「法則」を探究するものが学問である。同様に、哲学の営みというものの本質とは、理性的思索によって、「法則」を発見することなのである。


 この「法則」を、真理と云うのである。故に、真理は、あらゆる現象を統べるのである。「法則」の下に、あらゆる現象は展開しているのである。あらゆる現象は、「法則」が具体化、実現しているのである。故に、現実は理性的なのである(ヘーゲル)。


 すなわち、あらゆる現象は、「法則」としての理性に統べられているということである。このように、理念(イデア)というものは、「法則」として実在するのである。ありとしあらゆるものは、一なる根源なる法則意識によって統べられているのである。


 故に、「法則」というものは学問の対象になるし、その根本なのである。例えば、科学的認識においても、現象を貫く「法則」を発見してゆくことが、その根本である。


 あらゆる現象に共通する「法則」を発見してゆけば、「法則」は、他のあらゆる現象に応用が可能なのである。


 同様に、哲学的イデアとは、現象を統べる「法則」でもあるから、他のあらゆる現象に応用が可能なのである。


 このように、あらゆる現象の背後に、イデア(理念)があるのである。この理念とは、「法則」、すなわち、法である。この「法則」、法を発見してゆこうとすることこそが、真なる学問の営み、真なる哲学の営みの根本なのである。

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 

 

 


 


 人格の根底に、理念の法、理念の真理を認識することは、哲学の本質である。


 カントは、人格の根底には、自律すべき「永遠普遍の道徳律」が実在すると説き、これが徳の根源であると述べている。


 このカントの「永遠普遍の道徳律」は、永遠であり、普遍であるから、古今東西の人類のあらゆる哲学・思想・宗教において共通項を持つ真理でなくてはならないであろう。


 この徳の根源としての「永遠普遍の道徳律」を説いたカントの『実践理性批判』は、ルソーの『エミール』なくしては、無かったものである。


 すなわち、ルソーの道徳哲学こそが、近現代の道徳の根本に実在するのであり、ルソーが近代最大のモラリストと言われる所以である。


 また、エマソンの徳の真理の思索も、「永遠普遍の道徳律」について様々に思索している。このように、イデアの実在する所、「永遠普遍の道徳律」は実在し、要請されるのであり、徳の描かれる所、「永遠普遍の道徳律」は実在するのである。


 このエマソンは、近代のマルクス・アウレリウスであると言われるように、エマソン哲学の根底には、ストア哲学があるのである。同様に、カント哲学の根底にも、ストア哲学の徳の倫理学があるのである。


 このように、ストア哲学の根本には「永遠普遍の道徳律」があるであり、それが、近代においてルネサンス・新生されて、ルソー、カント、ヘーゲル、エマソン、西田幾多郎、福澤諭吉等の道徳哲学となっているのである。


 その根源は、プラトン哲学、及び、ストア哲学の道徳哲学にあるのである。

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 

 

 

 


 


 ショーペンハウアーの述べた孤独な「観照的生活」というものは、哲学者の基本であり、最も大切なことである。現世から超然として、イデアの真理を思索し、瞑想し、これと一体となるのである。


 あらゆる地上的煩いから自由になり、解脱し、超然としてゆくことこそ、真にエマソン哲学を実践してゆく秘訣なのである。


 思索の翼をもって、自由自在に天空に飛翔してゆくことである。そして、真理のイデアの天空から、全てを眺めてゆくことである。


 無常なるものを離れて、永遠普遍なるイデアと一体となることである。そして、イデアを感得し、思索し、真理を文筆してゆくことである。そして、文筆を通して、人々に心の糧を与えつづけてゆくことである。


 さらに、歴史上の偉人の幾人かを具体的目標に据えて、日々読書し、自ら思索し、倦まず弛まず、小さな哲学的発見、見性体験を積み重ねてゆくことである。


 イデアは、永遠不滅の実在であり、真如であり、真理である。常に己が魂をイデアに触れせしめ、これを磨いてゆくことである。イデアの輝きは、ダイヤモンドよりも剛いのである。


 イデアの智慧を感じさせる書物を通して、常にイデアを思索してゆくことである。

 

 このように、哲学者の基本とは、常にイデアを思索しつづけてゆくことにあるのである。

 

 


 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)