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コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

我々が、

「ガザ」と称する地域は、

 

アタリマエに

パレスティナという国の

一都市名であり、

 

イエスが

存在していたといわれる

ベツレヘムとも

超近隣で、

 

そこは

ヨルダン川西岸、つまりは

シリアとレバノンの国境、

 

ガリラヤ湖を経て

死海に流れる地域でもあるようです。

 

なによりヨルダン川は、

我々が学問しているイエスが

 

洗礼を受けた地でもあるようです。

 

ヨルダン川が、

イエスが洗礼を受けた川であるのなら、

現在、国際問題とされている

 

ガザ地区は、

 

まさに現在、

我々にとっても重要で、

 

イエスを現時点で

学問化しようとしいている我々にとっては、

まさにグッド・タイミング

 

我々は、

世界の最先端の根本にある

 

学問をしているといっても

決して過言ではないようにも

思われなくもないのです。

 

そのような状況で我々は、

ニュースでテルアビブと聞けば

耳をそばだて、

 

ヨルダン川西岸と聞いても

イスラエルと聞いても

 

イエスを連想

してしまうのではないかと

考えたり

そうでもなかったりの

でんぐり返し、いや、くりかえしで

あったりなかったりもする

のかも知れません。

 

「四つの福音書が紹介するイエスのポートレートはすこしずつニュアンスが異なっている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

マタイによる福音書では

イエスのことを王と呼び、

マルコによる福音書では

イエスは神のしもべとして扱われている。

 

ルカによる福音書では

イエスを人の子として扱い、

ヨハネによる福音書では

イエスはとうとう神の子として

扱われているようです。

 

これはマタイ、マルコ、

ルカ、ヨハネと、

それぞれがそれぞれの

地域性や背景、

編纂された時期や

その時の状況により異なるため、

 

それぞれがそれぞれの読者に

好感を持たれるように

書かれているためであると

考えられます。

 

そしてなにより

 

福音書が新約聖書だけに

みられる編纂であり、

そもそも

新約聖書が

旧約聖書をパクって、いや、

基本にして、

編纂されているという事実が

あれこれの懐疑を

生じさせているものであるとも

考えられなくもないのです。

 

「それぞれの対象読者であった共同体の置かれていた状況が違い、もとにした資料や伝承が異なっているからだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

こうなるともう、

キリスト教とは名ばかりで

もともとのユダヤ教徒が

新約聖書に目をつぶり、

聖書として認めてしまったとか、

断固とした旧約聖書派は

頑として旧約聖書だけで、

ユダヤ教を守ろうとしているとか、

キリスト教におかれましては、

じつにいろいろの懐疑を

生み出さずにはおかない

まがいもの、いや、もとい、

大衆宗教であるとも

考えられずには済まされないような

気もしないでもないのです。

 

「しかし、新約聖書の中で最も古いテキストは紀元前50年頃にパウロが書いた「テサロニケの信徒への手紙」であり、イエスの死語すでに20年も経過している。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

要するに、その共同体自体が

救世主なる、救いの神なり人を、

欲しているときに、

いるのかいないのか、

存在するのか存在すらしないのか、

わけもわからぬ架空の、いや、失礼、

実際の人物の話を、

20年前にさかのぼって、

話して聞かせた、程度の

始まりであった、という

話であったようにも

考えられなくもないのです。

 

「四つの福音書はそれからさらに20年から40年後に成立したものと見られるから、イエスに従った使徒の直接の目撃談などではなく、教えを伝えるために伝承をまとめたものだろう。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

SNSにSMS、

貧困格差に収入格差、

挙句の果てには体験格差

などという言葉が

濫用されているそうです。

 

情報はいたるところから入って来る。

しかしながら我々はその情報の真意、

その情報の真偽を瞬時に洞察選択

しなければならない立場に追い込まれているようです。

 

この瞬時に精査洞察選択という作業の結果が

それこそ知的格差によって

左右されてしまうわけです。

 

我々は己の知識経験を増やし、

その時々に持っている知的能力を活かして、

精査洞察選択していかなければ、

それこそ情報弱者、落ちこぼれへの道へと

邁進してしまうという結果も待ち受けているわけです。

 

この

コラム・インテリジェンスを知らしきものの窓口、

知の一辺、知とも呼べぬ知の武器の一つとして、

活用して頂ければ、

僕にとっては

 

願ったり叶ったり、

ネガティブであったりボジティブであったり、

願ったりはするけどガナッたりはしない程度の思いであったり思い出であったりなかったりするような気もしないでもないのかも知れません。

 

「しかもその章が書かれるにあたっては、長い間キリスト教ヨーロッパの中で暮らしてきたユダヤ人たちの力が大きかった。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

その章とは、アタリマエに、

1948年5月14日、

 

国連決議上の首都をテルアビブに、

名目上の首都をエルサレムとして、

イスラエルという名の国家が、

 

なかば強引に、

いわば傲慢ともみえる手法により

成立してしまったという事実を

表記している章と

いえるのかも知れません。

 

そしてさらにはアタリマエに、

その成立の立役者もまたアタリマエに

かつてはエルサレムの地を追われ、

 

散りぢりとなってしまっていた

ヨーロッパ中のユダヤ人たち

であったという事実も

我々は再認識しておく必要も

あると考えています。

 

そしてもちろん、

ヒトラーの対ユダヤ人政策により、

土地も家屋も財産さえも、

失わざるを得なかった人々たちも

 

このとき一斉蜂起なさり、

「その章」の成立に大いに貢献

なさったものとも考えられるのです。

 

「自分たちとは経済力であまりにも掛け離れたソ連や東欧から流れてくるユダヤ難民を『帰還者』の名の下にパレスティナに体よく追いやったという側面がある。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

1948年5月14日、

イスラエル建国にあたっては、

テルアビブ、エルサレムなどを

裕福なユダヤ人たちが支配し、

 

同じユダヤ人の中でも

貧困層は地中海西岸の地域、

つまりはパレスティナの地に

住まわせようとした戦略が

見え隠れしているようです。

 

いうまでもなく、このとき

裕福なユダヤ人と貧困にあえぐ

ユダヤ人たちとの住み分けが

こんにちのパレスティナ問題の

要因のひとつともいえるような

気もしないでもないのです。

 

「『イスラエル建国』以来ずっとつづいたパレスティナ問題の再々の有責者は、ユダヤ人を含めた西ヨーロッパ社会全体だと言えるだろう。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

いや、僕に言わせれば、

パレスティナ問題に限らず、

現代世界の有様(ありよう)の再三の

有責者は、我々日本人を含めた

世界に蔓延る無知という悪魔と、

無関心という淫らな寛容によるものだと

考えざるも得ぬ状況であるとも思われるのです。

 

「一方、ユダヤ民族が完成せぬままに生きている『大きな物語』を、一部のユダヤ人たちは、キリスト教(新約聖書)という新しい物語に接ぎ木して完結させてしまった。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ユダヤを表面に出せば、

なにかといざこざ、細かい諸々の

問題とリンクしてしまいそうなので、

 

もちろん、裕福なユダヤ人に限ってのことなのだけど、彼らは旧約を、真の旧約聖書、真のユダヤ教を捨て、新約の、似非キリスト教徒に塗れようとしているようにも思われるのです。

 

もちろん、表面的には、の、

話では、ということに

なってしまうのですけど………。

 

「ところがこういうふうに立派に完結させた後でも、真の終わりは保留された。イエスが再臨して1000年つづく王国をつくり、その後、世界の終わりと最後の審判が来るという終末論だ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

さあそろそろキリスト教の

真の姿が見え隠れしてきました。

 

うそっぱち、でっち上げとまでは

言わないけれど、現キリスト教の

いい加減さ、曖昧さ、矛盾と理不尽が、

そこそこに露呈しているようにも感じられるのです。

 

キリスト教の教義時代は素晴らしい。

テクストとしてはたいへんよくできた

「物語」に仕上がっていると考えています。

 

が、しかしながら、その派生が、

かなり怪しい。

 

牧師だ司祭だ教皇だというシステムは

インチキ仏教徒が坊主だ方丈だ住職だ上人だというシステムと似ているようにも思われます。

 

そしてそのシステムは、

まあじつに金儲け主義に

徹しきっているようにも考えられるのです。

 

人が生まれたら生まれたで

お宮参りだ七五三、

それぞれの段階で、その儀式にお金がかかる。

 

人が死んだら死んだで、

葬儀代、火葬代、埋葬費に供養と称したお経代がかかったりでそれぞれの段階においてそれぞれの宗教にお金が入って来るシステムとなっている。

 

これを昔の人は

「坊主丸儲け」とうまいことを言ったもので、

まさしく言い当てて妙であるということになってしまっているのかも知れません。

 

宗教が悪いのではなく、

宗教にお金が介入すること自体に悪徳の匂いがプンプンと漂ってしまうことが嫌だと申し上げたい。

 

どこにも「世界の終わり」は見えてこない。

そしてキリストの再臨なる兆候すら

僕の目には見えてこないし聞こえてもこない。

 

ただただ僕は、

自分の葬式代とわずかながらの家族への「遺産」を残して、死んで逝くだけなのであります。

 

新約聖書の完結ともいわれる黙示録なる物語を僕は体現できずに死んで逝く。

いや、多くの人がそのように死んで逝く。

 

そして残るのは産まれた死んだに関する宗教儀式から得られた誕生おめでとう代とか死んでも大丈夫だよの供養代、せめて各宗派のお経を読み聞かされる儀式系費用だけということになる。

 

人生に宗教が関わる状況として、

我々、無自覚なるなんらかの宗徒としての御勤めは、誰が何のために考え出したのか。

そしてそのシステムによって、宗教は金は入るけど権威と品位、尊敬と敬虔は失われていく。

 

「しかしイエスが死に、復活して、昇天してから2000年近くも経つのに、万人を納得させるようなわかりやすい再臨だの終末だのはなかなか訪れない。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

高校野球、

広陵高校問題や、

 

大谷翔平選手の動向、

子どもの貧困、

トランプとプーチンの動向等々、

 

いってみれば、太極のなかの

ごく一部の案件が問題視されたり

または注目を浴びてしまったりと、

 

よくもまあ世界は、

安寧・平和にはほど遠いけど、

話題にはことかかないようです。

 

そしてそれらについての、いや、

それら以外の事々についても、

コメントは、

 

いくら顔が見えないからといっても、

それにしてもよくもまあまあな

言いたい放題好き放題が

横行しすぎているようにも

思われなくもないのです。

 

「バビロン捕囚時代の黙示録的預言書『ダニエル書』も、じつはアンティオコスの迫害時代(紀元前二世紀)になってから過去に託して書かれたものだと言われている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ユダヤ教の正典「旧約聖書」の

最後のほうに

書かれたといわれている「ダニエル書」でさえ、

なんだか胡散臭い要素をはらんでいるようです。

 

ユダヤ人が

ユダヤ人のまま、

旧約聖書を信仰し、

 

キリスト教徒はキリスト教徒で、

キリスト教なりの聖書を

編纂すれば

問題もなかったと考えられます。

 

ユダヤ教はユダヤ教のまま、

キリスト教はキリスト教として、

イスラムもそれなりに従っていれば

何の問題も起こらなかった

のかも知れません。

 

それがどうして

こんなことになってしまったのか、

 

それは人間の欲に依る、

ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、

みんなが他者を批判し、みんなが

他者を凌駕しようとするから、

ことが複雑になってしまう。

 

自分の主張、自分の信仰はそれはそれで、

他者をも受け入れる寛容の足りなさが、

現代世界の闇を作り出している

のかとも考えられるのです。

 

「旧約聖書はユダヤ民族の『大きな物語』だ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

まさにここなのですねぇ。

旧約聖書はあくまで、いろいろな民族がこの世に存在する中において、単に、単なるユダヤという一民族の一個人的な、それが一個人から一民族へと変換されたがために、『大きな物語』として扱われるようになってしまった。

 

それだけのことだとも

思われなくもないのです。

 

それがいつのまにか、

それがいつしか、

全世界的な、全民族的な、

全宗教的な問題として

扱われるようになってしまった

とも考えられなくもないのです。

 

そして、いや、しかしながら、

相も変わらず、いや、アタリマエに、

メシア(≒キリスト?/救世主)の存在は、

確認されていない。

 

「それが今でも綿々と伝わってきたのは、『メシア到来』の部分を先送りにして『律法』の部分を精密化してその適用法を時代に合わせることに力をいれたからだろう。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

乱暴といえば乱暴、

強引といえば強引。

 

なにがなんでもキリスト教が

世界的宗教という立場を

維持し続けなければならなかった。

 

だれが? なんのために?

 

そこには超個人主義的な要因から、

世界規模の組織の有様という

種々諸々の要因が絡んでいると

考える以外にはなさそうです。

 

「紀元一世紀にエルサレムが再び滅亡してからは、次の『帰還』の章が歴史の中で書かれるのはイスラエル建国まで2000年近くも経ってしまった。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ここがややこしい。

 

少々長くなりそうですけど、

ここはしっかり我々も、

把握しておかなければならない論点であるのかとも思われます。

 

で、なにがややこしいのかといえば、

 

そもそもエルサレムという言葉に

そのややこしさが

潜んでいると考えられなくもないのです。

 

エルサレムとはもともと、

場所の名前、地名、都市としての名前、

時には国家名に

なってしまったような時代も

あったりそうでもなかったりで、

非常にややこしくも

なったりしているとも

考えられなくもないのです。

 

そして紀元一世紀といえば、

「パクス・ロマーナ」。

 

コラム・インテリジェンス

「皇帝ネロ1」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12681659466.html

 

コラム・インテリジェンス

「コスモポリテス 2」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12562482521.html

 

紀元一世紀はなんといっても

ローマ帝国の侵攻。

 

これにともなってエルサレムも

ユダ王国の首都という立場から

ローマ帝国の一都市という立場に

変転していったものと考えています。

 

コラム・インテリジェンス

「アレクサンドリア 1」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12753966713.html

 

やがて2000年近い月日を経て

1948年5月14日エルサレムは

現イスラエル国の名目上の首都として

再び日の目をみるようになったわけですよね。

 

もちろん現イスラエルにおける

国連決議上の首都はテルアビブ

であるわけですけど、

 

これはこれでまたややこしさを

増し増しにしてしまったみたいにも

考えられないわけでもなさそうな

気もしないでもないのです。