中学校の出口は、「進路指導」。昨今、本県(のみならず全国的に…)の高校進学率は、当然98%前後だそうな(2年くらい前の情報)。ほとんどの子が、「高校へ行く」という道を選択し、合格するために頑張る。
中には、その「○○のために頑張る」ことができない生徒もいる。勉強が嫌いだったり、ルールやマナーを守ってまじめに生活するのが嫌だったり、いろいろだ。「行きたい」はずなのに「そのために」「頑張る」ことができない。僕に言わせれば、「訳が分からない」のだが、現実にいるのだ。
仕事していて、これまで、自分の思いがグルグルと、270度くらい変わった。
はじめは、勉強ができない生徒は、「教師のせい」だと思っていた。「教員聖職者論」という言葉を本で読んだが、まさに、神に仕えるがごとく、子どもの力を高めるためには教師は常に研鑽を積み、成長に対して責任を負う。だから、生徒が力を付けられるように、日夜、教師は努力、工夫を怠らない。そう思った時もあった。自分の生活を犠牲にしてでも、授業準備、研究に明け暮れた時期もあった。
その次。次第に「現場には様々な考え方がある」ことを知る。テストの採点の時、成績会議の時、「ああ…うーん…頑張っているんだけど…どうしてもね…」という雰囲気。本人・教師が双方で、どれだけ頑張っても、どうしてもできない生徒だって、そりゃいる、ということも、正直に吐露される。そんなのは「敗北宣言」なのだが、それを否定もできない。お互いに、正々堂々戦っても、どうしてもだめな時(本当に苦手な教科)って、あるんだ。そして、それに抗い続けるのではなく、「仕方ない」という道も選べる、というか、最後には選ばざるを得ないことも知っていく。そうすると、「教師の努力不足」と、「人によっては努力しても(この教科は)本当に苦手」という考えが天秤に乗る。それを何度も経験するうちに、天秤が時に、「どうしようもない」に傾くことに、躊躇いがなくなっていく。
さらにその先には、そういう抗えない現実とも幻想とも思える「判断」を下さなければならないのが、「手の届かない遠くの場所にいる誰か」によって決められた、「無謀な約束」のせいなのではないか、という思いになっていく。ここまでくると、もともと「無理ゲー」をさせられていたような気持ちにもなり、その解決のために、「自分なんかには何もできないんじゃないか」となってくる。その次には・・・道は二つ。このまま突き進むか、枝道に逸れるか。
話が大幅にズレたが、中学校の出口は、進路指導。でも、この指導がとても「適正」とは思えない。だって、「努力してもできないのだから仕方がない」子もいるのに、私たちはその子らを本当の意味で「評価」できない。そんな資格、あるもんか。
今日、職場で、「義務教育の在り方も変わらなきゃダメだよね」なんて話をした。「できなくても仕方がない」義務教育ってなんだ?って話だ。誰もがクリアできて、充実感と自信をもって次のステップに進める学校教育にしていこうよ。
要するに、「学習範囲、多過ぎるよ」「学習内容、高度過ぎるよ」ってこと。
何とかならないものだろうか。