「自省録」というものは、様々な分野の本を読んで感化を受けたものの中から、それらに対して自ら主体的に思索して、真理を育んでゆくという営みである。


 まずは、「心のノート」として、自らの心の軌跡をつづってゆくことである。己が心の想念を客観化してゆくことである。


 そのようにして文章に起こすことによって、自己の問題意識を探究してゆくことである。そして、理性の言語となしてゆくことである。


 日々、自らの理性の声を言葉にして、それを自分自身で確認してゆくことである。思索における主体性を持って、己が理性の声の軌跡を明確にしてゆくべきである。


 人間は、日々、何かを感じて、思索しているのである。その内容を言語化して、遺してゆくことである。


 さすれば、自省録そのものが、哲学として、文学として、人々の智慧の糧となることもある。また、その方が、素直な自分自身の魂の生地の言霊として、かえって、人々の心に響いてゆくこともあるのである。


 故に、自分自身の魂の生地に忠実に、言葉を、思想を、紡いでゆくべきである。全ての方が、常に自分自身の言葉をこそ持つべきである。


 その折に、確かにインスピレーションも自然に臨むであろう。しかし、まずは、自分自身が何を感じ、何を考えてゆくかということが大切なのである。それでこそ、インスピレーションもまた活きるのである。


 何よりも、まず自分自身が何を感じ、何を考えるかということをこそ言語化して、それを人々に伝えるということが大切なのである。

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 


 

 

 謙虚さ、素直さというものは、成功哲学、繁栄哲学の中に確かにあるものである。かの松下幸之助にしても、稲盛和夫にしても、「謙のみ福を受く」ということを信条としておられたのである。


 素直な心を持つということは、よく反省が出来るということでもある。松下幸之助は、「素直さ」の初段になることをすすめている。素直な心を持って、道理に則り、衆知を集めて、人を活かすことを旨としているのである。


 謙虚であるからこそ、感謝の心が出てくるのであり、また、無限に学びが出来るのである。このように、「謙のみ福を受く」という心得を持っていれば、本当に福徳に恵まれるのである。


 素直な心とは、無我ということでもある。自我を虚しくして、自分が自分がという心を虚しくして、利他の心を持つことである。敬天愛人の心を持つことである。


 無私利他の心を持つことが、真なる成功の王道なのである。どれだけ無私利他になれたかということが、偉人の条件なのである。


 才能だけでもない。努力の力だけでもないのである。志において、無私利他の心を持っていることこそが尊いのである。そうであってこそ、才能も、努力精進も、真に活きてゆくのである。


 素直な心を持ち、謙虚な心を持ちつづることこそが、真なる偉人の条件であり、それであって初めて、後世への遺産を遺す偉業を成せるのである。


 このように、人格における成功こそが、最高の成功なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 

 

 


 



 まず何よりも、自らの心の波を平静にしてゆくことである。意図的に平静心を保ってゆくことである。心の波を平らかにしてゆくことである。


 己が心を鏡のようにして、人生の全てを映してゆくことである。これを「正定」と云う。すなわち、禅定である。


 日々、瞑想を行い、「心のノート」をつづり、思索録、自省録をつけつづけてゆくことである。さすれば、自然にインスピレーションが湧いてきて、理性的気付きもあり、真理の発見も、真理の観照もあるはずである。


 様々な分野の真理を日々学ぶことを通して、自らの心を耕しつづけて、心の中に真理の結晶を創ってゆくことである。


 思索を通して、叡智の結晶を育んでゆくことである。日々、理性を磨きつづけてゆくことである。理性と良心の声を書き留めてゆくことである。


 様々なことに問題意識を持って、意図的に思索をしてゆくことである。真に思索されたことのみが自らの思想となり、自分自身が思索することこそが、真なる思想・哲学・文学の意義であり、真なる発見・見性なのである。


 思索の中にこそ、理性の力、悟りの力は育まれてゆくのである。このようにして、己が理性の力を磨きつづけ、思索しつづけてゆく過程こそ、哲学そのものであり、それはまた、一大文学でもあるのである。


 真理を育みつつ生きることが、善く生きることであり、真善美聖の実在を生きることなのである。

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)