「学徳」というものがあるが、この「学徳」において、「徳」というものは、古今普遍に変わらないものがあるが、「学問」は、日々、進歩しているものであり、教育によって学問を学ぶことによって初めて、文明文化を知るのである。


 古代の聖人賢人といえども、日々、進歩を積み重ねた文明文化の学問から見れば、知性の質が違うのである。釈迦も、孔子も、キリストも、老子も、荘子も、八百万の神々も、もしも現代に出てきて、文明の学問を修めなければ、真なる文明の学徳を示せないのである。それは、現代の学問・教育によって測られるからである。


 しかし、徳は普遍永遠である。釈迦、孔子、イエス・キリスト、老子、荘子などの教えは、永遠不滅の法である。それは、真なる徳を修めるということであり、決して古代に帰れという訳ではない。永遠普遍の道徳律、宗教、哲学を大切にして復興してゆくことによってこそ、それは真なるルネサンスたりえるということである。


 心の教えは、軽んじてはならない。永遠普遍の哲学・思想・宗教・道徳・芸術は、万人が学ばなくてはならない。それは、人類の永遠不滅の叡智として、徳として、人間の根本を成すからである。


 ただ、これが「智徳」となり、「学徳」となれば、現代の文明の学問を修めてゆくことこそが、先進国の日本のあるべき姿であり、世界のあるべき姿なのである。


 真に文明の華を修め、先進国の文明を学び、実学を修め、その上で、永遠普遍の法を学び、徳を修めつづけてゆけばよいのである。それこそが、福澤諭吉が説く所の、「孔子の徳とニュートンの才智を兼ね備える君子」であるということなのである。

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)