梅雨明けと
言おうが言うまいが、
梅雨のような天候は
確実に繰り返し繰り返され、
人々の
苦難に満ちた生活と
政管および富裕層との
心身共なる乖離もまた
繰り返し繰り返されるようです。
人々は、働き
働かざる者も同様に、
苦難の日々は続き、
人々は嘆き
悲しみ、そうである者も、
そうでない者も同様に、
事実と現実との乖離、
心と身体との乖離、
それぞれの乖離も
繰り返し繰り返される
ものであるかのようにも
推察できるのかも知れません。
繰り返し繰り返されるものの多くが
経済であったり、ファッションであったり、
または流行、社会風俗であったり、
そこにはあれこれの事情と
あれこれの状況も繰り返し
繰り返されていると考察できたり
そうでもなかったりとそれもまた
繰り返し繰り返されるものの一部で
そこかしこにもまた
繰り返し繰り返されるものは
存在し続けていくようにも
考えられたりそうでもなかったり
この世は所詮うたかた、
移り変わってゆくのかも知れません。
「『沈黙の時代』といっても、ギリシャ語で書かれた記録は残っている。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
旧約聖書と新約聖書の
時間的ラグというか、
旧約聖書に
記録されている事実と、
新約聖書に
記録されている話には、
時間的歴史的に
間が開いてしまっている。
その間は
数百年といわれているけれど、
この数百年になにが起きたのか、
それは以前に述べた。
アレクサンダー大王の
大進撃であったり、
ジュリアス・シーザーの
三頭政治であったり、
それらの歴史的事実と、
紀元前後の、つまりは
キリスト誕生前後の話が
旧約聖書と新約聖書との間で、
いっさい触れられていなかったり、
じつに曖昧な記述であったりと、
その誤差がいまや
議論されるようになったようです。
そこになにがあったのか、
そこになにもおきてはいなかったのか、
そこに記述するほどの事実が
存在しなかったのか、あるいは、
どのタイミングで
実存の怪しいイエスなる人物を
登場させるのかで、
そこに想像を絶する議論があったり、
創作があったり、誤った記載があったり、
または意識的に間違った記載を
しなければならないわけでも
あったのかなかったのか、
その部分の推理と証明こそ、
本書の完読意義であったり、
このコラムの焦点であったりも
するような気もしないでもないのです。
さあ、それでは ごいっしょに、
解明してまいろうではありませんか。
「カソリックの旧約聖書はユダヤ教の正典よりも八書多い。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
カソリック教徒が、
真実事実の書(?)である
ユダヤ教の正典(≒)旧約聖書に
イエス(=メサイア=救世主)を
書き加えるまでに八書を要した
ということのようです。
だって、もともとの旧約聖書には
存在するのかどうかもわからない
イエス=メサイアを
さも存在していたかのように
書き加えるには、そりゃあ、
八書くらいは要することに
なってしまってもアタリマエ
といえばアタリマエであるとも
考えられなくもないのです。
真実事実の書である
ユダヤ教徒の旧約聖書を
信奉しつつも、そこに
イエスという存在を
でっちあげた、失礼、
存在させるという作業は
とっても手間暇のかかる
作業であったようです。
旧約聖書を信奉するユダヤ教徒が、
旧約聖書を重んじながらも、
イエスという存在に依存
しなければならなかった真の理由、
そこにこそ歴史の謎の解が
隠されているのかも知れません。
「主としてヘレニズム世界に離散したギリシア語系ユダヤ人が担ったキリスト教正典を採用したからだ。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
ユダヤ教の正典旧約聖書を信奉しつつも、
離散という悲劇を担わされたギリシャ語系
ユダヤ人たちの苦悩は、彼らの信奉する
ユダヤ教の正典である旧約聖書
だけでは解消されず、さらに
イエスという救世主を創造
しなければならないほどに深く
悲しみに満ちたものであったと
推察せぬわけにもいかぬような
苦悩であったとも考えられるんです。