今から思えば、ちょっと昔の話になる。
60歳の男性がエレクトーン教室に入会した。個人レッスンである。「エレクトーンを購入されたお客様ですが、ぜひ先生のご指導を受けたいとおっしゃっていますが、いかがでしょうか」と楽器店からの問い合わせから始まった。
初対面で彼は、「君が代」と「軍歌」しか知らないし、知識も教養もないので「劣等生」になると思うけれど、よろしく頼むということだった。
自分で起こした会社をやっていくだけで一生懸命だった、少し余裕ができたので「教養」を身に付けたいと思って、エレクトーンを買ったそうだ。会社は土建屋で荒くれ男ばかりを雇って使っているので「強面」の顔になるとも言っておられた。
レッスンが始まった。やはり「ドの位置」「指番号」「中央のドからの読譜」からである。60歳の土建屋の社長さんということなので、演歌が得意かなと思った。もし良かったら演歌を弾いてみましょうかと聞いてみた。好きではないという。シャンソンを弾いてみた。『愛の讃歌』『バラ色の人生』『百万本のバラ』と3曲続けた。ふと彼の顔を見た。感動している様子である。「こんな感じの曲がお好きなのですね」と私が言った。
耳にしたことのある音楽だったようだ。特に『愛の讃歌』がお気に入りのようだった。曲名を教え、歌があることを教え、それはシャンソンというジャンルの曲であること、そしてエディット・ピアフの話をした。それからシャンソニエのお店の話をしたら、案内してほしいという。早速、レッスンが終わると彼の車で知合いのシャンソニエへ出かけた。
優しい音色で伴奏するピアニストがいた。歌手も『愛の讃歌』を歌ってくれた。それから彼は、度々、その店に入り浸るようになった。
私が久しぶりに店に入ると彼がいた。いつのまにかお店に人たちの人気者になっていた。毎回、ステーキやお寿司をご馳走していたらしい。小さな店なので、ピアニストと歌手とママの3人を連れて食事に行っていたのである。私は彼の先生なので、そのお店では私も大事にしてもらえた。
ある時、彼は言った。5つの病気を持っているので、あと1年半くらいだろうと思う。本当にやりたかったことをやってみたい。子供の時から貧乏だった。音楽なんてとんでもないことであった。こんな世界がやっぱりあったのだな~と思うと、もっと、はやく知るべきだった。先生に感謝しています、と言ってくれた。宿題はちゃんとやってくるし、礼儀正しく紳士でもあった。後から聞いたことだけど、シャンソニエのスタッフたちと食事にいっても、いつも音楽の質問ばかりしていたそうだ。
彼は、彼の言葉通り1年半後に逝ってしまったのであるが、最後の1年半は私を通して音楽に触れることができた。入院する前に「好きな人には絶対に見舞いにきてほしくない、自分の情けない姿を見せることは嫌ですから・・・」と言っていた。私はお見舞いに行かなかった。彼は音楽と同じくらい、いや、それ以上に私のことが好きだったのである。
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