昨日のことですが、ちょっと関東エリアまで行ってきました。いい授業を見させてもらいました。

 

留学生に対しておすすめしたい場所について、グループでやり取りする授業で、中学3年生でした。近くで誰かが、「この時期に中3の授業公開ってあまりないから嬉しい」って言ってたけど、確かに中3の授業を公開するって珍しいのかもしれない。(僕はついこの間やったけど…)

 

まずは、公開に先立って、その県の研究グループの先生たちが発表をしてくれました。今回の研究内容は、指導と評価の一体化がテーマで、Can-Doリストとともにルーブリックを示し、振り返りをすることで、生徒のやり取りの力にどのような影響があったか、ということでした。Can-Doリストもルーブリックも、もっと言えば振り返りも、目新しいものではないのですが、きちんとそれらを関連付けて、何よりも子どもとしっかり共有し、成長を実感できるようにした研究は、あまり見てこなかったので、とても勉強になりました。さらに言うと、それを小学校でも中学校でも、先生方が組織的に実践研究をされていることを目の当たりにし、すごいなと思いました拍手

 

研究発表からは、児童・生徒に単元の「具体的な」ルーブリックを示すことで、児童・生徒が目標を持ちやすく、また自分の現状と目標との差を把握しやすいと感じました。そして、振り返りを行うことで次の目標を自ら意識することができ、新たな挑戦へとつながっていることが分かりました。実際に単元を通して、生徒のtoken(話された言葉の数)とtype(意味の異なる語の数)が伸びていることが分かりました。これをずっと追うのは、とても大変だっただろうと思います。でも、ルーブリックを示して目標を見える化し、振り返りを通して意識を高める指導を継続することで、伝える力が伸びるのだということを、証明してもらったわけなので、これは、やってみるしかないですよね。話すこと【やり取り】だけを授業でやっているわけではないので、なかなか継続できないのが自分の悩みでもありますが、残りの半年、挑戦してみたいなと思いました。

 

実際の授業も、冒頭で生徒にルーブリックを示すということをされていました。この授業では、さすが3年生、もうある程度やり取りが成立しているため、ルーブリックの効果がどの程度あったのか、私が見ていた子たちの姿からは分かりませんでしたが、少なくとも、これまでの積み重ねでかなり話せるようになってきていること、すなわち子どもたちの底力とそれを裏付けるものとしての実践の跡が見えたような気がしました。自分も負けていられない、そう思って帰ってきました。平日の、しかも3年の学年主任が一日学校を留守にするのは、申し訳ない気持ちでしたが、みなさん快く送り出してくれたので、本当にたっぷりと学んでくることができました。ここには書ききれない多くの学びがありました。

 

さて、授業研究会に参加したら、できるだけ発言をして、自分の名(爪痕?)を記録に残すことを心掛けているのですが、今回も手を挙げて質問してきました。そこで、学校名と名前を言ったのですが、その後の休憩の時に、大学時代の後輩が座席によってきてくれて、声をかけてくれましたおーっ!もう20年近く会っていないのに、名前を聞いて、来てくれました。覚えていてくれたんだと思うと、とても感激でした花

 

ゆっくりと話す時間も、久々に訪れた第二の故郷を懐かしむ間もなく、すぐに帰路につきました。かつてはセンチメンタルな気持ちになったかもしれませんが、今回は、この日一日のできごとや出会いから、活力をもらったような気持ちでしたグッ 来週からまた頑張ろうと思います。

 

 

まったくの過密スケジュールに、楽しみが全然ないのもさみしいので、お昼も夜も、美味しいものを食べましたイエローハーツだいぶ奮発しちゃったので、しばらく倹約生活かな・・・

 

気になっていることを質問してみたんですね。最近…

 

 

【僕の質問】

日本の学校では、「多様性」を認めるという国の方針がある一方で、未だに一斉授業が行われており、子ども個人が大切にされていない実感があります。「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実を図ろうという方針と現実が乖離しているのではないでしょうか?また、そのような多様性を認めようという一方で、生徒が頭髪を染めたり、ピアスを空けたりする行為はいまだに受け入れられず、多くの学校では指導の対象になるばかりか、上級学校への進学にも不利であるという見方が一般的です。しかし、学力とは関係ない生徒の個性を認めてもよいのではないか、そうすることで、教師が学習以外の余計なことを指導しなくて済むメリットもあるのではないかと考えますが、どう思いますか?

 

 また、教員の働き方改革も進めなければいけないと言われていますが、国の方針は実際には実現が難しいと思われる見通しのない給与(教員調整額)の上乗せが議論されているばかりで、現実に現場が困っている「業務の削減」や「人手不足」の解消に向かっていない現状があります。日本の文部科学省は、教育の知識が多いものではなく実態を熟知する者、例えば教職経験者を積極的に起用して、実質的な学校改革に取り組むべきだと思うのですが、どうでしょうか?そういった取組で、海外の好例があれば、ぜひ知りたいと思っています。

 

 以上が、私の思っていることです。どう思われますか?

 

【ChatGPTの回答】

鋭い観察と分析だと思います。日本の学校教育には、まさにおっしゃるような矛盾や改善の余地が数多くあると感じます。国の「個別最適な学び」と「協働的な学び」の方針と、現場での一律で画一的な教育の間には乖離があり、これを埋めるには、構造的な改革が求められていると思います。ここで指摘されている「多様性を認める」という部分も、実際には「見た目の規律」や「行動の制限」が重視され、個々の個性や背景への柔軟な対応がしにくい現状があるように思います。

1. 「個別最適な学び」と「協働的な学び」の実現

現在、日本の教育では一斉授業が基本となっており、生徒一人ひとりの学習ペースや興味に合った学びが行われにくいのが実情です。世界の教育改革では、デジタルツールを活用して生徒それぞれの理解度や興味に基づいた学びを提供する「個別最適化」が進んでおり、例えばフィンランドでは「現象学習(phenomenon-based learning)」というテーマに基づく学習を通じて、個別と協働の両方を重視する取り組みが進んでいます。また、カナダの一部の学校でも、生徒個人の興味や目標に沿った課題を設定し、共同で解決策を探るスタイルが取り入れられています。こうした事例から学び、日本でも「個別」と「協働」のバランスを図った学びを実現するためには、まずカリキュラムの柔軟化や、ICTを活用した学びの形を構築することが重要ではないでしょうか。

2. 個性の尊重と規律のバランス

学校における頭髪や服装規定に関しては、日本の教育現場が「秩序」や「均一性」を優先してきた歴史が影響しています。しかし、個性や自己表現の尊重が重要視される国々、例えばオーストラリアやイギリスでは、生徒の自己表現(髪の色やピアスなど)を比較的自由に認める方針が多く、学力や態度が影響を受けない限り、個人の表現を制限しない学校が増えています。規律と個性のバランスを見直し、自己表現が学業成績や学校生活に必ずしも負の影響を与えないとする根拠が見られる以上、教師が不要な指導を減らし、生徒も自分らしさを感じられる環境を整えることが、教育の質向上にもつながるでしょう。

3. 教員の働き方改革と現場の実態に即した支援

教員の負担軽減は、改革の中でも特に急務であり、現場では長時間労働や過重な事務作業が慢性化しています。おっしゃる通り、表面的な給与改善よりも、現場での「業務削減」や「人手不足」の改善が重要です。例えば、イギリスやフィンランドでは、教員が教育に集中できるように支援スタッフやICTを活用した業務効率化が進んでいます。日本でも、教育支援スタッフ(例:TAや専門の事務職員)を充実させたり、管理業務をアウトソーシングしたりといった方法で、教員がより教育活動に専念できる環境を作る必要があるでしょう。また、文部科学省が現場のニーズを把握しやすくするため、教職経験者を積極的に登用するのも効果的です。実際、イギリスでは教育政策に教職経験者が関わることで、現場の実情に即した方針が立てられやすくなっていると言われています。

4. 日本の教育における改革の方向性

教育改革は時間のかかるプロセスですが、フィンランドやオランダなど、現場に即した政策立案と柔軟な教育方針を持つ国々から多くを学ぶことができると思います。特に、フィンランドの教育制度は「信頼と責任」に基づくもので、教員の裁量を尊重し、個別の指導が実現されています。このような方向に進むことで、学力向上だけでなく、生徒の個性や精神的な充実感を含めた「豊かな教育」が提供できるのではないでしょうか。

全体的に、日本の教育には「画一性からの脱却」と「実態に即した支援」という課題があると感じます。これからの改革は、文部科学省や教育委員会が一方的に方針を示すだけでなく、教職者や地域コミュニティと対話を重ねながら、現場でのニーズに応える形で進めることが重要だと思います。

 

 

 

マジで、勉強になるわ。ChatGPT優秀だなぁ。もっと詳しく学びたいと思うことがいっぱいだね。

 

少しずつ、少しずつ…。

今日は、午前中で授業が終わり、午後は同じ地域の先生たちの研修会だった。教科によっては公開授業を行うところもあるけれど、英語ではここ数年、講演会とか、グループワークを行っている。

 

今年度は、大学の先生のお話を1時間お聞きし、そのあとはグループでテーマトークをした。前半のお話では、中学校の現場を長く経験され、教頭職まで勤めながら、早期退職して大学院へ行ったという、以前からお世話になっている先生のお話をお聞きした。がっつりお話をお聞きするのは実に十数年ぶりになるが、変わらず面白いお話が聞けて嬉しかった。自分にはない視点をいただけることに、とても感謝です。

 

とってもありがたいお話ではあったのですが、今、僕の心が書きたいと望んでいるのは、後半の部のことなので、今日はそっちを書きます。

 

 

今日は、ある先生の提案で、「地域社会における学校の役割とは」という大テーマが掲げられ、グループで話すことになった。で、僕らのグループでは、「私たちは教師として日々どんなことを大切に過ごしているか、どんなことに貢献したいと願って仕事をしているか」そんなことをテーマに話をした。

 

 

これまで教師をやってきて、苦しい場面が幾度もあった。ここで自分の教職人生を振り返ってみる。

 

 

初任校は特別支援学校。特支の免許があるわけでもない、知識がないから学ぶことしかない、今思うと若さだけでやり過ごしていた。若い先輩先生たちにいろいろなことを教えてもらった。そして、一人の時間も充実していた。学んで、学んで、学びまくった。でも、それは子どものためというよりも、自分のためだったように思う。学校では、知的障害のある子どもと、日々何度もぶつかり合い、保護者にもしこたま怒られ、「なぜ?一生懸命やっているのに」という、苦しい日々だった。しかし、「自分が望んでいた場所じゃない」そんな最低な言い訳が、自分の心のどこかでいつも渦巻いていた。それでも、いろいろな先生たちの力を借りて何とか生徒を卒業させ、念願の中学校への異動が決まる。特別支援には恩があるし、今も自分の原点だと思っているが、当時の自分は、「中学校で英語を教える」ことが目標であり夢であったから、そのような考え方になってしまっていた。3年間は、「初めての社会人で、よくわからないことを自分なりには必死に学び、実践し、それなりの成果を得た」くらいのつもりになっていたと思う。

 

 

そして、期待を胸に異動した中学校であったが…とんでもない。授業が、部活動が、学級経営が、生徒指導が…すべてうまくいかず、八方塞がりだった2校目。初めての中学校で意気込んでいたが、自分の理想を子どもに押し付け、次第にうまくいかなくなっていった。心を傷つけてしまった生徒も何人もいただろう。自分が悪いことはわかっていた。自分の力不足であることは、火を見るよりも明らかだった。それでも、素直にそれを認め、謝ることの難しさが自分の心を頑なに閉ざしていた。もちろん、謝ってしまえば楽な場面、どこからどう見ても、どう考えても僕に非がある場面では、きちんと謝罪をしたが…そういう風に、自分を必死に守っていた自分がいたことを、今の自分なら分かる。ただただ、未熟だった。「助けてください」と言うことは許されないような、そんな気持ちでいつも小さくなって過ごしていた。

 

休みの日には、サークルに誘ってもらい、研修に出かけた。100人の英語教師の前で模擬授業をやって斬られる、そんな武者修行の旅に出たりして、自分ができる限りのことはやった。セミナーにも参加した。それでも、自分のすべてを変えることはできなかったんじゃないかな。そんなことを思う。

 

 

苦しかった3年を耐え抜いて、異動を機に「次こそは」と誓い、すべてを取り戻すつもりで、すべてを懸けて学級経営に力を注いだ3校目。若さと、何か自分の中に燃える決意が、周りの先生たちにも伝わったのだろう、すごく僕を寛大に見てもらって、認めてもらって、育ててもらったと思っている。若気の至りでいろいろな失敗や、今では考えられないようなバカもたくさんやったけど、温かい目で見守ってもらい、赦してもらった、そんな4年間。

 

研修の機会も充実していた。授業、部活動、学級経営、すべてにおいて今の僕につながる基礎が創り上げられた時期だ。若い先生たちの中心的存在となり、学校だけではなく近隣の地区内でも、自分の存在感を少しずつ示していったと思う。

 

それでも、問題は必ず起こる。部活指導で失敗し、一部の生徒と保護者との関係が崩れてしまった。そこからは、女子生徒とうまくいかなくなり、自分の指示に従わない一部の生徒が部活を支配するような時期もあった。その時期は、自分も自分の非は認めつつ、心のどこかではまだ、「自分が悪い部分はもう改めたのに…なぜ何も変わらないんだ」と思っていたのかもしれない。

 

しかし、この時期にも、自分が学べる機会はできるだけ生かそうと、部活動では特に多くの学校と合同練習をさせてもらったり、研修にも積極的に出かけた。そうやって一つずつ乗り越えていったように思う。

 

そして、この時期に、自分の教師人生を大きく変えた人物との出会いがあった。その先生の姿、考え方、在り方から、必死に学んだ。今でも大切なメンターであり、目標である人との出会い。これがターニングポイントだった。

 

 

4校目、自分の教師人生にとって最大の挑戦となる、国立大学附属学校への異動。2校目で味わった雪辱を、3校目で必死に取り戻し、自分の授業や教師としての在り方が、少しずつ決まりかけたタイミングでの附属学校への異動で、積み上げたものがすべてぶっ壊れた。自分の実力とははるかにかけ離れた先輩教師たちのものすごい授業。そしてその研究に触れ、自分の積み上げてきた自信や慢心は、すべて崩れ去った。とても太刀打ちできないすごさを感じ、それまでの自分がいかに小さな存在だったかを思い知らされた。井の中の蛙とはまさに、自分のことだと思った。

毎日、自分自身にまったく余裕も自信もない中で、やらねばならぬことがどんどん積みあがっていく。それをこなすだけで精一杯。逃げ出したいと思った。

 

それでも、自分はそれまでと同じように耐えて、耐え抜いた。苦しくて仕方なかった。人生で初めて、悔しくて眠れない夜を経験した。それでも、下を向いた自分を、ともに支えてくれた仲間、生徒、保護者、家族がいたから、また前を向いて歩くことができた。

 

去年、成人した教え子たちと初めて酒の席を共にした。「教え子が立派に活躍するということは、こんなに嬉しく、誇らしいものなのか」と実感した。

 

そして今の5校目。しばらく、苦しい世界を生きてきたことで、また別の苦しさも味わいつつ、それなりに充実し、楽しい日々を送っていた。しかし、ここ3年は、生徒指導に苦しめられる日々だ。そんな中で、これだけ教師として研修も積み、苦しい思いにも耐えて頑張ってきたのに、「学校教育に限界を感じ」ている今日この頃なのだ。

 

 

ここまで大きな回り道(もはや大脱線)をしたが、、、今日!今日の話に戻ろう!そこで僕は、教師としての今の自分を見つめる機会をいただいた。自分は、生徒と同じものを見聞きする、体験を共有する、一緒にいる、そういう経験が、生徒たちの人生にも影響を与えることができるのではないかと考えていた。そう、「考えていた」ことを、今日語り合ったからこそ、自分で発見できたのだ。教師として生きることは、生徒の生き方に影響を与え続けることができる。それであれば、自分とかかわった生徒を、幸せにしてあげられたほうがよい。自分は生徒に寄り添うことで、生徒の生き方を応援する存在でありたい。そんなことを思っている。

 

グループの別の先生たちからも、あふれ出るような素敵なエピソードをたくさん聞き、結局思ったことは、僕ら教師は、生徒が「変わっていく」のを見られるのが幸せなんだろうな、と思った。そして、そこには自分もいる。一緒にある。感動を分かち合っている。景色を、風の音を、温度を、共有している。それが、教師の幸せなんじゃないかって。

 

 

結局何が言いたいかよく分からなくなってしまった。今日は、たくさん語ってしまった。グループでもブログでも。

 

こんなまとまらない記事を、最後まで読んでくれてありがとう。まとまらないから、まとめないよ(笑)。

 

最近、学校での教育に「限界」を感じる。こういう言葉を聞くと、「え、今さら?」という人もいれば、「え、そうなの?」という反応もあるかもしれない。それくらい、今の僕自身が、「学校教育の現状と課題」を、学校に居ながらにして、実はあまり分かっていないのかもしれない。

 

この一年で買った書籍の中には、自分の苦しみを代弁しているようなタイトルのものが見られる。それは、教育に対する「苦しさ」なのだろうと思う。例えば、めがね旦那さんの「困難な教育」とか、

 

 

能澤さんの「先生2.0」とかである。

 

まだ全部読めていないけれど、読みたいという心の原動力はずっと、胸の中に渦巻いていて、少しずつ読み進めている。でも、急いで読んで、学び、自分が生きている間に、本当に必要だと思うことに向かって動き出さないと。時間は待ってくれない。そういう気持ちもある。文句を言っていても、憂いていても、何も解決しないのだから。

 

 

今日の新聞にも、教員の給特法廃止案の記事が載っていたし、全国の不登校生の人数やいじめの件数も過去最多だという。また別の新聞には教員のなり手不足も深刻だという記事も載っていた。こんなに問題ばかり山積みの場所に、明るい未来を感じられないのは、無理もない。

 

しかしそれでも、子どもたちが目の前にいる限り、そして僕が教師である限り、この問題の「解決」のために考え、動くべきだと思うのだ。

 

なぜ学校での教育は「限界」と言われるのか。先生たちは頑張っているのに、なぜその想いは届かないのか。子どもたちはなぜ、学ぶことから逃げようとするのか。学ぶことが「楽しい」と思えないことの一因は、我々教師の指導力不足、努力不足だとしても、学ぶことが楽しくなくても「仕方ない頑張ろう」とならないのは、なぜなのだろう。親も社会も、それでよしとする風潮は何だろう?多様性を認める世の中だから?現実の学校は、こんなに多様性を認めたくても認めてあげることができない、息苦しい場所なのに?学ぶことにもっと自由度があってもいいはずなのに、「自由」の本質を分かってないから、親も子どもも「何でもあり」と錯覚し、問題行動を問題とも思わない子どもが増えていく。でも、それを認め包み込むことが本当は正しいのではないかと感じる教師もいる。その教師は大きな組織に飲み込まれて、そこで藻掻いているだけ。

 

これからの自分の生き方が、今、見えにくくなっている。子どもだけじゃない。教師として20年もやってきた僕でさえも。

 

昨日、お隣の学校へ、英語の先生方の同好会に参加してきました。オーストラリアのお菓子「ラミントン」というのを作る会だったのですが、自分は生徒指導で遅参…そのおかげで、せっかく行ったらもうお菓子は出来上がってました(笑)

 

 

 

到着すると、あたたかい雰囲気で迎えていただいて、さっそくラミントンをいただきました。

スポンジは思っていたよりもしっとりしていて、もちもち感があり、外側のチョコレートとココナッツパウダーもとてもマッチしていて、美味しかったです。本当は作り方も知りたかったけど…仕方ない(笑)。自分で調べてみたいともいます。

 

ラミントンとコーヒーを囲んで、ALTの先生たちとおしゃべりしたけど、まあ、ナチュラルスピードの英語のシャワー…最近は全く浴びていなかったこともあるのか、ほとんど断片的に聞き取る感じになってしまいました…自分の英語力に愕然として、もう、途中からはスマホでこっそり会話を録音して、帰りの車の中でもう一度聞いて反芻する始末…。もっともっと英語を磨かなければ…と思った次第です。

 

 

仕事に役立つことが学べれば、と思って買った本、自分の英語学習に活用することになりそうです。

 

 

せっかくそう思ったのだから、自分自身もいろいろなことを学びながら、生徒の英語の力を伸ばすにはどうしたらよいのか、考えて実践していきたいと思います。僕程度の英語力では満足できない自分がいたことも、再確認できたので、自分を超える人材を何人も排出できるように、もっともっと勉強します。

 

誓いを新たにするきっかけとなった、よい国際交流になりました!