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コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

「パンピー」という言葉は

どのような意味なのでしょうか。

 

「アベック」とは?

「背広」は?

 

「バタンキュー」の

意味を知る人は

少ないのかも知れません。

 

「ギロッポン」は?

「シースー」は?

 

「朝シャン」「アフター5」

にいたってはほぼほぼもはや

死語となっているようにも思われます。

 

歌は世につれ

世は歌につれ……。

 

そんな言葉もあったけど、

まさに、言葉も世につれ、

 

その社会の知性度数は言葉の

多さと正確さによって

表象されると考えられます。

 

死語、世代間ギャップは

単純に

 

その引き継ぎ手となる母親が

その言葉の意味、内容を、

 

しっかりとその子供に

伝えているのか、

 

伝えていないから

死語、世代間ギャップという現象が、

出現してしまったのかもとも

考えられます。

 

そうなると

育児はたいへんな仕事で、

人間の基本となる言葉も

 

正確に伝えて、その内容も

使い方も、正確に

伝えていかねばならないという責務まで

背負わされていると

考えるべきであるのかも知れません。

 

そうなると、

育児は母親まかせ

育児は男女分担で

などと言っている場合でもなく、

 

男性もおおいに

育児に参画し、なんなら、

父親にこそ育児に全般の責任が

のしかかっているとも

考えるべきであるのかも知れないようです。

 

なんにしろ、子育ては

至幸の時間でもあり、

人間として最大の

責務を背負わされている

と考える方が、

 

真実事実にちかいような

気もしないでもないようです。

 

ハバクク書「この書は神との問答の形をとっているところがユニークだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

神との問答ではないが、

ただの聖書ではなく、

倫理学・論理学・哲学にまで

およぶ内容の

問答という点では、

 

ヨブ記にも似ている。

 

後にはプラトンが、

ソクラテスとの対話集、

プロタゴラスとの対話集等で

用いた手法とも似ている、

 

コラム・インテリジェンス

「プラトン(恋/魂) 1」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12752498086.html

 

あるいは、

プラトンが旧約聖書の中の、

ヨブ記とこのハバクク書の

問答形式を

パクったとも考えられる

のかも知れません。

 

コラム・インテリジェンス

「ヒエロス・ロコス 1」

(「プロタゴラス対話篇」

プラトン)

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12560751179.html

 

しかしながら

問答とか対話が、

倫理、論理、哲学において、

向上の要因であるという点においては、

ソクラテスが対話法という手法を

大いに尊重していた

という事実もまた

忘れてはならないのかも知れません。

 

「罪深いユダの民を罰するために、どうして、もっと罪深いバビロニア人を使うのかなどという素朴な疑問に神は答えている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

自分も

罪深いのは認めるけど、

どうして、

自分よりも罪深いヤツらに

自分は苦しめられなければ

ならないのか。

 

等の疑問は誰しも、

抱いたことのある

懐疑であるとも考えられます。

 

「一見不条理な歴史も、神が自分の定めた時に神の目に正しいことをするのであり、いつかはユダの民の正しい信仰に報いる時もあるだろうというのが神の答えだった。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

早いのか遅いのかは

解らないけど僕の死は、

神が神の正しいと定めた時に

神が正しいと思った

状況であるのかも知れません。

 

ゼカリヤ書「ゼカリヤは黙示録系の預言者で、ある夜、神によって呈示された8つの幻をもとに語った。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

世に預言と呼ばれるものは、

エピソード数に比例して

その信憑性も増幅していく

のかも知れません。

 

「キリスト教的には、イエスが最初に人間として降臨して世のために傷つき、次に未来において国々を裁き全世界を支配する王として再臨することを予言しているとされる点で、イザヤ書と同じく重要な意味をもっている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

その時期が

議論されているわけで、

いまや聖書といえば黙示録、

 

黙示録とくれば、

その時期が問われても、

なんら不思議もない状況であるとも

考えられなくもないのです。

 

マラキ書「これで分るように、ようやくバビロンから戻って神殿も再建したイスラエルの民は、またもや偶像崇拝に陥ってしまったのだ。宗教指導者の礼拝も形式的でしかなくなった。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

偶像崇拝 ≒ 経済至上主義

としてとらえるのならば、

 

まあどこの国も結局は、

諸行無常 栄華必衰 盛者必衰

で治まるのですが、

 

キリスト教においては、

その後、そのあと、救世主

イエス ≒ メサイア(メシア)、

イエス・キリストの再臨等があって、

 

かならずや復活を遂げる

というパターンが

繰り返されるようです。

 

大企業の工場閉鎖にともなう

従業員の雇用確保の問題とか…、

 

幼子が高層マンションの

自宅から転落死してしまったこと…。

 

女子高生が被害者となる事件の

多発性の問題とか…、

 

高齢者を含む国民全体の

貧困格差問題。

 

身近に問題が

山積みのようにみえる現状で、

 

参院選の選挙云々、

各政党、各候補者の主張云々は、

 

はなはだ現実乖離しているようにも

思われてならないのは、

はたして僕だけの情動で

あるのかそうでもないのか。

 

参院選が

盛り上がれば盛り上がるほど、

彼らの主張が嘘くさく

考えられてしかたがないのです。

 

政治家、官僚批判は、なにも

いまに始まったことでもないけれど、

 

たった一人でもたった一つの主張でも、

心の底から拍手喝采したくなるような

存在が現れてくれれば、

 

たった一つの、

どんなに小さなニュースでも、

 

そのニュースが

我々の心を揺さぶるほどの

歓喜をあたえてくれるのであれば、

 

この世もけっして

捨てたものでもないと

考えられるのかも知れません。

 

世知辛い、世知辛すぎる、

世知辛すぎる社会において、

一日に一つも、一週にひとつも、

なんなら月に一つも

 

我々の心を

和ませてくれるような

ニュースに出会えないのが悲しい。

 

そんなものがあるのかないのかさえ

わからないけど、

そんなものがあるのかないのかさえ、

わからなくなるほど、

 

我々は

心和ませてくれるような

ニュースに飢えている。

 

我々の周囲からは

おそらくメシアも出現せず、

心的オアシスも

枯渇してしまっている

 

とも考えられなくもないような

気もしないでもないのです。

 

「ナホムによると、神は敵には怒って復讐するが、神に従う者は慈しみ、苦難の日の砦となってくれる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ナホムも旧約聖書に

登場する預言者の一人。

 

「イスラエルの民を征服したニネベはその邪悪さゆえに、大洪水で城壁を壊され、攻撃され、焼き尽くされる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ニネベの人はイスラエルを

征服した時点で邪悪なのか、

ニネベがイスラエルを

征服しなければ

邪悪ではなかったのか。

 

このあたりの解釈が

難しいけど、まぁ単純に

考えてユダヤ=イスラエルに

 

敵対するものは邪悪で、

敵対しなければ邪悪ではない

という解釈がこの場合には

 

妥当であると考えるのが、

わかりやすいのかとも思われます。

 

驚くべきはここからで、

 

「この予言は紀元前600年頃に実現した。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

紀元前600年頃に書かれた

預言が同世紀に実現

してしまったわけです。

 

おそるべしナホム。

真に恐るべきは旧約聖書

そのものにあるのかもしれません。

 

「ティグリス川が突然氾濫して街の城壁の一部が損壊したところから、メディア人とバビロニア人に侵入されたのだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

預言はみごとに

的中した。

 

「大都市ニネベの廃墟は1845年に発掘された。30メートル以上の高さの城壁の上には何百という塔が林立し、4台の二輪戦車が横に並ぶ幅員があった上、幅43メートルで深さ18メートルの堀に囲まれていたそうだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

梅雨明けを

祈る心の

晴れやかさ

 

梅雨明けを

祈る気持ちは、

ほぼ万人が、純粋に

洗濯物に湿気対策等……

 

その気持ちに何ら、

邪心も悪徳も含まれておらず、

 

だいのオトナがまるで

幼児の如くに純粋に、

「あ~した てんきにな~れ」

とばかりに

祈るばかりと

いったところでしょうか。

 

その心、

清廉潔白にして

悪をも寄せ付けず、

 

どのような誘惑に

惑わされることもない

 

梅雨を雨期の一部と見なすなら、

それは世界中、とくに東南アジアに

みられる現象として

とらえることもできるけど、

 

梅の花が咲くころの雨を

梅雨と呼ぶ意気な心情は、

 

日本人特有のものであると

思われなくもないようです。

 

日本人特有の梅雨、

日本人ならではの梅雨明けを

祈る心もまた

日本人特有のものであると

考えられるのです。

 

その心、純粋にして

けがれを知らず、

その心、清廉潔白にして、

潔くも美しい。

 

その心………

「あ~した 天気にな~れ」

 

「『イスラエルの民』という選民は、アブラハムの最初の子イシュマエル(アラブ人の祖先となる)を追放し、次の子イサクの代ではまた二人の子の一人が『約束の地』という生存競争に勝ってもう一人を追放するという形で選別されてきたことになる。近親間のなかなかシビアな戦いがベースにあるのだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

イスラエル

―ユダヤ人―ユダヤ教

―選民思想―旧約聖書

 

という構図のなかで、

 

選民思想ひとつ取り上げても

複雑な

追放主義のような戦略が

見え隠れしています。

 

この、

壊滅破壊ではなく追放という

戦略が後々遺恨を残し、

 

分断分裂という結果を

生み出し、その分断分裂

という状況が、

 

戦争へと導かれていく

構図を

作り上げているようにも

映ったりそうでもなかったりも

 

しているような気もしないでも

ないのかも知れません。

 

「ヨナは神に選ばれてニネベの町へ送られてニネベの民が悪のゆえに破壊されることを警告しなければならなかった。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

神に選ばれてというのが

いまひとつ理解できない。

 

突然、神の声が聞こえた

などと言いだせば、

現代であればほぼ確実に

 

病院か施設送りに

されてしまうのがオチで

あるようにも思われます。

 

「しかしヨナは行きたくなかったし、ニネベの町が滅んでしまった方がいいと思っていたというユニークな存在だ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

お話としても

よくできているし、

どちらかというと

 

堅苦しい感じのする

旧約聖書の中においては

たいへんユニークな

 

ヨナのキャラクターが

やたらと印象に残る

一遍であったようにも

思われます。

 

「アッシリアに行くかわりにタルシシェへ向かった船で出発したヨナが嵐にあって海に投げ込まれて巨大な魚(鯨?)にのみ込まれて三日三晩過ごしたエピソードは有名だ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

この部分は日本人でも

よく見聞きしたシーンで

あるとも思われます。

 

「彼らの国は罪深い生き方のために征服されて苦しむが、その罰はいつまでもつづかないと希望も与えた。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

叱咤激励の

典型的な手法ですね。

 

脅しておいて

宥(なだ)める。

 

恐怖と不安から

希望と勇気への転換

とでもいうのでしょうか。

 

「あるいは逆にイエスがメシアだとする神話が形成されていく過程でナザレのイエスを強引にベツレヘム生まれにしてつじつまを合わせたと考える人もいる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

我々にすれば、

イエスがメシアだろうが、

メシ屋だろうが、

 

なんならキリスト教が

すべてであろうがなかろうが、

それはどうでもよいことで、

 

我々はココで

その検証を

 

してみよう、と

試みているだけなのです。

 

しかしながら、

純然たるキリスト教徒にとっては、

 

とにかくイエスが「メシ屋」もとい、

メシアであるという前提を

覆すわけにはいかない。

 

そのためにもミカ書は

重要な役割を果たしている

といえるのでは

ないでしょうか。