ざわめき と ささやき
――2018年ふたりの秋――
半澤玲子Ⅰ
2018年8月25日(土)
きのうは暑さがまたぶり返して30度を超えた。オフィスにいる時はいいけれど、お昼に外に出るだけで汗びっしょりになる。
でもわたしなんか事務系はまだ仕合せだ。勤務時間中のほとんどを室内で過ごせるんだもの。営業の外回りの人たちはさぞ大変だろう。個別店舗までくまなく回ってくるんだから。
この夏は帰ってくるたびお化粧直しにトイレに行く同僚の女性を何度も見た。ケイ子さん、さとみさん、プッチー……。男の人はもっと大変ね。スーツ着てネクタイ締めて。
もっとも中田課長が言ってたけど、最近は、クールビズが進化して、相当涼しい繊維の服ができてるんだとか。でもネクタイはやっぱりきついでしょう。まさかアロハシャツで営業するわけにはいかないし。
それにしても、ほんとに今年はどうかしている。7月末のあの猛暑ったらなかった。それに6月には大阪の地震、7月の西日本豪雨災害。
今日はまた昨日にもまして暑い。熊沢37度とか天気予報が言ってた。
せっかくの休日なのに、この暑さでは外出する気がしない。灼熱の太陽に照らされて、ぶっ倒れてしまいそうだ。それとやっぱり一週間の疲れがたまっているのかな。何となく体がだるい。
昨日は仕事のほうもかなりきつかった。
なんだかまだまだ災害が続くような嫌な予感がする。いよいよ関東にも大災害が来るのかしら。
お昼を食べ終わってから、いつの間にかソファで寝てしまったらしい。時計を見たら2時半になっていた。
睡眠を取ったら気分が軽くなった。一日家にこもっているのもなんだから、やっぱり出かけることにしよう。久しぶりにエリを誘ってショッピングと夕食でも一緒にするか。
「もしもし、あ、レイだけど」
「ひっさしぶり! 5月以来だよね。このクソ暑い夏、生きてた?」
「うん、何とか。でもここ二、三日は忙しかった。ここんとこ請求書の量が増えててね。おまけにきのうは給料日だったし。……そっちは?」
「こっちも忙しい。いまさ、配送以外の新企画に取り組んでるんだけど、それがとにかくごちゃごちゃしててね。家電の回収とか女性向け家事支援とか農業への参入とか東南アジア系にも手出すらしくて。あんまりいっぺんにやらない方がいいとおもうんだけどね」
エリは物流系大手・全通運の事業開発部にいる。私などと違って有能で実行力があって、キャリア系と言っていいんだろうか。
彼女とは大学時代のバイトで知り合ってからずっと親しい仲だ。飾らないたちで、シャキシャキしてて何でも話せる。判断力も的確だから、二つ年下なのにこれまで何度も困ったときの相談役になってもらった。
女同士のこんなに長い付き合いってそんなにないかもしれない。それも両方とも独身だからか。もっともわたしはバツイチ、彼女は未婚。
「骨休めにメシどう?」
「いいね」
「その前に買い物つきあってくれる?」
「いいよ。洋服?」
「うん」
「北千種ならけっこうお店あるよね」
「そだね。リモネでいいよ」
「あ、それにさ、この前、駅近でおいしいイタ飯屋見つけたんだ。そこにしない?」
「いいよ。じゃあっと、4時に北改札でいい? あそこ、そのままリモネの3階に入れるでしょ」
「OK。じゃ、お店のほうは予約入れとくから」
「サンキュー」
最近、鏡を見るのが何となくつらい。小じわも増えたし、ホーレー線もけっこう目立ち始めた。
周りは若く見えると言ってくれるけれど、それは実年齢にしてはって話でしょ。あと三年で大台だもんね。五十から七十までの二十年間はあっという間だなんてことも聞くし。
そこへ行くと、エリはけっこうはつらつとしてるな。2年の違いか、それとも結婚経験の有無が関係してるかしら。いやいや、やっぱり性格だろうな。
それにしても、あの結婚は早く解消しておいてよかった。子どもができてからだったらそう簡単にはいかないだろうから、悲惨なことになっていたかも。
あんな酒乱男の嫉妬魔とずっとなんて、いま思うだけでもぞっとする。わたしにしては珍しく決断力を示したほうだ。ほんとに結婚って、生活してみなければわからないものだ。
でも、離婚したこと自体はよかったんだけれど、その後がいけない。3年後に1度だけ恋愛っぽい付き合いはしたものの、じきに別れてしまった。数えてみれば、彼氏いない歴15年。ギネスブックものよ。そうして年取っちゃった。
なんか昔を思い出すと、くさくさしてくる。いけない、いけない。明るく見えるように口紅をちょっと濃いめに。つけまつ毛も長めのを。
「よく似合ってたよ」
「ありがとう。エリの見立てのおかげだわ。それにしても、この店もなかなかおしゃれね。混んでるし。景気、よくなってるのかしら」
「よくなってるわけないよ。政府はそんなこと言ってるけど、東京圏だけ。反対に地方はますます落ち込んでる。物流見てると数字でわかるのよ。四国とか、山陰とか、ひどいものよ」
開店して間もないイタ飯屋。冷房がよく効いているだけでありがたい。白ワインのボトルをとり、乾杯して、二人の中年独身女の食事会は始まった。コース料理にした。
エリは私と会う時は、どちらかというとマニッシュな恰好をしてくるんだけど、今日はいつもより何となく華やいだ雰囲気だ。いいブラウスを着てるし、心なしか、表情も明るい。わたしは前菜をつつきながら、仕事モードの話題より、プライベートのほうを少し突っ込んでみたくなった。
「ねえねえ、そのブラウス、もしかしてハナヨモリ?」
「ピンポーン。よくわかったね」
「わたしも好きだから。でも高いからいつもウインドショッピングよ」
「へへん。わたしも初めてなんだけど、ちょっと無理して買っちゃった」
ネックレスもおしゃれなのをつけてる。ますます突っ込んでみたくなった。
「さては何かあったな。夏の日の恋とか」
「そこまでは……」
「聞かせないと、ピッツア、エリの分まで食っちゃうぞ」
「アハハ、レイには黙っていられないね。でもあんまり自慢できることじゃないよ。要するにだな、ほら、出会いの機会がないじゃん。もう断崖絶壁かもって思ってね。だからついにやっちまった。恋活」
「コイカツって、ネットかなんかで?」
「うん」
「へえ! いつ?」
「6月中頃だったかな。最初は半分遊びのつもりだったんだ。でもこの年になってもけっこう引きがあるんだよね。だんだんハマってきてさ。そしたら、一か月もしないうちにマッチングがいくつも成立してね。こっちの出方次第で選べるんだよ。そこが魅力と言えば魅力。職場と家の往復じゃそんなことってないでしょ。周りはパワハラオヤジや坊やみたいな男の子ばっかしだし」
「それでいい人が見つかったの?」
「うーん、まだわかんないけどね。とにかく初デートまではこぎつけた」
エリのグラスにワインを継ぎ足してあげたが、その自分の手がほんのかすかにふるえているような気がした。
ウェイターがメインディッシュを運んできた。スズキの包み焼き。でもなんだか食欲が萎えるような、食い気を追うよりも色気話を聞く方が大切なような気分になってきた。
「ねえ、あれって自分の写真とか載せるんでしょう」
「そう。でも載せない人もいるよ。遠景とかぼかしとかペットとかね」
「エリはどうしたの」
「やっぱさ、顔写真載せないのって、なんか本気度が低いような感じするんだよね。それとほら、男ってそこが一番知りたいわけじゃん」
「男のほうは顔写真載せるの」
「男もいろいろよ。サーフィンやってる遠景とか、自慢のバイクとか。でもこっちも男とおんなじで、顔が見たいね。イケメンかそうでないかってことより、ほら、顔ってやっぱ、人となりがわかるでしょ。表情とかに出るじゃん。鮮明な顔を載せてない人って信用できない」
「第一印象が肝心ってやつね。でもエリはきりっとしてるからいいわよね。写真映りもいいし」
「そりゃほめてんのかけなしてんのか。でも、いざ選ぶとなると決定版がなくてすごく迷った。だってなんせこの年だもんね」
そういいながら、エリは旺盛な食欲を見せた。
「何枚も載せられるの」
「サイトにもよるけど、わたしの場合は最高四枚」
「なんかメッセージとかいろいろ書くんでしょう」
「そう。なるべくほんとのこと書こうと思うんだけど、どうしてもある程度は自分を飾っちゃうわね。なに、その点では敵もおんなじだからね」
わたしにはとてもできない。でもエリの気持ちもすごくわかる。わたしの方がもっと切実だ。でもわたしにはやっぱりできないなー。
「なに、そのため息」
「え? あ、……よくやったわねって感心して……で、その彼氏、どんな人なの」
メジャーな広告代理店の広林堂勤務で年はエリより一つ年下、つまり四十四歳、もちろん独身、かなり高収入で、ルックスはかなりいい線。ちょっと早口なのが気になるけど、話題は豊富で知的な雰囲気なんだそうだ。
うまくやりやがったな。また思わずため息が出た。応援したい気持ちと嫉妬っぽい気持ちと四分六分くらいか。
「健闘を祈る。改めて乾杯。広林堂っていったらナンバー2でしょ、すごいよね。でもどうしてそんなモテそうな人が、わざわざ恋活サイトなんかに登録したのかしら」
「一線で活躍してる人じゃないのよ。ソリューション・サポートっていうの? 主に外からのトラブルを解決する尻拭い役みたいなもので、自分は裏方が似合ってるって言ってた」
「ああ、なるほど。そういう人の方がお堅くていいかもね」
「でもまだわからないのよ。初デートってお互いかっこいいところだけ見せるでしょ。ちょっと遊び人風みたいなところもあるし」
「ねえねえ、初デートでどこまでいったの」
「え? ごくふつうよ。お食事して、お互いお上品にお仕事のこととかご趣味のこととかお話しいたしました。まあ、アチラの職業柄、話はけっこうおもしろかったね」
「次、会う約束は?」
「一応いたしました」
だんだん調子が下がってくる。わたしは焚きつける。
「めったにないチャンスだよね。がんばって」
「……がんばってどうなるもんでもないよ。こればっかりは」
エリには珍しく自信がなさそうにうつむいた。アイラインが影を作って少しやつれているようにも見えた。エリだって不安になるんだ。これ以上突っ込むわけにはいかない。
「そりゃそうだけどさ。エリは何事にも前向きだから。……わたしなんかダメだな、そういうのは。もう断崖から転落してるし」
今度はこっちがしょげる番だった。
「そんなことないよ。レイは可愛いし、年より若く見えるし、それに最近はアラフィフの登録もすっごく増えてるらしいよ。」
アラフィフという言葉にぎくりとした。たしかにもうそう呼ばれるところまで来たんだと思いつつ、動揺を隠すように添え物のアサリをつつく。でもうまくフォークに引っかからない。態勢を立て直し、
「第二の人生ってやつね」
「そうそう。それにさ、バツイチのほうが有利だって分析も成り立つのよ」
エリが今度は昇り調子。
「なんで?」
「だって、その年まで結婚経験がないってことは、よほどモテない女じゃないかとか、なんかあるんじゃないかとかって勘ぐられやすいじゃありませんの、元奥様」
「ふうん、そんなものかな。でも逆もあるんじゃないの。この人は何で離婚したんだろうって怪しんだり、やっぱり未婚の方が新鮮でいいよな、とか」
「そりゃまあそういうのもあるけど、最近はそういうの、守旧派みたいよ」
「そうなんだ……」
「それにレイの場合、あなたのほうに落ち度は全然ないじゃない。向こうが聞いてきたらきちんと説明すればいいのよ」
「そりゃそうだけど。……でもああいうのって、わたしにはやっぱ向かないと思う」
「そう決め込まずに、よくお考えあそばせ、元奥様。」
よく考える。それはそうだ。このまま仕事人生だけを生きて、一人で年を取っていくのなんて想像しただけでもいやだ。実家の母親の介護だってそう遠くない未来に待ってるわけだし。
考えたくないことを考えないように、考えないようにしている。でも時は待ってくれない。わたしって、いい年をして、まだどこか「白馬に乗った王子さま」を夢見ているところがあるんだろうか。
ドルチェが来た。
エリはズッパイングレーゼをスプーンで掬って楽しそうに口に運んだ。でもわたしのトルタサケーは、チョコレートがちょっと苦すぎるような気がした。人生のほろ苦さのように。
表に出ると昼の暑さがまだそのまま残っているようで、温気を含んだ風が頬をなぶるように迫ってきた。エリとは反対方向なので、地下鉄の改札口で別れた。
電車の中でも家に帰ってからも、今日のエリの話が、背中にしょった小荷物みたいに心にかかっていた。といって、重さのために打ちひしがれるとか、押しつぶされるというほどじゃない。
とにかくエリの話は、他人事ではないという感じをわたしに与えたのだ。そのことが大きかった。これから自分の行く末に思いをはせるたび、今日のことが甦るはず。
「よくお考えあそばせ、元奥様」か。
でも恋活サイトに登録するかどうか考えるんじゃなくて、考えるべき問題はもっと本質的なんだ。といって、どういう風に考えていけばいいのか、その道筋についてはてんで見えてこない。
職場の男性たちの顔を何人か思い浮かべてみる。
独身はけっこういた。ウチは仕事柄、男女比は4:6ぐらいなんだけど、それでも人数が多いから。
営業の吉岡さんはたしか四十半ば、わたしと同じ経理の中田課長はもう五十に近かったかな。人事の大村さん、けっこう素敵だけど、まだ四十行ってないでしょう。年が違い過ぎる。最近じゃフランスのマクロン大統領みたいに年下が流行ってるとかいうけど、やっぱりなあ。
総務の五十嵐次長はたしかもう五十代半ばよね。彼なんか一生独身のつもりかしら。すごくいい人なのに、お腹が出てるのと薄毛が災いしてるかもね。クスッ。
そういえば、何かで読んだけど、いま五十代男性の四人に一人が一度も結婚したことがないそうだ。もうすぐそれが三人に一人になるとか。
これからの男女関係とか家族ってどうなっちゃうのかしら。このまま少子化が進んで日本は滅んじゃうのかしら。
いやいやそんな大きな話はどうでもいいわ。問題は私自身の人生よ。
前の職場でも今の職場でも、これまで言い寄ってきたのは何人もいた。感じのいい優しい人もいた。でもどうも食指が動かなかった。そんなにえり好みをするほうじゃないと思うんだけど、いざとなると考え込んでしまうのだった。もともとわたしのほうから接近、なんて積極性は持ち合わせていないし。
そうこうするうち、こうなってしまいました。
考えたって仕方がない。お風呂に入ることにした。
洗面台の鏡の前でブラジャーをはずすと、小ぶりだけど形のいい(と、自分で勝手に思っている)乳房が元気よくこっちを向いた。まだほとんど垂れていないな。いまどきの若いもんにゃあ負けねえぜ。
いつかTSUKAYAで借りて見たクリント・イーストウッドの『マディソン郡の橋』を思い出した。田舎の主婦のメリル・ストリープが、橋を撮りに来たカメラマンに出会った一日目の夜、恋心が芽生えているのを感じて、食事を終えて彼が帰った後に、自分のややだぶついた裸体を鏡に映すシーンだ。ほんの短い瞬間だけど、自分は恋をしてしまったんだろうか、そうだとしたらこの体は恋に値するんだろうかと迷っている感じがすごくよく出ていた。
恋をするには才能が必要だ、なんて誰かが言ってなかったっけ。でも本当にそうだ。よーし、わたしもエリみたいに、でもたぶんエリとは違った仕方でがんばるぞー。
そう思うとまた元気が出てきて、浴槽の中で唄を歌ってしまった。
♪ときのながれにみをまかせ~ あなたのいろにそめられ~ いちどのじんせいそれさえ~ すてることもかまわない~ だからおねがい~ そばにおいてね~……♪