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コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

 

マンガ、夢幻視、予言等といったところからふって湧いて出たようなことが現実社会にもある程度、影響を与えたりもそうでもなかったり……、そんなことよりも、

実生活において、

男女が共に生きる

共に闘う、

 

実生活において、

男女がいっしょになって、

仕事も家事も育児も、

 

男女がいっしょになって、

ともに生きていく

ということのほうが、

はるかに大事であるような

気もしないでもないのです。

 

厚生省が

「イクメン・プロジェクト」

から、

「トモイク・プロジェクト」

への

リニューアル・プロジェクトを

発表したようです。

 

「イクメンプロジェクト」が

男性の育児参画、

男性の育児休業の取得を

前面に打ち出していたものであったのなら、

 

「トモイクプロジェクト」は

そこからさらに

男性の家事関連時間の増長、

さらにその先には、

女性管理職の

さらなる増大増加等をも

盛り込んだリノベーションと

なるものと期待したい

ものであるのかも知れません。

 

「アモス書 

 彼の頃の両王国は厳しい試練の時代ではなく、非常に繁栄していた。物質的に繁栄した時代に人は神を必要としないらしく、富や土地や偶像に価値を見出していた。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

現代も

アモス書の時代、

 

アモスの生きた時代と

酷似しているようです。

 

我々は

神を必要としてはいない。

 

我々は、

富の象徴である貨幣、

 

富や財産、地位と名誉、

それらの保身、保守防衛に

 

精を出す輩ばかりが、

異様に繁殖してしまって

 

もはや飽和、過密状態で

あるようにも思われます。

 

「そんな時代にアモスはあえて民の罪を説き、神を喜ばせる生活を勧め、やがて来る裁きについて五つの幻視(ヴィジョン)を語った。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

アモスは、

なんだかわからないけど

 

五つのヴィジョンを

語ったらしい。

 

その内容は、おそらく

天災であったり厄災、

 

そこにおぞましい

地獄絵のような

 

光景が加わり、

民からしたら、

 

「なにを言ってるんだ、このバカは!?」

くらいの説き様で

あったとも

考えられるのです。

 

しかしながら

アモスにとっては、

「そんなこと言っている場合ではない!そんなことやっている場合でもないのだ!」

くらいの

勢いで

あったとも

考えられるのです。

 

愚者にとっては

愚かな物事が、

 

賢者にとっては

重要な意味をもつ

 

生死を分ける、あるいは

盛者必衰の壊滅をも

意味する大切な

 

お話であったりなかったり

もするような場合も

 

やはり

あったりなかったりする

場合であるとも

思われなくもないのです。

 

「アモスはシャーマン体質の典型であるらしく、その召命体験は過激だ。祭司アマツヤから予言を禁止されたアモスは、自分は牧者であって預言者の弟子でもない、主にむりやり言葉を預けられたのだ、と語っている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

僕自身、

アモスのような人には、

 

お会いしたことは、

仕事上のインタビュー

 

というかたちでしか

体験がないので

なんともいえませんが、

 

それでも

安定期に、

 

不足の事態を、

平安時に

不慮の状況を

 

説く人は、

非情に興味深いことで、

 

そのような人には

親和を感じてしまいます。

 

平家物語ではないけれど、

「娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」

 

ここにこそ物事の

真実が、

表象されているような気も

しないでもないのです。

関係あるのかないのか

温暖化と地震。

 

なさそうでありそうな

内戦、戦争、核による世界壊滅。

 

ありそうでもなさそうなのが

物価高騰と資本主義の破綻。

 

気を付けなければ

いけないような気もする

軽犯罪から凶悪犯罪への

移行率と日本全土の

スラム化度数。

 

なにをとりあげても

うれしいことも

たのしいことも

なにもなさそうで

 

アタリマエの日常こその

重要性と大切さ。

 

アタリマエに感謝し、

アタリマエに喜び、

 

爆笑よりも微笑みを

歓び、

 

歓喜よりもほっとできる

時間を喜べるような

人間でありたいと願う

 

謙虚をたいせつに、

傲慢を憎む心を

忘れずにいたいと

考えたり

そうでもなかったり……。

 

「ユダヤ人がメシア思想を育んでいたのは確かで、イエスをメシアと信じた時点でキリスト教が分派したし、その前も後も、特定の誰かをメシアと認めるたびに少しずつ分派していった。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

本来のユダヤ人の

メシア思想は、

フィシス思想のみであり

 

コラム・インテリジェンス

「ハイデカー 1」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12584142960.html

 

この自然の摂理論理、

自然の宇宙法則こそが

 

ユダヤ人が

信仰する神であり

 

メシアともなって、

ユダヤ人によるユダヤ教の

 

思考機序とも

なっているようにも

思われなくもないのです。

 

「今のキリスト教は、永遠の国とはこの世に打ち立てるべき国ではなく天の国なのだと解釈して、ようやく帝国主義的宣教の範から抜け出している。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

今の宗教は、総じて

この解釈転換を余儀なく

 

されているような気も

しないでもないのです。

 

本来の宗教とは、

生きづらいこの世を

いかに生きやすく

 

思考転換してゆくという

ものであったはずですが、

 

まぁどう考えても、

この世はあまりにも生きづらく

 

信ずれば今すぐ楽になる

ではなく、

 

信ずれば今はダメでも

あの世ではきっと

 

天国が待っている

と説き伏せる方が、

 

楽ちんであるという

現象のあらわれでもあるとも

 

考えられるようにも

思われなくもないようにも

 

考えられるような気も

しないでもないのです。

 

「紀元前722年に滅んだ北王国の預言者で、妻と三人の子があった。彼を捨てて去った者が奴隷に身を落としていたのを買い戻した。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

旧約聖書の中の小預言書

の中の「ホセア書」の

ホセアのことです。

 

普通、僕的には、

自分のもとから去った人を、

連れ戻すなどという行為は、

 

余計なお世話というより

連れ戻された人にとっては、

大きな迷惑とでも

思われるような行為で

あるかとも思われます。

 

「キリスト教的にはこれが罪あるものを救ってくれるイエスの業(しごと)を先取りしたものだと考えられる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

逆にいえば、アタリマエに

紀元後のキリスト教および

新約聖書の、つまりはイエスが

誕生するはるか722年も前に

旧約聖書つまりはユダヤ教の

ユダヤ人たちはもうすでに

この時点で、

 

このような事態を

把握していたのかもしれない

とも考えられます。

 

「『ホセア書』の中で神がおそらくモーセの時代の出エジプトのエピソードを想起して『エジプトから彼を呼び出し、我が子とした』と言ったことを、新約聖書の『マタイ福音書』のなかでは、『ヘロデ王から逃れてエジプトに逃げた幼いイエスを神が連れ戻したことで成就したのだとされている。』

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ここでもまた僕の説である

「新約聖書は旧約聖書のパクリ」

または

「キリスト教はユダヤ教のパクリ」

という説が

証明されたかのようでも

あるようにも思われます。

横浜・女子大生殺害から2年 被害者の母「ごちゃ混ぜになって自分が分からない」今も感情揺れ、当てはまる言葉なく

6/29(日) 4:50配信

コメント336件

カナロコ by 神奈川新聞

https://news.yahoo.co.jp/articles/03126ecce388ccb2509beb7edce03b088c013f45

 

「静かにしろ 殺されたいんか」背後から口をふさぎ…女性に刃物を突き付け性的暴行の疑い 男2人を逮捕 帰宅の男性に服脱がせ両手首など縛り監禁した疑いも

6/28(土) 20:01配信

MBS朝日新聞ニュース

https://news.yahoo.co.jp/articles/72aa78ec57f94f959c2612be2d4e68bb39f2ee12

 

卑劣な犯罪が続きます。

 

弱者を狙う。

複数人での犯行。

 

これがヤツらの

ルールで掟でもあるようです。

 

もはやヤツらとヤツら以外、

種が違う、属性も違うと

考え対処すべきであるのかも知れません。

 

太古の昔より我々は、

種も違う

属性も違う生き物に対し、

 

準善なる完璧な防御態勢、

攻撃準備は

怠らなかった。

 

それなのに現代は、

それなのに現在においてだけ、

防御態勢も攻撃態勢も

疎かになってしまっているのか。

 

油断、

平和病ともいうべき怠慢が、

我々自身、

我々自身の同胞自身の身を、

 

危険にさらしたり、

危害を加えられたり、

中には生涯ぬぐい切れない

心身共にの深い傷痕を

負わねばならない同胞や、

 

命まで奪われてしまったり、

虐殺ともいうべき

死という罰を与えられてしまう。

 

なにも悪いことをしたわけでもないのに、

なにも悪いこともしていないのに、

 

惨めな死を与えられ続けて

良いものなのかどうか。

 

我々もそろそろいいかげん、

自分のこと、自分自身のこととして、

 

ヤツらへの対応を

考え合わねばならぬ時と

なってきてしまったようです。

 

「それでもキリスト教の聖書が全体としてカルト的でもなく狂信的な感じも免れているのは、時代と地域に幅があり、多くのルーツを持つあまりにも雑多なテキストを包含する懐の深さ、ロジックに合わないところは無視するだけで切り捨てるわけでもないという一種のアバウトさに満ちているからだろう。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

僕は個人的には、

聖書はカルトのテキストと変わらず、

 

キリスト教も一種の狂信的な

カルトの親玉または超大掛かりで

 

遠大壮大なる全世界的視野に入れた

一大プロジェクトにすぎない

 

と思っていたのですが、

ここへきて、なんだかキリスト教を

 

真に理解しつつあるあるいは

自身の死を目前にして、

 

なにかにすがりたいという欲望の

はけ口となりそうな予感を

 

感じていたりまたはそうでもないと

否定しようとする自分もいたりも

いなかったりもするのでした。

 

「エレミヤ書

 エレミヤは涙の預言者と呼ばれ、偶像崇拝をする民に向かって何十年もの間、やがて訪れる滅亡を警告した。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

偶像崇拝は今でいうおカネ崇拝、

経済最優先の形態を

暗示しているものと考えられます。

 

聖書においてはあらゆるシーンで

「偶像崇拝は神への冒涜」

「偶像崇拝は神への反抗」

 

のような取り扱いで

登場してきますが、

 

これはまさに現代においては

「金権主義」「おカネ最優先」

と同等で、

 

「偶像崇拝」=「貨幣尊重」で

よろしいのかとも思われます。

 

なのでここは、

「エレミヤは涙の預言者で何十年もの間、お金を狂信する民に向かって、やがて訪れる滅亡を警告した」

とするべきなのかも知れません。

 

「エルサレムの徹底的な破壊についても、考古学の調査で確認されている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

紀元前に起こった現実が現代にも

よみがえっているようです。

 

「エレミヤも、やがて来られる牧者が神と民の間に新しい契約をもたらすと言ってイエスの到来を予言したとキリスト教からは解釈されている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ちょっと安心。

…だったらいいなぁ…の世界。

 

「哀歌

 預言書の中で預言者の名を冠していない唯一の書だが、ながらくエレミヤの作だと言われてきた。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

もうこうなると、

誰が書いたか、

誰の著作であるのかなどは、

どうでもよくなっています。

 

「何十年も民に警告してきたのについにエルサレムの滅亡を見なくてはならなかったエレミヤの悲痛な嘆きの書としてエレミヤ書の後に読まれてきた。しかし、旧約聖書の中で最も哀切なこの書には最も励ましに満ちた部分があるという。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

まさにそのとおり、

この後には以下のような文言が

表記されていたのでした。

 

「主の悲しみは決して絶えない。主の憐みは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。主の救いを黙して待てば、幸いを得る。若い時に軛を負った人は、幸いを得る。軛を負わされたなら黙して独り座っているがよい。軛に口をつけよ、望みが見出せるかも知れない。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)