堤 佑介Ⅳの1
2018年9月13日(木)
先週の土曜に脈がありそうに見えた中高年夫婦が、午後早く再び訪れた。事前に「ほぼ決めた」旨の電話連絡があり、もう一度物件を見たくて来たのだった。この夫婦、他の人に取られてしまうのを心配して焦っていたようだ。
岡田が勇んで案内し、1時間ほどして戻ってきた。私の傍らを通るとき、「ご成約、ご成約」とささやいた。私も「よかったな」と微笑みを返した。彼は、今日の残り時間は、この夫婦への詳しい説明や書類上の処理に追われるだろう。
マンションの賃貸物件が新しくまとめて入り、山下、谷内、中村と派遣社員を含めた四人がその処理に追われていた。
八木沢は前から売り出している中古マンションの来客を、パート社員と一緒に案内。駐車スペースがない場所なので、一人車に残る必要があるからだ。川越、本田ともう一人のパートが、新しく入ってくる客の窓口を担当していた。
東日本チェインズという宅建業者間だけで共有できる情報機関がある。
地域に入ってきた情報は、オーナーが断らない限り、すべてここに報告する必要がある。
そのうえでポスティングのためのチラシ原稿を作り、本部に送る。さらに店内用のリーフレットを作成して、ネット広告も手配する。
急がなくてはならない。物件が複数重なると、けっこう重労働になる。
「山下さん、今日はたいへんだね。手伝おうか」
「ちょっと数が多いですね。でもお任せください」
「悪いね」
「いいえ」
ねぎらいの言葉をかけたのには、わけがあった。
彼女たちはかなりの残業になるだろうが、私のほうは、この間のモデルハウス改築設計案についての意見報告書を仕上げればよく、しかも、退社後に友人の篠原と会う約束を交わしていた。
所長の裁量範囲とはいえ、部下たちが残業で頑張っているところを定刻退社するのは、何となく気が引ける。私たちのようなこじんまりしたグループだと、親密さの度が強いので、よけいそういう空気に支配されるのだ。 もちろん、部下たちの側からすれば、もっとその空気には敏感にならざるを得ないだろう。
篠原には、数日前にメールでアポを取った。
こちらは火曜の夜が都合いいのだが、その日は出張で無理だという。一泊するので翌日も無理。金曜日以降ははこちらが書き入れ時なので、今日ということになった。
篠原の大学は都心にあって、自宅は、ちょうど私のオフィスがあるけやきが丘のそのまた先の郊外に位置している。 私は私で、同じ私鉄を少し都心のほうにさかのぼる格好になる。それで、私はオフィスからあまり動かずに、けやきが丘の気に入りの居酒屋「夕凪」で彼と待ち合わせることができた。
こちらの方は、いつもスタッフと行く居酒屋とは違う。かなり狭いので、みんなで労いあうための一杯には適さない。私はこの店を彼らに教えていない。いわば秘密の隠れ家だ。
定時よりも少し長く職場に残ってから、おもむろに店に行くと、カウンター席の奥で篠原はもう背中を丸めてビールを飲んでいた。猫背がいっそう高じてきたような印象だ。
「なんだ、早いじゃないか」
「おう、お先に失礼。今日は四限で終わったんでね」
「出張はどこだったんだ」
「大分。県立高校の社会科教師の会で講演に呼ばれてね。大分なんてずっと昔、一度行っただけだから、これ幸いと観光も兼ねてきたよ」
「別府でのうのうと温泉三昧か」
「別府じゃなくて湯布院に泊まったんだ。泉質にコバルトがふくまれていて、青い湯のホテルがあってさ。なかなか神秘的なんだよ。久しぶりにいい気分になって、あくる日、日田まで足を延ばしてきた」
「日田っていうと、ずいぶん内陸のほうだろう」
「うん。ところがあそこはさ、江戸時代、天領で、西日本じゃちょっとした金融の中心地だったらしいな。広瀬淡窓って知ってる?」
「名前だけは聞いたことがあるけど、儒学者だったっけ」
「そう、その儒学者が咸宜園という塾を流行らせて、全国から大勢の塾生が集まった。実践的な教育を重んじたんだけど、彼の弟が金儲けに長けていて、日田を金融の町に仕立て上げた中心人物だったんだ。兄の実学主義と弟の現実感覚とがどこかでつながっていたようだ。学問と金融で栄えた名残が今もあってね。豆田町というところが観光地としてけっこうにぎわっていたよ。なかなかよかった。もっと日本人が行くべきだな。」
「羨ましいな。俺も暇があったら行ってみたいよ。二泊三日がなかなか取れない」
「日本人はあんまり旅行しなくなったな。家計が苦しい人が多いんだろう。そういえば湯布院の近くに金鱗湖っていう小さな湖があってさ。そこもにぎわってるんだけど、聞こえてくるのが韓国語ばっかりだった。安っぽい土産物屋がずらっと並んでて、日本を珍しがる韓国人向けの品しか置いてないんだ」
「そういえば、対馬なんかは観光客だけじゃなくて、業者もほとんど韓国に占領されてるらしいな」
「うん。困ったもんだよ。堤のところなんかも中国人や韓国人がけっこう来るんじゃないか」
「俺のところはほとんど来ないな。しかし日本政府は弱腰で困るよ。そのうち中国にとられちゃうかもしれない」
「これ知ってるか。中国人の不動産爆買いが進んでて、日本の全国土の2%がすでに買い占められてる」
「2%ね。それでもまだ50分の1か」
「ところがこれが静岡県全県の面積に匹敵するんだ」
「え、そんなになるか」
ため息が出た。
そのうち、私のところにも中国人が訪れるようになるかもしれない。正直なところ、職業柄、ちょっとめんどうだなという気持ちになった。
「お飲み物は」
可愛いことで評判をとっているアキちゃんという若い奥さんが注文を取りに来た。
この店は夫婦で仲良くやっている。
マスターはややむくつけき風体だが、腕は確かで肴が実にうまく量もたっぷりだ。生牡蠣などはちょっと他では食べられないような立派なのが出てくる。酒も種類が多い。
まずはビールと一緒にいくつか好みの品を頼んだ。アキちゃんは素早く書き取りながら、 「こちらは大学の先生か何かでいらっしゃる?」と聞いた。
「やっぱりわかる?」と私のほうが答えた。
「ええ、いかにも教養がありそうな雰囲気で」
にっこリ笑って愛想を振りまく。
「おい、教養がありそうだってさ。少しは猫背を直したらどうだ」
「うむ。これは研究熱心な証拠だから直らないな」
「ところで講演の演題は?」
「晩婚化とこれからの日本」
「おや、それは切実なテーマじゃないか。俺もそのへん大いに関心があるよ」
「晩婚化が不動産屋とどうかかわるのかね」
「大いにかかわるとも。これでもひと様の生活意識をつかむのが仕事だ。これからの家族形態がどうなっていくのか、知っておかないと商売にかかわる。これは篠原の領域と大いにかぶるじゃないか」
「ああ、なるほど。堤も研究熱心だな」
「研究熱心なんだか、好奇心が強いだけなんだか。それでどういうことを話したの」
「最近の男女関係の傾向について。政府の少子化対策のどこがおかしいか。これから結婚や家族がどうなっていくのか」
「ああ、重大な問題だな。俺も素人なりにそれ考えたんだけどね。違ってたら言ってくれ。政府は育児休業の拡充とか幼児教育の無償化とか児童手当増やしたりとかしてきたけど、あれって少子化対策としては間違っているんじゃないか。子ども産める夫婦はけっこう裕福で、その裕福な層に児童手当や教育無償化とかやったら、かえって格差が開くだろう。本当は結婚しない男女が増えちゃったから子どもも生まれなくなったんで、子どものいる夫婦を支援する以前に、どうやったら若者が結婚するかを考えるべきだったんじゃないの」
「そのとおり。日本人は欧米と違って婚外子をすごく嫌うんだよ。だからまず出会いから結婚までをサポートすることこそが大事なんだ。それは、できちゃった婚が多いところにも表れている。できちゃうと結婚に対するモチベーションがぐっと高まるんだよ。それと、少し前までは結婚すれば二人以上産んでた夫婦がけっこう多かったんだけど、最近では、結婚したカップルでも、一人しか産まないとか、子どもを産まない夫婦が増えてるね」
「やっぱりね。それはこれからの日本にとって困ったことだな」
「うん。その困ったことってのもさ、みんなはただ漠然と人口減少が国力を減退させるから困るって思ってるだろう。だけどあれは違うんだよ。人口減少そのものは、緩慢な変化だから、いますぐどうってことはないんだ。差し迫った問題は、高齢化と少子化が同時に起きていることなんだよ。」
「というと?」
「つまり人口減少のカーブよりも、生産年齢人口の減少カーブのほうがずっと大きい。そのギャップが人手不足とか、年金問題とか、いろんな問題を引き起こしてるんだ」
「ああなるほど。要するに弱って働けなくなったじじばばが増えちゃって、少なくなった現役世代がそれを支えなくちゃならない、と」
「そういうこと。政府は人手不足を移民で解決しようとしてるけど、あれもすごくまずいね。移民を大量に受け入れた欧米が今どんなひどいことになってるか、見ればわかるはずなのに」
「しかしこれからの若者はますます結婚しなくなっちゃうんじゃないか。なんかそんな予感がするんだけど」
「そうだろうな。だからもう少子化に歯止めをかけようって発想は捨てて、少子化を前提として対策を考えていかなくちゃならない」
「篠原式対策は?」
「それはAIでもなんでも技術力を駆使して労働者一人当たりの生産性を高めていくほかない。あとは給料上げて、日本人で余ってる人材を掘り起こすことだ」
「だけどそれには企業がどんどん設備投資や人材投資していかなきゃならないだろう。企業は内部留保ばかりため込んで、一向にその気配がないじゃないか」
「そう、それは政府が積極的な財政政策を打たないで、財源ばっかり気にしてるからだよ。最終的には財務省の緊縮路線が、デフレ脱却を阻んでるのさ。財務省は諸悪の根源!」
篠原は吐き捨てるように言った。絶望、とは言わないまでも、かなりペシミスティックなトーンがこもっていた。
「お飲み物のお代わりはよろしいですか」
アキちゃんが近寄ってきて言った。見るとジョッキは二人とも空になっていた。
「十二代ある?」
「はい、ございます」
「あ、僕もそれ」
この店では、日本酒をブランデーグラスに入れてくれる。そのおしゃれな感じが私は好きだった。
「そういう話を大分でしたわけね。それでどうだった。講演してて、聴衆の反応は」
「うん。やっぱりのんびりしてるな、地方は。俺を呼んでくれた先生は俺の本を読んでるからしっかり問題を把握してるんだけど、他の聴衆はしんとしてて、質問もほとんど出ない。動員かけられて仕方なく来てるって感じだな。担当の人たちはそりゃ親切で、ものすごく優遇してくれるんだけどな」
「そうか。大都市で問題にされてるほどじゃないってことだな」
「なってない、なってない。ていうか、少子化や晩婚化は、若者が流出してしまう地方でこそ深刻な問題で、そのことはみんなわかってるんだ。でも日本全体の動向や経済情勢が絡んでいるから、一地方自治体レベルでは、どうしようもない」
「大分県なんかだと未婚率とか初婚年齢とか、それから何て言ったかな、50歳以上になっても一度も結婚したことがない男女の率」
「生涯未婚率。どれもランキングで言うと確かに低い方に属するけど、大した差じゃないな。要するに全国的に晩婚化傾向が顕著だってことだよ。でも意識の問題としては、教育の中にその問題を取り入れていこうっていうような発想がなかなか出てこないみたいだ」
「文科省は、そういうお達しを出してないのかね」
「全然。仮に出したとしたって、現場には届かない。効果はないだろうね」
「そうすると、その、深刻さはわかっているにもかかわらず、打つ手もなく何となくぼんやりしてる、その理由ってのは」
「まあ、俺みたいに客観的な社会現象として分析している学者と、自分の人生の問題として考えてる人たちとは距離があるってことかな。『学問の要は活用にあり』なんだけど、その活用の道筋が昔みたいにうまく見えなくなってる」
「若者が結婚しなくなった理由は、何なのかね」
「それはいろいろ考えられるけど、やっぱり何と言っても経済的理由だな。若者の結婚願望統計を見ると、やや低下傾向はあるけど、そんなに下がっちゃいないんだよ。俺の授業でさ、『将来結婚したいですか』ってアンケートとるんだけどね。そうすると、まずほとんどの学生が『したい』と書く。そのうえでさ、さっきの生涯未婚率の話を出して、君たちのうちで四人に一人は一生結婚できないというと、みんなびっくりするよ」
「要するに結婚したくても金がかかるからできないってことか。やっぱり不景気の影響かね」
「そう。それが一番大きい。でもみんなそのことに気づいていないんだよ。マスコミは景気がよくなったなんて言ってるけど、あれはウソだ。実質賃金はここ二十年、下がりっぱなしだからね。それにいま、非正規社員がうんと増えてて、短期間の転職も多い」
「すごく不安定な時代だな」
「うん。将来見通しが立たないから、結婚に踏み切れない。多くは親にパラサイトしてる状態だね。だから四十代になってもバイトで食いつないでいるなんてのはざらだよ。これは職業スキルが身につかないし、親がこけたらどうするんだって問題があるから困った状態なんだけど、当の学生諸君たちは、自由な働き方がいいなんて考えているみたいだな。」
「でも二十歳や二十五の若者に将来のことまでも戦略的に考えろというのはちょっと無理なんじゃないかな。こないだ来たウチの客でも、芝居に夢中になっていたんで、気づいてみたら派遣しかなかったってのがいたよ」
「それはそうだろうけどさ。でもそこが企業の目の付け所だよ。こんな情勢じゃ、これからブラック企業はますます増えるんじゃないかな。それともう一つ、これは地方に多いんだけど、結婚をためらう理由に、親の世代にイエ意識が残ってるもんだから、女性が相手の家に嫁として入るのを嫌がるってのもある」
「ははあ、なるほど。その後のほうの理由と関係があるかどうかわからないけど、俺は女性が経済力を持ったのと、コンビニやスーパーが個食をたくさん揃えるようになったんで男も女も独身でも困らなくなったことが大きいんじゃないかと思ったんだけどね。これは俺自身の実感でもある」
「うーん。それはどっちかというと原因であるよりも結果だな。ビジネスは男女の動向を敏感にとらえるからね。」
「ああそうか、なるほど。つまり独り暮らしが多いのを見越して」
「そう。そういえば俺の同僚でね。もう50代だから、それこそ生涯未婚率にカウントされちゃうんだけど、いい人がいれば結婚する気でいたんだ。仲間が仲介を買って出て、そいつのことを、こういう人がいるけどどうですかって、女性に持ちかけたんだそうだ。そうしたら、その同僚に会いもしないうちから、全然そんな気はありませんって言われたんだって。しかもなんとそれが三回もあったそうだ」
「みんな別の女性?」
「もちろん。その同僚はあきらめ気味に苦笑していたよ」
「それだけ聞くと、女性の方が結婚願望が下がってるように思えるな。でもその相手ってのは、一部のインテリ女性じゃないのかな。一方では結婚相談所とか婚活サイトなんかはすごく盛んなんだろう?」
「そう。だけどあの種のビジネスは、メジャーなところは収益は上がってるけど、それでも成約率は低いみたいだよ。実際にどれくらいかは、企業秘密だからわからないけどね。つまり、昔と違って女性のほうの理想水準が上がってて、それに応えられるだけの男がなかなかいないんだよ。結局、全体としては結婚願望はあるけど、さまざまな理由でミスマッチが多いってのが現状」
篠原は、まるできっぱりと結論づけるように、グラスをぐいと上げて、残りの酒を飲み干した。
二人とも酒がなくなったので、もう一杯注文した。少し腹を膨らませるために、追加でナスの味噌炒めとだし巻き卵。
「アキちゃん、お嬢さん、いくつになったんだっけ」
「5歳です」
「早いなあ。そろそろもう一人どう。少子化の歯止めに貢献しなくちゃ」
マスターにも聞こえたらしい。アキちゃんは、彼のほうにちらりと目配せしてから、恥ずかしそうに笑って答えた。
「ハイ、頑張ります」
マスターも包丁をたたきながらにやりとした。









