今日の授業は1年生で、「読むこと」の活動をやった。中1は、まだまだ幼く、素直で、かわいい。

 

まっすぐにこちらを見て話を聞き、うなづく生徒。こちらの問いかけや友のつぶやきに、即座に反応する生徒。友達とこそこそと私語をしているのに、急に授業に戻ってくる生徒(笑)。一方で、つまらなそうに窓の外を見ている生徒。白目をむいてカックンカックンしている生徒に、机に伏せてしまう生徒。本当にいろんな子がいて、こちらも退屈しない。

 

今日は、教科書の登場人物が書いた旅行記を読む学習。もちろん中1の教科書だから、旅行記というほど立派なものではないけど、そういうテキストはどうやって読むのがいい(?)のか、考えながら読んだ。

 

誰かが書いた旅行記を読むとしたら、やっぱりどこへ行って、何をして、何を食べて、どうだったのか、というようなことを知りたいだろう。今回の目的・場面・状況は、書き手が伝えたいことの全体をざっくりと読む。「概要」を捉えることと言えそうだ。

 

この登場人物がしたこととその感想を読んでいく。今までであれば、新出語句も導入して、リピート練習で読めるようにして、それから読ませていたけれど、最近は、読み物のすぐ横に意味が書いてあるんだからいいかな、くらいですぐに読む活動に入る。目的・場面・状況があれば、必要な未習語句は自分でも見つけようとする。そして、目的・場面・状況がはっきりしていると、学びも見通しも立つ。

「この文の中でしたことってどうやって見分けるの?」

「過去形!」即座の返答。

1年生の授業では、反応が大きくてとてもありがたい。2・3年はシーンとしとりますからな・・・まだまだ私の修業が足りませぬ。。。

 

そんなことを言いながら、何とか、行った場所、そこでしたこととその感想、読み取ることができました。新出語句の導入も一切しないで、既習事項を組み合わせて、みんなであーだこーだ言いながらたどり着きました。

 

こういう授業では、教師の英語使用が減ってしまうのが、まだまだ僕の力が足りないと思うところ。でも、これって読むことのコミュニケーションだって言うなら、そこを頑張って英語で話さなくたって別にいいんじゃね?とか思ったりもする。

 

どうせ正解のない世の中だ。自分が信じたことを、とことんやってみるんだ。

 

僕は、この子どもたちと一緒に、僕らが「楽しい」と思える英語の授業を創っていく。

今日は、同じ英語科の先生から、「今、どんなことやってますか?」と聞かれた。「読むこと」の活動について語り合った。

 

僕は、読むことの活動がずっと苦手だった。読むことにおける「コミュニケーション」っていうのが、よく理解できなかったので、「英文読解」の領域を抜け出せなかった。

 

でも去年、「読むこと」について研究する機会をいただいて、その時にけっこう勉強したから、今はなんとなく、「読むこと」のコミュニケーションについて、自分なりの解釈があって、理想の形も何となく掴みかけている。そんなことについて話してみた。

 

まず、教科書のつくりだが、だいたいの教科書は、短めのステートメントやダイアログが2~3くらい(いわゆるパート1、パート2…みたいな感じのページ)あって、そのあとにReadingのパートという感じだろう。そして最後には書く・話す、というアウトプット、プロダクションの活動でレッスンが締めくくられるパターンが多いと思う。それをどう料理するか。。。

僕は、最初の小パートは、ステートメントかダイアログかで少々扱い方を変えている。ステートメントの場合は、「単元全体のウォームアップ」のような感じで、話し手の言いたいことを読み取ったり、文法の練習をして自分の表現につなげる橋渡しのように扱っているような気がする。

ダイアログの場合は、相手意識をもって行うやり取りにつなげられるように、コミュニケーションの目的・場面・状況に注意を払いながら、そのコミュニケーションの流れを確認して、音読練習を行って追体験を行うような感じで進めていると思う。

 

つまり、「教科書」は間違いなく「読み物」だから、どんなテキストであっても行っている動作としては「読むこと」以外にはあり得ないのだけど、最初の短いテキストは、「読むため」ではなく、「話すため」に活用する意識が強い。話すことにつながるように、音読したり、目的・場面・状況に応じた文法を用いて伝え合う練習をしたり、そんな感じの授業をするようにしている。

 

 

このことについては別の記事で詳しく書くとして、今日、同僚から質問された、「読むこと」についてまとめる。

教科書のReadのパートについては、今使っている教科書は非常にボリューミーだ。その長いテキストを、どのように読んでいけばいいのか。僕が大事にしているのは、「目的・場面・状況」と「テキストタイプ」に応じた読み方だ。これを、3年間かけてマスターしていくようにするとよいのではないか、と考えている。

 

読むことの目的・場面・状況は、テキストタイプと関係があると考えている。勝手な持論だけど、例えば「物語」であれば、読むことの目的・場面・状況は、物語全体のあらすじや、場面ごとの、登場人物の心情の移り変わりなどを読み味わうこと。「説明文」であれば、何のテーマについて、全体として何を伝えようとしているのかを読み取ること。「メール」であれば、書き手の伝えたい要件を読み取ること。「ガイドブック」であれば、書き手が読み手に伝えたいその地の魅力や注意点を読み取ること。

前者2つのテキストタイプであれば「概要」、後者2つであれば「要点」。とまあ、こんな感じで、テキストタイプと目的・場面・状況は、切り離せないと思っている。

 

そして、それらに応じて読むために、いろんな手掛かりがある。タイトル、件名だけでも、つかめる情報はある。そして何よりも、段落読みをつかませていくことが大事だと思っている。ここからは、国語の授業と通じる部分がたくさんある。形式段落と意味段落、序論から結論に至る話題の展開、こういうことを、「読むこと」を通して掴ませていく。これが、3年になって効いてくる。そう思っている。一つの段落を取りあげて、初めに主張があり、支持文があって…という構造を学んでいく。次のステップとしては、そういう段落一つ一つにも関係性があって、筆者の主張にあたる段落を、根拠を示すことで支持する段落があり、そうやって論が強められて結論に向かう、ということも学んでいく。文と文の関係性から、段落と段落の関係性を読むことへと、発展的に読めるようになっていくことで、書き手のメッセージを、テキストタイプと目的・場面・状況に応じて読み取ることができる力を付けていく。これが、読むことのコミュニケーションではないか、と今は思っている。

 

なんて、こんなことを言い合いながら時を過ごせる同僚がいてくれるのは、とてもありがたい。自分も、今日の記事を書くきっかけになった。そんな話をしていると、隣の席にいる数学の先生も話に入ってきて、盛り上がる。

 

今、とっくに限界を迎えた(と思って半ばあきらめている)公立学校でも、このような同僚がいてくれることで、自分を高めることができている気がする。そして、僕も誰かを高め合っていれば、とてもいいな、と思う。主任の中では若手なので、若手を束ねる立場にいると思っている。今の自分は、かつて自分が若造だったころ、あの先生が担っていたポジションだな、と、何人かの先輩先生方の顔が浮かぶ。そんな立派な存在には到底なれていないけど、もっともっと、今の居場所を充実させていくんだ。お互いの力を高め合っていくんだ。

今日は、3年生の授業で、英語でドラマ作りをやってみた。教科書の扉にある写真を使って、登場人物たちに名前やキャラ設定をし、グループで一つの物語を創り上げる。そしてそれを演じるところまで、今回はやってみたいと思う。

 

そこで、グループで相談しながらストーリーを作ることができるかな、と思ったんだけど、アイデアが出てこない生徒やグループは必ずあるもの。なんでかな?って思わなくもないけど、いろいろな事情があるのだろう。

 

その日の気分、グループの人間関係、もちろん、英語への苦手意識、授業そのものへの不満…いろいろあって当然だ。

 

そんな気分でいる子たちに、どんな授業を提供できるか。どんな時間を過ごさせてあげられるか。それが腕の見せ所だ。

 

 

今日は、僕自らストーリー作りにガンガン加わって、4つくらいシナリオを提案してみた。やりすぎかもしれないけど。

 

でも、これは、「一緒に楽しんでる」という感覚が強い。楽しいことをやらなければ。ほんと。

 

 

何が楽しいかは、人によって違う。みんなが笑顔になる英語の授業を目指したい。

 

 

明日も、負けない。こんな日々こそ、まさにドラマ(^^♪

まだまだ、自分の中心軸とでもいうべきか、そういう確固たるものが、揺らいでいるのを感じる。

 

人の考えを聞いて、「いいな、すごいな」と思う心は、誰にでもあるし、むしろ、そういうものを全面的に崇拝して、それらを認め、それらから学び、ここまでやってきたと思う。学ぶことをやめたら、人は成長できない。だから、ここまで信じてきたことは、間違いなく正しい。

 

 

ただ、人の考えを聞いて、「あ、自分にはできてないことだ。悔しい。」とか、「どうしよう」とか思ってしまう最近の自分は、ダメだと感じる。

 

なぜ、悔しいと思うのか。それは、本当は自分の心が、「その人の考えのほうがいい」と分かっているときだったり、「自分の考えよりも優れている」という気持ちが働いたりしているからではないか。

 

なぜ、「どうしよう」と焦りの気持ちをもつのか。それは、それまで自分の心のどこかで、他の何よりも自分の考えが正しいと思って傲慢に生きてきた証拠ではないか。それが揺らぐようなものに出会ったからなのではないか。

 

 

そんな自分では、ダメなのだ。そんな自分は、学ぶことを放棄している。どんなものからも、謙虚に学ぶ姿勢があってこそ、さらに成長していけるのではないか。

 

 

それが、自分の中に、「これからも学び続け、成長し続けたい」という、自分の成長を支える「軸」だったり「芯」だったりを欠いている状態だ。

 

 

ここにこうして書くことで、自分の今の状態を俯瞰し、もう一度、前向きに歩き出す。

昨日は、久々に実家へ行きました。妻が忘年会ということで、お迎えのついでに、両親と、息子と、4人で夕食を食べてきました。

 

父は、おそらく僕が中学生の頃に独立することを決め、サラリーマンを辞めました。そのために、どんな準備をどれだけしてきたのか、聞いてみました。回答としては、会社を経営することと、それまでやってきた「任された部署」を運営することは、大差ないことだったから、さほど準備がなくても開業できたということでした。でも、ノウハウや技術はあっても、知名度はないし、顧客だけはついてないから、そこだけは宣伝をしなければならなかったということでした。

 

 

公務員の僕には、縁のない話。そんなことを思っていましたが、未来の学校の姿なんて、まだまだこれから決めてゆくもの。一般企業の常識や戦略、地域や世の中に必要とされる存在になっていくためのノウハウは、私たちも学ぶべきだと思うのです。むしろ、公立学校こそ、あっちにもこっちにもいい顔して便利屋みたいになってしまった過去から今を振り返り、マインドシフトして、働く教師と、学ぶ子ども、それを支える保護者や地域が、みんなで「能動的にかかわる」組織にならないといけないと思うのです。

 

 

僕は、学校が、もっと「あったかい」場所であったらいいなと思います。「多様性を認める」というのなら、本当に制服や頭髪、装飾品の決まりは必要なのか?(ブラック校則よりももっと、決まりにある程度の正当性がある分、やっかいだけど。)「個に応じた学びを」というのなら、それを実施できる環境を整え、学習内容の精選と削減を。「働き方改革」というのなら、無駄な業務の仕分け、削減と人員配置、そして時間的余裕を。課題は、山積みなのだ。

 

 

僕なんかに、何を、どこまでやれるのかは、わからない。でも、やらなきゃいけないと思っている。この数年間、涙を飲んだ生徒や職員のために。前に進む。

 

 

両親と語り合う中で、少し、自分の気持ちが前向きになれた気がした。