NHKクローズアップ現代「“助けて”と言えない~共鳴する30代~」を見る。
生活に困窮し、命の危険が迫っても「助けて」といえずに、孤独死する30代が増えているのだという。
番組を見ていて苛立ったのは、取材しているNHKスタッフにせよ、ホームレスを支援しているという牧師の人にせよ、スタジオゲストの平野啓一郎という作家にせよ、出演した30代ホームレスを助ける具体的アイデアを出そうとしていないことだ。
年越し派遣村のニュースにしても、よくわからないのは、寝食は助けても、自分で仕事を探せという、あの芸のなさ。ほとんどが仕事にありつけず、生活保護の手続きができたのがせめてもの救い、という情けない結果。
30代が「助けて」といえないのは、「自己責任だ」という考え方を植え付けられていて、その呪縛から逃れられないからだという。
ちょっと待て、30代の働き盛りが働きたいと思っても働ける環境を作り出せない政治や行政に責任はないのか?
そもそも仕事ってなんだ? そこを追求すべきじゃないのか?
たとえば、ニューディール政策というのは、世界恐慌で街にあふれた失業者にばらまきをしたのではない、赤字国債でダム建設という「仕事」を創り出し、失業者たちを正統な労働者として雇用し、賃金を支払い、その賃金で生活必需品を購入することで、経済が回るようにした。
このダム建設が無駄か、無駄ではないか、を決めるのはダム自身ではない。
そのダムが経済循環を活性化するように社会生活の中で組み込まれているかどうかが、ポイントなわけだ。
つまり、単にホームレスに期間限定で寝食を与えたり、生活保護でお金を渡すというのではなく、政治や行政は「仕事」を作り出すべきなのである。
じゃぁ、どんな「仕事」がある? それは、どんな行政サービスが必要か、ヒアリングから始めるしかないだろう。需要が見えて、それが経済循環の活性化につながるということが見えてくれば、それを「仕事」としてやってもらい、賃金を支払えばいい。
ここでいう「仕事」というのは、実はなんでもよくて、要するにマネーというカードを順繰りに回すネットワークを広げて、回転率を上げるということが重要なのである。
これは発展途上国への支援でもいえることで、食料支援をするだけではなく、「仕事」を創出しない限り、いつまでも貧困から抜け出すことはできない。
吉村作治は、ピラミッドは農閑期の公共事業だという説をとなえているが、確かにそうかもしれないと思う。大事なことは、ピラミッドが人々の共感を 呼んで、エジプト経済の活性化につながっているかどうかで、活性化につながっている間は、ピラミッドをいくつ作ってもいいのだと思う。
「よゐこ&スザンヌの旭山動物園日記2010」を見る。
http://www.htb.co.jp/asahiyama2010/index.html

旭山動物園が廃園の危機から脱出し、夏期には上野動物園を抜くほどの入場者数を記録するまでになった理由とされている「行動展示」。
言うのは簡単だが、この「行動展示」が従来の展示方法(「形態展示」というのだそうだが、「標本展示」といったほうが正確なような気がする)とどう違うのかというと、その本質は、動物と人間との間のコミュニケーション・デザインにある(と思う)。
単に「その動物らしい行動を見せる」ということにとどまらず、「その動物と人間の関わり」に留意しているところがミソで、「関わり」を喚起される から、「可愛い」と感じたり、「すごい」と感じたりして、「また行きたい」と思ったり、「面白いから行きなよ」と人に勧めたりするわけだ。

旭山動物園の「行動展示」は、すべて坂東園長のアイデアなのだそうなのだが、重要な点は、そこにいる動物はどこの動物園にもいる普通の動物なのに、見せ方ひとつで、その動物の素晴らしさに驚かされるということだ。

ペンギンが水中を「飛んでいる」姿を見上げられるのもいいが、そのペンギンがディズニーランドのエレクトリカル・パレードよろしく人垣の間をよちよち歩きする。実は、人垣が柵になって、ペンギンたちが勝手にあちこち散らばっていかないように計算されているのだそうだ。
ホッキョクグマ館では、見学者の頭部が水上に獲物が顔を出したように見えるような設計になっていることで、ホッキョクグマが見学者向けてザブンと飛び込んでくるようになっている。

番組の中では、ホッキョクギツネやテナガザル、レッサーパンダ、オランウータン、エゾジカなどの新しい施設について紹介していたが、とりわけ印象 的だったのは、まさかこんな高さの屋根には飛びつけないだろうという、人間の予想を超える跳躍力で屋根に飛びつき、脱走寸前までいったテナガザルや、母オ ランウータンが子どもオランウータンを抱いて高いところにまで連れて行き、上手に自分の肩を踏み台に使わせながら、高いところでロープをたぐりながら移動 していく方法を教えている姿、そして、あざらしが水柱を昇り降りする際に、人間の子どもたちの身振り手振りに反応し、子どもたちが本当に嬉しそうに目を輝 かしている姿など。

江戸時代の歌舞伎小屋の演出に通じるコミュニケーション・デザインがそこにある。
早朝、テレビをつけたらCONDORS主宰・近藤良平さんのインタビューをやっていた。表題は「カラダに聞いてみよう」。

面白かったのは、横浜国立大学生時代に体育の先生から教わったという「手の甲の追い掛けっこ」(!?)。
手と手を重ね、上側の手の人が手を動かして逃げようとするのを、下側の手の人がその動きに追いついていこうとする。普通に目で見て追いついていこうとすると、なかなか追いついていけないのに、目をつむって手の甲の感触を頼りに追いついていこうとすると、不思議と追いついていけるのだ。
たぶんこれは、目で追いかけようとする(視覚で追いかける)と、いわゆる「マインドタイムの0.5秒の遅れ」が生じてしまうのに対して、手の甲で追いかける(触覚で追いかける)と、大脳を介さないだけ素早いレスポンスが可能になるということなのであろう。
進化のプロセスの中で、触覚は最も原初的な感覚で、それに比べると視覚も大脳も新参者である。
この触覚によるコミュニケーションにこだわっているのも、彼の活動の特徴で、そうした「コミュニケーションの根源」を問う姿勢が、CONDORSのパフォーマンスを面白くしているのだと思う(といっても、僕が見たことがあるのは「サラリーマンNEO」の中の「サラリーマン体操」だけだが)。
番組では、ワークショップで、2人ペアになって互いに触れ合いながらパフォーマンスを創作していくプロセスを紹介していたが、それが結果的には、民族ダンスや社交ダンスのようになっていくのが興味深かった。

近藤さん曰く「小学校2年生くらいまでは、休み時間になるとわーっと校庭に出て、思いっきりカラダを動かして、大声を出して遊んで、休み時間が終わるとわーっと教室に戻ってくる。これが中学生くらいになると、そんなの格好悪いということになって、大人になるとそれを全く忘れてしまう」「社会的にカラダを萎縮させることが、大人になることになっている」「カラダという言語を使うと視野が広くなる、発見がある、ということを仕事にしている」。

彼のパフォーマンスがいつもライブ感を失わないのは、常に「カラダに聞く」という原点を忘れないからで、その原点を忘れてしまうと、たちまち「パターン化」のワナにはまり、マンネリ化に堕してしまう。言うのは簡単だけど、行うのはそうそう簡単ではない。

■サラリーマン体操
http://www.youtube.com/watch?v=-eGivDiTHOQ

■写真1 ホリデーインタビュー
http://www.nhk.or.jp/a-holiday/
■写真2 近藤良平オフィシャルホームページ
http://www.kondosan.com/
■写真3 CONDORS official website
http://www.condors.jp/

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