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コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

国民の僕(しもべ/下部)

である官僚・役人を使って、

 

国家の政治を

行うべく政治家の中に、

 

国民の僕(しもべ/下部)

である官僚・役人を

使いこなせるほどの政治家が

 

どれだけいるのかは

はなはだ疑わしい

ようにも思われます。

 

アタマ悪そうな男女が

出馬(でてきて)してきて

 

国家の云々をああでもない

こうでもないと

 

言ってみたところで、

なにをほざいているかの如くに

 

映ってしまうのもアタリマエ

といえばアタリマエのこと

 

でもあるようにも

思われなくもないようです。

 

若者が崇拝、

敬えるだけのオトナに

ならなければ、

 

政治家どころか

官僚でもなんでも

 

なろうとする資格も

チョウチンもヘチマも

ないと考えられます。

 

かといって崇拝にしろ

敬うにしろ、その意味さえ

わからぬ若者も

 

ウヨウヨしているような

国家にしてもその真偽は

 

どっちもどっち

ということになって

しまうのかも知れません。

 

「預言書 

律法の書 歴史の書 詩書に続いて旧約聖書の4つ目で最後のグループが預言書だ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

本来なら、クムラン洞窟で

発見された「死海文書」こそ、

旧約聖書そのものであり、

 

その他のものは、実際、

どこまでが旧約聖書に含まれていたのか、

 

どこからが新約聖書が旧約聖書からの

パクリであって、本当の

 

旧約聖書に含まれていた文書は、

どこまでが事実真実であるのか

 

わからないとするのが

正しい解釈であるとも考えられます。

 

コラム・インテリジェンス

「クムラン3」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12593187261.html

 

なので、この「グループ分け」の真偽も、

残念ながら懐疑をもって受け止めておいたほうが、

肝要なのであるのかも知れません。

 

イザヤ書「『私は初めであり、終わりである』という有名な表現もあり、『私こそ主、私の前に神は造られず、私の後にも存在しない』とも言う。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ここまで言われたら、善良にして無垢なる民は、

信じるほかないとまで思い込んでしまうのかも知れませんよね。

 

「私は初めであり、終わりである」

なんという名文にして、

 

美しさ、潔さまで

感じさせる文言なのでしょうか。

 

「単一民族神が絶対神へと増幅していくメカニズムがあらわになっている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ユダヤ人という単一民族が、

自分たちの信仰神を

 

全世界的な絶対神へと

押し上げてゆこうとするメカニズムが

 

まさに構築され始めた時代の瞬間が

表象されているのかとも推察されます。

 

「『私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す』(イザヤ書46-4)という造物主の悲壮な決意すら感じさせる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

この言葉が好きです。

この文言は僕を救う。

 

余命宣告を通過してしまった僕の

命を預けるかたは

 

まさに神、イエス、マリア、モーセの他には、

見当たらないようにも

思われなくもないような気も

しないでもないのです。

 

「私はあなたたちを造った

 私が担い、背負い、救い出す」

 

ちなみに、ココの読者は

すでにお気づきのように、

 

僕は無神論者、無宗教。

イエスもマリアも信じなかった者が、

 

己の死を目前にして、

まるでキリスト教徒のように、

 

イエスに祈り、マリアに祈り、モーセを崇め、

イエス・キリストを

崇めまくろうとしているのです。

 

「キリスト教が成立していく時代に、その信仰の拠り所としてこの『イザヤ書』が果たした影響は大きい。いや、すでにメシアの到来を待つユダヤ人の共通のイメージの中に『イザヤ書のメシア』があったからこそイエスもその使徒たちもその生き方(と死に方)の枠組みを与えられたのかも知れない。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

情けない、本当に情けないけど、

無神論者の僕が死を目前にして、

 

このたった一文、たった一つの文言によって、

キリスト教徒のようになろうとしている、

という感が否めないような気も

しないでもないのです。

 

「私はあなたたちを造った

 私が担い、背負い、救い出す」

 

僕のような正真正銘の由緒正しき

老いぼれが、

 

僕のようなポンコツじじぃでさえ、

イエス・クリストの虜に

なろうとしているのかも知れません。

 

まさに聖書、畏るべし。

イザヤ書、おそるべし

 

であるような気もしないでもないのです。

 

昨日は五月晴れの日曜日。

昨日、掃除洗濯に精を出し、

 

心地良い疲労感と満足感に

つつまれて眠った人は、

 

月曜日である今日も今日とて

すっきりとした情動で、

 

過ごし始められる人なのかとも

考えられます。

 

ヒトは完結満足が好きで、

その「好き」をうまく利用している人は、

 

わりといつもすっきりとした情動が

可能となっているようです。

 

掃除洗濯でも

それが「好き」なのではなく、

 

それを

完結満足した結果の情動が

好きであるのなら、

 

その「好き」を利用して、

掃除洗濯にいそしめば、

 

完結満足した結果の

情動である「すっきり」を

 

手に入れることも

可能であるということに

 

なるようにも

考えられるのです。

 

そこで、

日常生活において、

 

「嫌だ」「やりたくない」

「きらい」「さぼりたい」

「手を抜きたい」等々の情動を

 

感じてしまったときには、

それらを

完結満足したあかつきの

 

「すっきり」が「好き」を

思い出し、

 

それら負の因子を

正の因子に変換し、

 

これから

本格化する梅雨を

 

「すっきり」と心地良い

情動をもってして

 

乗り越えようではないか

の提案も

 

可能と

なってくるような気も

しないでもないのです。

 

「箴言(しんげん) 賢者として知られるソロモン王は3000の『箴言』を語ったと伝えられている。(列王記上5・12)。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

これは真実であるようです。

 

コラム・インテリジェンス

「ソロモンの箴言 1」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12551647294.html

 

ココでも再三、

取り上げさせて

いただいたようです。

 

「格言を短い韻文で連ねるスタイルは箴言文学のモデルにもなった。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

僕はソロモン王にも、

影響を

受けているようですし、

 

孤高の詩人、

森の哲学者と

称されたソローにも

 

多大な影響を

受けていると言っても

けっして

過言ではないような気も

しないでもないのです。

 

コラム・インテリジェンス

「ソロモン」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12534120774.html

「ソロー 1」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12534122723.html

 

海外ドラマでも観ようものなら、

必ずと言っても良いくらい、

旧約聖書の中の言葉が

 

引用されていたり、

劇中の役同士の会話でも

台本に

 

ソロモンの箴言を

引用し合う場面が

 

ソローの言葉を

引用したセリフが

載っていたりもしたものです。

 

そういえば日本でも

ことわざや格言くらいは、

日常生活の中で使われるシーンが

あったようなそうでもなかったのか……。

 

「民族宗教的な色合いは少なく人生における知恵と教訓のようなもので、昔の日本人が『論語』を引き合いに出したようにキリスト教社会でも長い間さかんに暗唱を勧められた。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

現代日本の教育では、

人生の教科書ともいうべき論語の

取り扱いは希少となってしまっているようです。

 

人生の教科書を

訓(おし)えないような教育で、

しっかりとした人生を歩めと言ったところで、

「はぁ?」となるだけのような気も、

しないでもないです。」

 

「『我が子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな。』(箴言1・8)や『怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ』(箴言6・6)など父母の尊重や勤勉の奨励など東西共通のクラシックな教えが、その知恵をもってしても、ソロモンが晩年には神に背いて堕落したことを思うと、人間とは『悪において善を渇望する』存在なのだと感慨を覚えてしまう。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

完全無欠のキリストの新約聖書と違って、

たとえ王であっても

その勧善懲悪を貫く物語においては、

たとえ王であってもアタリマエの人間として

扱っている旧約聖書の真実性は、

疑う余地もなさそでありそでちょっとだけ

なさそな気持ちが強いのかなぁというような

気もしないでもないのです。

 

そして人間は、

もともと性悪であるはずなのに、

善を渇望、希求してしまうようである

 

という筆者の洞察も

さすがでありながら、

 

それでは著者は、

性悪説を唱えながらも、

性善説をも信じたいと

述べているのかといえば、

 

それもどうなのか、

そのあたりは、

 

性善説、性悪説の

果てしない議論とともに、

保留しておく方が

肝要であるのかも知れません。

 

人間とは、

性善説を称えるほどの

生命体であるのか否か、

 

人間を、

性悪説でかたづけてしまうほどに

人間とは、

単純な生命体であるのか否か。

 

大谷翔平選手の二刀流復活の

兆しを観せるテレビ視聴率も

史上最高を記録したそうな。

 

まずはメデタイ、めでたい。

 

人それぞれというけれど、

 

彼のように野球というスポーツに

特化した才能を授かりながらも、

 

努力という才能も

授かった結果が、

 

今日の大谷翔平周辺の

有様であるのかとも

思われます。

 

我々は我々なりに、

努力という才能を少しでも

 

増やしていくという努力を

切磋琢磨し続けることで、

 

彼に報いようではないけれど、

彼の万分の一でもの幸運を

 

手に入れたいものではあります。

 

そのためには、

 

僕の場合は良い死に際。

 

余命宣告を受けてから

その時がくるまでの時間の

過ごし方でもあるような

気もしないでもないのです。

 

残された時間を

有用に過ごす努力。

 

残された時間の

善良なる過ごし方を思考する努力。

 

潔く、そしてどこまでも

善人であって善人のまま

この世を去りたい。

 

この世を通過したい。

 

そしてさらなる

次の飛翔に向かって……。

 

「罪なくしてひどい仕打ちを受ける者の代表者は新約聖書のイエスかもしれない。イエスは神の子として人類すべての罪を贖うために殺されたとされるのだからヨブとは状況が違うが、『ヨブ記』の嘆き節があまりによく書かれているので、その後のキリスト教世界では、信者が不幸な目に遭うたびにイエスやヨブの苦しみが何度も何度も想起されることになった。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ヨブは家族と財産を失い、

自らは重い病に伏せるという不幸。

 

イエスは御存知、人類すべての

悪行の償いとして、

自らの命を神に捧げた。

 

どちらの不幸を想起してもしなくても、

キリスト教であろうがあるまいが、

 

他者の不幸を憐れむことで、

己の不幸のストレスを還元するという手法は、

人類すべてが持ち合わせている

ストレス・ダメージ解放の手段と

なっているようです。

 

「『詩編』の書かれたダビデ時代からバビロン捕囚時代といえば、イエスの頃から5世紀から10世紀も昔になるが、新約時代のユダヤ人にとってしっかり根付いた古典であったのだろう。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

イエス誕生のはるか数百年も以前、

ユダヤ人たちは旧約聖書の世界において、

自らの信じる一神教の神を信仰していた。

 

その中の「詩編」は旧約聖書にも新約聖書にも

含まれるとされる書であるようです。

 

悠久の昔、人類文化の発祥とされるユダヤ人たちは、

人類初の一神教のテキスト「旧約聖書」ですべてを

まかなっていたとも考えられます。

 

さあそこへいよいよイエス誕生の謎というか

言い訳?いや弁明?いやこじ付け?……

とも言えるイエスの誕生と新約聖書が

とつぜんふってわいたように

出現したわけです。

 

旧約を信仰して安寧のバランスを

保っていたユダヤ人たちが、

どのようにして、どうして、

自分たちの神でもないイエスと

融合していったのか、

 

それはこれからの謎ときの

大きな課題の一つともなっていくようです。

 

「しかも『詩編第22編の『わたし』は『犬の力』、獅子の口、雄牛の角に攻撃されて『水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋(ろう)のように溶け』、「口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎に張り付く、あなたは私を塵と死の中に打ち捨てられ」たという壮絶な目に遭ったので、イエスだけではなくその後に続いた膨大な数のキリスト教殉教者たちにも追体験され共同の支えとなったに違いない。』

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

僕はガンの痛み、麻薬の朦鬱(もううつ)に攻撃されて/

水となって流れ出し、

骨はことごとく砕けはずれ/

心は胸の中で蜜の如く安寧であり/

口は渇いて素焼きのかけらとなり/

舌は上顎に張り付く、

あなたは私を塵と落ち、塵と消えぬる

定めとお決めになった。