コラム・インテリジェンス -9ページ目

コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

イランとイスラエルの問題を

社会主義 VS 資本主義として鑑みれば、

 

幸か不幸か、どちらがいいのか悪いのかは

わからないけど少なくても、

 

その勝敗の行方は

軍用機を含む重機つまりは機械の

性能の高低にあると考えられます。

 

機械技術においても文明としては

資本主義のほうが発達したけれど、

 

その文化つまりは礼節、倫理観、

礼儀作法、善悪等々において

 

資本主義はどうであったのかが、

問われるところかとも思われます。

 

また、イランとイスラエル問題を、

イスラム圏 VS キリスト教圏という見方で

鑑みれば、

 

これも同様のことがいえるとも

考えられなくもないのです。

 

イランとイスラエルの闘いは、

社会主義と資本主義の闘いでもあり、

 

イスラム教とキリスト教との闘いで

あるとも言えなくもそうでもないとも

 

言えるようで言えないような、

それ以外の見方も鑑みて、

 

多くの視点からの判断が

求められるのかも知れません。

 

「コヘレトの言葉《伝道の書》 

 これもまたソロモンの言葉。といっても、権力者がおかかえの詩人に文章を注文して自分の名を冠するのは古今東西の常識だから、当然のことながら、『箴言』もこの書も必ずしもすべてがソロモンの自作だと限らない。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

コヘレトの言葉は旧約聖書の

律法書(モーセ五書)と並ぶ詩書

というカテゴリーの中にある

「伝道者の書」の中の文言であるそうな。

 

まあ、39巻からなる旧約聖書は、

その巻数を覚えるのも難儀であるし、

その巻名を覚えるのはさらに難儀。

 

挙句の果てにはそのカテゴリーの中に、

各巻名があり、その巻の中にさらに、

「コヘレトの言葉」のような「章」が

存在する。

 

「章」ではなく(笑)なら

わかりやすいのに……(笑)

 

難儀だらけの旧約聖書全体を

覚えるのはさらにさらにことさら難儀

かとも考えられます。…であるそうな…。

 

「『箴言』が人生における指針や知恵を授けたのに対して、『コヘレトの言葉』は人生の意味について語ったものだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

箴言が哲学であるなら

コヘレトは仏教であると考えます。

 

人生は哲学の指針、知恵を身に付け、

さらには仏教の厭世的諸行無常をも

体感してこそ、味のあるものと

なってゆくのかも知れません。

 

「雅歌 これもまた『ソロモンの歌の中の歌』となっている」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

これもまた聖書の中でも旧約聖書、

旧約聖書のなかでも

「詩歌集」というカテゴリーの中でも

「箴言」と並列するような……。

 

ややこしいので旧約聖書とだけ

覚えておけば、それだけで

よろしいのかとも考えます。

 

要はカテゴリー分けではなく

内容を解釈することが大切で、

 

その意味においても

このあたりになると

 

本当に旧約聖書の中に含まれていたのか否か、

ユダヤ教から枝分かれしたキリスト教のための、

キリスト教を正当化するための新約聖書、

 

新約聖書の中に含まれているとしてしまうと、

いかにもわざとらしいので、

 

旧約聖書の中に含ませたと懐疑をもって

批評する学者も多いようです。

 

ともあれ雅歌は、聖書の中でも唯一、

といっていいほど、男と女の「愛」について、

謳われた「章」で。

 

学者たちの中には

読みようによってはちょっとエロティック

と評する学者も多い。

 

これも本当に旧約聖書内であるのか否か、

ユダヤ教とキリスト教の狭間で

 

学術的には非常に懐疑深い(笑)

もとい「章」でもあったりなかったり

そうでもなかったりの論争が

終結することもないようです。

迷惑メール、

詐欺メール等々の標的が、

 

最近では日本をターゲットに

絞り込んだ仕組みが

 

4月などでは世界の8割にも

及ぶことが判明したそうです。

 

なめられている、あたまにくる等々と

言っている段階ではなく、

 

真剣に犯罪対策として、

国をあげての対応が

迫られているようにも考えられます。

 

我が国は

重大犯罪になってからでないと

危機意識が盛り上がらないようで

 

そこのところをつかれた現象で

あるようにも思われます。

 

いつかどこかで、この意識を

逆転させるような対応を示さなければ、

 

このままでは我が国は、

犯罪者の温故、犯罪の溜まり場と

化してしまうとも考えられるのです。

 

国民一人一人が、どのようなスタイルでも、

ここのところを訴えていくことで、

 

なにかが変わるかもしれない。

 

何かが変わる可能性があるのなら、

なにもしないよりも、少しでも、

少しだけでも何かをすべきで

あるような気もしないでもないのです。

 

「『繰り返される罪の弾み』によってたえず更新されるこの歴史と歴史観の激しさは、ユダヤ = キリスト教の伝統が人類にもたらした一つの魅力にもなっている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

「繰り返される罪の弾み」とは、

我々が神から授かった自由という賜りものを、

自由―堕落―知恵という連鎖の初動ととらえ、

その連鎖の弾みと読み解くべきであろうかとも

考えられます。

 

人は自由を与えられれば、

それを義務も責任も伴わないただの

パッパラパーでも良いものと勘違いして、

やがて堕落へと迷走してしまう。

 

堕落した己を救う手段としては、

知識と経験という努力禍ではなく、

 

信仰という安易な知恵?に

飛びつくようです。

 

この自由―堕落―知恵という連鎖は、

歴史と歴史観において

激しさを増してゆく。

 

ここでも知恵を知識と経験という努力ではなく

信仰という安易な手段で置き換えてしまう。

 

結果としてユダヤ = キリスト教の伝統が

人類へもたらした一つの魅力と

なってしまっているということなのでしょう。

 

ここで重要と思われることは、

この著作者がこの著作において、

 

キリスト教 = ユダヤという公式を

あたかもその概念として

扱っているということなのかも知れません。

 

ユダヤ人が編み出したユダヤ教がいつのまにか

キリスト教へと移行してしまった謎が、

まだこの時点では解かれていない

 

ということのようでもあるような

気もしないでもないのです。

 

それが明解化されるのか否か、

それはこのさきご一緒に

読み解いていくほかにはないようにも

思われなくもないのです。

 

「苦難にも関わらずヨブが決して神を非難しなかったので、神はヨブを癒し新しい家族と以前にも勝る富を与えた。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

努力しても報われない時もある。

努力もしなければ何もはじまらない。

 

努力して報われなくても

その先にはきっと栄華が待ち受けている

と信じる心。

 

努力して報われなくても、決して初心、

志、その思いを折れずに続けることで、

きっといつか努力は報われるという

エピソードというか物語が記されているようです。

 

「ひどい試練の間にもヨブが神を呪わずにいられたその唯一のよすがとなった理屈としては、『私は裸で母の胎をでた。また裸でかしこに還ろう。主が与え、主が取られたのだ』という有名なフレーズに集約することができるだろう。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

日本では「裸一貫から~~」とか、

「所詮、裸一つであるから~~」

などというフレーズで使われる定型句を

指しているようです。

 

「これは同じ詩書の『コヘレトの言葉』にある『空(くう)の空、空の空、いっさいは空である』というこれも有名なフレーズと共に一種実存的な諦念の表現であり、この世で得たものに執着しない仏教的とも言える境地を思わせる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

般若心経でいうところの

色不異空 空不異色、色即是空、空即是色

につきることかとも思われます。

 

コラム・インテリジェンス

「般若3」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12639469127.html

 

「男性の遺体発見」

「女性が切り付けられ…云々…」等々、

死因も動機も被害者加害者の人物相関も

明確に取材する以前に第一報を

垂れ流しにしてしまう報道スタイルが

多くなりすぎたようです。

 

スクープも他の物事同様に

原因結果、動機方法、周辺環境等々の

調査や探求取材が

要求されるものなのかとも考えます。

 

報道も情報として

我々の生活には必要案件であるとも

考えるのなら、

 

手厚い、奥深い取材に基づいた報道こそが

求められるべきで、現行のような

軽い、うわべだけの報道では

 

社会も軽いうわべだけの社会となりかねないし、

社会が軽くうわべだけのものであれば

 

その社会の報道も軽くうわべだけのものと

なってしまうような気も

しないでもないのかも知れません。

 

報道とその社会は似通ったものとなってしまう。

 

社会が薄っぺらであれば報道も

薄っぺらなニュースしか

流せなくなるし、

 

薄っぺらな報道が多いニュースばかりであるのなら、

その社会もまた薄っぺらなものであると

言わざるを得ぬようにも考えられるのです。

 

社会と報道の稚拙さは幼稚なループとなり

悪循環を繰り返すのかも知れません。

 

「『サムエル記』や『列王記』では、神も王の人選を誤ったり民の不服従に手をやいて怒ったりとかなり混沌な印象だが、『歴代記』では、最終的にはすべてが神の思惑どおりだったと解釈される。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ユダヤ教つまりは旧約聖書の

素敵なところはこの点に

あるのかとも考えられます。

 

旧約聖書という膨大な

書物の中にあっても

各章つまりは「サムエル記」「列王記」

歴代記」においては、

全く違う視線、視点の考察が

行われているという点が

実に素晴らしいことである

とも考えられるのです。

 

一つの視線、一つの視点で

物事を判断してしまうのは、

はっきり申し上げて好きではない。

 

すべての物事は、多岐多用において、

多岐多用の視線と視点で、

判断されるべきものであるのだと

考えているからなのかも知れません。

 

「多文化の人間から見れば、全能の神がどうしてそんなに人間の罪に振り回されるのだろうという疑問がわくが、それは神が人間の自由意思を尊重するからだとキリスト教的には考えられる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

そもそも神が人間の自由意思云々を

尊重するのか云々という議論自体が、

 

懐疑主義哲学以前にバカバカしい

議論であるようにも考えられます。

 

懐疑主義哲学の祖と称されるピュロンで

懐疑主義哲学の本質を学ばれたココの

読者にとっても同じような感覚を

覚えられたことかとも思われます。

 

コラム・インテリジェンス

「ピュロン主義哲学1」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12634553283.html

 

キリスト教の教義全般が、

懐疑主義哲学にもウィトゲンシュタインの

論理学教本にも照らし合わせるまでもなく

バカバカしい論理で組み立てられている

 

というご批判にも頷けられるような気も

しないでもないのです。

 

コラム・インテリジェンス

「ウィトゲンシュタイン1」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12709282068.html

 

宗教を論理学で

解釈しようという試み事態に

問題もあるのかも知れません。

 

「そして『自由―堕落―知恵』を備えた人間はその恵みによって、神と激しい情動的な関係を持つことになる」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)