買わなくてももらえるから」

 「それにしてもレイのとこ、どこもかしこもきれいね。ここ築何年だっけ?」

 「たしかちょうど10年…かな」

 「全然そんな風に見えないね。新築みたい」

 「主人はしっかり古びてきたけどね」

 「そんなことないって、レイ。これからこれから」

 そう言いながら、エリは景気をつけるように、チリの何とかいう赤ワインの栓を勢いよく抜いた。わたしはオリーブの瓶詰の蓋に力を込める。

 ひとわたり雑談をしてから、おもむろにいまの曖昧な気持ちを何とか言葉にしようと試みた。ワインの渋みがじんわりと広がる。

 「さっき、エリが言ったことね。とても心に響いたのよ……やっぱり何か行動に踏み切らなくちゃだめね」

 それ以上、なかなか言葉が出てこない。これではさっきと同じだ。

 「うん。もちろん恋活サイトじゃなくたっていいんだけどさ。じゃあ他に何があるかって言ったら、いまさら若い子みたいに合コンでもないでしょう」

 「そうよね。だいいち、そういう機会がめぐってこない」

 「自治体の婚活イベントってダサいし、民間のは地方に出かけていくケースが多いから、お金と時間がけっこうかかるしね」

 「調整がつかないわね。休暇使うんだったら、個人的に旅行した方が楽しいよね」

 「灯台下暗し。会社に独身男性って、けっこういるんじゃないの」

 「けっこういるんだけど、わたしのほうがどうも食指が動かないんだ」

エリは、しばらく考えるふうをしてから、言った。

 「レイ、男欲しい?」

 わたしはこの直截な聞き方に笑ってしまった。でも、それがかえってありがたかった。

 「……うん。やっぱり欲しい。このままいくと、たぶん、仕事あと何年か続けて、辞めて、そのあと、実家に引っ込んで、自然に老老介護という末路ね」

 「お母さん、おいくつだっけ」

 「75になったのかな。まだ元気だけどね。妹一家に背負わせるわけにもいかないしね」

 「こんなこと言ってなんだけど、お母さんがお元気なうちがチャンスかもね」

 「そうなのよ。……要介護ばあさん付きじゃ、ますます道は細るよね」

 わたしのなかで、しだいにある意思がマグマみたいに立ち昇ってきた。それはだんだん地表近くまでやってくるのがわかった。少し間を置いて、グラスに残ったワインを飲み干し、とうとう、ためらいを断ち切るように言った。

 「恋活、やってみる。要領教えて」

 エリは「よしきた」とばかりにスマホを取り出して、まず自分のマイページを見せた。写真はいずれも自撮りで、いろいろな服装、角度、表情を映していた。特に若く見せようとはせず、彼女の全体の印象がよくわかるようになっていた。

 プロフィールの自己紹介文は、短めで、趣味や職業を書いた後に、少し自分の特長をアピールしながら、欠点などもやんわりと書き込んであった。

その後にいろいろな項目についてのチェックリストのような部分があった。年齢、身長、細めか太めか、喫煙の有無、年収、同居人の有無、結婚経験の有無、どういう出会い方をしたいかなどに答える仕組みになっていた。

 もちろん答えたくない項目は空白のままでよい。相手の信用をより深く勝ち取るためには、年齢の認証が必要で、身分証明書のコピーを運営会社に送らなくてはならない。

 次にエリは、相手の男たちのプロフィールを見せてくれた。

毎日20人くらいの「物件」を、入れ代わり立ち代わり無料で物色することができる。気に入った物件には「いいね!」を入れる。相手にはそれが伝えられ、自分のプロフィールを見てほしいという要望が届く。

 女性は料金面で優遇されているが、でも要求をエスカレートさせたい場合には、一定料金を支払うことになっている。

 双方の要望が一致すれば、マッチングの知らせが届き、それからは、プライベートなメッセージサイトで「文通」ができる。ただし初回はメルアドなどを知らせてはいけない。

 数えたわけではないけれど、30代後半から40代前半が多いように思った。

 「いろんな男がいておもしろいね」

 これが第一の感想だった。

 いかにも格好つけてるやつ、モテないことを意識的に演出しているちょっと切ないやつ、顔は誠実そう、でも文章を読むと何となく嘘っぽいやつ、こんなイケメンがなんで? と不純な動機を疑いたくなるやつ、ああ、朴訥さがよく出てるけど、これだとなかなかいいお相手に巡り合うのは難しいだろうなとつい同情したくなるやつ……。

 要するに、あんまり「当たり」はいないということだ。それを言うと、エリは、「そりゃそうだよ」とそっけないくらいの調子で答えた。

 「この年代だと、かなり成約率は低くなるだろうね。ていうか、いい男はもう結婚しちゃってるってことね」

 「じゃ、エリはもしかしたら金的を射当てた?」

 「そんなのわかんないよ。まだこれからの話だし。一般的にってことよ」

 心なしか、エリの頬が少し赤らんでいるように見える。

 それから登録手続きや契約事項の要点などについての説明を聞き、マッチングを多くするコツを指南してもらった。

 エリ自身が選んだサイトでなくてもいいけれど、メジャーなサイトのほうがやはり安心できること、顔写真は必ず鮮明なものを載せること、文章はいかにも誰もが書きそうなものではなく、自分の個性と思えることを、あまり極端ではない仕方でさりげなく挟み込むこと、あまりだらだらと書かないこと、チェックリストの部分は、取捨選択してもかまわないが、書くと決めたことは必ず正直に。特に「バツイチ」は絶対必要等々。

 「サイトはごまんとあって、それぞれ特色があるから、ネットでいろいろ調べてみるといいよ。もちろん掛け持ちもありよ」

 「ありがとう。じっくり検討してみる」

 知らぬ間にワインが残り少なくなっていた。両方のグラスに注ぐともう空になった。

 「成功を祈って乾杯」

 「あら、この前と反対じゃない」

 「そうだっけ。わたしも頑張りますわよ」

 

 シャワーを浴びてから、エリにパジャマを貸し、一つベッドに二人で寝た。

 灯りを消しても話のほとぼりが残っていて、すぐには眠れない。それは彼女も同じらしかった。

 「結婚したい?」

 エリが言った。

 「うーん、そこまではわかんないな。相手によりけりだし。それよりエリはどうなの」

 「わたしもおんなじね。今の人、嫌いじゃないけど、結婚となるとね」

 「うまくいくといいね。結婚じゃなくても」

 「そうね。レイもね。でも今日はよかった。ゆっくり話ができて」

 「ほんとにありがと」

 エリがひっそりと体を寄せてきた。襟足にほんの少し熱い吐息がかかるのを感じた。

 「レイ、いい匂いね」

 囁くような声だった。彼女の左手が伸びてきて、私の肘をゆっくりと撫でた。その左手を私の指に絡ませた。そしてわたしの首筋に軽く唇をつけた。

 「ウフ、くすぐったい」

 そう言ってはみたものの、彼女のそんな振舞いを少しも不自然とは思わなかった。けっして激しくはないけれど、ほのかな快感が全身に広がるのを感じた。

 もし二人とも恋活がうまく行かなかったら、こうして二人で暮らしたっていい――そんな気持ちがふとよぎった。ベッドサイドテーブルのスタンドの常夜灯が、寄り添う二人をじっと見守っているような気がした。LGBTという言葉を思い出した。私たちってもしかしてLなのかしら。

 女どうしの肌と肌の触れあい。それも悪くないわ。

 いつか二人で温泉に行ったとき、背中を流しっこしながらお互いの体をほめあったっけ。エリはわたしの肌の白さをほめた。乳房の形がよいとも言ってくれた。わたしはエリの浅黒くすらりとした体躯にほれ込んだのだった。黒人と白人のハーフみたいだった。

 

 昔、同性愛を疑われて学校経営を壊されてしまう『噂の二人』という映画があった。映画好きだった父がテレビで放映されたのをビデオに録画しておいたのだ。

 オードリー・ヘプバーンとシャーリー・マクレーン。

 シャーリーが可愛かった。そして自殺してしまう彼女が可哀相だった。少女のころ見て、アメリカはずいぶんこんなことにうるさいんだなと思った。それで印象に残ったのだ。

 あとから考えれば、あれは時代も古かったし、一夫一婦制を厳しく守らせるキリスト教の戒律が強く関係してるってことがわかったけれど。

 それに比べればいまの日本はずいぶん自由だと思う。

 別にレズだってゲイだって、周りの人たちは、共感はできなくても、ああ、そんなものって言って、棲み分けているだけなんじゃないかしら。昔でも、同性愛者ってわかっちゃったから、自殺したなんてあんまり聞いたことないし。

 私たちがこんなふうに仲良しで、仮にだんだんそれが深くなって、肉体的にレズの関係になったとしても、黙ってればいい。もっともこれが思春期なんかだったらずいぶん悩むだろうし、大人になってからも、マイノリティだっていうことだけで肩身の狭い思いはするだろうけれど。

 男を好きになるか、女を好きになるか。これって、境遇によってどっちにも転ぶのかもしれない。

 もしエリもわたしも恋活がうまく行かなかったら……。わたしはエリが好きだし、たぶんこの感情、これからも変わらないと思うし……。

 目をつむると少しずつ眠気が忍び寄ってきた。わたしの肩にエリの寝息が気持ちよくかかり、絡めた指はいつしか力が抜けてほどけていた。

 

半澤玲子Ⅲの1

 

                                       2018年9月8日(土)

 

 なんとわたしの予感はあたってしまった。

 4日に台風21号が近畿地方に上陸して関西空港に大きな被害を与えたと思ったら、6日の夜中には北海道で震度7の大地震。全道で停電。いったい日本はどうなっちゃうのかしら。

 ああいう災害があると、平時の出荷の体系が狂ってしまって、こっちにもしわ寄せが来る。おかげで昨日も9時過ぎまで残業だった。現地では生活用品の確保でさぞ大変だろうな。

 でも、少なくともいまのところ、首都圏は被害に遭っていない。ここに住んでる自分としては、人には言えないけど、ラッキーと思わずにはいられない。

 遅い朝ご飯を済ませて、ベランダのポトスとポインセチアにお水をやりながら、今日はだらだら過ごそうかと思っていたら、携帯が鳴った。エリだった。

 「あ、エリ。元気?」

 「元気、じゃないかな。昨日は9時半まで残業よ」

 「こっちもよ。それにしても台風と地震の連続パンチ、すごいわね」

 「そう。ウチの会社、物流が乱れるし、産地直送なんか抱えてるから、北海道がやられるとダメージ大きいんだよね。」

 「ああ、そうかもね。ウチも関西にも北海道にも支店があるから、その影響がもろに来るのよ」

 「お互いこれから大変になりそうね。会えなくなる前に会っとかない? そっちの都合はどう?」

 「いいよ」

 「じゃ、この前と同じでいいかしら。6時に予約入れとく」

 「ありがとう」

 二週間前にあの暑さの中でエリに会った。そう、まだ二週間前なんだ。

今度は彼女のほうから会いたいと言ってきた。そうして今日もこの前みたいに暑い日だ。まるでわたしを取り巻く熱気の渦のようなものがゆるりゆるりとお天道様のほうに登らせていくような感じ。ちょっと大げさかな。

 わたしは少し恐れていた。

 もちろん断る理由なんかないんだけど、二週間前の話がまだ尾を引いていて、もしかしたら今日はその後の進展具合を聞かされる、というよりも聞かざるを得ないような流れになる、それが前よりも心をよけいかったるくしていくような気が何となくするのだ。

 断ってもいいんだわ、いや、それはよくないよ、と堂々巡りの気持ちに揺り動かされながら、テレビをぼんやりと見ていると、二つの災害のその後のニュース。

 関空のほうは水は引いて暫定的な運用が可能になったけど、タンカーの橋桁衝突の修復はまだまだこれから。北海道の停電は、電力の全面復旧にはだいぶ時間がかかりそう。

 それにしてもあの剥落した山肌の映像にはびっくりした。それぞれの被災地で懸命な努力を続けている人たちの苦労を思わずにはいられなかった。

 

 この前エリに見立ててもらったオレンジのサマーニットにくすんだマリンブルーのロングスカートで、やっぱりちょっと口紅を濃い目にして家を出た。

 さすがに日中よりは気温が下がっている。

イタ飯屋に着いてみると、今日は店の前にテラスを出していて、そこに家族連れらしい一組がいた。40代中頃の夫婦に、小学校高学年くらいの女の子と、低学年くらいの男の子。わたしの姪っ子甥っ子とちょうど同じくらいかな。可愛い。

 妹の真奈美は割とすんなり結婚して、旦那の仕事の都合で海外へ行き、帰国してから二人子どもを産んだ。外資系で活躍している甲斐性のある旦那で、生活は優雅そうだ。横浜北部の建売住宅に住んでいる。

 お正月や姪甥の誕生日なんかには時々会っていた。でも頻繁ではなかった。

 わたしは子どもが大好きだし、生まれた時から彼らのことをよく知っていて、向こうも「玲子おばちゃん」によくなついてくれている。だから彼らには会いたいのだが、ただ、妹とは昔からあまりそりが合わなかった。それで彼らの家に出かけることにはためらいを感じるのが常だ。

 それはそうだが、と、テラスにいる楽しそうな一家を店内から窓越しに眺めて、やっぱりわが身のことに思いが行く。もう子どもは持てないんだわ……。

 

 「ごめーん、待った? あら、さっそく着てきたのね。似合うじゃない」

 エリのほうは、今日は白シャツにデニムパンツというラフないでたちだ。心境の変化? そうでもあるまい。

 「ううん、さっき来たばっかり」

 「そう、じゃよかった。いや、出がけに電話が入っちゃってさ」

 「あら、もしかして例のお方?」

 「そんなんじゃないのよ。仕事、仕事。この前言った例の働く人女性向け家事支援、いよいよ本格的に乗り出すらしくてさ。」

 わたしはそんな話、忘れてた。でも「うん、うん」と覚えていたふりをした。

 「お飲み物は何になさいますか」

 若くて足がすらりとした女の子みたいなウェイターが近寄ってきて言った。

 「生ビール」とハモってしまった。

 「課長から、こういうプロジェクトはやっぱり女性に企画を立ててもらうのが一番いいからって、急きょ、月曜日から取り組むことになったってわけ」

 エリの言葉を聞いて、そういえば物流業界もいろんなことに手を出そうとしているって言ってたな、とだんだん思い出してきた。

 「たいへんそう。全通運じゃ初めての試みなんでしょう?」

 「そうね。でもこっちにお鉢が回ってくるんじゃないかって何となくわかってたよ。」

 「要するに、働く女性の家事負担を減らそうと」

 「そう。わたしら一人もんには関係ないね。子どもがいて、旦那も忙しい家庭なんかがターゲットだろうね」

 「家事だったら旦那と均等に分担するってのはどうなの」

 「いやいや、なかなかそうはいかないよ。『理解ある男性』とかいうのも最近は増えてるみたいだけど、ほんとに戦力として期待されてる男は、いくら理解があったって物理的に難しいしね。それにさ、むしろ女の方に、家事育児はまだまだ女性中心でって観念が残ってるのよ。だからこそ市場開拓の余地があるわけだしね」

 思わず、テラスのテーブルを囲んでいる家族の方に目がいってしまった。食事はたけなわで、子どもたちの楽しそうな表情が笑い声とともにこちらにも伝わってくる。

 奥さんは男の子がちょこちょこするのに気を使っていた。旦那は、短い口ひげを撫でながら、ワイングラスを口に持っていくところだった。あの旦那は「理解ある男性」なんだろうか。あの家族は幸せなんだろうか。

 今日はスパゲティとラザニアと二つとって、二人で分け合い、あとはピザのLサイズで済ませることにした。スパゲティをあの女の子みたいなボーイが運んできた。

 「ねえねえ、あの子、フィギュアの桐生結貴に似てない?」

 私はさっきから感じていたことを口に出した。

 「ちょっとね。わたしも思った。ウチにもああいう男の子いるよ」

 「ああいう華奢な男の子ばっかりになっちゃったら、家族なんて養っていけるのかしらね」

 「ばっかりってことはないだろうけどね。でも草食系が増えてることは確かよね」

 「男性の4人に一人は50代になっても未婚だって話聞いたことあるんだけどさ、これってだんだんモノセックス化していくってことなのかな」

 「それはわかんない。精子が少なくなってるなんて説もあるけどね。それより社会問題としては何と言っても少子化という現実だよね。一人っ子同士の結婚が二代続くと、双方の親が4人、寿命が延びてるからじじばばが合計8人。このうち何人かがこけると、こりゃ若夫婦はたいへん。高齢者ビジネスはこれからが正念場ね」

 「ってことはさ、家族の数が減っていくんだから、エリのさっきの話も、市場開拓が難しいってことにならない?」

 「そうなのよ。一人暮らしだったら別に家事支援なんていらないもんね。うん、市場規模の算定がまず課題だろうな。この企画、うまく行くのかな」

 「エリが例の人と結婚すればさ、少しは市場規模の拡大に貢献するじゃん」

 「ハハ……限りなく確率低いね」

 「ところでその後は? 二回目のデートの模様。詳細に報告せよ」

 エリと会う前はこの話題は気が重いなんて思ってたくせに、自分から誘導してしまった。

 「またそこに話もってくのか。はいはい。お話いたしましょう。それがさあ、この間の日曜日。いきなり寒くなって最悪だったでしょう。風邪引きそうになっちゃうから散歩もできなかったんだよ。」

 「ふむふむ。でも室内でいちゃいちゃやればいい。もしかしてキ……」

 「まさかそんな。そこまで行くわけないだろ。でもまあ、喫茶店でけっこうねばってね。それからお食事でございます」

 「彼氏のご趣味は何でございますか」

 「そう、美術に詳しいみたいね。ブリューゲルとかボッシュとか、あのへんの画家のことでずいぶん蘊蓄を傾けてたな。ヨーロッパの美術館巡りを何度かしてきたらしいのよ。情熱たっぷりに話してた」

 「あら、素敵じゃない。これから芸術の秋だし、エリもかなり好きなほうでしょう」

 「嫌いじゃないけど、ブリューゲルやボッシュってなんかちょっとキモくない?」

 「うーん、好きかって言われたらうまく判断できないけど、偉大な画家であることは確かよね。東京には美術館が腐るほどあるし、デートに使うには最高じゃない」

 「うん。ただね、知識が豊富過ぎてちょっとついていけない感じもある」

 「それは贅沢というもの。ふんふんって聞いてあげればいいのよ。なんならわたしがもらい受けようか」

 「それも一案ね」

 エリは企画会議のような口調で言った。結婚時代の夫のことがふと思い浮かんだ。あんな彼でも、しらふだと可愛いところがあることはあった。囲碁の話になると際限がなかった。

 「男って自分の得意分野だと相手かまわずしゃべりまくるところあるじゃん。あれってけっこううんざりするけど、そういうもんだって割り切れば、我慢できるんじゃない。エリだって自分の趣味があるんだから、それ利用してこっちに惹きつけるようにすれば」

 「ほうほう、レイコお姉さまにしては、珍しく熟女の処世訓ですな。なかなかいいアドバイスをいただきました」

 そう言われて、わたしは、ほんとに柄にもないことを言っているな、と感じた。

 これは、やっぱり人のことだからそうなれるんだろうな。また、話がほかならぬエリのことだから、というのもある。男女の出会いというテーマに、エリをダシにして、ついつい自分が前傾姿勢になってしまっているのだった。

 日はとっぷり暮れていた。家族連れが帰り支度をしているところだった。旦那がレジの前までやってきた。女の子と男の子が表でふざけ合っている。それを窓越しに見ていると、何となく自分が切なくなってきた。

 去年の夏は、花火をどっさり買い込んで、妹の家にお邪魔して、みんなで花火大会をやったっけ……。

 

 「それより、レイ、あれ考えてみた?」

 不意を突かれて一瞬戸惑ったが、すぐ気づいた。

 「あれって、恋活サイト?」

 「うん。わたしは勧めるよ。自分がマッチングしたからってわけじゃなくてね、これから先のレイの人生をさ、わたしもちょっと考えちゃったのよ。出過ぎてたら申し訳ない」

 「いや、出過ぎてなんかないよ。ほんとにそうだよね。でも、それは……恋活サイトって選択でなくてもなあ、もうちょっと、何ていうか、その、出会いの手段をどうするかよりも、まず、自分なりの生き方の基本をどう決めるか、だと思うんだ」

 「わかるよ、それは。でもね。偉そうに聞こえたらゴメン。そういうのってさ、まず基本をこう決めて、そのための適切な方法を探してっていうように、何か順を追った企画みたいに行くものじゃないような気がするんだ。わたしたち、もう若くないでしょう。志望大学目指して受験勉強に励むのと違うんじゃないかしら」

 エリの言ってることは、まったくその通りだ。賢い女だ、と改めて思った。

 「そうね。何でもいいから動いてみて、そこから何かが見えたり開けたりしてくるのよね。相手がいなけりゃ何も始まらないもんね」

 「相手次第でもあるし、けっこうしがらみに取り巻かれてもいるし」

 そう、自由だなんて自分を思いこんでる暇はそんなにない。温もりがかすかに残ったピザを口に含んで、その固まりかけた感触を味わいながら、少しずつ、少しずつ、自分をまずある形のほうに追い込むことが大切なのかもしれないと思うようになってきた。

 「ねえ、エリ。もう少し話したい気がする。よかったらこれからうちに来ない? 泊まってってくれるとさらにありがたい」

 「……いいよ。ただし湿っぽいの苦手だから、ワインとつまみで盛り上げようよ」

 

堤 佑介 Ⅱ

 

                                      2018年8月29日(水)

 今日は定休日。10時起床。

 いつものように簡単に朝食を済ませてから、ぼんやりと午前中を過ごした。

 不動産業をもう20年以上続けているが、本業にかかわること以外にも好奇心は旺盛なほうだ。注意をひかれた物事をノートに書き留めてみたり、それについて考えてみたりするのが好きなたちなのである。

 それは逆かもしれない。仕事柄、さまざまな人生模様に出会うので、自然とそういう習性が身についたともいえる。小説になりそうな材料はいくらもあるので、これまでも挑戦してみようかと思ったこともある。

だが、仕事の合間に構想して執筆をするだけの持続力をなかなかキープできなかった。個人情報保護もうるさいし。

 そうかといって、出世にも大して興味はなかった。ウチでも、私と同期で幹部にまで上り詰めているのは何人かいるが、あまりシャカリキになるのは好きではない。

中途採用のせいもあるのかもしれないが、まあ、いまくらいの規模の営業所で中間管理職やってるくらいが身に合ったところだろうと思っている。

 

 大学卒業前に、友人と進学塾を経営した。バブルに上り詰めていくころで、かなりうまく行った。けっこういい気になっていた。

8年ほど続けたころ、予備校の講師をしていた女性と「できちゃった婚」した。ちょうど30歳、相手は2つ年下だった。年にしては落ち着いた、飛び跳ねたところのない女性だった。生まれた子どもは女の子だった。

 産後、妻は予備校を退職した。しばらく塾経営で食べていくつもりだったが、じきに生徒が減り始めた。

競合相手に負けたというのでもなく、指導や経営の仕方がまずかったわけでもない。時代に合わせて個人指導スタイルに切り替えもした。バブル崩壊による景気の悪化と少子化の進行以外には思い当たることがなかった。

そうとわかると、なぜか生徒を教える情熱が急速に冷めていった。これはもう少し安定した仕事に商売替えした方が賢明かもしれない。共同経営者ともずいぶん相談したが、結局、これまで持っていた半分の権利を彼に譲って身を引くことにした。

娘は3歳になっていた。真剣に生活を考えなくてはならない。集中的に勉強して宅建の資格を取り、いくつか受験した結果、今の会社に就職することになった。

接客は得意なほうだったし、不動産には昔から関心があった。不快なことはいくつもあったが、耐えるしかなかった。けっこう努力した甲斐があって、実績もしだいに伸びていった。

 結婚後12年で妻と別れた。理由は私の不倫である。相手は15歳年下で、インテリア・コーディネーターを目指していた。

いっとき荒れた妻も比較的短期間で冷静さを取り戻し、協議離婚が成立した。妻を嫌いになったわけではなかった。やがて彼女は結婚当時とは別の予備校に職を得た。

 娘は別れた妻が引き取ることになり、養育費は私が負担した。子どもを取られたことは何とも悔しかったが、悪いのはこちらだから仕方がない。

不倫相手とも1年半ほど同棲生活をしたが、目くるめくように盛り上がったはずの恋愛感情は、やはりしだいに醒め、最後は互いにぎこちなさを残しながら別の途を歩むことになった。

一緒に生活してみると、彼女はけっこうわがままで、独り決めして事を運んでしまうところがあることがわかってきた。何回も喧嘩したが、そのたびに亀裂は深まった。

不倫という壁があったからこそ、いっとき燃え上がらせていたのかもしれないとも思った。しかし未練の情はかなり長く続いた。彼女とは、性的な意味での相性がとてもよかったのだ。だから不倫相手としてつきあっている頃は、彼女が私にどれくらい深入りしているかが実感できた。

 そんなことがあったせいか、その後もつきあった女性がいなかったわけではない。行きずりの女と体の関係を持ったこともあったが、長続きしなかった。彼女のイメージがずっと後を引いて、自分のなかで清算しきれず、それが邪魔したのだろう。

 でも一人になってみて、自分がけっこう独身生活を楽しむたちであることも再認識した。だんだん、これでよかったのかもしれないと思うようになった。それはただの負け惜しみに過ぎなかったと言えばいえるのだが。

 

 そういえば、2日前に案内したカップルと同じ年ごろに、結婚したのだった。

 あの頃は、バブル期の余波で、派手な結婚式がまだ流行っていた。しかし私たちは、あまりそういうことに関心がなかった。特に妻は堅実で質素を好むタイプだったから、彼女の希望を入れて、近親者とそれぞれのごく親しい友人だけを招いて地味婚で済ませることにした。

 70年代後半から80年代後半に婚姻率がガクガクに下がって、下がったまま横ばい状態が続いていた時期だ。出生率もゆるい下り坂一方だった。それでも、結婚すれば子どもを二人以上生む夫婦は多かった。ところが、何しろその結婚がなかなか成立しない。だから結局少子化社会ということになった。

 政府も焦って少子化対策に少しは手を出していたようだが、政府の対策は、間違っていたと思う。

保育所整備や育児休業導入や児童手当がそれだが、これらはみんな、結婚して子供が生まれた夫婦への支援策だ。しかも大規模予算を組んだわけでもない。生まれてくる子どもへの、雀の涙みたいな支援を当てにして結婚するカップルなんてほとんどいるはずがないのだ。

私たちの場合もたまたま出会ってお互いに好きになり、「できちゃった」ので、結婚せざるを得なくなっただけだ。将来生まれて来る子どもに対する政府の支援があるかないかが結婚の動機づけと関係あるなんて考えもしなかった。

結婚できるかできないか、する気があるかないかが問題なのだ。だから若い人たちが、進んで結婚する気になるような支援策が大事だったのである。経済全体を豊かに回すのが何よりも大切だが、他にもいろいろ手はあった。まずは若者の出会いの機会を増やすことだろう。

若者の関心興味の集まる空間、たとえばロックフェスティバルでも、マリンスポーツでも、スキー場でも、男女出会いのために積極的に場を提供しているカフェ・バーでも、民間の結婚相談所でも、堅実な婚活サイトでも、オタク・マーケットでも何でもいい。そういうところを狙って集中的に補助金を出せばよかったのだ。

自治体によっては出会いを促すパーティを進んでやっているところもあるようだが、でも政府はそういう発想に多額の資金をつぎ込もうとはしなかった。まあ、中央の行政というのは市井の実情をよく知らず、机上の空論にもとづいて税金を使うのが信条みたいなものだけれど。

 

不動産屋の景気動向も、こうした社会の動きを微妙に受ける。今の会社に就職したころは、単身者世帯の割合が急速に増えている時期だった。

これは正直、この業界にとってはあまりありがたいことではなかった。新規に家を建てたり買ったりする大口の需要が減り、1Kや1DKの賃貸など、小口の需要ばかりが増えることを意味したからだ。まあそれでも、マンションは分譲、賃貸含めてそんなに売り上げが下がったわけではなかったけれど。

統計で見ると、二人世帯も増えてはいたが、それは必ずしも新婚さんが増えたというわけではない。離婚による片親家庭が増えたり、子どもが一人で自立して老夫婦だけになったといったケースが多かったせいもある。

あの頃、マンション建設の話が持ち上がると、ウチと付き合いのある大手の設計部門から何度も相談が来た。時には電話で、時には直接訪問で。

おざなりのマーケティングでは、表現が抽象的で、なかなか動向が読めないところがある。事業部からきた報告書は一応の結論を出していたらしいが、設計部門はあまりそれを信用していないようだった。

どれくらいの広さの部屋を何戸割り振るか、ある設定条件でどれくらい収益が期待できるか、それが一番の悩みの種だったようだ。

売買や賃貸に直接かかわっている私たちの会社では、ある地域でどういう人たちがどんな家や部屋を買ったり借りたりするか、その情報を細かいところまで握っている。そういうナマな情報から得られるヒントを彼らは欲しがっていた。

まだペーペーだった私は、答える上司たちのほうも頭を抱えているのを横で見ながら、下手なことを言わないように身をすくめていたものだった。

そして今。

しばらく安定していたが、今また一人世帯の割合が増える傾向にある。

これはいったい何を意味しているのだろう。

もちろん少子高齢化が進行しているせいだろうが、それ以外に、もっと別の理由もありそうだった。

考えられるのはやはり、離婚の増加、若年層のミスマッチなどだろう。わが業界もますます厳しくなりそうだ。

 

こんなことを考えているうちに、昼過ぎになった。2,3日前に比べるとずいぶん涼しかった。バルコニーの向こうの空はどんよりと曇っている。あまり外に出る気もしなかったので、半日は本でも読んで過ごそうと思った。

買い物は休日にまとめてやるが、夕方になってからでもいいだろう。

何気なく本棚に目をやると、『電子マン』というのが目に入った。13、4年前の本だが未読だった。当時オタクの恋愛成就をテーマにした『電車マン』が大ヒットして、数か月後にそのリアクションとして書かれた本だ。

『電車マン』はそれなりに面白かった。オタクの童貞主人公が電車の中で若い女性を助けたのがきっかけで、女性に魅力を感じ、相手も好意的に迎えてくれるので、勇気を振り絞って「脱オタ」を果たしていくという、他愛ない筋書きだ。

しかし全編3ちゃんねるの書き込みで埋め尽くされた表現のスタイルが斬新だったので、いまでも印象に残っている。

これはたぶん、個人の書き物ではなく、3ちゃん運営者と出版社が共同で構成したものだろう。

おびただしい掲示板書き込みでは、すべてが主人公の「脱オタ」を応援してくれる格好になっているが、そんなはずはない。編集に相当のエネルギーを注いで、意図的に取捨選択したり、関係ないスレッドも強引に寄せ集めたりしたに違いない。

それでも、こういう種族が膨大に存在して、お互い知らないどうしがネットを利用して一大村落を作っている事情はよくわかった。

もう少しこの世界を知りたくなって、『電車マン』のカウンターだという『電子マン』も買ったのだが、こっちは積読になっていた。読んでみることにした。

分厚い本で、サブカル情報満載だが、言いたいことは簡単だった。でもそれなりに読ませる。買い物は中止して、ビールを飲みながら冷蔵庫にあるもので晩メシをすませ、後半は繰り返しが多いので、斜め読みした。読み終えたのが夜の9時ごろ。

こちらは、マスコミが作り上げた恋愛幻想を目の敵にして「恋愛資本主義」と呼ぶ。

その自由競争市場では、選ばれたイケメンだけが支配権を握ってきた。それに踊らされた大量の「負け犬女」たちが、もてない「キモメン」のオタクたちを蔑視して、奴隷のように利用する。しかしすでに三次元、つまり生身の現実世界での「恋愛は死んだ」。

だからこれからは、個人の妄想にもとづいた二次元世界、つまり漫画、アニメなどの視聴覚メディアを享受して、そのなかのキャラに愛を傾ける「萌え」が、金とセックスの渦巻く三次元世界の恋愛にとって代わる。

「萌え」は、セックスだけが目的の残酷なイケメン軽薄男たちの世界と違って、モテないが優しいオタク男たちの妄想力による創造的な世界だ。

そこには現実世界のように傷つけあうこともない純粋で対等な愛の世界が広がっている。脳内で妹や姉や妻を作って、それで平和な「家族」を築けるのだ。

二次元が「恋愛資本主義」の支配する社会に革命を起こして、三次元に対する優位を獲得する日は近いから、オタクたちよ、暴発しないでもう少し我慢しろ、というのである。

アホらしいと言えばアホらしい。平安貴族の社会じゃあるまいし、昔からつきあうかつきあわないかの許諾権は女性が握っている。それを女性自身も知っているから、自分の容姿を磨くことに余念がないのだ。

男にとって女性は可愛い存在だが心をつかむのが難しい困った存在でもある。恋愛自由市場で敗者になった男は、諦めて次に挑戦するしかない。二次元はしょせん二次元。

この作者は、豊かな妄想力を二次元の専売特許みたいに強調しているけれど、現実の恋愛だって妄想から始まって妄想に終わる。実際に会ってひとめぼれなんてのも中にはあるが、きっかけが二次元であることも多い。

お見合い制度がなくなった代わりに、恋活、婚活サイトなんかがけっこうはやっている。あれは写真やメッセージなどの二次元情報が始まりじゃないか。

それに、いったんお互いに好意を持ったからって、しょっちゅう会えるわけじゃないから、その間は、メールなんかの文字情報で埋め合わせて、妄想を膨らませたり、維持したりしなくちゃならない。相手の写真を何度も眺めたり、顔を思い出して絵に描いてみたりして。

そうだ。この本の作者は、二次元と三次元をはっきり分けているけれど、事実は、二次元が三次元を支えたり、三次元の出会いが次の二次元妄想を誘発したりする。そうやって、結局は、うまく行った現実の出会いというのは、二次元妄想が三次元の現実に回収される形で成就するんだ。

この本は、モテないブサイクなオタクのコンプレックスやルサンチマンを慰撫する効果ぐらいはあっただろう。あるいはこれを読んで二次元世界に目覚める男も多少はいたかもしれない。しかし結局はそれだけのこと。

 

でも――と、ふと気づいた。

『電子マン』を『電車マン』と対で考えると、ちょっと笑って済ませられないことを示唆していると思った。

二次元はしょせん二次元といったけれど、もちろんこの作者はそんなこと百も承知なのだろう。自分のオタク的な趣味嗜好を『電車マン』的な三次元優位主義に逆らってあえて対置して、同時に時代の変化をやや誇張して表現しているのだ。その姿勢は、とても意識的なのかもしれない、と思った。

考えてみれば、ここには現実の日本のあり方が映し出されている。私の仕事にも無縁とは言えない。

この本が書かれたころよりもデジタル技術は格段に進歩した。またSNSサービスやYou Loopなどの動画共有サービスもどんどん充実して、個人が安い値段で「二次元」メディアに接することはとても容易になった。中学生だって、エロ動画も見放題だからな。

毎日の食事でも、コンビニやスーパーが、栄養バランスの取れた個食セットを品ぞろえしてくれているので、男の一人暮らしには不便を感じない。コンビニや自販機が全国津々浦々にこんなに普及している国は日本くらいだそうだ。私自身もずいぶんそれで助かっている。

あれだけの栄養バランスの取れた食事を、毎日家庭で主婦が作るとなったら、手間がたいへんだろう。だいいち、いまは共働き夫婦が多いんだから、そんな時間もない。できるとしたら、よほど経済的にも時間的にも余裕のある専業主婦だけだ。

スマホの爆発的な普及も大きい。私たちの青春時代には携帯電話などなく、固定電話か公衆電話だけだったから、親に聞かれたくない電話は、親がいない時か、公衆電話を利用するしかなかった。

でも、これだけ個人のプライバシーが機能的に守られる時代になってみると、そういう心配はほとんどなくなってしまった。PCだって、パスワードでロックしておけば見られる気遣いもないし。

こういう形での技術革新が、プライバシー尊重の風潮を作り出したと言えるかもしれない。時代が総力を挙げて個人主義のほうへ、個人主義のほうへとみんなを押し込んでいる気がする。

それに、最近では、別にオタクでなくとも、恋愛で傷つくのを恐れて、あまり現実の女性と関わろうとしないとか、異性の友人さえいない若者が増えているとかいう話をよく耳にする。

次々に「萌え」作品が生み出されていく「二次元」は、そういう若者たちの恰好の受け皿になっているに違いない。女性でさえ男性をしのぐほどに二次元世界に吸収されていっていると聞いたこともある。

また不況が続いているから、経済的な理由も大きいのだろう。恋愛するにはお金がかかるし、結婚ともなればさらに安定収入が必要だ。先日オフィスに訪れたあのカップルも、これからどうなることやら。

私自身がこの年で独身だし、恋愛をめんどくさいと感じる若者の気持ちがわかるような気がする。実際、恋愛は本気になればなるほどめんどくさいものだ。

 

もっとも、25年前の結婚の時には、そういう感覚はなかった。激しく燃えたというのでもなかったが、普通に相思相愛になり、お互い、そこそこ収入も蓄えもあったので、子どもができてしまえば当然のように結婚ということになった。

たしかそれから間もなくだったと思うが、アメリカの女性人類学者の書いた『愛はいつ終わるのか』という本が評判になった。その本では、「愛は4年で終わる」というのがキーワードになっていて、それには人間としての生物学的な根拠があると説いていた。

生物学的な根拠はともかく、恋愛と結婚生活はたしかに全然違う。その意味では、4年説も現実をよく見抜いていた。

私たちの結婚生活は一応12年続いたが、恋愛感情としては、4年で終わっていたのかもしれない。「子は鎹」ということもあったろう。

不倫関係では、激しく燃えはしたが、代わりに苦しみも大きかった。相手も中途半端を喜ばない真面目なたちで、ずいぶん悩んでいた。

私は1日でも会わないとちりちりと胸を焦がす思いにさいなまれた。一方で、この不都合な関係をどう整理しようかと考えない日はなかった。

相手はしょっちゅう私に連絡してきて、逢瀬を求めてきた。もちろん私からも。

行為の後に、ときどきもつれた関係の清算を迫った。もう打ち切るか、離婚してもらうか。執拗な調子ではなかったが、それだけにいっそう切なくなって、私の心を圧迫した。

しかし2年間秘密を持ちこたえて、とうとう発覚した。あげく離婚後に同棲してみたら、1年半しかもたなかったのだから、やっぱり4年未満で終わったことになる。

私は、「恋愛はめんどくさい」ということを、この経験で実感したわけだった。

恋愛に躊躇する今の若者は、「4年で終わる」という事実を、踏み込む前からすでに予感しているのかな。

だとすると、これは知的な意味での一種の「進化」と言えるのかもしれない。

ただこの進化が、生物的な意味では、むしろ人類の退化につながる可能性があるともいえる。いや、この退化はもう相当進んでいるのではないか。少なくとも先進国では。

 

『電車マン』と『電子マン』。

二つの本が出たころは、ちょうど私が離婚したころだった。統計で見ると、離婚件数がピークをちょっと過ぎた時期にあたっている。いまでは、あのころよりも離婚は少なくなっているが、なにしろ婚姻数がずっと下がりっぱなしなのだから、それは当然ともいえる。

つまり『電車マン』や『電子マン』が売れたころから、日本人はあまり結婚しなくなった。

「結婚難」はますます深刻化しつつある。それともいまの婚姻率の低さは、単に「難」だけではなくて、もう諦めてしまって結婚する気がないか、それとも、「いい人がなかなかみつからない」というあたりでうろうろしている人も多いのだろうか。

『電車マン』はどうだかわからないが、『電子マン』があれから結婚したとは思えない。電子マンが望んだように、三次元から二次元への「革命的転換」は起きていないが、それでも未婚者が増え続けていることは確かだ。

オタクたちに限っての婚姻率を調べたら面白いかもしれない。きっと全体よりもずっと低く出るだろうな。でもオタクかそうでないかを区切るのが難しい。

それにしても、このままいくと、日本の家族の未来はどうなってしまうのか。個人化がどんどん進んで、ついには解体してしまうのだろうか。

そういう私も、数えてみれば独身歴10年を越えている。さみしくないといったら嘘になる。これから先、ずっと一人で耐えられるだろうか。しばらくはまだいいけれど、あと10年で定年。そうしたらどうやって生きていこうか。体が利かなくなったら?

 

娘の亜弥とは、三か月に一度くらい会っている。大学に入学したころから、気持ちがほぐれてきたらしく、ある日、「ママには内緒よ」と言って、向こうから突然電話してきた。一瞬、言葉が出ないほど驚いた。

うれしかった反面、最初は身の置き所がないようなうろたえを覚えた。でも2度、3度と会ううちに、彼女が私のことを許しているらしいことがわかってきた。

もともと私は子どもが好きで、亜弥が小学校6年の時に別れるまで、とても可愛がっていた。小さい時の父と娘のつながりは、思春期になると一時途絶えて娘が父を嫌悪するようになるとよく言われる。

しかし私の場合は、とにかく物理的に離れていたのだ。これは今になってみると、かえって良かったのかもしれない。

亜弥はもうすぐ26で、建築事務所に勤めていた。こっちの仕事とも大いに関係がある。それで話がよく合った。仕事が終わった後でデートして、ごちそうしてやる。私はその時ばかりは幸福感に浸った。

俺の体が利かなくなったら、もしかするとあいつのご厄介になるのかな、それだけはどうしても避けたい。あいつには、俺のことなど振り向かずに、自分の道をずんずん進んでいってもらいたい。

ひとり侘しくオンザロックを傾けながらこんなことを考えているうちに、眠くなってしまった。

 

半澤玲子Ⅱ

                                      2018年8月29日(水)

 

 やっと過ごしやすくなった。30度以上に慣れ切っていたので、肌寒く感じるほどだ。でもまた暑さがぶり返すんだそうだ。

 今日は仕事のほうも比較的楽だった。午前中は受注と売り上げの情報をコンピュータの会計システムに取り込む。午後はいつも通り伝票を整理してエクセルで出納処理。

 お昼に同僚のさくらちゃんといつものスパゲッティ屋へ。

 さくらちゃんはまだ30代前半で未婚。鼻がちょっと上向いてて可愛い。屈託のない子で、わたしのことを慕ってくれている(と思う)。

 「半澤先輩、いつも若いですね」

 「何言ってるのよ。もう先のないおばあさんよ」

 「もしかしてお花とかやってます?」

 「え? どうして」

 「いつか、エントランスで花瓶にお花活けてたじゃないですか。あれ素敵だったから」

 「ああ、あれね。うん、母がお花の先生しててね。わたしも若い頃ちょっとやってたのよ。」

 「ええそうなんですか。いいなあ」

 「でも今はやってないわ。時々気が向くと買ってきて家で活けたりするけど」

 「趣味のある人っていいですね。私なんか……」

 「え? さくらちゃんてアウトドア系じゃなかったっけ。まえスノボーの話とかしてなかった?」

 「よく覚えてますね。でも、ちょっとそれがらみで失恋しちゃったんですよ。それ以来、触る気もしなくなっちゃって、収納スペースの片隅で埃かぶってます。」

 「あ、そうだったんだ。ごめんなさい」

 「いえ、いいんです」

さくらちゃんは少し気持ちを切り替えるというふうに間をとった。それから真面目に心のうちを明かすようなやや重い調子で、

「でもやっぱり彼氏ほしいな」

わたしは、この率直な言い方にとても好感を持ったけれど、まずは茶化すほうが雰囲気が軽くなる。

 「こら、わたしの前でそれを言うな。」

 「え? 先輩、つきあってる人いないんですか」

 「いないなんてもんじゃないわよ。深刻なシングルババアよ」

 同僚や部下とはプライベートな話はしないように心掛けているが、さくらちゃんの真面目さに思わず釣り込まれて、言ってしまった。

 「さくらちゃんなんてまだまだこれからよ。ほら、人事に大村さんっているでしょう。あの人ちょっと素敵じゃない。彼、独身よ」

 「大村さん、大村さん、と。ああ、あの人ね。うーん、でもちょっとタイプじゃないかなあ」

 「そうっか。じゃ、しかたないわね。それに最近、社内恋愛ってあんまり流行らないみたいね」

 「特に男性が、セクハラの疑いかけられるの、恐れているんじゃないですか」

 「ああ、なるほど。それは気づかなかった。そういえばここんとこ社内の空気が乾いてるわね。わたしはただ、最近の男の子って草食系になっただけなのかって思ってた」

 「ここ一、二年、なんかそういうの感じるんですよ。わたしなんかもっと声かけてほしいなあなんて思うんですけどね」

 「ことにウチは生活用品扱ってるんだから、男女のコミュニケーションが大切よね。世の中であんまり騒ぐもんだから、男の子たち、おびえちゃってるのかもね」

「そう言えばアメリカで『Me Too』なんて運動が盛り上がりましたよね。先輩はああいうの、どう思います?」

 とっさに聞かれて答えが出なかった。これまでほとんど考えたことがなかったからだ。ハリウッドの有名監督や俳優なんかが次々にやり玉に挙げられて、反トランプ・デモにも利用されていたっけ。西海岸とトランプって水と油じゃなかったのかしら。

「難しいわね。アメリカの事情、よく知らないし。ただ、日本人と違ってアメリカ女性って、すごくはっきりものを言うでしょう。日本じゃそんなに盛り上がらないんじゃないかしら」

これでは答えになっていないなと思いながら、ごまかすようにアイスティーのストローに口をつけた。ここのアイスティーは、なかなかいける。

「それがそうでもないみたいですよ。日本でもけっこう相談件数が増えているんですって」

 「そうなんだ。私たちも男性研究が必要ね。でもそういう情報があんまり独り歩きして、男性諸君が委縮しちゃうのも考えものね」

 そろそろ戻らなくてはならなかった。何となく年下の女性に対してオバサンやっちゃったかなと思った。つまり、自分には関係のないことについて感想を述べるみたいな言い方になっような気がしたのだ。これじゃいけないのかもしれない。

「あの……」

オフィスに戻る途中で、さくらちゃんがちょっとくぐもった顔つきで言った。

「え?」

「今日、よかったらお夕食、一緒にしません? さっきの話ししているうち、ちょっと先輩に相談したくなっちゃって」

「いいけど、でも、恋愛相談なんて、わたし、できないわよ。未経験ババアだから」

「だけど、先輩って、なんか頼りになる気がするんです。女どうしとして」

女どうしとしてという言葉に、心の中で苦笑してしまった。くすぐったいがうれしくないこともない。素直に約束して部署に戻った。

 

 そういえば、今朝、行きの電車で痴漢に遭った。

 ぎっしり混みあった車両のなかで、互いにねじったような感じで周りの人たちと体を接触させていたんだけど、一人の男の手がわたしのお尻に触れて不自然な動きをしているのに気づいた。男の顔は向こうを向いていたが、電車が揺れた拍子に横顔が見えた。普通の中年サラリーマン風。にらみつけようと思ったが、その前に男は手を引いた。

 じつに嫌な気分になったけれど、気の強い女性のように男の手をつかんでどこまでも追及するみたいな気にはなれなかった。それよりも離れた方がいい。とっさにそう思って、反対方向に無理をして身を寄せた。

 もちろんこれまでも、こういうことは何度もあった。でもわたしは、捕まえて公安につき出すような振舞いはしたことがない。もともと気が弱いせいもあるけれど、もし冤罪だとしらを切られたり、逆恨みされたりしたら、結局面倒なことになるだけだからだ。

 ただ、しばらくこういうことがなかったので(最後に経験したのはいつだったかしら)、この嫌な感じを忘れていた。それで、今日久々にあんなことをされたので、ちょっとショックが大きかった。

 それは、複雑な気持ち。うまく言えないし、人にはあまり話したくない。だからさくらちゃんにも黙っていた。エリにだったら話すかもしれないけれど。

 久々に痴漢に遭う。殺してやりたいほど憎いけれど、私がまだ女であることをこいつが証明してくれたのも事実だ。50になっても60になっても遭うんだろうか。もし全然痴漢に遭わなくなったら、ちょっと寂しいって感じたりするのかしら。

 今度実家に帰ったとき、母親に聞いてみよう。「お母さん、いくつまで痴漢に遭った?」って。ふふ……。

 痴漢はヘンタイ扱いされるけど、でも男って女のこと、たいてい性的な目で見てる。同僚の連中だって、そうだってことが視線でわかるわ。服装ちょっと大胆だと、すぐちらちら見るものね。だけど理性で抑えてるだけなんでしょうね。

すると、男はじつはみんな多かれ少なかれヘンタイだということになる。うん。

 でも、男がみんなヘンタイだとすると、そもそもヘンタイの定義は何だろう、と、パソコンにデータを打ち込みながら、妙に理屈っぽくなっていた。

 ヘンタイとは、すなわち、普通の男女がすることじゃない仕方で性的な振る舞いをすること。

あれ? これじゃ男がみんなヘンタイだっていうのと矛盾するな。えーっと、ローズからの入金が242万7千……。

「半澤さん、これ追加の伝票で~す」

「あ、はいはい」

 変なこと考えて間違えないようにしなきゃ。ちゃんと、ちゃんとしなくっちゃ。

 でもちっちゃなことではあるけれど、出勤時にあんなことがあると、どうしても長い時間気になっちゃうのがわたしの性分だ。

ヘンタイと言えば、最近、いろんなところでLGBTって言葉を耳にするようになった。

最初は何のことかと思ったけど、Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシャル、Tはトランスジェンダーのことだそうだ。

物知りで早耳の中田さんが得意そうに教えてくれたっけ。それで、トランスジェンダーだけが精神疾患扱いの対象になってるのだという。

 トランスジェンダー、つまり性同一性障害ってやつね。体は男で心は女、またはその反対。ちょっと感覚としてわからないわ。

 マルハチからは、と。あれ? この前よりずいぶん金額下がってるわ。閉店したところでもあるのかな? あそこは下町に店舗展開しているところが多いから、やっぱり景気悪いのかしら。報告入ってたっけ。これ調べなくちゃいけない。

 でもLGBTの人たちのこと、昔はヘンタイって呼んでたけど、最近はなんだか、サベツ、サベツってうるさくて、表向き使えなくなっちゃったわね。

たしかにこういうひとたちのことをヘンタイって呼ぶのはバカにしてる雰囲気があるからよくないけど、フツーの人と違ってるんだから、あんまり平等だ、平等だとか、人権、人権だとか騒いでひとくくりにしない方がいいんじゃないかしら。

むしろ痴漢のほうがフツーの男の性欲とつながってるんだから、フツーの男がみんなヘンタイ傾向を持ってるんだとすれば、痴漢やった奴なんかに対しては、「このヘンタイ!」って怒鳴りつけてやっていいと思う。

 なんだか、こんがらがってきた。思考停止。早く仕事片付けちゃわなくちゃ。今度エリにでも会ったとき、聞いてみよう。

 えーっと、マルハチさんはっと。マルハチ、マルハチ……。

 みつかった。やっぱり店舗の数を減らした報告書が来ていた。

あの大きなホームセンターが縮小するとは、ちょっと驚きだ。やっぱり不景気は回復してないんだわ。

 

 「この店、よく来るの? 知らなかった」

 会社から歩いて10分くらいのハンバーグ屋さんである。壁はレンガ造り、ちょっと薄暗くして、LEDキャンドルライトを立てて雰囲気作りに苦労している。

 「時々ですけど、割とおいしいんで」

 生ビールを注文してから、さくらちゃんはチーズハンバーグに卵のトッピング、わたしは和風。

 店員がいろいろ説明するのを、はいはいと聞きながら、お腹がすいているので、早く来ないかなあとじれったく思っていたら、やがてジュージューと音がして焼きたてが運ばれてきた。

 「はねますので、ナプキンを胸のあたりまで半分持ちあげていただけますか」と言いながら、店員はハンバーグにナイフを入れ始めた。「焼き方が足りないとお感じになりましたら、焼き直しますのでおっしゃってください」。

 付加価値サービスをつけて、お値段を上乗せしている。少しうるさいわね、と思ったけれど、さくらちゃんにそれは言わない。まあ、みんなそれぞれの職場やお店で苦労して頑張っているんだわ。

 「わたし、この間、お見合いしたんです」

 「あら、そう」

 「母親がうるさいもんですから。一回ぐらいは親に義理立てしといてもいいかなって思って」

 「……」

 「わたしの母親って、なんていうか、社交的で、いろんなところに知り合いがいるんですよ。それで、やたらああいう人がいる、こういう人がいるって電話で言ってくるんです。もううるさくて。いつもは適当にあしらっているんですけどね。」

 「さくらちゃん、いまや『適齢期』だもんね。母親って、ごはんちゃんと食べてる? とか、彼氏いないの? ばっかり言うでしょう」

 「そう。それしか言うことないのかって。しかも今回の場合、代理婚活までやったっていうんですね」

 「ダイリコンカツ?」

 「ええ。親同士が息子や娘のためにホテルかなんかに集まって食事して、自分の子どもをアッピールしあうんですよ。それで意気投合すれば、それぞれの子どもに紹介する。余計なことするなあって思ったんですけど、でもお金使ってそこまでしてるのかって思ったら、あんまり無下にもできなくて、相手の人と直接会うことにしたんです」

 「それでどうだったの?」

 「ええ。正直、ちょっと迷ってます。優しそうな人みたいだし、ちょっとイケメンだし、勤務先もしっかりしたところみたいだし」

 あんまり細かいことを聞き出しても仕方がない。わたしの趣味でもない。

 「まだお返事してないの?」

「ええ。向こうからくるの待っているっていうか。アラサーからも外れかけてるし、正直ここらで手を打ってもいいのかなとも思うんです」

「少しお付き合いしてみてってのはどうなの?」

「それも考え中です。正直その気がなくもないんです」

さくらちゃんは正直という言葉を3回使った。本気で迷っている証拠だな。失恋の痛手から立ち直るきっかけにしたいというのもあるんだろう。

「迷うよね。でもお見合いってみんなやらなくなっちゃったけど、わたしみたいに若気の至りで恋愛結婚して失敗するより、案外いいかもよ。恋愛と結婚生活って全然違うから」

 そう言ってわたしは、ふっと苦い経験が頭をかすめるのを覚えた。慌ててその記憶を打ち消したが、いっぽうでは、年下の子に偉そうにアドバイスして、こういう言葉が自然に出てきてしまう自分の年齢を意識しないではいられなかった。

 「先輩は、お見合いしたことないんですか」

急襲された。

 「ないない。わたしの母親はあんまりうるさく言わないほうだから。特にバツイチになってからは、勝手にやれって感じね」

 「それはいいですね。でも失礼ですけど、お仕事一筋ってわけでも……」

 「あはは……ほかに生きてく道があればいつ辞めてもいいって思ってるわよ。でもそううまく行かないから、困ってるわけ」

 さくらちゃんは考え込む風だった。彼女の年齢くらいが一番の分かれ道なんだろうな。わたしはもう遅いだろう。

 しばらく食欲の充足に専念。なかなかうまい。

ふとこの間のエリの話をしてみようかな、と思いついた。自分にもかかわりがあるので少しためらいがなくはなかった。でも、さくらちゃんこそ、試してみてはどうなんだろうという親切心が勝った。さくらちゃんて、そういう風にさせるところがある。

 「わたしの長年の親友がね、45歳なんだけど、この間、恋活サイトでお相手見つけたんだって。一つ年下で広林堂に勤めてるって言ってたかな」

 「え、そうなんですか。すごーい。それでうまく行ってるんですか」

 「まだ初デートだけど、まんざらでもないようだったわよ」

 「あれって、私も考えなくもなかったですけど、出会い系みたいに危なくないですか」

 「私もそう思ってたんだけどね、彼女に関する限りはそうでもないみたいね。わたしはやだけど」

 「ふーん……選択肢の一つではあるかなあ」

 「わたしもそう思うのよ。さくらちゃんだったら、きっと引きがたくさんあるわよ。お見合いの話も捨てないで、二股も三股もかけてやってみたら」

 そう勧めている自分って、いったい何なんだろう。上がってしまったオバサン? それとも自分の無意識の気持ちを、他人に託している?

 そう思いつくと、何となくはっとさせるものがあった。この後のほうの自問が的を射ているような気がしたのだ。

 「ありがとうございます。考えてみます。」

 さくらちゃんがさわやかに言った。

 

 やはり帰りの電車の中で、それから自宅のドアを閉めてからも、これからの自分の身の振り方のことが気にかかっていた。じぶんでは「やだ」と拒否していながら、若い人に恋活なんか勧めているわたしって、いったい……。

 考えても仕方がない。こういう時は、増田ユリさんの『ふーちゃん』みたいに、お風呂に入るに限る。でもなぜか、この前のように景気づけの歌は出てこなかった。

 

 

堤 佑介Ⅰ

                                       2018年8月25日(土

 

 暑さにやられたのか、昨日から賃貸担当の山下が休んでしまったので、代わりを務めなくてはならなかった。

シーズンオフのため、若手も順繰りに休暇を取っている。たまたまシフトの調整がうまく行かず、山下しかいなかったのだ。その山下もダウンというわけで私が代役。

土曜日なので混むかと思ったが、そんなに忙殺されたというわけでもなかった。それでも最後の客を案内し終わったのは7時近くになっていただろうか。

 閉店間際に入ってきた若いカップルが、プリントアウトしたネット情報を差し出して、ここを内見したいと言った。車で七、八分ほどかかる高台の場所だった。

 シートに記入してもらっている間に、車と部屋のキーを取りに奥に戻った。

 「どうぞ。いま車をつけますので、申し訳ありませんがソファでお待ちいただけますか」

 接客や案内はもうずいぶんやっていない。失礼に当たらなかったかと、ちょっと気になる。

 そこそこインテリっぽい、感じのいいカップルだと思った。男女とも30前後といったところか。

 エンジンを発進させながら、さりげなく聞いてみた。

 「お住み替えですか」

 「はい、今までのところが狭くてあんまり環境もよくないもんですから」

 女のほうがきびきびした調子で答えた。

 「けやきが丘はおなじみなんですか」

 「いえ、初めて来てみたんです。人気のエリアですから」

 「そうなんですよね。最近も駅前に大規模マンションができましたが、建設当初から完売でした」

 「物価とか、やっぱり高いですか」

 「そうですね。沿線の他の駅よりは多少」

 「フユーソーが多いんだな」

 今度は男が、独り言のようにつぶやいた。何となく心配そうだ。

 目的の物件は、オーナーが高齢になって、便利な駅近のマンションに移ったため空き家となった戸建てである。当分は売らずに賃貸するのだという。

 二人は相当微に入り細を穿って調べていた。質問も多かった。特に女の方が。

 駅から距離はあるが、バスの便は多いし、昔から住宅街として有名な地区である。築二十五年ほど経っているが、けっこう値が張る。

 帰りの車中で二人が話し始めた。

「いいところね。私は気に入ったわ」

「うん。だけど問題は家賃だね」男の声は遠慮がちだった。

「センターに帰ってから、ほかの物件もいろいろご紹介できますよ」と私。

ところがそれには耳を貸さず、二人の話し合いは、だんだん言い合いになっていった。

 「がんばればなんとかなるわよ」

 「そう簡単に言うなよ。君は安定しているかもしれないけど、僕はいつ派遣切りに合うかわからないんだぜ」

 「それはあなた次第よ。もしそうなったら、もっと条件のいい勤め先、努力して探せばいいじゃない」

 「僕の甲斐性のせいにするのか。そう簡単じゃないことは派遣になってみればわかる」

 男の口調は半ば自嘲気味だった。

 「だから就活んとき、ちゃんと正規を目指せばよかったのよ」

 「あんときは芝居に打ち込んでたんだ。前にも話しただろ。いまさら古い話を持ち出すなよ」

帰ってからやればいいのに、こういうところはやっぱり若いな。私的事情を外の社員に聞かせるのはまずいですよ。

 センターに戻る車に乗り込んだ時、「お買い求めのほうはお考えになっていないんですか」と持ちかけようと思っていたのだが、その言葉を出す機会を失った。

 そういえば、3年前に労働者派遣法が改正されて、すべての職業に関して、3年経てば使用者側から一方的に派遣社員を解雇できることになった。ずいぶん労働者に対して過酷な法改正だなと、当時思ったものだった。今の政権は何を考えているんだろう。

 女のほうは、「安定している」と言われていたから、大企業か公務員だろうか。とにかく、昨今の若い男女のご多分に漏れず、女のほうが気丈でしっかりしていて、男のほうが気弱で頼りなく見えた。

 大学に勤めている友人の篠原が言っていたが、最近は女子学生の方がずっと成績がよくて、日本語も満足に書けない男子学生が多いそうだ。

 しかし、と、このハリキリ女性に言ってやりたかった。

 政府はいつだったか、「すべての女性が輝く社会」とか言っていたけれど、あれは女性を低賃金で労働市場に駆り出す誘い文句に過ぎない。

 労働現場はそんなに甘くないよ。子どもでもできればきっとあなたにもいろんな問題が降りかかってきて、疲れを感じるようになる。それは個人の努力で簡単に解決する問題じゃないんですよ。

 他の物件の資料も何枚か渡し、おススメ物件について簡単に説明したが、結局「検討してみます」ということになって、カップルは帰っていった。

 あの二人はたぶんここには越してこないな。

 長年の勘のようなものがそう思わせた。

 考えてみれば彼らの世代は、幼いころから不景気しか知らないのだ。ちょっとかわいそうだった。

 私が結婚したころは、すでにバブルははじけていたが、まだその悪影響は普通の市民生活の場面には響いていず、中古市場は活気を帯びていた。若者にこんなに希望を持たせない世の中になるとは想像すらしなかった。

 しかしそれはこちらの見方で、彼ら自身はいまの社会環境が当たり前だと思っているのかもしれない。就職も売り手市場だと言われているし、多くの業界で人手不足が叫ばれているし。

 

 チーフの岡田がひとり残っていた。

 「一杯やらないか」

 「いいですね! もう早くビールにありつきたいわ!」

 岡田はいつものおどけ癖を出してオネエ言葉で答えた。

 八月も終わりに近づいたので、窓の外には暮色が迫っている。しかし今年の夏は夕方になっても気温が下がらない。車で案内したとはいえ、ちょっと外に出てくるだけで、下着が汗でびっしょりだった。日中30度を超える日が当たり前になっているので、暑さになれてしまったとはいうものの、今日はまた、格別暑かった。

 ウチは首都圏だけにエリアを絞って、本社以外に4つの営業所を持つ中規模不動産会社で、賃貸と売買の受託仲介が中心。仲介後の管理業務も行っている。時には不動産に関するコンサルも。

 私は郊外の急行停車駅前にある営業所の長を務めている。スタッフは私を含めて13人、うち、非正規が4人。

 何かのネット情報で読んだが、不動産業はサービス残業が教育業界に次いで多い職種だそうだ。

 それはそうかもしれない、と思った。この仕事は、土日は超多忙だし、金曜などは夜遅くまで顧客の相手をしなくてはならないことも多い。

 でもウチはそのあたりは堅実で、ブラックの汚名を着せられないように気を配っている。いわゆる「働き方改革」による規制の動きには敏感な方で、残業代は、名目上はちゃんと計算されている。まあマシな方だった。

 しかし人気エリアだから、この人数で売買と賃貸の仲介、賃貸の維持管理の業務を円滑にこなすことはかなり無理がある。

 ずいぶん前から増員を申請しているのだが、本社のほうは首を縦に振ってくれない。長引く不況で、人材投資を渋っているに違いない。粗利はかなり上がっているはずだが、株主配当などに流れているのだろう。そのうちブラック企業に転落するかもしれない。

 「所長、暑いのにご苦労様でした」

 「いやいや、たまには現地に行くのも勉強になる」

 よく立ち寄る居酒屋でジョッキを合わせた。

 「しかしこの界隈も空き家が増えましたね。さっき私が案内した物件も築23年ですが、売りに出されてから1年半たつのにまだ売れません。もう一段下げた方がいいかもしれませんよ」

 「どれだっけ」

 「中野木のやつです」

 「今日の客はどうだった」

 「うーん、何とも言えませんねえ。脈があるような、ないような」

 「夫婦で来たの」

 「ええ、四十代かな。まあ経済的には余裕がありそうに見えましたけれどね。築浅のマンションにしようか、戸建てにしようか迷ってるって言ってました」

 「全国で空き家800万戸だっていうからな。ウチの空き家対策もちょっと遅れ気味だね」

 「売買と賃貸だけに特化させ過ぎてきたきらいがありますよね」

 「そう。これからは空き家をどうケアしていくかが競争の修羅場になるかもな。まずはアパートの空きをどうするかが大きな課題だね。」

 「その通りですね。これからは、巡回管理、相談といったサービスだけじゃなくて、場合によっちゃあ、中古を買い叩いてリフォーム、新規売り出しに力を入れた方がいいかもしれませんね。エステリアさんなんかはそっちにシフトしているらしい」

 「あそこは大手だし、住宅販売やゼネコンとの結びつきが緊密だからな。やっぱり資金の流動性の面で強いよ。そこへ行くと、ウチは……」

 「でも所長、遺品整理とか物流サービスのような細かいところに活路を見出す手もありますよ。」

 「なるほど、遺品整理か。それは超高齢社会だからけっこうニーズがあるかもね。今度本部で会議があった時に提案してみよう」

 「物流の場合は、たとえばいくつもの運送会社と契約を結んで情報交換し、効率的な配置サービスでサポートする。実際に共同で仕事やってもいいと思うんですよね。あと、ウチにはいまのところ関係ありませんが、もっと大きい話だと、女性の社会進出に応えて住宅と保育所と店舗の複合施設を開発するとか」

 岡田は明敏である。私はそこまで考えていなかった。たしかにこの業界も、これからは体面を棄てて、いろいろと多角経営に手を出さないと生き残りが難しいのかもしれない。

 一時間半ほど食べて飲んだ後、二人は別れた。やはり、ウチのこれからという点に関しては、景気の良い話はあまり出なかった。

ざわめき ささやき

――2018年ふたりの秋――

 

半澤玲子Ⅰ

 

                                      2018年8月25日(土)

 

きのうは暑さがまたぶり返して30度を超えた。オフィスにいる時はいいけれど、お昼に外に出るだけで汗びっしょりになる。

でもわたしなんか事務系はまだ仕合せだ。勤務時間中のほとんどを室内で過ごせるんだもの。営業の外回りの人たちはさぞ大変だろう。個別店舗までくまなく回ってくるんだから。

この夏は帰ってくるたびお化粧直しにトイレに行く同僚の女性を何度も見た。ケイ子さん、さとみさん、プッチー……。男の人はもっと大変ね。スーツ着てネクタイ締めて。

もっとも中田課長が言ってたけど、最近は、クールビズが進化して、相当涼しい繊維の服ができてるんだとか。でもネクタイはやっぱりきついでしょう。まさかアロハシャツで営業するわけにはいかないし。

それにしても、ほんとに今年はどうかしている。7月末のあの猛暑ったらなかった。それに6月には大阪の地震、7月の西日本豪雨災害。

今日はまた昨日にもまして暑い。熊沢37度とか天気予報が言ってた。

せっかくの休日なのに、この暑さでは外出する気がしない。灼熱の太陽に照らされて、ぶっ倒れてしまいそうだ。それとやっぱり一週間の疲れがたまっているのかな。何となく体がだるい。

昨日は仕事のほうもかなりきつかった。

なんだかまだまだ災害が続くような嫌な予感がする。いよいよ関東にも大災害が来るのかしら。

 

 お昼を食べ終わってから、いつの間にかソファで寝てしまったらしい。時計を見たら2時半になっていた。

 睡眠を取ったら気分が軽くなった。一日家にこもっているのもなんだから、やっぱり出かけることにしよう。久しぶりにエリを誘ってショッピングと夕食でも一緒にするか。

「もしもし、あ、レイだけど」

「ひっさしぶり! 5月以来だよね。このクソ暑い夏、生きてた?」

「うん、何とか。でもここ二、三日は忙しかった。ここんとこ請求書の量が増えててね。おまけにきのうは給料日だったし。……そっちは?」

「こっちも忙しい。いまさ、配送以外の新企画に取り組んでるんだけど、それがとにかくごちゃごちゃしててね。家電の回収とか女性向け家事支援とか農業への参入とか東南アジア系にも手出すらしくて。あんまりいっぺんにやらない方がいいとおもうんだけどね」

エリは物流系大手・全通運の事業開発部にいる。私などと違って有能で実行力があって、キャリア系と言っていいんだろうか。

彼女とは大学時代のバイトで知り合ってからずっと親しい仲だ。飾らないたちで、シャキシャキしてて何でも話せる。判断力も的確だから、二つ年下なのにこれまで何度も困ったときの相談役になってもらった。

女同士のこんなに長い付き合いってそんなにないかもしれない。それも両方とも独身だからか。もっともわたしはバツイチ、彼女は未婚。

「骨休めにメシどう?」

「いいね」

「その前に買い物つきあってくれる?」

「いいよ。洋服?」

「うん」

「北千種ならけっこうお店あるよね」

「そだね。リモネでいいよ」

「あ、それにさ、この前、駅近でおいしいイタ飯屋見つけたんだ。そこにしない?」

「いいよ。じゃあっと、4時に北改札でいい? あそこ、そのままリモネの3階に入れるでしょ」

「OK。じゃ、お店のほうは予約入れとくから」

「サンキュー」

 最近、鏡を見るのが何となくつらい。小じわも増えたし、ホーレー線もけっこう目立ち始めた。

周りは若く見えると言ってくれるけれど、それは実年齢にしてはって話でしょ。あと三年で大台だもんね。五十から七十までの二十年間はあっという間だなんてことも聞くし。

そこへ行くと、エリはけっこうはつらつとしてるな。2年の違いか、それとも結婚経験の有無が関係してるかしら。いやいや、やっぱり性格だろうな。

それにしても、あの結婚は早く解消しておいてよかった。子どもができてからだったらそう簡単にはいかないだろうから、悲惨なことになっていたかも。

あんな酒乱男の嫉妬魔とずっとなんて、いま思うだけでもぞっとする。わたしにしては珍しく決断力を示したほうだ。ほんとに結婚って、生活してみなければわからないものだ。

でも、離婚したこと自体はよかったんだけれど、その後がいけない。3年後に1度だけ恋愛っぽい付き合いはしたものの、じきに別れてしまった。数えてみれば、彼氏いない歴15年。ギネスブックものよ。そうして年取っちゃった。

なんか昔を思い出すと、くさくさしてくる。いけない、いけない。明るく見えるように口紅をちょっと濃いめに。つけまつ毛も長めのを。

 

「よく似合ってたよ」

「ありがとう。エリの見立てのおかげだわ。それにしても、この店もなかなかおしゃれね。混んでるし。景気、よくなってるのかしら」

「よくなってるわけないよ。政府はそんなこと言ってるけど、東京圏だけ。反対に地方はますます落ち込んでる。物流見てると数字でわかるのよ。四国とか、山陰とか、ひどいものよ」

開店して間もないイタ飯屋。冷房がよく効いているだけでありがたい。白ワインのボトルをとり、乾杯して、二人の中年独身女の食事会は始まった。コース料理にした。

エリは私と会う時は、どちらかというとマニッシュな恰好をしてくるんだけど、今日はいつもより何となく華やいだ雰囲気だ。いいブラウスを着てるし、心なしか、表情も明るい。わたしは前菜をつつきながら、仕事モードの話題より、プライベートのほうを少し突っ込んでみたくなった。

「ねえねえ、そのブラウス、もしかしてハナヨモリ?」

「ピンポーン。よくわかったね」

「わたしも好きだから。でも高いからいつもウインドショッピングよ」

「へへん。わたしも初めてなんだけど、ちょっと無理して買っちゃった」

ネックレスもおしゃれなのをつけてる。ますます突っ込んでみたくなった。

「さては何かあったな。夏の日の恋とか」

「そこまでは……」

「聞かせないと、ピッツア、エリの分まで食っちゃうぞ」

「アハハ、レイには黙っていられないね。でもあんまり自慢できることじゃないよ。要するにだな、ほら、出会いの機会がないじゃん。もう断崖絶壁かもって思ってね。だからついにやっちまった。恋活」

「コイカツって、ネットかなんかで?」

「うん」

「へえ! いつ?」

「6月中頃だったかな。最初は半分遊びのつもりだったんだ。でもこの年になってもけっこう引きがあるんだよね。だんだんハマってきてさ。そしたら、一か月もしないうちにマッチングがいくつも成立してね。こっちの出方次第で選べるんだよ。そこが魅力と言えば魅力。職場と家の往復じゃそんなことってないでしょ。周りはパワハラオヤジや坊やみたいな男の子ばっかしだし」

「それでいい人が見つかったの?」

「うーん、まだわかんないけどね。とにかく初デートまではこぎつけた」

エリのグラスにワインを継ぎ足してあげたが、その自分の手がほんのかすかにふるえているような気がした。

ウェイターがメインディッシュを運んできた。スズキの包み焼き。でもなんだか食欲が萎えるような、食い気を追うよりも色気話を聞く方が大切なような気分になってきた。

「ねえ、あれって自分の写真とか載せるんでしょう」

「そう。でも載せない人もいるよ。遠景とかぼかしとかペットとかね」

「エリはどうしたの」

「やっぱさ、顔写真載せないのって、なんか本気度が低いような感じするんだよね。それとほら、男ってそこが一番知りたいわけじゃん」

「男のほうは顔写真載せるの」

「男もいろいろよ。サーフィンやってる遠景とか、自慢のバイクとか。でもこっちも男とおんなじで、顔が見たいね。イケメンかそうでないかってことより、ほら、顔ってやっぱ、人となりがわかるでしょ。表情とかに出るじゃん。鮮明な顔を載せてない人って信用できない」

「第一印象が肝心ってやつね。でもエリはきりっとしてるからいいわよね。写真映りもいいし」

「そりゃほめてんのかけなしてんのか。でも、いざ選ぶとなると決定版がなくてすごく迷った。だってなんせこの年だもんね」

そういいながら、エリは旺盛な食欲を見せた。

「何枚も載せられるの」

「サイトにもよるけど、わたしの場合は最高四枚」

「なんかメッセージとかいろいろ書くんでしょう」

「そう。なるべくほんとのこと書こうと思うんだけど、どうしてもある程度は自分を飾っちゃうわね。なに、その点では敵もおんなじだからね」

わたしにはとてもできない。でもエリの気持ちもすごくわかる。わたしの方がもっと切実だ。でもわたしにはやっぱりできないなー。

「なに、そのため息」

「え? あ、……よくやったわねって感心して……で、その彼氏、どんな人なの」

メジャーな広告代理店の広林堂勤務で年はエリより一つ年下、つまり四十四歳、もちろん独身、かなり高収入で、ルックスはかなりいい線。ちょっと早口なのが気になるけど、話題は豊富で知的な雰囲気なんだそうだ。

うまくやりやがったな。また思わずため息が出た。応援したい気持ちと嫉妬っぽい気持ちと四分六分くらいか。

「健闘を祈る。改めて乾杯。広林堂っていったらナンバー2でしょ、すごいよね。でもどうしてそんなモテそうな人が、わざわざ恋活サイトなんかに登録したのかしら」

「一線で活躍してる人じゃないのよ。ソリューション・サポートっていうの? 主に外からのトラブルを解決する尻拭い役みたいなもので、自分は裏方が似合ってるって言ってた」

「ああ、なるほど。そういう人の方がお堅くていいかもね」

「でもまだわからないのよ。初デートってお互いかっこいいところだけ見せるでしょ。ちょっと遊び人風みたいなところもあるし」

「ねえねえ、初デートでどこまでいったの」

「え? ごくふつうよ。お食事して、お互いお上品にお仕事のこととかご趣味のこととかお話しいたしました。まあ、アチラの職業柄、話はけっこうおもしろかったね」

「次、会う約束は?」

「一応いたしました」

だんだん調子が下がってくる。わたしは焚きつける。

「めったにないチャンスだよね。がんばって」

「……がんばってどうなるもんでもないよ。こればっかりは」

エリには珍しく自信がなさそうにうつむいた。アイラインが影を作って少しやつれているようにも見えた。エリだって不安になるんだ。これ以上突っ込むわけにはいかない。

「そりゃそうだけどさ。エリは何事にも前向きだから。……わたしなんかダメだな、そういうのは。もう断崖から転落してるし」

今度はこっちがしょげる番だった。

「そんなことないよ。レイは可愛いし、年より若く見えるし、それに最近はアラフィフの登録もすっごく増えてるらしいよ。」

アラフィフという言葉にぎくりとした。たしかにもうそう呼ばれるところまで来たんだと思いつつ、動揺を隠すように添え物のアサリをつつく。でもうまくフォークに引っかからない。態勢を立て直し、

「第二の人生ってやつね」

「そうそう。それにさ、バツイチのほうが有利だって分析も成り立つのよ」

エリが今度は昇り調子。

「なんで?」

「だって、その年まで結婚経験がないってことは、よほどモテない女じゃないかとか、なんかあるんじゃないかとかって勘ぐられやすいじゃありませんの、元奥様」

「ふうん、そんなものかな。でも逆もあるんじゃないの。この人は何で離婚したんだろうって怪しんだり、やっぱり未婚の方が新鮮でいいよな、とか」

「そりゃまあそういうのもあるけど、最近はそういうの、守旧派みたいよ」

「そうなんだ……」

「それにレイの場合、あなたのほうに落ち度は全然ないじゃない。向こうが聞いてきたらきちんと説明すればいいのよ」

「そりゃそうだけど。……でもああいうのって、わたしにはやっぱ向かないと思う」

「そう決め込まずに、よくお考えあそばせ、元奥様。」

よく考える。それはそうだ。このまま仕事人生だけを生きて、一人で年を取っていくのなんて想像しただけでもいやだ。実家の母親の介護だってそう遠くない未来に待ってるわけだし。

考えたくないことを考えないように、考えないようにしている。でも時は待ってくれない。わたしって、いい年をして、まだどこか「白馬に乗った王子さま」を夢見ているところがあるんだろうか。

ドルチェが来た。

エリはズッパイングレーゼをスプーンで掬って楽しそうに口に運んだ。でもわたしのトルタサケーは、チョコレートがちょっと苦すぎるような気がした。人生のほろ苦さのように。

 

表に出ると昼の暑さがまだそのまま残っているようで、温気を含んだ風が頬をなぶるように迫ってきた。エリとは反対方向なので、地下鉄の改札口で別れた。

電車の中でも家に帰ってからも、今日のエリの話が、背中にしょった小荷物みたいに心にかかっていた。といって、重さのために打ちひしがれるとか、押しつぶされるというほどじゃない。

とにかくエリの話は、他人事ではないという感じをわたしに与えたのだ。そのことが大きかった。これから自分の行く末に思いをはせるたび、今日のことが甦るはず。

「よくお考えあそばせ、元奥様」か。

でも恋活サイトに登録するかどうか考えるんじゃなくて、考えるべき問題はもっと本質的なんだ。といって、どういう風に考えていけばいいのか、その道筋についてはてんで見えてこない。

職場の男性たちの顔を何人か思い浮かべてみる。

独身はけっこういた。ウチは仕事柄、男女比は4:6ぐらいなんだけど、それでも人数が多いから。

営業の吉岡さんはたしか四十半ば、わたしと同じ経理の中田課長はもう五十に近かったかな。人事の大村さん、けっこう素敵だけど、まだ四十行ってないでしょう。年が違い過ぎる。最近じゃフランスのマクロン大統領みたいに年下が流行ってるとかいうけど、やっぱりなあ。

総務の五十嵐次長はたしかもう五十代半ばよね。彼なんか一生独身のつもりかしら。すごくいい人なのに、お腹が出てるのと薄毛が災いしてるかもね。クスッ。

そういえば、何かで読んだけど、いま五十代男性の四人に一人が一度も結婚したことがないそうだ。もうすぐそれが三人に一人になるとか。

これからの男女関係とか家族ってどうなっちゃうのかしら。このまま少子化が進んで日本は滅んじゃうのかしら。

いやいやそんな大きな話はどうでもいいわ。問題は私自身の人生よ。

前の職場でも今の職場でも、これまで言い寄ってきたのは何人もいた。感じのいい優しい人もいた。でもどうも食指が動かなかった。そんなにえり好みをするほうじゃないと思うんだけど、いざとなると考え込んでしまうのだった。もともとわたしのほうから接近、なんて積極性は持ち合わせていないし。

そうこうするうち、こうなってしまいました。

 

考えたって仕方がない。お風呂に入ることにした。

洗面台の鏡の前でブラジャーをはずすと、小ぶりだけど形のいい(と、自分で勝手に思っている)乳房が元気よくこっちを向いた。まだほとんど垂れていないな。いまどきの若いもんにゃあ負けねえぜ。

いつかTSUKAYAで借りて見たクリント・イーストウッドの『マディソン郡の橋』を思い出した。田舎の主婦のメリル・ストリープが、橋を撮りに来たカメラマンに出会った一日目の夜、恋心が芽生えているのを感じて、食事を終えて彼が帰った後に、自分のややだぶついた裸体を鏡に映すシーンだ。ほんの短い瞬間だけど、自分は恋をしてしまったんだろうか、そうだとしたらこの体は恋に値するんだろうかと迷っている感じがすごくよく出ていた。

恋をするには才能が必要だ、なんて誰かが言ってなかったっけ。でも本当にそうだ。よーし、わたしもエリみたいに、でもたぶんエリとは違った仕方でがんばるぞー。

そう思うとまた元気が出てきて、浴槽の中で唄を歌ってしまった。

♪ときのながれにみをまかせ~ あなたのいろにそめられ~ いちどのじんせいそれさえ~ すてることもかまわない~ だからおねがい~ そばにおいてね~……♪