18
俺のワンマンタイムは『十三』で3人の客が乗ってきて、終了。
このきつすぎる芳香剤の香りを、鼻の奥の方で感じながら18号車を走らせる。
俺が『ランボー真鍋』と呼ばれたのは僅かな間だけであった。
あの上原の忠告以来、西田さんとは露骨に距離を置いたからだ。
西田さんは、少し哀しい目をしたが「またいつものことか」といった感じで全てを察したのか、俺に話しかけることはなくなった。
それからしばらくして、18号車は車検の更新をせず廃車となった。
バスの調子に問題はなかった、いやむしろ良かったのだが、市民に対する安全面考慮のためとの理由で廃車になった。
西田さんはだいぶと上に喰らい付いたようだったが、決定は覆らなかった。
噂では、廃車になった18号車を譲ってほしいと廃車工場へ行ったらしい。本当に譲ってもらったのかどうかは誰も知らない。
新しく入った18号車の乗車を西田さんは頑なに断った。
上司がなぜかと尋ねても「俺の18号車はあいつだけだ」の一点張り。
まるで新しい母親になつかない子供のようであった。
「18号を永久欠番にしてくれたら乗る」という西田さんの要望は完全に無視されて、現在に至る。
しかしだ。
俺は知っている。この新18号車のきつすぎる芳香剤の理由を。
西田さんしかいない。
表立っては18号車を拒否してるが、おそらく隠れてこの新18号車でも寝泊りしてるのだろう。
ウンコのニオイ隠しのためにのサワデー原液散布。それしか考えられない。
阪急電車十三駅の高架下をくぐると、次のバス停『淀川区役所前』だ。
俺はこの高架下が特にお気に入りである。
高架下が大きく掘られており、急な下り坂から急な上り坂といった具合になっているのだ。
大きな市バスが、大きく揺れる。
3人の乗客も前方座席の手すりを持って踏ん張っている。
まるでちょっとしたジェットコースターのようだ。
ジェットコースターのような人生――。
俺の憧れだ。
波乱万丈に生き、波乱万丈に恋をし、波乱万丈に死ぬ。
思えば俺の人生はジェットコースターではなくコーヒーカップだ。
同じところをぐるぐる回っているだけ。
挙句の果てには目が回って、ゲェー吐いて、はい終了。
どこで間違ったのかな。
きっと入り口は同じはずだったのにな。
俺は人生の確変を待っている・・・。
ドゴンっ。
バスが大きく前後に揺れる。高架をくぐったのだ。
客が一人待っている『淀川区役所前』に到着。
乗客は誰も降りない。そして待っていた乗客が一人乗ってき・・・はあ?
「すいません、乗り口は後ろになってますんで」
前の降り口から乗ってこようとするので俺は客に一声かけた。
大阪市バスは前方ドアが降り口、後方ドアが乗り口となっているからだ。
すると、男はお構いなしに入ってくる。
「ちょっとお客さん!」
俺は思わず、声を荒げてしまったが男は全く動じなかった。
と思ったら、男は運転席ににゅっと上半身を突っ込み何かした。
シューぅぅぅ。
ドアが閉まった。運転席にある開閉ノブを男が操作したからだ。
「ちょっとあんた、何するんですか!」
と、言い終わらないうちに車内に乾いた音がこだました。
その男は上半身がモスグリーンのタンクトップ、下半身が迷彩柄の軍パン。ブーツを履いて、右手には
・・・え?・・・銃!?
「静かにしろ!」
そのあと続けて男は小さく何か言った。
俺には「悪いな」と聞こえたが確かではない。
「よし、バスを出せ!」
ざわめく車内。また乾いた音がした。今度ははっきりわかった、銃声だ。バスの天井に二つ目の穴が開いた。
「このバスに爆弾をしかけた。おかしなことすれば、みんな仲良くあの世行きだ。それともこいつで今すぐ逝くか?」
男は右手に持った、銃――改造トカレフ?を乗客全員に見えるようアピールした。
ここで俺はようやく状況を飲み込み始めていた・・・
・・・バスが、
・・・ヤバいやつに、
・・・ジャックされた?
バスジャック!?
そして俺はもうひとつのことにも気付き始めていた。
どこかで聞いたことのある・・・「これは戦士の戦争だ!」・・・声っ!
男は銃を左手に持ち替えると、左腰に下げてあった革製のホルダーから、黒く鈍い光を放った物を抜いた。サバイバルナイフだ。
すると、その刃渡り30センチはあろうかというサバイバルナイフを高々と振り上げて、男は叫んだ。
「俺はランボーだあああああっ!」
西田さんっ!
しかも『ランボー』って陰での呼び名使ってるし!なんなら気に入ってるし!
「さあ、ぶっとばせ真鍋!」
西田さんが、ぶさいくなウインクを俺に飛ばした。
7。
7。
・・・・・
こんな人生の確変いら――んっ!
■第2章へ
17
「これ、なかなかいけるぞ。どうだ?」
「あ、いえ・・・」
西田さんが誰も手をつけてない、ナンにインドカレーをつけてむしゃむしゃ頬張ってる。
『18号車ウンコ事件』以来、所内での宴会事は禁止になり、本日の忘年会も営業所近くのチェーン店の居酒屋で行われている。
それにしても、ウンコの話しをしながらよくもまあ、カレーなんぞを頬張れるもんだ。
どうやら、西田さんは皆に黙って18号車でよく寝泊りしてたらしい。
西田さんの話は続いた。
つり革でこっそり懸垂してるだとか、手すりが洗濯物を干すにはちょうどいいだとか、寝るのは最後列が最高のベッド代わりさ!だとか。
「ちゃんと横なって寝てますやん!」とは流石に突っ込めない。
用を足すのも、わざわざ携帯用トイレを使ってバスの中でしてたらしい。っていうか、『大』用の携帯トイレってあるのか?っていうか、ニオイは?・・・・・ニオイ。まさかっ!
「まさか、ニオイを消すために」
「ん?芳香剤のことか。ああ、18号車には『さわやかサワデー』の原液をこすりつけてる」
やっぱり。どうりで、匂いがきつすぎるはずだ。全くさわやかじゃない。
18号車の香りは、さわやかには程遠い。ドぎつく、匂いの押し売り『どやっ!』臭であった。
知りたくない秘密だった。
これから18号車の『どやどやっ!サワデー』の香りを嗅ぐたびに、100パー思い出してしまうだろう、この秘密。憂鬱だ・・・。
いつしか忘年会はお開きの時間となり、気が付けばテーブルの上の料理は全て、西田さんがたいらげていた。
「じゃ、またな」
西田さんはマイペース全開で帰っていった。今日は家に帰るのか、それとも・・・。
他のメンツが2次会でカラオケに行くという。しかし俺はなぜか行く気になれなかった。というか、誘われなかった。
しばらくした、ある日。
喫煙所でタバコを吸ってた俺に、同期の上原が缶コーヒーを持ってやってきた。
「ようっ。最近どうよ?」
上原の差し出す缶コーヒーを受け取る俺。
上原は所内で唯一、気の許せるやつだった。
「まあ、普通かな」
「普通て何やんねん」
「まあ、普通よ」
「ふーん。ところでや、お前、最近評判悪いで」
「は?何それ」
「えらい、ランボーと仲ようしてるみたいやん」
「そんなことないよ。たまに喋るくらいやけど」
「みんな言うてるで、お前とランボーはいっつも一緒に居てるって」
「いや、それは言い過ぎやろ」
確かに。あの忘年会以来、俺と西田さんの距離は確実に縮まった。というか、縮められた。
「お前、みんなからどう言われてるか知ってるか?」
「え?知らん」
「・・・ランボー真鍋」
「ウソやん!」
「ホンマ。お前、ランボー一門やで」
「何やねんランボー一門て!しょうもない落語家みたいやがな」
「完璧に師弟関係やと周りは見てるぞ」
はぁ?何で俺が?・・・どうりで最近、皆の視線が冷たいはずだ。まずい。これはまずいぞ。何がまずいって、ランボー一門やと絶っっっ対、モテへんやん!
「上原、お前ちゃんとフォローしてくれたんやろな?」
「すまん。もう俺がフォローできる域超えてるわ。お前の株、ドミノ倒し的にガタガタやぞ」
・・・泣きたい。俺はどちらかと言えば被害者やのに。
なんでこうなるねん!
そういえば、こんなん小学校のときもあったっけなあ・・・。
学校の帰り道。野良犬が切ない目で見てくるから、可哀相になって給食の残りのパンあげたっけなあ。
そうしたら、俺んちまで付いてきたっけなあ。
仕方なしに、冷蔵庫の残り物あげたっけなあ。
次の日の朝、家の前にまたおったっけなあ。しかも2匹。
また残り物あげたら、次の日は4匹になってたっけなあ。
その次の日が8匹で、その次の日が16匹。さすがにもう怖くなってあげへんかったら、学校の中まで32匹の野良犬が追っかけて入ってきたっけなあ。
学校、パニックなったっけなあ。
なぜか俺が、ものすごく怒られたっけなあ。
全校集会で名指しで「真鍋君が学校に犬を連れてきました。これは良くないことです。生き物を飼うと言うことは大変なことです。みんなも責任を持って生き物を飼いましょう」
なぜか俺が、野良犬32匹飼ってるキャラになってたっけなあ。
しばらく、あだ名が『ムツゴロウ真鍋』やったっけなあ。
俺のあだ名って、俺の人生の縮図やなあ。
はぁ~。
とか、しみじみしてる場合か!
「とにかくもう、ランボーとか関わらん方がええぞ」
上原の意見はいつも的を獲ていた。
「そうやなあ・・・。でも、そんなに悪い人でもないんやけどなあ・・・」
と、言い終わらないうちに、上原がかぶせてきた。
「お前、知らんやろランボーのこと」
「いや、どっちか言うとかなり知ってる方やと思うけど」
「借金のこと」
また上原がかぶせて言った。
「・・・借金?」
確かに知らん。
「かなりしてるらしいぞ。しかもまともなとこ違うみたいやわ。一回、営業所にも取り立てきたらしい、ごっついベンツで」
・・・ヤクザ?西田さんが?
「な、もうやめとけ」
「・・・そやな」
俺は力なく答えた。
西田さんの切ない目が浮かんだ。
16
それからというもの、西田さんは何かと俺を気遣ってくれた。
「ちょっと旅に出てた。これ土産」と言って、BB弾をもらったときは正直引いたが。どんな旅だ。
所内では完全なキチガイ扱いの西田さんであったが、ことバスの整備に関しては一目置かれていた。整備士免許を持っていたからだ。
もともと西田さんは整備士で交通局に就職したらしい。どういう経緯で運転手になったかは知らんが、あの人は俺なんかよりよっぽど苦労と努力をしてる。そう思う。
その年の忘年会だった。
俺と西田さんと、あと数名が同じテーブルになった。
乾杯後、気がついたらそのテーブルは俺と西田さんの二人っきりになってた。まだ始まって15分ぐらいしか経ってないのに。西田さんが嫌われていたからだ。
とはいえ、皆、大人なので蜘蛛の子を散らすように逃げるのではなく、『そして誰もいなくなった』的に消えてった。
俺は今まで西田さんと深い話はしたことなかった。
たいていは西田さんが一方的に話してくるパターン。サバイバルの話とか、武器の話とか、動物の話とか。
俺もその手の話は嫌いじゃないので、黙って聞いていた。そんな関係だった。
俺はいい機会だと思い、気になってたことを聞いてみようと、生ビールをぐいっとあおって勢いをつけた。
「あの・・・、西田さん」
「何だ」
「聞きたいことがあるんですけど」
「恋バナか?」
「違いますよ。実は・・・」
「恋バナだろ?」
「だから違いますって」
「恋バナはしないのか?」
「恋バナがしたいんですか!」
「恋バナは嫌いだ!」
・・・なんて面倒くさい人なんだ。どうやら恋バナがしたくてたまらないようだ。だが断る!無視しよう。
「あの、18号車のことなんですが」というと、西田さんのこめかみがピクっとしたような気がした。
「なんだ、言ってみろ」
「なんであんなに愛情注いでるのかなーって」西田さんの顔色を伺いながら、ぬるりと心の距離を縮める、俺。
「・・・真鍋、バスの寿命って知ってるか?」
「いえ」
「おおよそ12年だそうだ」
「へえー」
「俺とあいつはもう15年来の付き合いなんだ」まるで恋バナをするかのように、西田さんは18号車を『あいつ』と呼んだ。
「・・・初めてだったんだよ、あいつが」
「乗務がですか?」
「そうだ。初乗務はあいつだった。あいつはもう18年現役だ。いつ廃車になったっておかしくない。だから俺が付いててやらんとダメなんだ」
18号車はいつも調子がいい。その理由は毎日、西田さんがメンテナンスしてたからだったんだ。
あぁ、俺はなんて無粋なことを聞いてんだ!西田さんにとって18号車は夫婦同然なんだ。
こんな話を誰かにしたら笑い飛ばされるかもしれない。しかし俺には西田さんの気持ちが痛いほどわかった。バスが本当に好きなんだ。理解されないかもしれない。でもただそれだけなんだ。西田さんは決してバスに対して変態なんかじゃない。
しかし――
そうなると、ひとつ引っ掛かることがある。
「西田さん、もうひとついいですか?」
「なんだ」
「18号車で、その・・・」
「なんだ言ってみろ!」
「・・・ウンコしたって」
すると西田さんは「ほう」と小さくつぶやき、ニヤっと笑った後、すぐさまいつもの表情に戻して「あれは失敗した」
「あの話ってホンマなんですか?」
「ああ、本当だ」
あっさり認めるもんだから、俺はやや拍子抜けした。逆に俺がなんか悪いこと聞いたみたいな空気になったので、フォローを込めて「でも、だいぶ酔ってはったんですよね?」と続けた。
「ああ。戦士としては失格だな」
「酔ってたら、しゃあないんとちゃいますかね。僕も酔っ払って漏らしたこととかありますもん」
「そこじゃないんだ」
「え?」
「失敗したのはそこじゃないんだ」
「・・・どういうことですか?」
「俺が酔って失敗したのは、片付けるのを忘れたことだ」
「片付けるって・・・」
「ウンコ」
「ウンコ?」
「ウンコ」
「・・・ウンコ?」
「ああ、ウンコ。いつもはちゃんと片付けるんだがな」
・・・えーっと『いつも』???・・・ってことは。
「あの、18号車でいつもしてるんですか?その・・・」
「ああ、ウンコ」西田さんは男らしく、かつ責任を背負った物言いで言い放ち、またニヤっと笑った。
前言撤回。
このおっさん、ド変態やん!
15
犯人は西田さんであった。
昨日の状況から、上司が西田さんを問い詰めたところ「酒に酔っていて覚えていません・・・。だがっ!あの、色、形、ニオイ。あれは私のモノに間違いありません。ほら、クコの実が混じってたでしょう?」と認めたらしい。
っていうか、クコの実て。普段どんな食生活を送っているのだろうか?
酒の席でのこと、退職される本人さんからの強い要望もあり、西田さんの処分はお咎めなしの厳重注意ですんだらしい。
実際は、処分以上のイメージダウンを伴ったが。
それからというもの、社内での西田さんの扱いは奇人変人の域を出て、俺が就職したときには完全にキチガイの地位を確保してた。
しかし俺は、西田さんの奇行を目の当たりにしたことはなかった。
一度だけ、西田さんが膝に猫をかかえたまま運転してるのを見たぐらいだ。しかも野良猫。
そのときの言い訳が「いや、彼(猫)はちゃんとお金払うと言ったんで」だった。
『18号車ウンコ事件』の話を聞いてた俺は、そんなに驚きはしなかった。
俺にとって西田さんは、他の先輩たちと同列の存在で、ほんの少し変わってるというぐらいだった。
それからしばらくして、西田さんの存在が俺の中で変動した。
それは入社して2年目のある日、俺が遅番終わりで洗車してたときだった。
俺の手でどんどん輝きを増す、バス。美しい。
うっとりと、その後方の角のヒップラインを眺めてたら、体の中から突然ある欲求が溢れ出してきた。
触れ合いたい・・・。一人の男と一台のバスとして・・・。
ビィ――――っ!
俺劇場のベルが鳴り、俺劇場の幕が上がった!
チョー劇的に盛り上がった俺は、『卒業』のダスティン・ホフマンになった気持ちでバスに走って飛びついた!
「俺がお前を市から奪ってやるぜ!」とか言っちゃって。なんだそれ。
もうそこからは、誰もいないのをいいことに、体の色んな部分を角にこすりつけていた。
頭の中ではサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』がガンガンに鳴っている。
端から見たら体全体を使った洗車に見えなくもない。が、やってることは単なる変態である。変態洗車。
そして俺の尻とバスの角を、ヒップ to ヒップで、こすりつけてたとき視線を感じた・・・。
西田さんだった。顔こそ暗闇ではっきりわからないが、西田さんだ。
俺は驚きの余り、その姿勢を変えることができず硬直してしまった。
これはまずい!俺はその姿勢のまま必死に言い訳を考えた。しかし、いい言い訳が思いつかない。
どう見てもこのシルエットは変態だ。ほとんどトンボの交尾と同じシルエットだ。
近づいてくる西田さん。何も言い訳が思いつかない俺。
西田さんの顔がはっきりわかる距離まで近づいた瞬間、俺は何を思ったのか咄嗟に「・・・抜けたっ!」と言って、あたかもバスに挟まってたかのように飛び離れた。
何が挟まってたと言うんだ?全くもって間抜けなアドリブである。
西田さんの表情は変わらない。
「いや、あの、その・・・」と、感嘆詞しか出てこない俺。
終わった。もう、俺のポジションは社内でナンバー2の変態の地位だ。もちろん1位は西田さん。
半ば諦め、ダメな感じの矢吹ジョーのように燃え尽きうなだれ、灰になった俺に西田さんがこう言った。
「悪くない。欲を言えば縦の動きが物足りない」
・・・え?
「お前の気持ちはよくわかる。それがバスを愛する者の取る正しい行動だ」
・・・共感?
忘れておった。この人こそ変態なんであった。
「ただ、ひとつだけ言っておく・・・」西田さんが、ぐぐーっと、瞬きの音さえわかる距離まで顔を近づけ、獣のような眼光でこう言った。
「この18号車はやめろ。これは俺のバスだ」そう言い残して西田さんは踵を返し、また暗闇へと消えていった。
・・・やっぱりあの人、おかしいわ。
14
西田さん。下の名前は知らない。
外見はしゅっとしてて悪くない。若いときの石橋蓮司に似てなくもない。独身。年は俺の10コ上ぐらい。西田さんの同期はぼちぼち出世してるようだが、西田さんにその気配はない。
なぜなら、西田さんは浮いている。会社に一人や二人浮いてる存在はおるやろうが、西田さんはその比じゃない。
そこいらの浮いてる輩が風船なら、西田さんはアドバルーンである。もう、手の届かないところまで浮き上がっておる。
社内には数々の西田さんの伝説が渦巻いており、もちろんそれは人事部の耳にも入ってる。
西田さんの昇進は永久にないというのが、社内での定説だ。
西田さんのあだ名は『ランボー』。
あだ名といっても「ランボーさん、おはようございますっ!」みたいな砕けた呼び名ではなく、あくまで「うわ、ランボー来たっ!」って感じの陰の呼び名だ。
『ランボー』の由来はこうだ。
俺たちの仕事には泊まり勤務もあり、宿直室を使って休む。
しかし、西田さんは絶対寝ない。
西田さんは決まって宿直室の一番奥の二段ベッドの下を使うのだが、決して横になることはなく、壁にもたれかかり片膝をついてじっとしてる。
誰かが西田さんに「なぜ寝ないのか?」と尋ねたことがあったらしい。
そのときの答えが「俺は戦士だから」だったそうだ。
そのくせ、宿直明けでは目の下にクマを作り、こっくりこっくり船を漕ぐ姿をよく見る。戦士の姿からはほど遠い。
あまりに居眠りが酷いので、当時の上司が西田さんに注意したらしい。
そしたら「自分の前世はランボーですから」と、かっこよく言い放ったらしい。
その的外れな、かっこ悪い言い訳から『ランボー』のあだ名が付いた。
っていうか『ランボー』架空の人物やし。前世とか無理やし。
それからは噂が噂を呼び、尾ひれが付いて、誰も見たことはないのに、西田さんはいつも宿直室ではサバイバルナイフを携帯してるらしいとか、針で自分の腕を縫ってるのを見たとか、警官に水攻め拷問を受けたことがあるらしいとか、断崖絶壁にへばりついてたのを見たとか、森の中では最強らしいとか、ベトナム戦争帰りだとか、町を壊滅させたことがあるらしいとか、アフガンに行きたがってるだとか、あきらかにランボーありきの噂が蔓延したそうだ。
他にも西田伝説はいろいろある。
極端に生ものを嫌う西田さんは、マクドナルドのポテトを7回連続揚げ直しさせたとか、早口言葉が異常に巧いとか、動物と話せるとか、限りない。
中でも、西田さんを空まで浮き上がらせたのが、送迎会での伝説である。
西田さんが大変お世話になった方が、定年退職になりその送迎会を営業所で行った。
宴会でいつになく酒に酔った西田さんが、テンションMAXになり匍匐前進で外へ出て行ったそうだ。
しばらくして戻ってきた西田さんは、また酒を飲み、宴は朝方まで続いたらしい。
問題は翌朝に起こった。
早番の運転手が車内清掃をしてるとき、運転手がものすごい勢いで営業所へ走ってきた。
「・・・誰やー!バスの中でウンコしたやつは――っ!」
これが世に言う、『18号車ウンコ事件』である。