ジャン・ジャック・ルソー全集を読みながら、福澤諭吉全集をも読み、それらを比較検討するのは、為すべき思索の営みである。


 世界中の近代哲学思想の源となり、近現代のあらゆる憲法、国際法の源となっているのが、ジャン・ジャック・ルソーの哲学思想である。


 それは、アウレリウス・キケロ・セネカのような古代ローマのラテン哲学をも源にしている普遍倫理学でもあり、善く生きることを説いている普遍哲学なのである。


 同じく、福澤諭吉の哲学思想も、善く生きることを説いている普遍倫理学であり、それはまた、普遍宗教でもあるものである。


 慶應宗教学会が、世界宗教について、「宗教多元主義」を採って、多元論を説いて融和をはかるのも、その源は福澤諭吉の思想にあり、慶應義塾大学の精神にあるのである。それは、様々な宗教的精神をも包み込む普遍倫理学、普遍哲学、普遍宗教の体系でもあるのである。


 当然ながら、ルソーの思想の中にも、このような普遍倫理学、普遍哲学、普遍宗教の体系を認めることが出来るのである。


 そもそも、近現代の憲法というものは、この普遍倫理学、普遍哲学、普遍宗教の体系がなければ成立しえないものなのである。


 このように、ルソーや福澤諭吉の普遍的な哲学思想を源にして、現代哲学、現代政治、現代経済、現代経営、現代教育、現代文学、現代医学の体系が出来ているのである。


 かのローマ帝国におけるマルクス・アウレリウスやキケロの如く、ルソーと福沢諭吉の思想は、近現代、及び、新時代を貫く一大精神、世界精神の体系なのである。

 

 

 

 

 

 

   天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 

 

 

 


 「学徳」というものがあるが、この「学徳」において、「徳」というものは、古今普遍に変わらないものがあるが、「学問」は、日々、進歩しているものであり、教育によって学問を学ぶことによって初めて、文明文化を知るのである。


 古代の聖人賢人といえども、日々、進歩を積み重ねた文明文化の学問から見れば、知性の質が違うのである。釈迦も、孔子も、キリストも、老子も、荘子も、八百万の神々も、もしも現代に出てきて、文明の学問を修めなければ、真なる文明の学徳を示せないのである。それは、現代の学問・教育によって測られるからである。


 しかし、徳は普遍永遠である。釈迦、孔子、イエス・キリスト、老子、荘子などの教えは、永遠不滅の法である。それは、真なる徳を修めるということであり、決して古代に帰れという訳ではない。永遠普遍の道徳律、宗教、哲学を大切にして復興してゆくことによってこそ、それは真なるルネサンスたりえるということである。


 心の教えは、軽んじてはならない。永遠普遍の哲学・思想・宗教・道徳・芸術は、万人が学ばなくてはならない。それは、人類の永遠不滅の叡智として、徳として、人間の根本を成すからである。


 ただ、これが「智徳」となり、「学徳」となれば、現代の文明の学問を修めてゆくことこそが、先進国の日本のあるべき姿であり、世界のあるべき姿なのである。


 真に文明の華を修め、先進国の文明を学び、実学を修め、その上で、永遠普遍の法を学び、徳を修めつづけてゆけばよいのである。それこそが、福澤諭吉が説く所の、「孔子の徳とニュートンの才智を兼ね備える君子」であるということなのである。

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 

 


 


 文章というものは、時を経るにつれて、磨きがかかるものであり、また、その方の人となりを示すものである。


 同時に、それは、内なる理性そのものでもある。この理性の磨きこそ、その作家の文章の文体であり、感性の煌めきでもある。


 詩と哲学は、本来、一体となるものである。最高の哲学は、最高の詩ともなり、最高の文学ともなるのである。


 優れた哲人の文章は、詩そのものでもある。一行一行に美学があり、イデアの輝きがあるものである。そして、真なる哲学者の思索というものは、独自の美の輝きを得ているものである。


 このように、理性と感性というものは、本来、止揚統合されうるものである。思索と直観というものは、双方、必要なのである。このように、哲学と詩と文学というものは、本来、一つの精神の営みであるのである。


 例えば、三島由紀夫の文章というものは、詩であり、かつ、哲学でもある。また、哲人セネカの一行一行というものは、また、詩であり、文学である。


 マルクス・アウレリウスは、皇帝であったが、「自省録」を書く文筆家でもあり、愛を雄弁に説く哲学者であった。また、キケロの雄弁は、歴史を超越して、現代の日本社会でも、アメリカ社会でも、名声を得つづけ、模範となっているのである。


 三島由紀夫の雄弁も、それらは、本来、古代ギリシャ・ローマにあってもよいようなものでもある。日本の神道の範囲にいるのは、もったいないものであるような世界文学でもある。


 また、鈴木大拙や西田幾多郎の文章も、それらは仏教思想をベースにしたものでもあるが、日本文学であり、かつ世界文学でもある。鈴木大拙も、西田幾多郎も、世界的哲人であり、日本におけるギリシャ・ローマ的なルネサンスでもあるものである。


 

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)